白青緑5

 

 

 ぼんやりと霞んだ目に、幼馴染みの顔が写った。
 
 ああ、やっぱり綺麗だな。

 これまで会った人間のなかで、いちばん綺麗で美しい幼馴染みは、何故か服を着ていなくて、こめかみからほお、頬から顎、顎から折れそうに細い首へ、首から撫で肩に行く、流れるような線が見えた。
 透きとおるように白い肌で、全身、どこにも染みもくすみもなく、肌理が細かく、輝かんばかりに張り詰めている。

 一皮剥けば、自分たちと同じ、赤黒い肉と骨があるだけだとは思えないほど、美しい肌。それが顔はもちろん全身を覆っている。

 触れてみたい。

 自然とそう思い、ああ、そうかと納得した。
 自分はまだ子供だから、ただそれだけだけれども、大人になればその興味は性欲と混じりあって自分でもわからなくなるだろう。シンに対して、劣情を抱く大人の気持ち、年端もいかない子供に、自分でも理解不明なほどのめりこんでしまう大人の気持ちが、わかった気がした。

 かすかに膨らんだ胸と、細い腰。
 全体的に線が細く、柔らかく脆い印象があるのは、まだ両性であるためだ。十五を境にその印象は薄れ、無くなっていくだろう。
 シンは男になるつもりで、その意志はある理由からとても固い。
 だからこれほど体の線が柔らかいのは、今この時期だけだろう……。

「……、おい、キール。寝るな」
 言葉と同時に、蹴りが一発。
「……シン…。キール、じゃ、ない……」

 シンは鼻をならした。
「言うと思った。じゃ、証拠品を一から並べてやろう。まず第一に、異様に唐突に現れたな、お前は。ナギ家の狩場の森だから、そういうこともあるかで済ませていたが、おかしいといえばおかしい。第二に、お前は、ないはずの物を持っていた」

「ないはずの……もの?」
「そうだ。これが、あるはずのものがない、なら、もっと早くに気づいたのにな。……血の匂いだ」
「……」
 ここは洞窟らしい。炎の気配と、湿った水の匂い。炎の照り返しに、岩がちらちらと揺れる。
 いや、かすんでいるのは、自分の方だ。
 目に涙が足りなくて、視界が歪んでかすんでいる。
 目を開けている努力を放棄して、目を閉じた。

「キールが血の匂いをつけていた。その後すぐに同じ顔のお前と会った。だからか、すぐには気づかなかった。ただ、違和感を感じたんだ。狩りをしたんだから当然、なんて言うなよ。お前は狩りの道具もちゃんと手にしていた。が、獲物は持っていなかったんだから。獲物をどこかに置いてきた? 有り得ないね。森の中じゃ、どこでも小型の肉食獣の目と鼻が光っていることは、僕よりお前の方がよく知っているはずだ。家に置いてきた、なら、なおのことおかしい。草の民は森の獲物を狩り尽くさないよう気をつける。家に置いてこなければならないほど狩ったなら、なぜまだうろついていたんだ?」

 そこで、言葉が途切れて、衣擦れの音がした。
 目を開けると、シンが血の固まったごわごわの服を顔をしかめながら身につけているところだった。
「そして三つ目。死体を見たときのお前の態度。イールなら悲鳴の一つもあげる。ああも素早く納得しない。できないんだ。 四つ目。何故、お前は、あんな高さの崖から落ちて、無傷なんだ? 僕はお前を抱き締めた。そうすることで、首と胸と頭を固定して、だ。さらに、僕が下敷きになることで、衝撃をやわらげようとした。でも、それでも、どこかしら折れてなければおかしいんだ。なのに、お前は肩の傷以外は無傷だ。何故? お前が調停者だからだ。だから精霊がお前を守った。以上、反論は?」

「み……ず…」
 喉がひどく乾いて、気管の上と下がくっついているような気がした。言葉をしゃべる事すら、おっくうで。
 少しの時間をおいて、シンが手のひらに水を汲んできた。
「飲めるか?」

 答えの代わりに口を開けると、水が注ぎ込まれて、むせそうになった。
 なんとか水を飲み下すと、また、質問がきた。
「事情を説明すると、あの崖から落ちた。ここはあそこの真下あたりだ。いま、崖に穿った穴にいる。無効地域から抜け出す近道は?」

「…北東。森を……」
「了解。……お前が気絶しているあいだ、何度も考えたんだが、見捨ててやりたい。ここに放置して行きたい。僕がお前から受けた仕打ちの何分の一かでいい、お前に味あわせてやりたい」
 別に、したいならすればいい。

「……でも、それはしない。今のお前は本当に体が弱ってるみたいで、言い返すこともできやしない。いたぶりがいも、殺し甲斐もないからな。でも、忘れるなよ。僕はお前がいつどこで野垂れ死のうが、構わないんだ。ここまでお前が弱っていなければ、ここで、生きながら皮を剥いでやりたいぐらいだ。お前がしてきたことを思えば、それでも生温い。それを忘れるな」
 白くやける灼熱の鉄にも似た憎悪の激しさに構っていられる余裕も、今はない。
 目を再び閉じた。

 次に目蓋をふるわせたのは、シンが自分をかつぎあげようとしている感触からだった。

 ずきずきと脈打つごとに痛みと痺れを増幅させている左の肩を動かさないよう、右腕を大きく振った。
 振り回した腕はシンの頬と肩に当たって、シンは声をあげた。
「たっ。何する!」

「置い……て、け」
「ほー。―――それができるならとうにやっている! 暴れるな!」

「はやく……いけ……」
 外は見えないが、空気の冷たさからいって、今は夜だ。
「あと…少しで……死ぬ」

「―――僕がか?」
 もう、答える力も、ない。
 シンはそれを知らずに問い詰めてきた。

「僕に憑いてる瘴気はそれほど強いのか? あと一日も保たないほど?」
 詰問する口調だった。答えてやりたかったが、喉がひりついて、息をするだけでも重労働で、言葉を発することができない。
 …それもほどなく終わる。

 シンは舌打ちした。
「ちっ。言葉をしゃべることもできない相手に、尋問するだけ時間の無駄か。とにかく出るぞ。暴れるな!」
 置いていってほしい。
 そうすれば、これからの苦痛が永遠に終わる。
 しかしもう、腕を上げることも抵抗することもできない……。

 

 

 シンは再び昏倒したキールを見て、息を吐き出した。首の動脈に触れれば脈はある。ただし、まだ、と付け加えるべきだろう。

 瘴気浄化能力者は現在、四人いる。キールも含めて、だ。
 その内三人は皇宮で監禁生活を送っている。おそらく、死ぬまで、ずっと。彼らを放逐することは、法の基盤の崩壊を意味する。
 殺人者に対しては、瘴気を浄化するかわりに刑期を定めるようになっているからだ。ただし、その場で処刑場に直行、という場合もわりと多いが、瘴気に苦しみぬいて死ぬよりは、遥かにマシな死に方をさせてもらえる。

 ……キールの場合、確実にその例に当てはまる。ただし、素直に出頭することなど死んでもありえない。

 キールのたどる運命は、ナギやイールのたどる運命でもある。なのに出頭するような可愛げとは無縁である。

 そもそも外に瘴気浄化能力者を出したのが間違いだ、とシンは思っているが、それを言ったらきりがない事をわからないほど、彼は愚かではなかった。

 もう、出てしまっているのだ。
 あまつさえ、無償治療で人望と人脈を獲得し、「独自の自分の味方」、を多数製造し、かつ同時にその手で死者を大量生産し、自分の能力と強みを十全に活用している。
 いまさら、幽閉状態にしようと言っても手遅れだ。

 キールに二つ三つと重なった希少な要因。その一つでも無ければ、キールが生まれたときの大騒動がなければ、キールは今頃幽閉状態にあり、死ななくてもいい命が二桁の単位で減っただろうに…。
 ―――言っても、詮なき事だ。
 
一瞬の物思いを途切れさせ、シンはキールに手を延ばした。今度は振り払われることなく、手は、すんなり頬におさまった。
 この世に数人の希少な瘴気浄化能力者の意見である。自分の余命は短い、と見るべきだろう。
「お前、一体どうして、イールのふりをしたんだ?」

 返事はない。
 シンは真っ先に脱出方向を尋ねた自分の先見の明を誉めて、キールを背に担ぎ上げた。
 満面に白い輝きがちりばめられた、宝石箱。
 
 夜の世界は冷えた空気に夜空の彩り。ただ黙っていても心浮き立つ不思議な空気にあふれている。
「……暇なときでよかった……」
 これが少し前か、少し後ならたいへんだ。

 前なら、過保護のきらいがある兄の事だ、今頃真っ青になって探して――……。
 …でも、今は、探してくれようはずもないが。
 そしてそれを恨めしく思う権利すらない。先に手を振り払ったのは自分なのだから。

 背中は重く、ただでさえ歩きづらい森のなかの道程の苦労を、倍加させてくれる。
「……これがイールならせめても気分的に楽なのに」

 星空は指標。
 自分が皇族で、星で方角を知る術を、身につけておいてよかったとシンは思う。普通の育ちなら身につけてない。
 必要ないからだ。

「……まったく。僕は皇族だぞ。偉いんだぞ。なんでこんな奴を背中におぶって、運んでやらにゃあならんのだ?」
 理不尽な怒りの念を心に宿し、正確に北東の進路を維持して、足を交互に前に出した。

 

 

 無効地域から出た瞬間、肌でわかった。
 キールを雑草がところどころ生えた地面に下ろし、脈を確かめる。

 まだ息があることに、安堵と「ちぇっ、残念」という気持ちが等分に入った息を吐き出し、術を編んだ。
 遠くに声を届ける、術としては初歩の初歩である。
「汝の所有者、青の座が命じる……ひととき我が元にきたれ!」

 いち、に、さん。
 シンは呼び出しの耐久時刻は三秒と決めている。
 ぎりぎりで声が戻ってきた。
 ―――はい、ただちに。




 それから更に十を五つ数える時間をおいて、現れた相手に、ぴしり、とキールを指差した。
「癒せ。傷のなかの傷、血管のなかの不純物、全て漉しだし跡形も残さず完治させよ」

 お決まりの了解の言葉とともに、キールの傷は癒えたが、問題は失われた血液と体力である。
 生気を半分もやれば解決するが、こんな奴にやりたくない。
 影にやらせたら、今度は影がしばらく使いものにならなくなる。

 ……ま、いーか。

 シンはそれで打ち切った。
 そこまで面倒見てやる理由は、どこにもない。
「影。森のなかに死体がある。常のように、始末せよ。生存者がいれば捕獲し、虜囚としてから、報告せよ」
 便利な道具が消えると、シンは、すううっ、と息を吸い込んだ。

 
がしっ!

 蹴りつけた。
 キールはうめき声を上げ、目を見開いた。
「よーやく起きたか、このどあほう」
「……なんだよ……。置いていけって、……言った……」
「言ったとも。それで? 私がそれを聞き届けなければならない理由はあるのか?」
 文字通り上から降ってくるような、冷淡で横柄な声だった。
 皇族のシンにはお得意である。

 キールは体をひねって起きようとし、その動作を途中でやめて地面に体を仰向けに横たえたまま、無事な方の腕で、無事でない方の肩を撫でた。
「傷まで、癒しやがって……。くそ。なんで、放っておかなかった?」

「なんだお前、死にたかったのか? ずいぶんな心境の変化じゃないか」
「そうだよ変化したんだよ。わかったなら、どっか行け」
 シンは頷く。だいたい、わかってきた。

 皮肉な口調で、言った。
「で? 誰かのもめ事にまた首つっこんで、死にかけたいのか」
「……うるさい。皇族のお前には、俺について何か言う資格なんてない」

「そうとも、私は皇族だ。ただし、人に何か言うのには資格なんぞ必要ない。必要だという考えの方が錯覚だ。その上で言わせてもらうが、いいかげん、お前も屈折しているな」

「……そうさせた理由の半分は、お前にある……!」
 シンはキールの頭上からせせら笑った。心地よさげな、軽やかな声が唇から漏れる。それだけ聞いていれば、嘲笑とはまさか誰も思うまい。

「ばーか。勘違いするな。シミナーに対する法を決めたのは、私か? シミナーに対する扱いを定めたのは、私なのか? 違うだろう。まあ、私やお前が生まれる遥か以前の皇族では、あるようだがな。その頃の人間など、もはや乾燥したミイラでも残っていないほどの昔だ。そんな罪状で言い立てられても、罪悪感は蟻の掘った穴の先ほどもわかんわ」

「……どこか、行け……」
「人の話をとことん聞かん奴だなー。嫌だと言ってるだろうが。で? お前はいったいなぜ、いきなり世をはかなむようになった?」
 シンはどっかと地面に胡坐をかいて座り込んだ。

 キールは仰向けに横たえられた状態のまま、それを横目で見ていた。  一拍間をあけ、どういう心境からか、キールはいたって素直に話しはじめた。
「ただ別にどうでもいいって、思って。……馬鹿馬鹿しくなった」

「お前でも、悲嘆にくれたり絶望したりするんだな」
「お前、俺のこと人間だと思ってないだろ……」
 力ない声だった。
 
 傷は癒したが、あれだけ大量の失血はそのままだ。
 ちらりとシンはためらいを見せ、しかし、そのまま、言葉を継いだ。
「平たく言うと、そうだな。お前を人並みに、普通の人間のように、赤の他人の些細な態度一つで傷つくような、普通の人間とは思ってない。何かがあったんだ。違うか?」

「……ちがうね。勝手に人を、過大評価して、想像で物事を書くなよ。なんにも変わったことはない。ただ俺が、いつものように誘拐されて、いつものように相手を全員殺して、いつものようにその死体の始末をやって、いつものように……治療しただけ。そしてふと、思っただけ。
 いつまでこんなことが続いて、いつになったら、終わるんだろうって」

 ……ああ、それは。
 きつい。
 とてもきつい想像だ。
 その想像だけでも、投げやりになるには充分すぎる。

 終わり。
 ……皇族であるシンにはいつか来る。
 今は終わりがないように思える苦しみでも、時間軸を未来におけば、確実に、終わりはあるのだ。

 ―――でも、キールは?

「…化け物だ。なんでこんなものが生まれてきたんだ。おかしい、確率的にあわない、生まれるはずがない……」
「……? それが、どうした?」

「生まれる前から、ずっと、俺の子守歌だった言葉」
 それが、キールの祝うべき祝福歌であったことは、想像にかたくない。

 確率として、おかしい。腑におちない。
 小数点以下、永久につづく、九の群れは、一と同じ。
 それと同じく、永久につづく、小数点以下ゼロの群れは、零と同じとされる。数学上では。  0・00000000…1は、存在しない数字なのだ。
 なのに、キールは、ここにいる。

「なんで、俺は、生まれたんだろう。シン、お前は、それを、考えてみたこと、あるか?」
「……さあな。皇統をつぐためじゃないか? あるいは兄弟に殺されるため」
 だれもが一度は思うことだろう。
 けれど、真剣に悩んだ者は少ないだろう。

 シンも例に漏れず、「なぜ自分が生まれたか」を、悩んだことはなかった。
 生物学的には精子と卵子が結合したからだろうし、哲学的には、それこそ雨の雫の数ほどもあるだろうが。
「人は、何かを得るために……生きてる。じゃ、俺は……? 身分も人望も金も家族も持ってる、おれは? 何を欲しがればいい?」

 シンはやや考え、言った。
「……昨日言った、欲しいものがたくさんあるっていうのは?」
「ぜんぶ、手に入らない」
「それは、決定してるのか?」
 キールは、口元を歪めた。
 笑ったらしかった。

「死者から何かを奪える人間は、この世にいないよ」
 奇妙な、既視感にとらわれた。
 その言葉は、以前、ある教師が、シンに言ったのとほぼ同じ内容だった。

 死者からは何も奪えない。
 でも、今のシンは、それに一言を付け加えることができる。
 ―――しかし、死者は何も得られない。

「なにもかも、馬鹿馬鹿しい……」
 キールは口角を歪めて笑った。
 その表情は言葉どうりに自嘲げであったが、同時にどこか寂しそうに、シンには見えた。

「―――生き甲斐が欲しいなら与えてやる。生きる目的が欲しいのならくれてやる。なぜお前は、その能力を使おうとしない?」

「…お前に与えられた、生き甲斐か? そんなものに、一銭の価値もあるものか。お前の言うことは結局、自分の都合のいい結論を出させたいがために、議論を誘導しているだけだ。人に与えられる目的なんて、自分の身を使い勝手のいい道具におとしめるだけだ」

 人に与えられた、生き甲斐?
 人に与えてもらう、生きる目的?
 そんなものは、自分をただの道具に貶める行動だ。
 人が生きていく上で、とても大事なもの。でも、それは、自分で見つけないと、銅貨一枚の値打ちもないものなのに。

「…頭の動きは失血で鈍ってないようだな。その通りだ」
 シンのこういうところは美点としてとらえられるべきだろう。
 潔いのだ。決して、人のせいにしない。自分の行動の原因を、他に求めない。

「もう、馬鹿どもの相手をするのも、面倒だし……。欲しいもの、ないし。生きてるって事は、ただ、飯食べて、仕事して、寝るだけだろ。…無意味だと思ったら、どうでもよくなった」
「……キール」

「俺が三十になって、成人したら、…終わりだ。つらくても、馬鹿馬鹿しくても、虚しいだけの人生でも、終わりがあるなら付き合う気も起きる。でも……」

 ―――永遠の命なんて、欲しくもないもの。

 以前、軽々と、キールは皮肉をこめて言い放った。
 皇族であるシンにとって、痛烈に辛い皮肉。そして、キールのいくばくかの真実が込められた台詞でも、ある。

「……どいつも、こいつも、お前も、誰も。人の事を価値の高い標本か何かのように見ていやがる。俺っていう人格はどうでもよくて、俺の能力にだけ、高い値札をつけて、勝手に売買して、そんな奴らしかこの世にいない。お前だって、どうせそうだろ?」
 シンは怯みもしなかった。
 怜悧な印象を与える整いすぎた容姿は、笑顔を浮かべれば途端に柔らかく、ほころぶように変わるというのに、シンは瞳に冷たい光を浮かべたまま、眉一つ動かさなかった。

「はっきり言えば、そうだ」
 キールは心中、苦笑した。
 ……これだから。

「お前の人格など、銅一粒の価値もない。そもそも考えてみろ。大量殺人者の人格に、どんな価値がある。お前の言っているのは自業自得だ」

「…お前みたいのの相手をするのは、もう、疲れた……」
 これが、どうでもいい、知らない人間の口から漏れたのであれば、聞き流していただろう。

 しかし、言葉というのは発言する相手によって、いくらでも印象を違えるものだ。
 滅多に弱音をはかない、というか、物を吐いているところはよく見るが、弱音を吐いているところは今はじめて見た、という人物が口にすると、自然と胸をついた。

 ぶっちゃけていえば、シンはキールがここまで諦観する理由をよく知っていたし、ここまで投げ遣りになるのも無理はないと思っていたし、更に、(本人は死んでも認めないだろうが)同情もしていたのである。

 夜中、もしくは治療の後、キールは決まって家を抜け出し、家族に見つからないよう吐く。
 その、嘔吐の衝動に痙攣する背と、苦しげな表情を、シンは何度も見ていた。
 そういえば、キールは予定外の治療……巻き添えで心を壊された相手を治療した直後だった、とシンは今更ながらに思い出す。

 もろもろの事が積み重なって、どっかんと来てしまったのだろう。
「……僕個人の意見としては、死なせてやりたいどころか、今ここで、切り刻んでやりたいぐらいだが、その後の想像をすると、二の足を踏まずにはおれないな。シミナー殺しは大罪中の大罪。間違いなく僕は失脚する。そして、露見せずに闇に葬ることができる可能性は、極めて低い。……そして、その咎は何の責もないナギとイールにも行くぞ」

「…わかってる。だから」
「殺された、にしようと思ったわけか? お前な。その、家族思いの態度の十分の一でも他人にやれよ」

「おれを、金貨の塊もしくは能力の入れ物としか見ない相手にか?」
 キールの皮肉は、ようやく狙った効果をあげることができたようだ。シンは思わず、口をつぐむ。
「……そういえば、ナギとイールぐらいだな。お前がシミナーでなくてもどうでもいいって言えるのは。お前が彼らを大切にするのは、だから、か?」

「………」
 キールは黙秘を守った。

 この世でたったひとつ、大切なもの。
 大切にしなければならない、もの。
 自分の命にかえても、守らなければならない、もの。
 ……ナギと、イール。


 大切に、しなければ、ならない、もの。

 

 

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