一本の鎖の先と先



 はあ、はあ、はあ……。
 乱れた呼吸をそのままに、ひよのはカノンの胸に頭を預ける。
 服一枚を通して、触れ合った肌から伝わる鼓動は、ひよののものと同じように早まっていた。耳を通じて伝わる自分の鼓動とまざりあい、どちらのものかわからなくなる。
 二人分の鼓動に耳を済ませていると、ゆるやかに、息が落ち着く。鼓動も収まっていく。

 ソファに座ったカノンの膝に向き合う形でひよのは腰掛け、顔を胸板にもたれている。ひよのはブラウスと、細かなプリーツの入った白のスカートを身に着けていた。いろいろあったせいでかなり乱れているが、脱いではいない。ショーツはとうに剥ぎ取られた。

 つ……っ、と。
 薄手のブラウスにつつまれた背中を、なぞる指。
 ひよのは体内に残る余韻に体を震わせる。
 不快感の、かけらもない接触。
 寄せた頬の、固い感触。広い胸板に囲われるように抱きしめられ、撫でられて、たとえようもなく満たされる自分を感じる。
 顔をカノンの胸につけたまま、考える。何百回と打ち立てた方程式を、また計算しなおす。
 ―――メリットデメリット。勘案してどちらが重い?

 ひよのは顔を起こしてのぞきこむ。
「カノンさん……」
「なに?」
「私が、無一文になったらどうします?」
 カノンは、眉をよせた。
「……答えはわかりきっていると思うけど、僕はそういう答えしか返せないけど、それでも聞くの?」
「わかっていても聞きたいことってあるでしょう?」
 たとえば、自分を愛してくれる恋人に「愛してますか?」と聞いてみたり。
 カノンも納得のいく言葉だったのだろう、即座に答えた。
「嬉しいよ」
 ひよのは再び顔をうずめる。

「君がこれまで僕を養ってくれたように、今度は僕が君を養うよ。僕は外面いいし、いくつかの国の言葉も身についてるから、就職活動して職を得るのはさして難しくないだろう。人の良さげな笑顔でだまくらかすのも得意だから、営業にむいてるな」
「サラリーマンになって商品説明して顧客を開拓して売りつけるわけですか?」
「そうそう」
「……あなたが、サラリーマン?」
「そう。結構向いてると思わない?」
 音符がついているような調子の声である。

 ひよのも苦笑した。
「……どこの会社の人も、自分のところに営業に来た愛想のいい若いのが、実はプロの傭兵をも顔色なからしめる凄腕の殺人者とは思わないでしょうねえ」
「平凡で、平和で、いい人生じゃないか。平凡なサラリーマンに、その若妻。それで何がいけない? ……君が大金持ちじゃなくなって、それで僕が気持ちを揺らすとでも? むしろ活躍のチャンスがまわってきたとはりきるね。僕は君一人ぐらい、いざとなれば銀行強盗でもなんでもやっていくらでも養えるし」
 カノンが最初に言ったとおり、わかりきった答え。
 それでも、今、それが聞きたかったのだ。

「―――で? ひよのさん。僕は結構以前から不満に思っている事があるんだけど」
「私の隠し事ですか?」
「隠し事はいい。どんどんやってくれ。ブレードチルドレン対策なんて、僕に話されたらその方がこまる。それじゃなくて―――頼むから、少しは僕を頼ってくれないかな? 困った事態が起きたのか?」
「いいえ」
「……じゃあ、困った事態じゃなくて」
「困ったことをしでかしそうなのは私自身です」
「無一文になりそうなこと?」
「結構な確率で」

「それが君のやりたいことならやればいい。何があっても僕は君を守るから」
「世界のすべてを滅ぼしても?」
「君と引き換えならば世界のすべて滅んでしまえ」
 真顔だった。目がマジだ。
 七割がた本気だとわかって、ひよのは喉の奥で笑いをかみ殺す。
 ひよのの為に、本気で世界など滅んでしまえと言ってくれる人がどれだけいるだろう? カノンだけに違いない。
 どれだけの人間が、そんな相手を持てる幸運に恵まれているだろう?
 腕を伸ばして、首に絡めた。
「ね……キスしてください」

 言い終わらないうちに望みは速やかに叶えられた。唇を熱くふさがれる。背中を撫でる手が、しっかりとひよのの体を確保する。確実に服の下の肉を捕まえる手。
 口腔に侵入したカノンの熱に導かれるまま熱を分け合って、顔を振り、ひよのの方から離した。言いたい事があったのだ。
「……カノンさん」
「なんでしょう?」
「手の動きが不穏なんですけど」
「うん」
 背中に回された手が、その、むにむにと柔らかい部分を。

 カノンは朗らかかつ爽やかに言った。
「気にしないで。僕は気にしない」
「……あなたは気にしなくても私は気にします。さっきしたばっかりじゃないですか」
「うん。だから僕は、さわるだけ。君からねだられない限りはこれ以上はしない」
 肌の表面を撫でる動きとは違う、その下の肉の感触を堪能している手の動き。
「……」
 はあ。
 ひよのは息を吐き出して、腕をカノンの首に回したまま、体を預ける。

「……あーまったくもう。どうして私はあなたが大好きなんでしょうね!」
 あやつりの糸。
 カノンの糸を、ひよのは預けられている。ひよのの願いなら、カノンはどんな事でも聞くだろう。たとえ不服でも、自分の感情をねじ伏せて、ひよのの望みを叶えてくれる。ブレードチルドレン全員を殺せといっても、死ねといっても、きっと、カノンから返るのは穏やかな肯定だ。
 関係者のほとんどに共通している考え。カノンを支配しているのは結崎ひよの。

 でも、それはちょっとちがうと、他ならぬ本人、結崎ひよのは思う。
 支配し、隷属させる。隷属させても、人はそう簡単には支配されてくれない。だから隷属の代償を常に与え続けなければならない。それは恐怖であったり、安堵であったり、利益であったりする。
 そして、そうして与え続けるうちに、支配者は被支配者に縛られる。被支配者を縛り付ける為に、自分を犠牲にするようになっていく。
 現に、ひよのがいま、カノンに縛られているように。

 ひよのがカノンを縛っているのは、愛情だ。
 カノンはひよのへの愛情によって縛られている。……でもそれだけではひよのは安心できないから、俗世の利益でカノンを縛ろうとする。
 ブレードチルドレンのおさえも、血の呪いの解除も、結崎ひよのという前提条件あってこそ。ひよのがいなければ一秒進まない。
 私がいなくなると困るでしょうと、そうちらつかせて、側から逃すまいとしている。

 ひよのはくすっとわらう。
 ひよのは自分の客観視ができない人間ではない。どういう行動を自分が取っているのか、よくわかっていた。
 カノンが自分を大好きでいてくれることはわかっていたが、愛情なんてそんな移ろいやすいもので安心できるほど、ひよのの愛情は浅くないのだ。
 そうまでしてもまだ安心できないひよのもまた、カノンに縛られている。
 一本の鎖の先と先。そこに、果たして上下関係なんてあるだろうか?
 カノンが好きだ。側にいて欲しい。カノンじゃなきゃいやだ。
 ……だから、ひよのは譲歩する。

「好きですよ、カノンさん」
 メリット、デメリット。
 ブレードチルドレン全員を殺害するほうが、明らかに生かそうとするより容易い。何かを壊す方が、何かを作り上げるよりはるかに簡単なのと同じだ。
 むろん、大量殺人のデメリットも大きいが―――「保護」しつづけることのデメリットに比べれば、比べるのも馬鹿らしいほど、小さい。
 ひよのは実業家なので、その道を選ぶ事を何度も考えた。

 そのたび、カノンという存在がひよのに譲歩させる。……たぶん、カノンはひよのが「つかれたもう嫌だ」といえば黙って頷いて皆殺しに賛成してくれるだろう。でも、その心のうちには闇ができる。今完全にひよののものである心に、隙ができる。ひよのへの失望という形の影が、できるのだ。
 どんな面倒も、どんな厄介も、「カノンに嫌われるかもしれない」と思えば、我慢できた。

 面倒でしょうがない事でも、カノンの為ならする気になれる。
 そういう自分は―――まあ―――冷静に、どれだけ客観的に見ても、やっぱりカノンが心底好きなんだろうなあと、思う。
 体をぺったりとカノンの胸につけて、背中を抱きしめられているのが、カノンに全身を包まれて保護されているようで、とても気持ちいい。
 何があっても、カノンは自分を守ってくれるだろう。無条件の信頼がそこにある。

「ひよのさん」
「なんですか?」
「いくら必要なの?」
「ざっと一兆」
 沈黙。
「……こんな会話、以前もした気がするな……」
「実際しましたよ」
 スーパーコンピュータに匹敵する記憶力のひよのはしれっと答えた。

「……君のあの研究を金銭に換えれば簡単にそれぐらいは出ると思うけど、それはいやなんだろう?」
 「前回」の成果だ。
 その利益を次にまわすというのは経営の原則からもあっている。
「ええ。―――となると、資金が足りないんです。とりあえず、その十分の一。それだけあれば、試作品ができるところまでいきつけます。プレゼンテーションして、政府を動かして国家プロジェクトとして立ち上げさせて、資金を供出させます。が、その十分の一がね……。私の全財産を根こそぎさらって、土地建物すべて抵当に入れてなんとか、という線なんです」
「前回と同じく、誰かをだまくらかして金を強奪するっていうのは?」
「強奪っていうのは聞こえが悪いですね。理性的説得により投資を受諾させたと言ってください」
「……弱みを握って脅迫っていうのは投資というんだろうか……?」

「意外と経営順調で余裕ができたので色つけて返還したじゃないですか。あ、カノンさん個人の財産はそのままです。万が一私が破産したらさっさと別れてくださいね?」
「銃を突きつけられてもそれだけは断るよ。―――第一、僕程度の財産が何になるんだという気もするし」
 二十歳そこそこの人間の財産としてはカノンの貯金は破格だが、八百万程度の貯金が何の役に立つんだという世界である。

 ひよのは顔を起こして、カノンをじいっと見つめる。そしてにこりとわらった。
「……いいんですよ」
「え?」
「いいんです。私はそんなのやらなくったって、全然なに不自由なく暮らしていけるんですから」
「……でも、君はやりたいんだろう?」
「でも、私がやれば、ブレードチルドレンの皆さんはとっても困りますよ?」
 元から理解していたのだろう。頭のいい人間は言葉が要らなくてラクでいい。
 カノンは口をつぐむ。

 ひよのは小鳥のように微笑んだ。
「全財産なくなるってことは、ブレードチルドレンの支配と監視もできなくなるってことですからね。……ま、研究者ですから、研究したいという欲求は当然ありますが、それは同時に忍耐力もあるっていうことです。現代科学では実験に次ぐ実験により初めてその理論の正しさの証明がされる。忍耐に欠ける研究者は大成できませんからね。あと十年程度研究に休みを入れるぐらいどうってことはありません」

 自分しかない身軽な頃なら勝手な事もできたが、今はそうじゃない。
 ひよのはブレードチルドレンを庇護しなければならないのだ。その血の呪いから、ハンターたちから、組織から。
 側面を見れば重石でしかないが、ひよの自身はその重石をむしろ楽しんでいた。
 顔をはさみ、正面から囁く。
「たくさん、負い目にもってくださいね? そして、憶えていてください。私は他の誰のためでもこんな事しません。カノンさん、あなたのためと思うから、こういうことをする気になれるんです」

 一本の鎖の先と先。そこに、上下関係なんてない。




ひよのちゃんはなんだかんだ言ってもカノン君が大好きなんだよーというお話。
しかしアタマいい人間ていうのは素直に気持ちを気持ちとして把握できないんでしょうか。「私は彼の為にこれだけのことをしてしまう、だから私は彼が好きなんだろう」って……ぶきっちょだなあ、ひよのって。恋愛に関してはまだしもカノンの方が慣れてるぞ。

 なお、これは君にできるあらゆることの未来にあたります。

2005/07/09 up



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