「……シミナーの運命が、さほどに辛いか?」
キールは降ってきた声を、目を閉じ、味わう。美声だった。
変なクセも訛りもない、教科書どおりの正確な発音。発声される声にはぴんと一本筋が通って張りがあり、ざらついたところは何もない。
低くもなく、高くもない、微妙な音程。今の一時期だけの、声だ。
「…私の権限で、お前の運命を変えてやろうか?」
キールは目を見開いた。
しかし、そこには期待も、弾む光もない。
写る光は相対する相手と同じく、不動の冷静さ……。
「お前に、力を貸すかわりに?」
「取引には双方に益がなければならないのは、当然だろう?」
見返りのない愛情を要求できる間柄ではないと、無言の内に釘をさして。
キールはつい、笑ってしまった。
「いいから、死なせて。夢を見ることもできやしない「今」から、解放させて」
希望は、人を酔わす最上の夢だ。
けれどシミナーは、希望を持つことすらできない。
隣の、シンが立ち上がる気配。
「実に心揺れる提案だ。ただ――」
蹴りが一発、鳩尾に吸い込まれた。
ぐぅっ、と苦鳴が唇から漏れた。
息ができなくなる。
「そうなった場合、まず確実に僕はナギとイールに恨まれるし、ナギとイールは監督不行き届きで牢屋行きになるから、却下」
その声が意識のある最後の言葉だった。
キールが目をさますと、そこは見慣れた自分の寝室だった。
「……あの野郎……」
今度喧嘩したとき、骨の五六本もへし折ってやる。
「キール、目、さめた?」
入ってきた弟に、微笑んでみせ、シンの居場所を聞いた。
「シン? ナギとお茶してる。喧嘩するなら、外で、ついでにもう少し体回復しからにしてよ。ほんと、心配したんだから」
「ああ…うん……」
答える端から、目蓋が重くなって、頭が枕に接吻した。
イールの声が聞こえた。自分と同じ声、同じ発音で、言った。
「おやすみ」
§ § §
キールが一眠りして起きると、そこには美神の偏愛を一身に受けた少年の姿があった。
「おま……っ」
「目、さめたか?」
枕元に椅子をおき、それに腰掛けたシンが優しく聞き、キールが睨みつけた。
「見ればわかるだろう。それともお前には目もついてないのか? それとも目があってもなくても同じ程度の認識力しかないのか」
「それだけ減らず口をたたければ、大丈夫だ。……お前が忘れている様だから言っておくがな。お前が死ねば、ナギとイールは、悲しむぞ」
キールは呼吸を止めた。
イールもナギも、涙を落とすだろう。蚤ほどの想像力のある者ならば、誰でも分かることだ。
シンはつづける。
「お前がどれほど人でなしで鬼畜で非道か、彼らは知らないし――知っていても、やっぱり悲しむだろうな。それを、判っているのか? 悲しませて涙の海に沈ませて絶望に叩きこんでも、お前は、自分の苦痛から逃れたいと言うんだな?」
キールは寝台に横たわったまま、横目でシンを睨んだ。
「………ひきょうもの」
「そうとも、よく判ったな。これは、卑怯の極みの論理だ。ただし、僕は、お前が判っていて見まいとした事を、引きずり出しているだけだ。それに……お前が死んだら、ナギは死ぬぞ。たとえ事故でも殺人でも、シミナーの養育者としての立場を、まっとうしなかったんだから」
「……俺に、護衛をつけなかった奴らがよく言うよ」
「その点は僕も同感だ。だが、お前も判ってるんだろう? だからこそ、ナギは犠牲にされる。シミナーには、護衛がつくのが当然なのに、お前には一人もない。それはお前の出生と反感と人事の不手際が招いたことだが、……もう、十年以上、無事だ。何事もない」
「ないでいられるのは、俺だからだろうが……」
「誘拐された端から殺しているお前だからこそ、だな。でも、他の人間の目に、どう見える? ……いいか、事実はこの際どうでもいい。他の人間の目にはどう見えるか、それが重要なんだ。そしてお前は、誘拐されることも傷をおう事もなく、ぴんぴんしてる」
「……お役所は、必要なことはせず必要でないことはする、ので有名だからな」
「そういう事だ。ついでに、十年も無事、つまり必要なかったのに、今更誰が、お前に護衛をつけると思う? 何か事件がないかぎり、お前には護衛がつかないだろうよ。ほかのシミナーにはわんさかついていても。そんなところにお前が殺されたら、どうする? 貴重なシミナーが死亡した責任は、もちろん、護衛をつけなかった人間に行くな。それを防ぐため、非難の矛先をそらすために、ナギは殺される」
「……お前が、護るだろう?」
「ばーか。僕は今現在明日をも知れない命なんだ。ナギを助ける力なんて、あると思うか? 僕が殺される方がずっと早いな。今の情勢だと。ない権力は、ふるいようがない」
「………」
「シミナーの養育者に課される責任は、それほど重い……」
キールは右手を上げて、顔を覆った。
「じゃあ、どうしろって……!? どうしろって言うんだっ!!」
「現状維持」
シンは椅子に座ったまま、腕組みをし、素っ気なく伝えた。
キールにとって、それはいちばん聞きたくない、最も寛恕なき一言だった。
「何の希望もない」という点において。
「……現状、維持……ね。お前に、俺の味わっている苦痛の何割かでも与えてやりたい……! ぐしゃぐしゃになった精神を立てなおすのがどれほどつらいか判るか!? 倫理観や良心が欠如しねじ曲がった心と接触して、それを与えることがどれほど根気のいる仕事かわかるか!? 人格崩壊なんて最低だ! 相手の記憶を読み出して、一からまた組み立てていかなきゃいけない。実寸大の城の模型を一人で組み立てるようなものだ! お前は俺が羨ましいと何の考えもなく阿呆のように言うけれど、力には責任が伴う! 俺が、望んだわけでも欲したわけでもない力なのに……!」
キールは右の腕で体重を支えて体を起こし、ねじこむような眼差しで幼馴染みを見据えた。
誰でも魅入らせずにはおかない美貌の皇族は、その視線を、小揺るぎもせずに受けとめた。
顔が綺麗なだけの人形では、到底できない芸当だった。
腹がすわっている、という一点においては、キールもこの喧嘩仲間を認めざるをえない。
比類なき美貌のあるじは、少なくとも冷静さと度胸においては、この世の平均値を遥かに上回っていた。
平均以上の冷静さと度胸と、計算高さ。そしてその顔が有機的結合を果たすだけで、世にも醜悪で恐ろしい縮画が生まれる。
いや、もう生まれているのだ。
その容姿を利用することをためらわず、利用するべき時をはかる冷静さと、安売りはしない計算高さを、間違いなく目の前の人物は兼ね備えていた。
水面にゆれる光のように微笑を揺らめかせながらもたたえるその顔は、キールが見ても悪の化身か、神の使いのように人間離れして美しかった。
「じゃあ、なんでそれを緑の座に言わない?」
「……俺が、なぜ、調停者になったと思う?」
キールは唐突に、そう言った。
「―――お前に聞いたことはないな。とすれば、知っているはずもないだろう」
「精霊が、やらなきゃ殺すって言ったからだよ。家族全員」
「精霊ってそこまで過激なことするのか?!」
「お前、蟲をわざわざ探して叩きつぶす? 蟲を叩きつぶすとき、罪悪感感じる? そういう事だよ。精霊は、理由もなしにわざわざ人に危害を加えるほど、人に対して関心持っていない。そして同時に、何か理由があって人を叩きつぶすとき、……何の罪悪感も躊躇いも、ない」
キールは話を元にもどした。
「……だから、俺は面倒でしょうもない役目を引き受けた。でも……だからこそ、俺には、独断で精霊に不利な協定を結ぶことはできない。調停者には全権があるから、できることはできる。でも……家族の命が犠牲になるのはまっぴら御免だ。緑の座はシミナーに対する扱いを是正するかわりに、人側に有利な協定を求めるだろう。でも、それは、できない……。お前とおんなじ。取引材料が、ない」
「……なるほどね」
キールは目を閉じた。
しかし、額に手の感触がして、目をあける。
至近距離に、シンの白い顔があった。
「じゃあ、私となら?」
寝台に手をついて、覆いかぶさるように覗きこんでくる相手を、キールは瞬きすらせずに凝視した。
「私が緑の座になることができたなら、お前の望みをかなえよう。その代わりに、私に力をかしてほしい」
シンの瞳は、真っ正面からキールを射ていた。誤魔化しも、怯みもない。
強い目だ、とキールは思った。
何か目的のある瞳は、どんな表情の時より美しく、まぶしいほどの意志力に燦然と輝く。
自分には、決して持てない目であると、キールは知っていた。だからこそ惹かれるし美しいと、自分は、思うのだろう……。
シンの取引は、悪い提案ではない。
お互いに足りないものを補おうというのだ。シンには力を。キールには、将来を。
キールはしずかに聞いた。
「……約束の履行の保障は?」
「お前が望む、どんな形式にでも応えよう」
「じゃ、……いいや」
「は? ……嫌なのか?」
「いや……取引は受ける。一回こっきり、お前の道具になってやるよ。でも、約束の履行の保障はいらない」
「でも……」
「俺、お前を、約束を果たさざるをえない状況においてやる親切さ、まったくないの。約束をやぶることも守ることもできるっていう状況でお前がどういう選択するか、何を大事にして何を捨てるかの取捨選択をどうするのか、見てみたい」
シンは考え込んだようだった。
単純に、破ってもいい約束ならシンは平然とやぶる。昨日、刺客との約束を見事なまでに無視したように。
しかし、付き合いの続く相手との約束は、きちんと守る。
それは、どちらが得か、見極めをしているからだ。守った方と、破った方、どちらが得か。
また、「そういう相手」との約束は、「守れる約束」しかしないという事でもある。
「……わかった。それでお前は、シミナーへの待遇改善で、何を望む?」
キールは二三の条項をあげ、シンはその全てに頷いた。
「それで…? 今度はお前の番。いったい、俺に、何をしてほしい?」
シンの返答は簡潔だった。
「緑の座の殺害」
「却下」
「……おい。条件違反する気か」
キールはため息を吐いた。
そして、首を右に傾けて視界にシンを入れると、言った。
「ぜったい、誰にも一生言わないって約束できるか?」
「……あ、うん」
「調停者は、緑の座に攻撃できない。緑の座もまた、調停者に危害を加えることができない」
「……え?」
「交渉役が、お互いに危害を加えることができたらそもそも成り立たないだろうが。法でも任期中の裁判官は罷免できないだろう。もしも罷免できたら、任命権を持つ重臣を裁くことなどできない。誰もが保身を考え、法の中立性は失われる。それと同様の理屈で、そうなってる。この条理は侵犯したと同時に、向こう十年間の加害者の領土の侵害許可と変わる。かつ同時に、被害者の領土および権利は、事件前と同じ水準を保たれることとする。
……ようするに、俺が、緑の座をわずかでも傷つけた瞬間、人間は精霊に対して何でもかんでもしても良くなって、でも精霊は人間側にちょっかい出すことはできなくなるってこと」
シンはかなり長い間、沈黙していた。
たぶん、あの事件を考えているのだろう。緑の座が、調停者であるキールを、知らないとはいえ傷つけようとした事件。
「……以前、父は、お前を傷つけ…いや、殺そうとしたよな。もし……」
「あれが成功していたら、お前の父親は、天下のぼけ緑の座として悪名を千年後まで轟かせただろうな。だって、必要がある、ときの精霊の攻撃って、人間が人間に対するときよりもなお無慈悲だもの。瘴気も関係、ないし。人間側の領土は十分の一ぐらいにまで減って、人口は百分の一ぐらいにまで激減していただろうな」
「調停者だと、知らなくても?」
「知らなくても」
「……だれが決めたんだ? それは?」
キールは額に手の甲をおいて、目をとじ、開けた。
「さーね。神様じゃないの? 調停者や緑の座っていうのは……力と役職と役目が合体しているようなもんだから。その力の中に、いくつかの条項が組み込まれていて……それに従わざるをえない。俺はあの時すでに調停者だった。そして緑の座は緑の座だった。それらの事実は、たとえ本人が知らなくとも、バケ学のように反応しあって、結果を導きだす。
たとえそれが塩だと知らずとも、塩をケーキに入れれば塩辛い」
「……なるほどね。つまり、私が緑の座になってお前を一発殴ろうものなら」
「条項が発動する」
「もしもお前がかっとなって私を一発殴ったら」
「以下同文」
「はーっ……。よくわかった。じゃ、直接的な競争相手を始末する方を選ぼう」
キールは目を細める。……シンは実に切り替えが早い。
頭の回転が早く、事実に驚きはしても、それにこだわることはない。
そして、また、実の兄姉を殺す時ですら、こだわりもためらいもないらしい。
……イールといるときは、普通の子供なのにな。
キールはそう思ったが、お互いさまなので、何も言わなかった。
それに、シミナーである彼は、人の裏面はときに表面からは想像もつかないものであることも、よく知っていたのだ。
……よ、ようやくここまできた……。
つかれたー。
というわけで、クイズです。
過去の様々な作品の中で、一体いくつ伏線を引いたやら、私自身不明なのですが、そのうち一つの答えが次回出ます。
この伏線がどういうものなのか、当ててみてください。
ヒント。数学的に、絶対ありえない事です。
ヒント2 数学的、といっても、小学生の算数の問題です。
ヒント3 ……キールの誕生確率ではないですよ。あれは、無茶苦茶低い確率ならば、ありえますから。
ヒント4 レイオス人の寿命は、三百歳です。皇族の平均寿命は百未満ですけど。
要するに、これまで書いてきたことのなかに、「数学的に矛盾すること」があります。
それを、当ててみてください、とゆーことです。
伏線というものは、読んでいる方が伏線だと分からないと意味がないのですが、この伏線はたぶん、どなたも伏線だとは思っていないでしょう……。
そしてそれでいて、発表されたとき、ああ!と皆さん手を叩くでしょう……たぶん。
人の心理の盲点をつきました。
この伏線は、「確率」とか、その他のいろんなところで出ています。
追記・もう正解者が出ました。答えは次号。