+今宵天使が舞い降りた+

ネタバレです。
ガンガン11月号読んでない方、ご注意!















 結崎ひよの(偽名)はくさっていた。
 かなりかなりくさっていた。

 そりゃあ涙を流して喜んでくれるとか、抱きついてくれるとか感動のあまり言葉も出ない様子だとか、そんなことを期待していたわけではもちろんあるけれども、いくらなんでもこの言い草はないんじゃないだろうか!

 忙しい中タクシー乗り継いでやってきて、二年ぶりの感動の再会―――と思ったら「忙しいから後にしろ」。
 ……ジャマだからとっとと帰れと同意義である。
 しかも自分で渡したピアスさえ、何事もなかったかのようにさっさと忘れてしまっている。

 さあこの腹立ちをどう鎮めようかと歩を見て―――
 ことばを失った。

 一本の手で、一生懸命ピアノを弾いてるあなたの片手はもう動かないの。
 目も時々見えなくなるってさっき聞いたわ。
 もう、ベッドから起き上がることもできないの。
 運命の片割れは死んでしまった。
 あなたのタイムリミットは、あとどれぐらい?

 ピアノを弾き終わると、歩はひよのを振り返った。
 記憶とかわらない、健康だった頃のあの顔で。
 まるで、二年という時間をなかったものにしようとしてるかのように。

「あんた、どれぐらいいるんだ?」
 ひよのは笑った。上手く笑えたかどうかは判らない。
「今日の夕方までです」
 歩が顔を上げた。
「また仕事か?」
「ええ。内容は企業秘密ですけど」

 白いベッド。白い壁紙。白い病院服。
 何もかも白くて、その白さが、目に痛い。
 それは、病院の白だから。
 歩は、おそらくもう二度と病院から出られない。
 こうして会えるのも、きっと、これで最後。

 なんでもないように話しかけた。
「……鳴海さん。私、明日からまた長期の依頼がはいってるんですよ。今度もまた海外」
「そうか」
 かわらない、素っ気無い答え。
 それが、彼の優しさ。
 なんでもないように、病などないかのように言葉を交わさせてくれるのが、あなたの、なんて不器用な優しさ。
「ええ。だから、あなたに会えるのは、これが最後だと思うんです」
 「これが最後」。
 二年前もそういったけれど、あの時はまだ心のどこかで信じていたし、それは実際こうして実現した。
 でも、今度はきっと外れない。
 今日のこの出会い。これが、たぶん、このひとに会う最後だ。

 白いものに囲まれたこの人は、白く染まって朽ちていく。最期まで毅然と頭を上げて、ピアノを傍らに、手の動く限り弾きながら。
 ―――最期まで彼は、自分は不幸じゃないと言いつづけて、そして死ぬのだ。

 歩は反応した。体を震わせ、でも、なにもいわなかった。
 ひよのはそのすべてを見ていた。
 その上で、ゆっくりと、言う。
「―――だから……鳴海さん。ひとつだけ、教えてください?」
「なんだ?」
「二年前、あなたは、私のこと好きでしたか?」

 ぐしゃぐしゃと音符を書き殴っていた歩の手の動きが止まった。
 ゆっくりと時が流れる。
 歩の、譜面を見つめる瞳。伏せられた睫毛は、ちりとも揺れない。
 瞬きを忘れて、歩は静かに息をしていた。
 ひよのはそれをただ見つめている。
 開いた窓から風が忍び込み、二人の髪を揺らした。
 やがて歩はつぶやいた。

「……これが最後か」
 人を追い詰めない沈黙のなかに、その一言が波紋を描いて広がっていく。

 ひよのはしっかりと、そんな歩を見つめていた。
 ―――そう、これが、正真正銘最後だ。
 ひよのは今日の午後には海外に発つ。もう二度と会う事はない。
 これきり、もう二度と、話すことも手紙を送ることも顔を見ることもない。
 今日を限りに広い地球の端と端に別れ、生きている間二度と会わない女の求めに、歩はふっと笑う。
 そして顔をあげ、ひよのを見た。
「期待に沿えずわるいな」
 ひよのはかすかに息を吸い込む。―――ひよのに裏切られても、歩が平静でいられたのは、やはり―――

「俺は、自分自身よりあんたが好きだったよ」

 驚いて、ひよのは歩を見つめた。
 そんなひよのにふと微笑み、歩は言う。
「言わなかったか? 兄貴に勝てたのは、あんたを悲しませないためだと」
 残り僅かな命を、歩は兄を殺してその屍の上で生きるのではなく、希望の為についやそうと決めた。
 そう決心できたのはひよのの存在ゆえだ。
「―――これじゃ足りないか?」
 ひよのはにっこり笑う。
「いいえ。充分です」
 指を揃えた掌を胸にあて、ひよのは微笑む。
 いつもの、あの、女神の笑顔だった。
「ありがとうございます。鳴海さん」

 ひよのは一歩近づいて、膝を折った。
 ぎしりと膝を突いたベッドがきしむ。
 前かがみになり、至近距離から歩を見つめた。
「……あんた?」
「女の子に言わせないでくださいよ」
 目を閉じた。仕草の意味がわからないでもないだろう。
 数秒の間のあと、肩に体温を感じた。
 くちびるが、ふれた。

 目を開けて、睫毛が触れる距離にいる歩に、少し見とれた。
 奇跡みたいに、きれいな人だと思う。単純な容姿じゃなくて、こころとか、ことばとか、全部が。
 体がどんどん動かなくなっていっても、死に掛けていても、恨み言一つもらさずに、誰にもひよのにも心の痛みを訴えずに、全てを自分の中に包みこんで黙って沈黙を守り死んでいこうとしている、強さ。
 肩に感じる歩の体温が、儚くて息苦しかった。
 吐息を感じる距離の唇に、今度はひよのから触れた。

 どちらも、ふれるだけのキスだった。
「私も、あなたのことが好きでした」
 ひよのは立ち上がる。
 後ろを見ない、毅然とした口調。
「さようなら、鳴海さん」
「……ああ。元気でな」
 さようなら。

    ◇

 スカートを払い、病室の扉の前でひよのは扉を開けるために立ち止まり、―――それを見た。

 他人事のような口調で一人ごちる。
「ところで鳴海さん、私、夕方には日本を発つんですけど」
「聞いた」
「それは仕事なんですけど、私の都合でキャンセルきくんですよねー」
「…………」
「キャンセルしてくれっていってくれたら、鳴海さんの側にずっといようかなーなんておもってるんですけどね」
「…………」
「あなたの側にずっとついて、あなたと一緒にキスとかえっちとかいちゃいちゃとかして、毎日あなたに大好きですっていいます。あなたの苦しみも涙も、抱きしめてあげます」
「…………」
「キャンセル、してほしいですか?」
 振り返り、ひよのは意地悪く、にんまりわらった。

 歩は肩を落とす。
「……あんた、その言い方性格悪すぎ……」
「ふふふふふ」
 ひよのは不気味な笑顔で歩の返答を待っている。

「……兄貴の依頼か?」
「いいえ。私の意志です」
 きっぱりひよのは否定した。
 そしてそれに、嘘はない。

 歩は沈黙の中に沈んだ。
 随分と長い沈黙だった。
 ひよのはそれを、妨げずにただ待つ。
 彼が何を葛藤しているのか、わかったから。
「……俺の側にいてくれるって?」
「ええ、あなたが望むのなら」
「大切な仕事なんじゃないのか?」
「あなたより大事な仕事なんてありませんよ」
 たぶん、歩の返答は判っていた気がする。
「―――言わないよ。俺は。キャンセルしてくれとは、言わない」
 だから、そういわれても、ひよのは驚かなかった。

「あんたは……いくつか知らないけど、若くて、有能で、美人だ。あんたが、俺なんかにかかずらわって、いいはずがないんだ」
 歩は、さきほどまで音符を書き連ねていた五線紙に目を落とす。片手がもう、動かなくなるからそのために編曲していた曲を見る。
 口では強がりを言っていても、体は確実に衰えていく。眩暈がひっきりなしにするようになり、左手は動かなくなった。無理をすればまだ立てるが、頻発する眩暈のため、歩かないようになった。目もときどき見えなくなる。
 今はまだ幸せだ。こうしてひよのと話せるし、右手も動く。頭もはっきりしている。ピアノを弾ける。「鳴海歩」でいられる。
 しかし、遠からず、歩は視力を失うだろう。両足、両手はその機能を失うだろう。言語を喋れない状態になるだろう。
 意思表示の方法ひとつなく、それでも機械に繋がれ、生存だけは守られる。そういう状態が、遠からず訪れる。自我、意識の混濁……「鳴海歩」が消える瞬間は、間近だ。
「簡単には死んでやらないとはいったけど、俺は、間違いなく、遠からず死ぬんだ。あんたほど有能な、未来のある人間が、俺なんかに付き合って人生の寄り道して、時間を浪費する事はない」

 予想通りの答え。
 ひよのは微笑んだ。
「あなたは、きっと、そう言うだろうなと思ってました」
「え?」
「鳴海さんはとても優しい人ですから、自分の運命に誰かを巻き添えになんてしたくないだろうから、そう言うだろうなと。たとえ私に、側にいて欲しいと思っていても」

 出て行こうとした瞬間、入り口の扉の窓ガラスが鏡になったのは、神のお導きか悪魔のいたずらか。
 ひよのの足を縫いとめ一瞬で決意させる切なさで、鳴海歩は結崎ひよのの後ろ姿を見送っていた。

「私はあなたの言っているようなこと、ぜーんぶ承知で、その上であなたの側にいたいです」
 にっこり、とわらって。
「鳴海さん、人の前では泣けない人でしょう?」
 一緒にいた二年前の時間で学んでる。
 歩は、認めたくない図星を突かれると弱い。
 今も沈黙で返答した。
「……」
「でも、私の前では泣いてください。あなたは、ブレードチルドレンを救わなきゃいけません。不幸の中で、平気な顔で、前を見てなきゃいけません。だから、どれほど不幸でも、つらくても、つらいとは口に出せません。自分が不幸であるとは……認められません。認めるわけにはいかない立場です。でも、じゃあ、あなたの痛みや苦しみは、どこにいけばいいんですか?」
 歩は、ひよのを瞳で射殺そうとするように、強い眼差しで見つめている。
 いつも冷静な彼にそんな目で見られるのは、初めてで……ぞくぞくした。
「あなたは、神さまでなきゃいけません。超然として、痛みも苦しみも知らないような顔で、前を見てなきゃいけません。でもあなたは、人間なんです。人間は、痛いときに痛いといえない人は、壊れちゃいます」
 普段穏やかな人間ほど、切れると怖い。
 歩の本気の険悪顔は半端な迫力ではなかったが、ひよのは一歩も退かなかった。

 おびえも、恐怖も、ひるみの色すら見せずに最後まで言い切った。
「あなたは、自分の不幸も痛みも、そう長くはつづかないからと諦めてしまう。自分の犠牲ですべてが上手く行くのならと。でも、それは、私が嫌です。私は、あなたがすべてを丸ごと自分の中に抱えて死んでいくのが我慢なりません。私は、あなたの涙も苦しみも、抱きしめたいんです」

 歩は睨む眼差しをそのままに、唇を開いた。
 しかし言葉が出ない様子で、下を向き、吐き捨てる。
「……はた迷惑な押し売りだな」
 ひよのは涼しい顔で答える。
「ええ。とっても最強無敵の押し売りです。一人きりのときにしか泣けないのは、不幸ですよ。あなたの苦しみも涙も、私は一緒にみて、受け止めたいんです。そうはいってもいきなり私の前で泣けないでしょうから……私の押しの強さはご存知ですよね? あなたが私の前でも感情を出せるように、ガンガンやってあげますから。それと、これは私の信条ですけど」

 口元に浮かべていた笑みが消える。
 真顔で、ひよのは歩に告げた。
「人生に、寄り道なんてありません」

 ひよのは最後の一歩を近づくと、歩の頬を撫でた。
「どれほど願っても戻らない今この時間に、私は仕事をするよりあなたの側にいたいと心から思いました。それがすべてです」

 喜びも悲しみも、彼女自身が選びとった結果なら、悲しみも怒りも痛みすらも彼女の人生を多彩な色で彩るだろう。





おしまい。



2005 10/12 up

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