![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
たとえ時間を巻き戻しても同じ道を選ぶだろう ―――こんなのは嘘だ。 夢だ。 こんなものが、現実にあるはずがない。 ひよのの亜麻色の髪が、真紅に沈み、茶褐色の色合いになっている。 血の気の失せた顔は青白く、生命の気配が感じられない。彼女から流されたおびただしい量の血だまりの中、カノンは血で汚れるのも構わず、不自由な体で這ってひよのの元へとたどり着いた。 抱き起こした体にすでに命の気配はなく、かくりと首が折れる。 「……なんでだ」 ひよのの脈も、鼓動もないことを確認して、カノンは彼女を抱きしめる。 「なんで僕は生きてるんだ……?」 約束してくれたじゃないか。 あんなに何度も、約束してくれたじゃないか。 自分を殺してくれると。 「君が死ぬとき、僕も死ぬ……って、言ったじゃないか。なのに、どうして僕は……生きている?」 盛り上がった涙に視界が歪む。 ひよのが死んだとき、共に死ねるのなら、悪くないと思っていた。いや、それこそがカノンが望む死に方だった。 ひよのが死に、カノンも死ぬ。願える限り最良の死に方。それに感謝をおぼえたことはあっても、憎んだ事は一度たりともない。 ひよのが死んだ今も、カノンは生きている。なら、答えは1つ。 爆弾はフェイクだ。すべて、ひよののはったりだったのだ。 カノンを殺してくれる約束も嘘。ひよのが死んだら死ぬ爆弾も嘘。 どうしようもなく声が震えた。 「……僕に、ひとりで生きろっていうのか……?」 君のいない生に、一体、何の意味がある―――? ◇ ―――およそ、想像力がおよぶかぎり最悪の夢だった。 カノンは打ち鳴らされるような鼓動のなか目を覚まし、隣のひよのを確認する。……生きている。安らかな寝息をたてて、彼女はカノンの腕の中にいた。 ぎゅっと……心臓の上をにぎりしめて、カノンはその苦痛を耐え忍ぶ。 無骨な手に直に心臓をつかみ上げられたような痛みが残っている。 愛している。愛している。彼女がいなくなれば、どんなものもカノンの孤独を癒せはしないだろうと思う。彼女がいてくれるからこそ、絶望を突きつけられても今生きていけるのだと思う。 彼女をもし……失うことがあれば、カノンはきっと生きていまい。爆弾で命を奪われずとも、自ら命を断つだろう。 彼女が死に、カノンは一人取り残される。 物言わぬ亡骸となった彼女を抱きしめたときの苦痛が、現実に還った今も、まざまざと残っている。 ―――殺して欲しい。 彼女がいなくなった後、カノンはどうやって生きればいい? 付けたしと化した人生を、生きながらにして死んだ心で生きつづけるのはつらすぎた。 柔らかな髪にふれて、滑らかなうなじに唇を寄せる。押し当てた唇の下、流れる温かな血の気配が無性にいとおしい。温かく息づく体を抱き寄せて、その生を確かめても、それでかなりの不安が癒されても、カノンの中の不安はなくならない。 そんなカノンの不調は、当然のこと、あっという間にひよのに察知された。 「……浮かない顔ですけど、何があったんです?」 朝食の席で、黙々と食事をするカノンの様子にひよのがそう声をかけた。 カノンは迷ったが、鋭いひよのに否定するだけ無駄というものである。隠さなければならないことでもなし、逆に隠せば隠すほど、ひよのが気にするだろう。 「……ちょっとね。夢見が悪かったんだ」 言葉にすれば、それだけの取るに足らないことだ。 カノンはひよのが『ああなんだ』と笑ってくれる事を期待していたのだが、予測は大きく外れて、ひよのは真顔だった。冗談の気配を少しも含まず、そのはっきりした眉をひそめて、言ってくれた。 「……それは、つらかったですね」 予想外の反応に、カノンは目を丸くする。 「どんな夢を見たんです?」 「……君が死んで、僕は死ねない夢」 「うーん。それはそれは。しんどかったでしょう」 ひよのが立ち上がり、カノンの席にまわって、頭を撫でてくれた。同い年の男にやる仕草ではないが、別段不愉快でもなくそれどころか快いのがカノンの負けっぱなしの関係を象徴している。 カノンの頭の上で、ひよのは優しく囁く。 「私は生きてますから。あなたを残して死んだりしませんから。私が死ぬときは、きっちりあなたを道連れにしてあげますから、安心してくださいね?」 その言葉に、しつこい汚れのように染み付いて離れなかった不安が嘘のように消えていくのを感じながら、カノンは息を吐く。 「……依存しきってるな。我ながら」 依存している事を自覚して、傾いている心を真っ直ぐに戻そうと焦った時期もあった。けれどもそれも遠くに過ぎ去って、今の自分は誰がどう見てもひよのに依存している。 ひよのはクス……と笑うと、カノンの頭を両手でくるんで、耳元に唇をよせた。 「誰かがいないと生きていけない、とかそういうセリフを本気で大真面目に言う人はお馬鹿さんです。―――でも私は、そういうお馬鹿さんが、結構好きだったりするんですよ」 滅多に言わない事を言ってあげますから、ちゃんと聞いててくださいね。 そう言い置いて、ひよのは続けた。 「私は、あなたが、この世で一番好きですよ」 心臓の鼓動が跳ね上がる。照れと歓喜の混じった踊りだしたい衝動に、どうしていいのかわからない。 ひよのは真っ赤になったカノンに微笑んで、その胸に抱きしめた。 「……夢って、とるにたらない些細な事ですけど、起きた後まで引きずるからイヤですよね。私も、結構嫌な夢とか見るんですよ」 「え―――」 上げた瞳をしっかりあわせて、ひよのは言った。 「あなたが、私を、初めて抱いたときの夢」 カノンはぎくりとした。……してしまった。ひよのの眼前で、ひよのがその顔を見てるというのに、一瞬表情を強張らせた。 冷静に、カノンを観察していたひよのは醒めた声音でいう。 「……やっぱり、何かあったんですね?」 「……言いたくない」 「私はあなたに何を言って、なにをしたんです?」 「君に何を言われても、僕は言わない」 「あれだけ義理堅く約束を必死に守っていたあなたが踏み越えるような事が、あったんですね?」 「―――悪いけど、言いたくない」 「あなたの口の堅さは判っています。口が軽い人ならそもそも私はあなたを側に置いたりしませんでした。でも―――あなたが言ってくれないと、私はいつまでも不安を抱え続けることになります」 ひよのはカノンから体を離し、カノンの肩に手を置いて諭すように言う。 「どんなことをしたのか。何を言ったのか。わからないからこそ不安に怯える。不安が最大まで大きくなってしまう。たとえ、とるにたらない笑って見過ごせるようなことであっても、知らなければ過剰に怯えずにはいられない。だから……お願いです、話してください。知らない限り、私はずっと怯え続けてしまうんです」 カノンはチッと鋭く舌打ちした。 さすがにひよのはチェックのかけ方を良く知っている。 こうまで過剰にカノンが話すのを拒むのは、カノン自身に咎があるからか、ひよのが傷つくからかのどちらかしかない。 カノンにとって、自分なんてものよりはるかにひよのの方が大切だ。 話してカノンが不利になる事であっても、隠していることでひよのが傷つくならば、カノンは話さずにはいられない。 ひよのが傷つく事であっても、隠していることで一層ひよのが傷つくならば、カノンはやはり話さずにはいられないだろう。 つまるところ、彼女の言葉は逃げ道を断った上での王手でしかなかった。 「……話してもいいけど、聞きたい事がある」 「なんでしょう?」 脳裏に浮かぶ、象牙のような肌。まろやかな肩のカーブ。胸と腹部の、どこまでも柔らかい感触。 夜ごと愛したその体を思い浮かべる。 「君は、僕以外にその肌を触らせた事がある?」 ひよのは。桜色の唇を動かさずに、カノンを見下ろしていた。 常人ならその無言の迫力に尻尾を巻いて逃げ出すだろうが、さすがに付き合いの長いカノンはそうはしない。 逃げずに瞳を見返していると、唇が動いて、言葉を吐き出す。 「……その返答は、あなたが話してくれてからにしましょう」 目で促され。 カノンは唇を開いた。 § § § 僕は腕の中の彼女を抱えなおして、そっと息を吐き出した。 ハードスケジュールのなか、ホテルの自室に戻るまで自分を自律しきったひよのさんに敬意をはらう。彼女の最後の避難場所として自分が選ばれている事にも嬉しく思う。 だけど―――同時に、苦々しいものを感じずにはいられない。 糸が切れるように意識を失ったその体を抱きとめて、僕はしばらくの間数種の感情が混在した想いを味わった。 与えられた信頼への歓び。頼られているという自覚と安堵。彼女の体調への懸念。最後に、信頼はするけれども体は与えてくれない彼女への苛立ち。 そしてその苛立ちを理性で打ち消して、僕は彼女の体を支え、背中に腕を回す。隠れた金具をいくつも外し、くるりと皮を剥くように衣装を下に落として、下着姿の彼女の足をさらって抱き上げた。 ベッドに彼女を下ろして、僕は踵を返した。脱ぎ捨てたドレスを拾い上げ、形を整えてからハンガーにかける。ひよのさんに出会って初めて知った。衣装というのは、消耗品だ。布はほつれる。崩れる。縫い目が弱くなる。色が褪せる。 着れば着るほど、衣装はくたびれる。特に高級品ほど劣化が激しいのは何故だろう? 普通逆じゃないかと思うのだが。どうしようもなく不可避の運命だけれども、ひよのさんのドレスはああそうですかと笑って次のものを買える様な金額じゃない。いや、ひよのさん自身は笑って次のドレスを買えるほどの資産家だけど、以前面白半分でそのドレスの値段を聞いて以来、僕はひよのさんのドレスを粗略に扱えなくなってしまった。 僕がドレスを片付けて、後ろを振り向くと、ひよのさんがベッドに横たわって寝息を立てていた。 下着―――というより、コルセットという方が近いだろうものを身に着けたまま。 「……」 どうして彼女はこうまで無防備なんだろう? ひょっとして僕を試しているんだろうか? 試しているのなら、どうか最後の一線を僕が越えてしまわないよう、スタンガンでも用意しておいて欲しいものだ。今の彼女は薄手の下着を一枚着ているだけ。何も持ってないことは一目でわかる。 「……ひよのさん」 ベッドサイドから覗き込んで、僕は声をかける。 彼女の着ているボディスーツは体を締め付ける。昔で言うところのコルセットだ。脱がないと、苦しいだろう。現に、浅い呼吸しかしていない。 けれども、いくらなんでもその下着を僕に脱がさせるような事はやめてほしい。 「ひよのさん、起きて。その下着つけたままだと苦しいよ……?」 軽く肩を揺らした。キスもした。でも、全然起きてくれない彼女を前に、僕は弱りきった。 天井をにらみ、理性との親密な関係を神に宣誓する数秒を経て、僕はひよのさんに目を戻す。 どきっとした。 疲労の頂点まで達して、無邪気に無心に眠りを貪るひよのさん。 白い桃のようなほお、長い睫毛。むき出しの手足はすんなりと長く、力なく投げ出されていて、亜麻色の髪がベッドに広がっている。 もう少女というのはふさわしくない。立派な女性だ。ぴんと張りでた胸の豊かなことは(服越しにだけど)何度か確かめたことがある。肌の滑らかさと柔らかさと、触れたぶんだけ跳ね返す弾力も、良く知っている。 早くも心が揺らいでいるのを感じながら、僕は毛布を手に取った。 せめて彼女にかけてから脱がそうと思ったのだが……毛布の下に手を突っ込んで見えない金具を探すのは難だ。金具部を探してひよのさんの体をまさぐるなんて、それこそ理性が吹っ飛ぶ。脱がした後にかければいいと思いなおした。 極力、布地だけを見るように、その首をちょっと右や左にずらせば見えるむき出しの首だの腕だのを見ないようにしながら、体を締め付けていた帯を外す。目に見えて楽そうに、呼吸が変わった。 さて、と。 ……ボディスーツはスクール水着と良く似た構造だ。つまり胸元から引き下ろして脱がせるしかない。 一瞬どころか数十秒、「このままにして隣の部屋に逃げようかな」と真剣に考えたが、ボディスーツは伸縮性のない布地で、布地全体で体を締め付ける。……寝覚めは悪いだろう。きっと。 一緒に暮らしているのだ。ひよのさんの全裸を見たことがない、なんて嘘は言うまい。しかしそれは一瞬だけとか、オオカミが介入する余地のないほど緊迫した状況とかでだった。 ホテルでふたりっきりで襲う体力も気力も満タン状態で、なんていう出来すぎた状況は、僕自身が慎重に避けてきた。 しんと静まり返ったホテルの空間。 葛藤する僕。 そして熟睡しているひよのさん。 すーすーすーすーすー。 ……安らかな寝息を聞いていると、物凄く複雑な気分になるな……。 女性なんだから警戒ぐらいしてくれよ。僕が君に下心を持ってることは、君だって知っているだろうに。 信頼というより、僕は、男として意識されてないんだろうか? 自分の想像に自分でグサッと傷ついた。 ―――まあいいか。 こう見えても僕は自制心についてはスペシャリストだ。男なら誰でもいい、心底惚れてる女と恋人同士で、相手が自分を好いていてくれることも伝わってきて、同じ屋根の下で一緒に住んでいて、なのに最後の一線は越えられない状況を三年経験してみろ。見事耐え切ったあとには自制心には自信が付くぞ。 限界点も臨界点も自覚してる。どうやら僕は、自分で思ったよりずっと我慢強い人間らしい。 約束の三年はもうすぐ。ここで焦って約束を破って、ひよのさんに嫌われる危険を犯す必要はない。 そう。嫌われる。 公平に中立的に見ても我が儘なひよのさんの要求を僕がずっと律儀に守っているのは、彼女に嫌われるのが何より恐ろしいからだ。恋愛はより多く相手を愛した方の負けとはよくいった。そのとおりで、僕はひよのさんに嫌われるのが怖い。彼女に嫌われると思うと凶暴な衝動もすっとなりをひそめた。 ひよのさんの体の下に手を差し入れて体を浮かせ、ボディスーツを脱がせていく。もちろん、目線は微妙に外した。体の重みを直に感じ取っている左手も意識から切り離した。早くすませてしまおうと、くるりと反り返った布地を手に腿の付け根まで脱がせて、足を通した。 僕は、後になって思い返した。 もし、その一言が聞こえなかったら、僕はきっと彼女を楽にさせてそのまま紳士的な文句のつけようもない態度で部屋を辞し、隣の部屋で眠ったろう。 何事もない、僕ら二人にとって特別じゃない一日として、過ぎただろう。 何が彼女のスイッチになったのかは判らない―――訂正。予測は付いているものの、考えたくないのだ。 現実の彼女なら決して言わないセリフを、夢見心地の彼女は口にした。 そしてその一言が―――、自他共に認める強靭な僕の自制心を、紙屑にした。 いや、わっかいねー、カノン君。理性と煩悩の衝突ですな(笑)。 ちょっと書くにはいい一人称。 上手に書くには三人称の数倍難しい一人称。 ……さして何も考えずに練習にと一人称で過去のいきさつを書きはじめてしまってとんでもないミスに気がつきました。ひよのとのばりえっちはどうするんだ、私! カノン視点での一人称でヤるのか!? うげげげげ。 というわけで、この小説の続きは裏行き。内緒の小部屋に封印になります。 内緒の小部屋の所在地は君にできるあらゆることの末尾にあります。 2005/06/08 up |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |