見たことのない自分の顔



 昔誰かが言った。
 「世の中単純に生きた方が楽しい」
 それはそうだろうなあと、現在思い切り単純に生きている僕は心から賛同する。

 ただ今僕がやらなきゃいけないと心に決めているのは一つだけだ。
 そういう生き方をすると、人生がとても単純で、楽しい。
 幸せか不幸せかと聞かれたら、僕は飛び切りの笑顔でこう答えてやるだろう。
 とても幸せだ! と。

 「結崎ひよのを幸せにする」。
 それ以外のすべてを縛り、放棄し、考えないでいる事は、とても単純で幸せな生き方だった。

     § § §

 ホテルの喫茶店で昨日のことなどを追想して楽しい思いに浸っていると、無粋な声がかかった。
「ひさしぶり。元気だった?」
 ほとんど瞬時に声と記憶が合致する。
 声を聞いて、首を向けるまでの間に検索は済んでいた。
 その検索結果と同一の結果が、視界からもたらされる。
「……誰のたくらみかな、これは」
 ほんの小声でつぶやいた。間が悪すぎる。

 そこにいるのは、目の覚めるような赤毛の美女だった。くっきりとした顔立ち、めりはりのきいた大柄の迫力あるプロポーション。
 中でも目を引くのはその頭で、人間こうまで純粋な赤毛があるのか、と思ってしまうほど見事に赤い。十中八九、見た人間は染めているのかと勘違いするほどだ。あいにくそうではないと僕は知ってしまっているが。
 年齢は外見からは判断つかない。二十代前半から三十代後半まで範疇に入る。

 彼女は許可も取らずに僕の前にさっさと座ってしまった。
「カノン、あんた何やってるのよ。小娘の金魚の糞なんてするタマじゃないでしょうに」
 僕は得意の社交的笑顔をふるまう。
「やあベロニカ。生憎僕は今機嫌が悪いんだ。僕がその気になればいつでも君を殺せるってことはわかっているよね? ―――さっさと去れ。めざわりだ」
「なっ……」
 挨拶すら抜きでの退去勧告に彼女の顔が歪んだ。
 あー駄目だ。悪印象らしき悪印象も抱いてない相手なんだけど、何の情動もいだけない。わずらわしいとしか感じられない。これがひよのさんなら、どんな顔も可愛く感じられて困るというのに。

 この場で拘束して拷問して背後関係を調べるのも一つの手だけど、昔馴染みへの温情で勧告だけにしておこう。まだ、唐突に間の良すぎるタイミングで僕の前に現れたっていうだけなんだから。

 僕は涼しい顔で言う。
「僕とここでやりあうか、それとも大人しく帰るか、選んで」
 僕は目立たない方じゃない。彼女も腰まで伸びた鮮やかな赤毛が目を引いて、日本じゃ僕より数段目立つ。
「……とんだご挨拶だね。騒ぎになって困るのはあんたじゃないの?」
「騒ぎを起こさなきゃいいんだよ。やりあっていると周囲に判らなければいい。僕は歴然とした暴力より、隠れた暴力の方が得意になったんだよ。―――この数年でね」
 僕はケーキの小さなフォークを手に取ると、くるくる回して微笑んでみせた。

「―――で? 返事を聞いてないけど?」
 強張った顔で、それでも彼女はねばった。
「五分、譲って」
「わかった。五分だけだ」
 僕はあっさり譲歩する。
 ひよのさんじゃないが、日ごろの信用というのは大事である。五分といったら、彼女は五分で本当に済ませようと「努力」する。そういう女だから譲歩した。

「私がここにきた用件は一つ。ね、カノン。どうしてこんなところで手持ち無沙汰にしているの? 確かにサラリーはいいかもしれない。でも仕事の歓びってそれだけじゃないと思わない? どこのチームも、あなたなら二つ返事で受け入れる。あなたはこんなところで女一人の機嫌を必死に伺っているような人間じゃない」
 必死の早口で言い募る。僕の中で評価が確定する。
 彼女を、ひよのさんと会わせるわけにはいかない。ひよのさんはあれで結構、他人からの僕への評価を気にする人なのだ。他人からの自分の評価は蟻の観察日記程度に客観的に観察できるくせして。
「あいにく、僕は自分で選んで、非常に楽しんで今の生活をしている」
「プライドはどうしたのよ。あんな小娘にへこへこ頭を下げて恥ずかしくないの? それだけの腕があるのに……」

「ベロニカ」

 僕は気長にできているつもりだが、一つの事態には我慢がきかない。
 声に含まれたものに、彼女は弾かれたように体を起こした。
「もう一度、ひよのさんを誹謗する言葉を吐いたら、痛みを味わってもらう。それともうひとつ、いや二つかな。君がひよのさんの前に現れたらそれだけで殺す。最後に―――、僕は愛する女の為にできるかぎりのことをしてそれでプライドが傷つくような矮小な自我の持ち合わせはない」
 本当はひよのさんとの約束で人は殺せないのだけれども、彼女はそんなこと知らないし、彼女は僕が人殺しを的確に行うところも散々見ているのだから殺すという脅し文句は充分効果がある。

 ベロニカの表情は―――今まで信じてきた地面が実は映画のセットだったんだと知ったような顔だった。今まで不動の大地と信じてきたものが、実は張りぼてであったと知ってしまった人間のような。
「信じられない……あんな子どもに、カノン、あんた本気なの?」
「人生で最初で最後の恋をしているよ」
 照れもなく答えて、穏やかに僕は言う。

「さあ、行って。そろそろひよのさんが出てくる頃だ。彼女と君が顔をあわせたら……さっきの言葉憶えてるね? 僕は、その履行をためらわないよ」
 ベロニカは、ひよのさんを傷つける可能性がある。精神的にも肉体的にも。そんな相手を近づけさせるつもりはない。

 それでも温情をかけたのは、かつてベッドをともにした相手だったからか?
 僕に殺意を含まない平穏な目で見つめられ、ベロニカは息を飲み込む。
 僕はひよのさんにもう人は殺さないと約束した。約束をかたくなに守る彼女の事だ。人に約束を破られたときの反応も推して知るべし。けれども、ひよのさんを傷つける可能性を持つものを、排除するのに躊躇うつもりはまったくない。

 僕は動かないベロニカを見限って、フォークを持つ手をそのまま真下に下ろした。
 食器皿に、フォークが突き立つ。皿を割ることなく、四本のとがった先が穴を開けていた。
 全身を緊張させ戦慄するベロニカにふっとわらって、僕はフォークを外し、皿を床に落とす。
 証拠隠滅、皿は粉々になった。
 すぐさま飛んできた店員に、僕は受けのいい笑顔で笑いかけた。
「弁償します。おいくらですか?」

     § § §

 ひよのさんは、藍色のワンピースに身を包んでいた。
 美しい、体にぴったりとしたマーメイド風のドレスだ。生地は光を受けると、親指大の斑紋模様を浮かび上がらせる。
 左の耳脇の髪を三つ編みにし、その髪で頭をぐるりと囲う。残りの髪は背後に流していた。
 その姿には、大人の女性のしっとりとした落ち着きと、若い女性特有の華やかさ、百合の花を思わせる清楚さが絶妙なバランスで同居している。
 一方、僕はというとまあ定番、ダークブルーのスーツだ。三つ揃えをきっちり揃えているものの、ひよのさんに比べれば単なる刺身のつまである。

 僕はひよのさんの姿に感嘆した。
 いつものことながら、まるで別人のようだ。
 落ち着きがあって物腰優雅。貞淑、なんていう今時滅多に使われない日本の言葉まで思い出す。とても昨日の夜おもいっきりアレコレした人物とは……あたた。
 あー、男の理想が昼は淑女、夜は娼婦とはよくいった。なるほど、昼間娼婦の顔をした女の媚態に、男はそそられはしても驚きはしない。
 昼に、夜の姿をまるで思い浮かべられないほど慎ましやかな顔をしている女に男はそそられる。夜は昼とのギャップにあおられて、昼は夜との落差に服を剥いで隠れた顔をあばきたくなる。
 少なくとも僕は、ひよのさんがそれを許すならいますぐにでもそうする。

「どうしました?」
「きれいだから、見惚れてる」
 すなおにいうと、彼女は照れたように微笑んだ。
 その笑顔に、今朝方のやり取りの後遺症は見えない。ほっとした気分でエスコートの手をさしのべる。

 僕はホテルの喫茶店にただぼうっとしていたのではない。あそこからはひよのさんのいる美容院が、ガラス張りの壁を透かして見えた。護衛としての任をしっかり果たして―――まあ妄想にふけっていたことも否定しないが―――いたのだ。
 ホテルのロビーには多くの人間がいたが、そのほとんどがひよのさんと僕に賛嘆のまなざしを向けている。男性客の羨望に満ちた眼差しは気持ちのいいものである。
 ちなみに僕は憎悪の視線に萎縮するような神経の持ち合わせはない。その点ではひよのさんも同様だ。
 彼女はこれでけっこう、自分を着飾るのも、僕を着飾らせて一緒に歩いて女性のネタミの眼差しを浴びるのも大好きなのである。
 いやまあ口に出しては言わないが、見てればわかる。
 なかなか乙な趣味である。僕としても綺麗なひよのさんを見るのは大好きだし、一緒に歩くのも好きなので、諸手を上げて歓迎したいぐらいの結構なご趣味であった。

 ただ唯一問題があるとすれば―――

「……やめない?」
「お祭りは今日が最終日です」
「それはわかるけどね」
 ひよのさんの趣味兼息抜き。
 音楽鑑賞。
 本日はひよのさんが「お祭り」と称した夏場の一大音楽会の最終日である。
 日ごろベンタゴンに匹敵する防犯装置を誇る家(もちろん誇張がはいっている。……が、完全な嘘ではないところがアレだ)に閉じこもりがちの彼女が外に出る珍しい機会だった。
 逆に言うと、一般人の前に警戒厳重なVIPがのこのこ姿を現す機会でもある。

「大丈夫ですよ、あなたがいるんですから」
「それは過大評価だとおもうな」
 結崎ひよの。
 この名前を知らない研究者はごく少ないだろう。
 ベロニカがどういった思惑で、僕を呼び戻しに来たかは判らない。しかし、僕の方では自分の運動能力を過信してないし、団結したチームの力という奴を過小評価もしてなかった。
 その昔、鳴海歩が満身創痍の素人を束ねて僕を倒したように、集団の力というのは、決して馬鹿にできない。また、僕の方にも弱みがある。ここは日本であり、ろくな武器も持てず、著名人の関係者として、騒ぎになるような行動はとれない、という事実―――。
 装備も不十分な状態で、チームの攻撃から、ひよのさんと自分を守りきれると思うほど僕は頭がめでたくできてない。
「だいじょうぶですよ。私を殺せる人はいませんから」
 殺しても飽き足らないほど彼女を憎んでいるブレードチルドレンも、彼女を利用する方法で頭をいっぱいにしている財界関係者たちも、彼女の研究を欲する科学者も、彼女の身柄を希求している人間はさぞ多かろうが、彼女を殺せる人間はいない。
「だから、あなたは自分の命をいちばんに考えてくださいね?」

 物事には優先順位をつけましょう。
 ひよのさんが、結構ことあるごとに言う台詞だ。
 最初にそういったとき、ひよのさんは厳しい顔をしていた。
「あなたが第一義に守るべきは私の命であって、私の身柄ではありません」
「……どういう意味?」
「あなたの命と、私の身柄ならあなたの命を選んでくださいという事です。私を狙う人間のほとんどは、私を殺せない。私の頭脳にしろ、財産にしろ、生かしておくのが大前提です。
あなたの命と引き換えに助けられても、私は嬉しくもなんともありません。誘拐された先での仕打ちなんてものよりずっと、あなたの死の方が私にとって打撃です。私の命が天秤にかかっているのなら話は別ですが、かかっているものが私の身柄であった場合、あなたは、あなたの命を優先させてください。私が誘拐された先でレイプされようが拷問されようが、あなたが助けてくれればそれでいいんです。優先順位の第一位は、私の命ですが、第二位は私の身柄ではなく、あなたの命である事を、くれぐれも理解してください」

 ひよのさんの言う事は大抵正しい。
 カノン・ヒルベルトの命を犠牲にして、結崎ひよのの身柄を守ったところで何にもならないのだ。彼女は信頼の置ける有能な護衛を永久に亡くし、攻める方は邪魔者がいなくなったのを喜び、再度襲撃すればいいだけ。
 一方、結崎ひよのの身柄が誘拐の憂き目にあっても、カノン・ヒルベルトが無事ならいくらでも逆転の目がある。なんせ、相手は絶対に彼女を殺せないのである。誘拐犯が彼女を拷問するなりして欲しいものを引き出そうとするまでの間に、助け出せばいい。
 身体的、精神的に小さくない傷は負うだろうが、カノンが死んだときの痛みに比べれば何ほどのことではないと、彼女はそう断言し、命令した。
 むろん、カノンが無事で、ひよのも無事。むろんそれがベストだが、そんな都合のいい選択肢が残されていないときは、結崎ひよのの身柄よりカノンの命を優先させろ、と。
 彼女が言うのはそういうことだ。

 まったく、かんたんに言ってくれる……。
 ひよのさんが傷つけられたりレイプされたり拷問されるぐらいなら、僕は自分が死んだほうがはるかにマシだっていうのに、その場は見逃し捲土重来をまてと?
 ……まあ、そうしても彼女は怒らないし、それどころかそうしなかったら僕をさんざんに怒るだろうけど。

 僕が彼女に敬意を捧げる事に躊躇しないのは、自分がこうと命令した事で不利益がたとえ起きても、その責を自分以外の誰にも求めないところにある。仮にその通りに僕がして、誘拐された先で目を覆うような拷問を受けても彼女は決して怒らない。
 それがわかってしまうのである。
 自己の冷静な客観的視察からなる正確な状況分析に基づく判断。
 自分の吐いた言葉に自分で泥をなすりつけるような行動は、ひよのさんには無縁なのだ。

 記憶力はべらぼうにいいし、自分の言動が過去に吐いた言葉と矛盾を起こしていることに気がつかないほど馬鹿でもない。
 困ったことだが、世の中には「自分の言葉と言動が一致してない」ことに本人が気づいてないというケースはざらである。
 例を挙げると、「上司は部下の責任をとるものだ」といっている本人が部下の失敗を「おまえがやったことだからおまえが弁償しろ」といったり、「見捨てて逃げろ」といった人間が「どうして守ってくれなかったんですか?」といったり。
 長い付き合いなので、その状況で彼女が何を言うのかほぼ完璧に予測もできる。
 まず開口一番言うのは(声帯がつぶされてなければ)「カノンさん、人を殺しちゃいけませんよ」だ。僕は絶対に冷静に怒り狂っているだろうから。そうして僕を身動きできなくさせてから、言う。「助けてくれてありがとうございます」と。
 彼女はそういう人間だった。

 知性というのは、知識の量でもなく、経験でもなく、どれだけ客観的にすべてを見れるかだ。

 おそろしいことに、結崎ひよのという人物は、いつ如何なるときも自分とそれを取り囲む周囲の環境すべてを客体としてみれる、という稀有な素質をもっていた。
 長く側にいるので、彼女の理不尽な怒りにさらされた事はもちろんある(それですら稀有だが)。
 しかし、その全てにおいて、彼女は「自分が理不尽である」という認識のもと、僕に当たっているのであり、つまるところ甘えの一表現であると見切ってしまえば、理不尽な怒りですら愛しくなるのが惚れた弱みというやつである。




 つづきます。
 なお、これは君にできるあらゆることの未来にあたります。

2005/08/26 up

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