イールは昼の食卓の席に、二つの空席を見つけて父のナギを振り仰いだ。 「シンは?」 「いつもの」 と、ナギは親指で窓を示す。 長めの髪を背で束ねた、涼しそうな空気をまとった青年だった。成長期を越えたレイオス人の例のごとく、外見から年齢を推し量るのはまず不可能で、三十歳から二百歳までが範疇に入る。 皮膚にはしわはなく、二十歳当時のままの張りと艶がある。髪、目は銀の髪と銀の瞳だがそれはレイオスに住む者、全てに共通する色彩だった。 窓からは激しく組み合う二人の少年の姿が見えていた。 「……またか。よく飽きないなあ」 「シンにとっちゃ、そうもいかないんだろう。 いろいろと重そうな鎖背負っているからね、あの子は。キールに負けたままじゃ、自己の独自性の崩壊に関わりかねない」 「……キールには勝てないよ? あんなにシンは頭がいいのに、なんで判らないんだろう?」 ナギはかぶりを振る。 「そうじゃない。ちがう。負けることを当然だと思ってしまう方がおかしいんだ。そうすることで自分を守ろうとする。あいつは特別だから、負けてもしょうがない、とね。シンの不幸は――そうするにはちょっとばかり、誇り高すぎたところかな?」 「う〜ん。そう…かも。僕はよくキールに勝っているから気がつかないんだけど、キールに負けた人はよくそう言ってるなあ。シン以外」 ナギはくすくす笑って、イールの頭に手を置いた。 キールとイールは、同じ日同じ時に生まれた。他人が見ても一目で双子とわかるだろう。死期がきたとき、死の精霊ですらどちらが狩る魂なのか迷うほど、よく似ていた。 「お前は私の自慢の息子だよ。あの不肖の息子は、どこで足を踏み間違えたかなぁ」 「……キールは人をいじめないよ。シン以外。学校でも、むしろかばう側だったよ」 「シンのことはいじめてるじゃないか」 「………そうだけど…でもシンはいじめられて黙っているような人間じゃないし」 「でもって毎度のごとく、ああなる訳だ。ったく。あのぼきっていう音、私はもう聞くのやだよ。あの馬鹿息子はじつに盛大に鳴らしているけど、心が竦む」 ナギは胸に手をあて、大仰にため息を吐く。 ついせんだって十五歳になったばかりの息子は、そんな父親を慰めようと口を開き、その瞬間、件の音がした。 ぼきっ…。 「………」 一瞬二人とも何とも言えない顔をしたあと、イールは慰めた。 「大丈夫だって! 大体シンだって鳴らしてるじゃん。……二人とも腕が立つんだから、死ぬようなことにはならないと思うよ?」 「……そうかなぁ。…折った骨が内臓に突きさされば内臓出血と臓器不全でわりと簡単に死ぬし……」 イールはあははと笑って誤魔化すしかなかった。 そう、家族の中でもキールのシンに対する毒に満ちた態度は問題になっていた。なんせ、イールもナギも、シンには好意を持っていたので。 それでも最初はなにか二人の間で確執があったのではないかとキール一人を呼び出しやんわり聞いたが、キールははっきりきっぱり、どうしようもない理由を答えた。 虫が好かない。 「……あ、帰ってきた」 戸をくぐるシンは暗い顔だ。要するに負けたのだろう。キールはいつもどおりの顔だ。要するに勝ったのだろう。 人間である以上、百戦して百勝という訳にはいかないのは当たり前のことだ。 何百戦もしている二人には、シンが勝つ場合も稀にあった。今までに五回もないが。 初めてキールに勝った時、シンははしゃぎにはしゃいで、満面の微笑みを惜し気もなく振る舞ったものだった。ちなみにキールはいつもどおりだった。 食卓に椅子は四つ。ずっと前、よく訪ねてくるシンのために、ナギが同じ椅子を自作したのだ。 ナギは二人の顔を見ると、ため息をつき、二人が椅子に座るとまたため息をついた。 「……ナギ。なに? すごく気になるんだけど」 キールがもっともな感想を言う。 「…べつに? シンに対してもうちょっと優しくできないかとか、ぼきぼき骨折るのはやめろとか、いやそもそも喧嘩をするなと言ったところで、お前は聞くような子じゃないからね」 「あ、それ困ります」 と言ったのは、腰まである長い髪がさやさやと美しい音のない旋律を奏でる少年だった。 「キールに今更優しくされたら、気持ちが悪くて吐きますよ。ぼきぼき骨折るのも僕もやってますし気にしてませんからお構いなく。喧嘩については、もうここに至っては、キールから喧嘩を売らなくても僕から売ります、はっきり言って」 「………キール。お前、自分の日頃の行いがどれほど悪いか考えたことは?」 「えー、だってナギ、俺こいつ嫌いなんだもーん。シンいると面倒事が遠からず起きるだろうしさ」 「で、それが、シンをいじめる理由になるのかい?」 戸主である父親の、低い声の恫喝にキールは息をのむ。 大体の話、キールを叱りつけて言うことを聞かせることができるのは、ナギぐらいのものだ。説教できるのもまた然り。 その時仲裁というべきか、異議が入った。 「ナギ。だれを、いじめるんです?」 ナギも、イールも、キールですらうっと息を呑んだ。 シンが食卓についたまま腕組みをし、涼しさ満点の微笑を浮かべていた。
イールがシンについて知っていることと言えばそう多くない。 貴族の身分であることは、時々着ている上質の服や手土産の見事さや言葉の発音の完璧さ、各種の知識や含蓄が深いこと、見方が広いことで察しがついた。 シノン・クーバスと名乗り、シンという愛称で呼んでいるものの、それが本名だとは誰も思っていない。 そして彼の優しさ。イールが落ち込んでいるとき、兄やシンが傍にいて、彼を浮上させてくれたものだ。 最後に、その美貌。 自分たちの顔が普及品なら、彼の容姿はただそこにあるだけで光をはなつ芸術品だった。それほどまでに美しく、研ぎ澄まされた容姿だったのだ。 白い肌はほとんど無毛に近く、男になった今でもどんな女性より肌理が細かく、滑らかだ。その銀の髪は長く、腰まであり、動きにつられてさらりと揺れる。目尻から顎にかけての線は細面で引き締まり、長い髪がその輪郭を切り取る。くっきりと弧を描く細長の眉の下の瞳は生気に溢れて、イールは彼を目の保養としていた。 どれほどの麗人も佳人も、並び立てば「背景」にしてしまう圧倒的な存在感。 美しい人間ならばいくらでもいるけれど、見るだけで身震いするほどの、シンほど美しい人間は、二人といない。そんな確信ができてしまうほどの……そんな、容姿だった。 その彼が恫喝の混じった冷たい表情をすると、その迫力は一般人の比ではなかった。 「……あー……。怒った?」 「いえいえ別に? ところで、確認しますが、キールが一体だれを、いじめてるんです?」 恐ろしい…けれど同時に、それは世にも美しい微笑だった。だから余計にコワい。 服の下のナギの汗をイールは見たような気がした。 「いっ、いや、私の気のせいだな、うん!」 「そうですね、僕もそう思います」 そしてシンはその顔を引っ込め、ようやく彼らは食事に取り掛かった。 シンの誇り高さは天下一品だが、家族は皆、(キールもだ)彼のそんなところを気に入っていた。 シンはいじめという形容を使うと怒る。キールは一対一でやっているからだ。それでいじめ、という言葉が使われるには、シンが弱者であるという前提がいる。 シンは家族の支援も何も必要としていない。むしろ怒る。それは、シンが、キールを自分の力で倒したいと思っているからだ。 はっきり言って望み薄の夢だが、しかし、イールは彼のそんなところが好きだった。ナギもだろう。 シンは料理を一口食べて、あれという顔になった。 「ナギ、これ…」 「ああ、君の手土産の魚だよ」 「早いですねー。さっきの今」 「魚は獣とちがって下拵えが楽だから。ウロコと内臓取るだけで、血抜きもなければ毛皮を剥がす作業もないし、内臓も少ないし」 イールたちは、草の民と呼ばれる民族だ。自然同化主義と、街では言われているらしい。 狩猟、採集、そして家のまわりで耕している畑から取れる作物で自分たちは暮らしている。時々街に行って、毛皮や何かと、いろいろな物と交換する以外に、街との関わりはない。 シンは街の人間、でも自分たちは草の民だった。 食事が終わると、シンが全員の皿を集め、流しに向かった。 今日、ナギは洗濯当番、イールは食事当番、キールは掃除当番。そしてシンが後片付けをする。 出身は貴族なのだろうけれど、シンがそのような待遇に不満を言ったことはなく、キールの料理をつくれという要求にも異議を出した事はなかった。 だから彼らの関係は続いている。 食後、外に出て菜園の様子を見てきたイールが食卓に戻ると、洗い物が終わったらしいシンが、二枚の金貨を見る……というより睨んでいた。 食卓に頬杖をつき、真顔で金貨を見つめているその長い髪は、無造作に紐でくくられている。 それでも顔の脇の一房が抜け落ち、顔の輪郭を切り取って、頬杖をつく手の線に添うように食卓の上を流れていた。 美しかった。 まいったなぁ。 イールはとほほな気分で幼馴染みを見つめる。 尋常ではない美貌だった。キールですら、それを否定したことはない。 深呼吸をふたつして、イールは身構え、心に鎧をつくってから話し掛ける。 「シン、どうしたの?」 「キールからの問題。……そうだ。この二つに違い、イールにならわかる? いやその前に、イールだよね?」 キールと自分は瓜二つだ。 特に意識して演技しない時は間違わないが、特に意識して演技する時はまず見分けられない。裏の裏のそのまた裏までかく事もあるのだ。被害者の筆頭は身近にいる目の前の美貌の少年で、もっと身近にいるナギは、唯一双子を見分けられる人だったので、被害にあわせたい自分たちの努力にも関わらず、成功した例しがない。 さすがは父親と言うべきだった。 「イールだよ。で? その金貨の違い? 黒い布が貼ってある」 「いや、これは僕が貼ったんだよ。キールに出題された金貨とほかの金貨を混同しないために。でも……わっかんない。締切まであと少ししかない。どう? 違い、わかる?」 問われ、イールは首をひねった。 普通の草の民ならば見たことも触れたこともない高額通貨だが、ナギ家ではそこそこ目にする。キールへ(シミナーへ)の育成年金、それと、キールへの謝礼として。 キールは無償で治療をしているが、それでも何がしかの見返りを用意する人、自分にできるせいいっぱいの心尽くしの金銭をキールに渡す人は多いのだ。なんせ、通常のシミナーの治療は、この金貨五十枚ぶんに及ぶ。それだけの事をされて、タダで帰れるのは余程困窮しているか、余程根性ある人だろう。 ちなみにイールの手元にはなんとこの金貨が十四、五枚ある。この年ごろの子供がどう考えても持てる筈のない大金は、キールから貰ったものだ。 イールは問題文の金貨を二枚手に取り、重さを比べる。次に模様を眺める。更に重ねて厚さを比べる。 シンが微笑む。 「重さも密度も文様も同じだよ」 「……わからない。キールが出したんだよね?」 「そう。あのキールが」 「なら、ちょっと答え聞いてくるよ」 「! ちょ、…イール!」 兄はイールに甘かった。というか、兄は家族には甘い。 だから教えてくれるだろう、と思ったのだが。しかし、キールは困った顔をして、首を横に振った。 「ごめん。シンと賭けしてるんだ。だからお前にも教えられない。シンが降参するか、あと三日経てば教えてやるから」 「ん、わかった。で? この金貨の二つの違いって、なんなの? 細かな傷とか製造年とか?」 「傷でも製造年でもないよ。……先入観の問題。お前には解けるかも知れないな。この金貨のおかしな所はどこか、それが問題だ。判るか?」 イールは頭を猛烈に回転させて考えた。 先入観。先入観。 「…あ…わかった、気がする」 「なに? 小声で俺に耳打ちしてみて」 イールとキールの身長は定規で計ったように同じだ。当然、イールの口とキールの耳の位置は離れている。イールは少し体を延ばして、キールの耳に囁いた。 「おかしな所はない。それ?」 「ぶー! 違います。残念。俺はそこまでひねらないよ。それは詐欺っていうんだ」 「なんだ……じゃ、一体…。うー気になる。あ、賭けって一体何賭けたの?」 「ん? ちょっと、シンに俺、今十個ほど貸してるんだよ。で、それを全部なしにするかどうか、そういう内容。試験でもあるな」 「…十個も? どうやってためたの?」 「あいつが刺客に襲われているところを助けるのがよくあって、それから助言するのも二回ほど。何個か引いたんだけどな。あいつも貯めるばっかりじゃなく返済しようとしてるから。でも、まだ十個ある」 イールは少し沈黙する。 イールはこの兄を頭が良いと思っているが、ある種のことについて、どうしてこうまで鈍感なのか、不思議でならない。 本当に気づいてないのか、あるいは気づいているのに知らんふりしているのか。 「……キール」 「なに?」 「僕達、もう、十五だよ? シンももう十五だ。結局全員男になったね。わかってる?」 「? わかってる…けど?」 レイオスの住民は、十五の誕生日に性別を選択する。両性から、単性へと。 それまでは両方の性の特徴を備えているが、両方使用できない。妊娠もないし(自然受胎率はただでも低いが)、精通もない。 性分化のとき、片方の性の特徴が欠落し、片方が熟す。 このため、レイオスには性別による差別はまったくない。法上、女性側に有利だが(精子より卵子のほうが人工授精時に必要なためと、体力的に多少不利な女性になりたがる人が素のままだとあまり多くないからだ)、何よりも重要な、人の意識上の差別はない。 そもそも大体、性の特徴自体が希薄で、男女を外見で認識するのは困難だった。 そしてその概念には恋愛にも及ぶ。 人を好きになるという事に、何故性別が関係あるのか。それがこの星に住む人の九割強までの意見だ。残り一割弱は、やはりどんな問題にも全会一致はないからだった。 「シン…言い寄る相手が腐るほど出てきて欝陶しいって言ってた」 「そりゃそうだろ。あいつあの顔だし体だし身分だし」 イールはまったくわかってない兄に頭痛を覚えて額に手をあてた。 「…キール。いい? 僕らですらくらくらするんだよ? 長年兄弟みたいに暮らしてきた僕らですら! シンにちゃんと言わないと、取られるよ」 キールは束の間言葉を返すのが遅れた。そして、盛大に吹き出した。 「…な、な、なるほどねっ! さっきから一体何言ってるのかと思ったら、そーゆーことかっ! イールって、かわいいなぁ」 キールはイールの頭を撫でて、目を細めて見た。 「……キール。誤魔化すなら、別の相手にやんなよ。僕は真面目にキールの答えを聞きたいんだから」 「真面目に…って言われても。俺があいつを好き? ちょーっと、違うなぁ。イール。俺があいつ好きなら、平気でばきぼき骨を折れるはずないって、思わん?」 「……要するに、真面目に答えるつもりはないって事だね。わかったよ。この話はまた後にした方が良さそうだ。じゃあね、兄貴。僕は狩りに行ってくる」 イールは手をふり、双子の兄に背を向けた。 一度も振り返らなかった。 玄関に辿り着く途中で、イールはナギに呼び止められた。 「どうした? そんな険しい顔で……」 イールは父親をふりかえると、沈んだ面持ちで切り出した。 「……ナギ。以前はさ。僕はシンに言い寄る奴ら、馬鹿だなーって思ってたんだ。変態だって。変質者でもいいけど。なのに、最近、年端もいかない子供だったシンに言い寄った連中の気持ちがわかりそうで怖い……」 ナギはぴたりと手と息と思考を止めた。 「……まさか…イール。シンが………好きだとか、いわない…だろうね?」 「好きになっちゃいけないの?」 ナギは額に手をあて、そして息子そっくりの言葉を吐いた。 「……シンだけは、やめて」 「ナギ、シンが嫌いなの?」 「嫌いじゃないが…あーもうっ! 身分がちがうんだよ、激しくっ! イール。お前は貴族ってのはシンみたいなのだと思ってるだろうけどとんでもない! シンは特別で貴族ってのはほんっっとに、嫌な奴らなんだ! 身分差とかいう言葉を親兄妹より愛しているような人間たちのなかにイールを放りこませたくない〜〜〜っ!」 「……ナギそんなにシンが嫌いなの?」 「……シンが嫌いなんじゃなくて。友人としては好きだけど、息子の恋愛対象としては問題外というか…しくしくしく」 「…ナギ、泣かないでよ。そんなに嫌がるとは思ってなかったんだよ。冗談で言ってみただけなんだから」 ナギは沈痛な面持ちで首を何度も振る。 「シンはね……いい子だしあの姿だから惹かれるのも無理はないと思うんだけど……だけど…親としては、あの子だけはやめてくれ」 ―――似たようなことを、キールからも聞いた。 イールにはよく、わからない。シンとは何年もの付き合いで、その誠実さも優しさも、肌で感じている。 シンの人柄はいい。とても、いい。なのにどうしてキールもナギも、シンに対してこう壁を作るのか―――それがどうしてもわからないのだ。 美人も極めると別世界になる。 あまりに美しすぎて、恋ができない。そんな理由を、人は理解できずにいぶかしむだろう。しかし、幼馴染みを一目見れば、誰もが納得するはずだ。―――同じように空気を吸い、食べ物を食べている生身の人間とは思えない。それほどあの幼馴染みは美しい。 だからシンと恋をする予定はとりあえずないけれど、―――こうも否定されると、首をかしげてしまう。 イールは単刀直入に聞いてみた。 「シンと恋愛すると、僕は不幸になるの?」 沈黙が答えで、それはどんな言葉より雄弁だった。 そしてその日、キールは行方不明になった。 |