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相愛、そして……
結崎ひよのは現在48時間以上継続して活動していた。
栄養補給だけは同居人の無理強いに近い協力のおかげでかろうじてできているものの、その他の面はどう贔屓目に見ても劣悪な状態である。
パソコンに向かう彼女の周囲には10面以上のディスプレイが置かれ、その一つ一つが刻々と状況の変化を映し出している。
変化に対応し、そのひとつひとつに判断をし電話をかけ指示を下すのが、結崎ひよのの仕事であり役割である。そしてこれは彼女がしなければならないことであり、彼女以外誰にもできないものであり、彼女がやらなければとりかえしのつかない惨事になるものでもあった。
主ディスプレイ―――ひよのの座る椅子の正面に位置しているディスプレイに現れたデータを見ながら、ひよのは片手を伸ばして傍らのサンドイッチをとり、コーヒーで流し込む。
その間も、もう一方の手はせわしなく動いてキーボードを叩いている。
ひよのは目は正面に向けたまま、声をかけた。
「―――私に付き合う必要はありません。体力保持のためあなたは眠ってください」
一片の情も含まない機械的な声音だった。
戸口にたち、彼女の様子を見つめていたカノンは声を返す。
「体力保持のための必須睡眠時間は取ってるよ。健康管理はしてる。邪魔はしない。だから、いていいかな?」
「嫌です。そこにいることで、自分も負担を分かち合ってる気分になって満足しようとするのはやめてください。そこにいられると気が散ります。あなたには他にやる事があるでしょう」
にべもなく、無機的な言葉が返される。淡々としているがそれだけに肺腑を抉るセリフだ。
そして、鋭くカノンの心理の一面をカットしている。
ひよのの言うことは道理だ。
カノンには、ここで立っているよりよほどしなければならないことがある。充分な睡眠と運動と食事をとり、休むという義務が。いざというとき、すぐに出られるよう体調を万全に保っておく義務が、彼にはある。
なのにカノンがここにいるのは、たしかに不合理だ。
彼女が今指摘した心理があってカノンはここにいるのだという事も否定できないのだけれども―――、それだけではないもっと他の何かもあった。
上手く言葉にできない感情を確かめながら言葉に変換するのは、骨だった。
感情の言語化。
「ここにいいたい」と感情でははっきりしていることが、感情の理由を言語化する段になると、こんなにも難しくなる。
どうしてか、カノンはひよのの戦いを見ていたい。
見てる事は苦しい。
彼女がやっていることに、手助けできることはなにもない。ただ見ているだけなのはつらくて苦しい。でも、見てなければならないと思う……感じる。それは何故か?
カノンはためらい、唇を湿らせ、ようよういった。
「……無償の好意は美しいものだけど、無償の好意を受けている事をあたりまえと思うのは、この世で一番醜いと思うから」
ひよのはかなり長い間、パソコンを叩き続けた。キーボードを打つ音だけが響く。ひよのの運指は非常に早いので、一つながりの音に聞こえる。
ひよのの背後にいるカノンからは見えないが、このときひよのが浮かべていたのは、素っ気無いともいえるつまらなそうな顔だった。
「カノンさん」
「はい」
「あなた、人間として上等の部類にはいる人ですね」
当たり前すぎるほど当たり前の事実を口にしている口調だった。
「はあ?」
相変わらず淡々と、キーボードを打つ手は緩めずに、ひよの。
「気持ちは判りました。ですが、私はあなたにここにいてほしくない。あとであなたの相手はしてあげますから出て行ってください」
今のひよのはどうあがいても美的といいがたい。長い亜麻色の髪が手付かずで四方八方飛び散り、外見的には鳥の巣のようだ。
でていけ、という気持ちも判るし、そこまで言われて留まれるほどの無神経さもない。
カノンは大人しく引きさがった。ただし、こう付け加えるのは忘れなかった。
「次の食事の時間にまた来るよ」
§ § §
結局ひよのが自らの義務から解放されたのはそれから更に48時間以上経過して後だった。
まずは休息、次に食事。それが終わったあと、ひよのはカノンに話し掛けた。
「ご苦労様でした」
「……逆だと思うよ?」
長時間にわたる戦いを終えた勇者が、何も出来ずにただ見ていた村人にかける言葉ではない。
「あなたもしんどかった事がわからないほど、私は馬鹿じゃないですよ」
「ふむ。―――聞きたいことあるんだけど、いいかな?」
「私も聞きたい事があるんです、いいですよね?」
目と目で譲り合って、まずはカノンから。
「あれは……どういう意味?」
「ストレートに解釈してください。あなたは人間として上等の部類にはいる人ですよ、っていう意味ですよ? もちろん」
それが信じられない。
まるで引っ込み思案の少年が片思いの女の子に話しかけようとしているかのように、カノンは躊躇いを多分に含んだ口調で話し掛けた。
「……人殺し、なんだけど。僕は」
「私が問題にしたのは、あなたの人間としての出来です。無償の好意を受けてる身でそれに馴れることを醜いと認識できるあなたの心を言ってるんですよ。だいたい、あれは無償じゃないでしょうが」
「君の側においてくれるのなら僕はそれこそなんでもするよ。それを代価として要求されても、僕にとっては無償と同じだ」
結崎ひよのは顎に手を当てた。
「―――ふむ。いつもよりいじけっぷりが増してますねー。これはいじけ虫が活動してますねー。さしずめ誰かに何か言われたんでしょうねー」
「……何度も聞くけど、テレパシーの心得ない?」
「ないです」
ひよのは一言の元に否定して、こぼれんばかりの笑顔をむけた。
「さてカノンさん、聞き取り調査をいたしましょうか。私相手に隠そうとしたって無駄ってことは、もちろん判ってますよね?」
それはもう、重々。
隠しても、ひよのが相手では真実まったくの無駄である。情報網で探り出されるか、「別れますよ」の脅迫で言わせられるか、カマかけられて白状させられるか。本気でひよのに攻められたら精神的強さで完敗してるカノンは到底勝てない。カノンはそれを知り抜いているので、問われるがままにぺらぺらしゃべったが、―――やっぱり小言はもらった。
聞き終わったひよのは額に手を当てていったものだ。
「馬鹿ですか、あなたは」
「…………」
額から手を外しながら、ひよのは目を細めてカノンを見ていた。瞳に浮かぶのは―――もちろん、呆れの色だ。
「そんな人のいうことをまともにとるのはやめなさい。大体、話していて向こうがこっちに悪感情を持ってることは伝わったんでしょう?」
「まあ……」
「その時点で見切りなさい。こっちに悪感情を持っている人間の諫言はすべからく根拠のない暴言と思いなさい。一分の理もありはしません。大体、あなたの認識は甘すぎます。あなたが自分を客観的に見れる人だってことはよくわかってますが、世の中の人間はほとんどの人間が自分ですら騙せるんですよ? 悪感情で難癖つけてる自分を騙し、正しい理を説いてやっているんだと自分を騙す。そういう人の言う事をまともにとって傷つくだけ無駄、難癖に諭すなんてもっと無駄です。時間と労力の無駄に終わるだけですよ」
「でも、僕が君に頼りっぱなしっていうのは事実だし……」
「だ・か・ら。あなたのその自虐癖、結構いらだたしいです。一分の理もあるかもしれない、なんて思うのが間違っているんです。一分も一厘もなんにも理なんてありはしません。ない、と思いなさい。自分を守る為に、完全否定の鎧をつくりなさい。あるかも、って思うところから心の弱みは始まっているんです。人の諫言にそうかも、と自分をかえりみて思ってしまうのは、あなたが頭がいい以上は仕方ないですがね。せめて標準以上に頭がよくて自分に悪感情を持ってない人間の言葉に対してと限定しなさい。頭の悪い人間に付き合うだけ時間の無駄です」
ひよのはそこで表情をやわらげた。
「あなたは自分が妬まれるに充分な立場にいる事はわかっていても、自分がたいして価値ある人間とは思ってないんでしょう? 悪意の海に投げ込まれて自分を守るには、耳を傾けるにたる価値のある人の言葉とそうでない人をはっきり見分けることと、同時に、自分の価値を自分で傲慢なまでに信じるのが大事です」
カノンは沈黙していた。
胸のうちで、ひよのの言葉を咀嚼する。
塵芥ほどにも気にしていないと思っていたが―――ひよのの側にいるカノンに向けられる悪意ある言葉は、少しずつ彼の心を侵食していた。悪意ある言葉の毒は、気にしていないつもりでも、遅効性の毒のように人をじわじわ侵していく。
反面、それを言った人間の方にも罪悪感という毒は染み込むものだが―――生憎世の中には毒だらけの言葉を吐いてもちっとも心の負担を感じない幸せな人というのがいるものである。
ひよのの言葉は、カノンよりはるかに多くカノンよりはるかに昔からそうした毒を浴びてきた人間から後輩への、教え、だった。
カノンが黙っていると、ひよのは微笑み、手を胸に当てて言った。
「カノンさん。あなたが自分で自分を大したことのない人間だと思うたび、あなたは、あなたを好きな私まで侮辱してるんですよ?」
いたずらっぽく、輝くひとみ。
「あなたを愛してます。私は、あなたを愛してます。あなたが自分を軽んじる事は、あなたを愛している私まで軽んじるってことですよ?」
「そ……れは」
「自分で自分の価値を信じられない人間は不幸です。卑屈よりは傲慢の方がまだマシです。あなたは何度も私を助けてくれたのに、どうして信じられないんです? あなたは、無敵の翼じゃないですか」
無敵の翼。翼ある銃。たしかに……以前はそれに自信を持っていたこともある。
「―――人殺しの技能に長けている事を誇りに思えなくなったから」
ひよのの切り返しは瞬速の早さだった。
「ではこう思ってください。人殺しではなく、大切な人を助ける力に恵まれていると」
カノンはひよのを見つめる。
カノンの言葉を聞いてから、頭で考えて出せる早さではない。
ひよのは会話の途中、恐らくは始めから、カノンの返答を予測していたに違いない。
「自分で自分を貶める人は、自分を好きな人まで一緒に貶めてるんですよ?」
「……ありがとう」
カノンは無理して唇に笑顔を作って言った。
これ以上、ひよのに負担をかけたくなかったし、この会話を続けるのも苦痛だったからだ。
愛してるし、愛されているのもわかってる。
でも、それで全てが解決するほど世の中単純じゃない。
が、ひよのにそれがわからないはずもなく、ひよのはカノンの会話を打ち切ろうとする態度に 吐息を吐いて、言った。
「ま、私が今ここでぎゃーすか言ったところで自信なんて一朝一夕につくものじゃないですからね。でも、ひとつだけは判ってください。あなたがあなたを嫌いでも、私はあなたが好きですよ。あなたは、私を支えてくれてるんです。どうかそれを判ってくださいね?」
にっこり笑う彼女の数分の一でもいい、自分を信じることができればいい。
そんな内心の思いは、きっと表情に出ていたのだろう。しょうがないなという顔を、彼女はしたから。
ひよのはぴっと指を立てた。
「こんなのいちいち解説するのはほんと馬鹿らしいんですけど、言わなきゃ伝わらない事もあるみたいなので、カノンさんへの言葉の説明をしますね。
―――『無償の好意は美しいものだけど、無償の好意を受けている事をあたりまえと思うのは、この世で一番醜いと思うから』。この言葉からはいくつもの特徴が読み取れます」
数日前の一言を一言一句たがわず暗誦してのけて、ひよのはカノンに穏やかな目を向けた。
教え諭す声音でいう。
「そのいち。あなたが恥を知る人間であるということ。そのに。あなたが恩には恩で返すのが当然であると思っていること。そのさん。あなたが無償の好意に甘えるのをよしとせず、むしろ罪悪感を抱くような自立の精神に富む誠実な人柄であるということ。少なくともこの三つがなければ到底出てこない言葉です。この言葉を発することのできるあなたの人格というのは、人間として上等の部類に入ると私は判断したわけです。わかりましたか?」
「それぐらいは人として……」
「当然、とか言ったら恥を知らず、誠実でもない多くの人間が何も言えなくなると思いますよ。
―――カノンさん、わたし、けっこう男の好みはいいつもりなんです」
平温の声に、カノンはたじろいだ。
そうかな? といえばひよのを侮辱することになる。肯定も否定もできない。
ひよのはテーブルに頬杖をつき、真摯な瞳でカノンを見ていた。
「あなたは客観的基準で善人じゃないかもしれませんけど、私にとって善人で、ついでに人格の根っこは誠実で繊細にできてるんですよ。自覚がないですか? 私はあなたを細い銀鎖のように繊細で優しい人だと思ってるんですけど」
「僕」
反駁しかけて、言葉を飲み込んだ。馬鹿馬鹿しい。むきになって、ひよのの言葉を否定してどうしようと? 優しくカノンの卑屈を否定してくれる彼女の言葉を、どうしてカノンが否定しなきゃいけないのか。
「君は、自信喪失した事はないの?」
「しょっちゅうです」
返ってきた言葉に驚いた。
「君が……?」
「人間なんだから当たり前じゃないですか。でも私はこうして立っている。それは、カノンさんがいてくれたからですよ」
「僕?」
「人間なんて複雑なようで単純です。ただひとりだけでも、私が何を失っても側にいて、好きでいてくれる人がいれば、それでけっこう心は満足して満たされるものです。私がやたらとスキンシップをもとめるときは、あなたに抱きしめられて不安を打ち消したいときです。心当たり、あるでしょう?」
「うん。まあ、ね」
「私はこれで結構あなたが大好きなんですから。あなたが自分を信じられないなら、あなたを好きな私を信じてください」
さっきはああいっていたけれど、ひよのはいつも自信に輝いている。眩しいほどに。
自信は、自らの信と書く。
自分を信じられない者が、自信なんてもてない。
「―――どうやれば君みたいになれるかな……?」
「かんたんです」
胸を張ってひよのは言い放つ。
「どうするの?」
「誰が否定しようと私は私の価値を知ってますし―――低級な嫉妬が私を強くします」
少し考えて、カノンは理解した。短く返答する。
「―――なるほど」
嫉妬する=自分より下。の図式だ。
いつだかもそんなことを言っていたが、ひよのは自分を妬む人間のことをとことん見下げて見下ろして焚き火の焚き付けにしているらしい。確かに人は、自分より下の人間に嫉妬はしない。上の人間だからこそ妬む。しかし、ひよのは妬まれていることを自分の自信の材料にしてるのだ。
妬みは彼女をくすませるどころか、より美しく輝く手助けをするだけ。
役者が違うといわざるをえない。
ここまでの境地にいけるかどうかは不明としか言えないが、カノンはひよのに守られるより、守りたい。ひよのにこうまで心配させること自体、カノンの美意識から外れた行為だ。
負担だらけの彼女の負担をさらにふやすのは、まったくもってカノンの好みではない。
落ち込んでいる暇なんてなかったのだ。
もう二度とこの件でひよのを煩わせたくない。
引け目を感じずにいるのが無理なら、カノンは結崎ひよのの隣にいるに相応しい人間となるよう、研鑽しなければならない。
一つ心の中で頷いてひよのを見ると、ひよのはにこっと微笑んだ。
「そういうところも、私があなたを選んだ理由です」
愛情だけでカタがつくほど世の中単純じゃない。
が、根底に相手を助けたいと願う愛情があれば、大抵の事はどうにかなってしまうほど単純にできているのも、男女の仲である。
蚊に当て逃げされた傷のかゆみがひどいです。
が、それ以上に動悸息切れが激しいです。
あ、明日はとうとうガンガン発売日ですよ、奥さん奥さん!
今日眠れるかな……? 前回なんて夜中の三時まで眠れなかったし……今回の期待度は前回を優にしのいでるし……。
今日もまた眠れなくなりそうです。
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