白青緑4
誇りを、お持ちなさい。
あなたはこの星に君臨する皇家の貴き血を引くお方。
いついかなる時もそれを忘れてはいけません。心に、誇りを。御身は紛れもなく高貴なお方なのですから。
でも、先生。
でも、僕の血脈の半分は、違うのでしょう?
僕の体の半分は、貴いものではないのでしょう?
血統という死語が平然とまかり通るのは、この世に皇宮ぐらいしかない。逆にいえば、皇宮内部においては、血統は重要事だった。
そしてそれをゆえんとした攻撃は、彼が物心ついた頃には、すでに周囲に蔓延しており、どれほど兄がその毒を排除しようとしてもしようがないほどだった。
そして、彼はその毒に侵されていた。
白様。しかし貴方様は、その母君から何よりの武器を譲られたのですよ。
その肌もその髪もその瞳も、白様以外のどなたにも持ちえぬもの。白様の母君がどのようなご気性の方であったかは、私には到底存じえることではございませぬが、その御姿は白様を通じ、かいまみることができます。
おそらく、誰もが心奪われずにはいられぬほど、いとお美しい方であったのでしょう。
美しい?
それは、物心つく前から、自分のまわりに氾濫していた言葉。
けれど彼は、その言葉がどういう時にどういう感情をこめて呟かれるものかは知らなかった。彼を見た人間は揃いも揃って同じ台詞を吐くが、彼が、誰かを美しいと感じたことは、なかったからだ。
誇りをお持ちください。
御身はまぎれもなく、貴き皇家のお一人であるのですから。
人は、生まれによって決定するものだろうか。
ある程度はそうだろう。
シンは、皇族ではない自分など、想像することすら難しい。誇り高く、気高くあれと、そう教え込まれたから、今ここに自分が在る。
皇族でなかった場合の人生、を想像するのはよくあることだが、いつも同じ結論に辿り着く。
ここにいる自分は存在しなかった。
卵子提供者に対して、シンは長いこと興味を抱いていたが、それは、他人がシンの母親に対して抱く種類の関心と、まったく同じだった。物珍しさに興味をひかれ、あるいは好奇心で、会ってみたい。
それだけだった。
強くおなりなさい。白に座る貴き君。
命を、誇りを、人格を、尊厳を、買うには強くなるしかないのですから。
あなたが売れるものは、何ですか?
あなたがその手に持っているものは、あまりに少なく、あなたの両肩に乗せられたものの重みには耐えられない。
命を失ってもよろしいのでしたら、命以外の何も失わなくとも済むでしょう。
死者から何かを奪える者などおりません。
誇りを失ってもよろしいのであれば、命も衣食住も得られるでしょう。あなたの飼い主のなり手は、それこそいくらでもいるでしょうから。
命と、誇りが惜しいのであれば、捨てたくないのであれば、あなたの残る駒は何ですか?
……あなたは何も持たない。母方からの援助も、人脈も、資金も、何もです。あるのは血筋への蔑みと、おなじくその血筋からあなたが得た武器のみ。
賢くおなりなさい。
命と、誇りを捨てたくないのであれば、時に慎重に、大胆に、そして何よりも賢く、その武器を使われますように。
そしてそれでもなお、あなたが生き残れるかどうかは、あなた以外の人間に大きく左右されるでしょう。
……ご不満ですか? しかし、何も犠牲を払わずに、何かを得ることはできないのですよ、この皇宮では。貴き皇族の血筋では。
あなたはあなたの生存を、誰かから買わなければならない。そして買うには、代価が必要です。
あなたの生は、地中に大きな空洞の開いた、不安定な地面を歩くようなもの。
生きたいとお望みであれば、そのことを承知の上、あまり多くは望みすぎぬことです。
今のあなたは何の力もない、ひよわで、無力な存在です。全てが欲しい、何も失いたくないという選択肢は存在しえず、夢見事、もしくは単なる我がままでしかありません。
お選びください。
生きるために、何を捨てるか、何を選ぶか。
それによって、これからの授業の形態は大きく変わることでしょう。
何も、失わずに命永らえることは、できないのですから。
高速度で空気が肌を突っ切って通り過ぎていく。
何か考えることなどできない。 ただ現実を目を見開いて受けとめるだけだ。
地面がずっと先に見えている。
何かが見えても認識する前に通りすぎる。
思考の速度より落ちる速度の方がずっと早い。
手中の暖かい体の感触だけが確かなものだった。
全身で全力で抱き締めて、視界の先、茶色い何かに右手をのばした。
ずいぶん先、極小の一点だった茶色は、それだけの動作をするまでの間に身近に迫っていて、のばした手に間髪いれずに触れた。
いや、触れて、しなって、しなりきれずに砕け散った。
しかしその反動を利用して、シンは態勢を変える。後頭部を落下方向に。
視界に青い空が映った。
痛い。
シンは首を振りながら起き上がった。
体が痺れたように痛んだが、一過性の痛みだ。
首腕足の順で動かしてみたが、折れているところはないようだ。
完全な無傷だった。
「……やっぱり、装備には金をかけるべきだな」
衝撃の全ては服が吸収した。
あの高さから落ちたのだ。無敵の護符つき結界服を着ていなければ、もろともに即死だっだろう。
げんに、大地と激突した瞬間、物凄い音がした。
川原にいくつも転がる石は、激突した辺りだけ粉々に砕けている。
げに恐ろしきは落下付加衝撃だ。
柔らかい人体ですら、あの高さから落ちれば石をも砕く。
しかし、シンは確かに無傷だったが、もう一方はそうはいかなかった。
シンがかばった相手は、肩から派手に出血していた。
左肩の付け根のところでぱっくりと傷口が開き、血を吹き上げている。
もう少し傷口が右にずれていれば、脇と傷が合流して腕がちぎれていただろう。
突きささっていたはずの凶器がない。
それに飛び降りる前はここまでひどくなかった。
おそらくどこかに刃物が引っ掛かり、抜けた。しかし高速度落下の最中だ。糸一本でも凶器になる場面で、刃はやすやすと肉を引き裂き、骨まで断って抜けた。
肩を刃が通過したのだ。
シンは相手の全身を点検し、肩の傷をのぞけば、開放性骨折はもちろん、普通の骨折すらしていない事を確認して、唇を噛んだ。
しかし、すぐに首を振って冷静さを取り戻すと、肩の傷口の仔細をあらためた。
何よりも出血がすごい。
こうしている間にも血はどんどんと流れでて、川原の転がる石を赤く汚していく。
命に関わる重傷だった。
「影……」
シンは一瞬、忠実なしもべを呼びかけて我にかえった。
現在、シンのそばに控え、用を足す「遊軍」の影はいない。元々乏しい影は、全て用事に出している。
影に治療させることはできない。
「発火、発水、力動」
立て続けに三つの術を使って、どれも不発だった。間違えたのではない。
「無効地域か……」
皇宮と同じようなものだ。
術は使えない。
崖下は無効地域だと言っていた―――
とりあえず、手持ちの材料でやるしかない。シンはするりと髪の紐をほどく。
髪の毛が半円に広がった。
小指の半分ほどの太さの紐は丈夫な組紐で、刃物を使わない限り、切れる心配はない。
シンはそれを、肩の傷口の近く、心臓に近い側に通して、腕一本入るほど緩い輪をつくった。
その輪に、近くに投げ出されていた枯れ枝を拾って入れ、今度はその棒を回転させた。
そうすることで紐がよじれ、血流を止めて止血する。 止血帯法と呼ばれる止血法である。
これだけの出血となると、人力でいくらきつく巻いても止血はできない。ただし、止血帯法をつかった止血だと、今度は血流が止まるために壊死の危険がある。
シンは取りあえず止血をし、棒が巻き戻らないよう石で留めて、怪我人の頬をひっぱった。
「おーい、起きろっ」
つねる。引っ張る。叩く。大声で呼ぶ。
一通りやって、シンは諦めた。
先に傷の手当てをしないと、命に関わる。
見捨てて自分だけどこかへ行く、という案が頭をよぎったが、やめておいた。
シンは傷口をぐい、と開いた。
出血は止血帯法で止まっているが、さっきの出血が凝固しはじめ、ゼリーのようになっていた。端に黄色い汁も固まっている。
本来は真水がいいが、仕方がない。
シンは数歩の距離の川まで、気絶しているためか、まぐろのように重い体を引きずって、雑菌だらけの川の水で傷口をよく洗った。
そして傷口を子細に点検し、自分の髪を一本、引き抜く。
大動脈は幸いにして切れていない。しかし太い血管が三ヶ所切断されていたので、それを髪の毛で結紮した。
他にも細かな血管はうじゃうじゃ切れているが、そこまでは無理だ。
それから、シンは髪をあらため、その中から一本、引き抜く。
瓜のように割れて、ざくろのように赤い血肉を見せている傷口に、その髪を突き立てた。
皮膚には弾力がある。普通の髪ではもちろん不可能だ。
しかしこの髪は金属だった。暗殺用に、髪に仕込んでいたものだが、意外な用法で役にたつものだ。
ざっくざっくざっく、と傷口を縫合し、縫い物の要領でふたつの傷口を一つにすると、玉を作った。
皮膚の縫合は、血管を結紮した後でないと役に立たない。
外出血と内出血。どちらも同等に危険で、内出血はより面倒だった。外観ではわからないからだ。
人は内出血、というと軽微に感じるきらいがあるが、内出血でも出血多量で人は死ぬのだ。
後は……。
シンは上を眺めた。
視界の奥に消えるほど高い崖と、青い空だけが見えた。
ここでは浮遊はできない。
視線を巡らせると、向こう岸には林……いや、森があった。
さっきまで傷口を縛っていた棒を外し、手にもって、棒で川の深さをはかる。
川の深さを見た目で判断するのは危険きわまりない。靴を脱いで入るのもだ。
なんとか渡れる深さだったので、着衣のまま、何も脱がずに川に入った。水位は最大で腿まで。
川を渡って、さほど時間もかからずに捜し物はすぐに見つかった。
何枚か葉をちぎり、一枚を口中に。再び川を渡って怪我人のもとへ戻る。
同じ種類の葉の上に、咀嚼し歯で繊維をすりつぶした葉を吐き出す。
そしてそれを広げた。
消炎、鎮痛、消毒などの効果の薬草である。
肩口をぐるりと切っている傷口に合わせて葉を巻き付け、固定する包帯代わりに、髪を二本抜いた。
髪は切れやすい。髪二本を両端で玉を作ることで、丈夫な一本にする。
それで葉の右側を留めた。髪が長いので三周ほど巻き、結び目をつくる。
もう一回同じ事をして、葉の左側を留めた。
自分にできる応急措置を全て終えて、シンはさてどうしようと考えた。
まずい材料をあげればきりがないが、まず、死体。あそこはナギ一家の狩場だ。獣に食い散らかされた後ならともかく、死体が殺害時の状況をありありと残したまま残っていたりしたら、それが目にふれたら、非常にまずい。
そして二つ目。無効地域の範囲と、どの方角から出ればいいのかがわからない。
さきほどキールと精霊の領域に入った。
人の土地より、精霊の領域の方がはるかに広大だ。この無効地域は、精霊の領域と隣り合わせである可能性はかなり高い。
つまり、無闇に動いたら、精霊の領域に入る危険性、大である。
更に、切実な問題があった。
―――瘴気である。
先程殺めた人間の瘴気が、のしかかってくるのが感じられた。
瘴気は気力体力寿命を一斉に奪っていく。
皇宮では皇族は、抱える瘴気浄化能力者に治療してもらえるが、それは皇宮で、の話である。
しかも六人……いや、ここに落ちる原因となった一人がいるから、五人分か。それだけの瘴気は、まるで鼠の軍勢が歯を立てるように、シンの体力と気力を猛烈に削っていく。
これまでの種々たびたびの殺害経験から、シンは自分の限界は三日だ、と判断した。
三日目の夜には自分はもう死んでいる。
何とか自力で動けるのは二日目の夜までだろう。
シンは怪我人の額、皮膚の脂肪層が最も薄い部分の肌を引っ張った。
起きて、どの方角へ行けばいいかを教えてくれれば、担いででもこの地域から抜ける。
「おーきーろ!」
―――駄目だ、通常の睡眠じゃない。
出血多量による、昏睡。
体にふれてみると、体温がかなり低下している。
シンは護身用の手持ちの護符の中に使えるものがあるかを考え、ない、という結論に達した。
ついつい「見捨てる案」を再び考えたが、ため息をついて、自分の服の袖口を口元に寄せた。
布地に歯を立て、同時に腕をのばす。
ビッ、と生地が避ける音がし、内部に隠されていた様々な護符が見えた。裏布に縫い付けられているので、こぼれ落ちるような事はない。
袖だけでも十数枚は軽くある。その中から一枚を選びだし、怪我人にあてた。
護符は消滅する。
皇宮でも護符魔術は有効だが、ここでもそうらしい。
符は術を媒体に固定化したもので、その効果は作り手の力量に比例する。よってシンでも高度な術を使えるが、問題が二つあった。
媒体には力ある物質が必要であり、護符を使った後はその物質もろとも消滅してしまうということ。力ある物質とは、大抵、高価なこと。金、銀、宝石…そして樹木様。
二つ目が、固定化できる術の少なさだった。
背中が重い。頭が痛い。
瘴気が自分に歯をたてて、蝕んでいくのがわかる。
瘴気というのは不思議なもので、たとえ毒殺でも、即死でも、正確に「殺した人間」目掛けて飛んでくる。
人は死んだらすべてに還る。だから、死者には全てがわかっている、という説を信じる気になる事実だった。
もうなにもかもどうでもいい、という気分になりかける自分を叱咤し、シンは瀕死の重傷人の腕と足を折り畳んだ。
体を暖める火、そしてこの太陽を遮ってくれる遮蔽物が必要だった。
川原には太陽の光を遮るなにものも存在しない。そのために、右斜め上から差し込む太陽が、肌に直撃してひりひりした痛みを残していた。
石も放射熱で焼けている。
たかが、日差し。
されど、日差し。
日光浴をし、太陽の熱で全身やけどを負う人間もいるのだ。それでも命に別状はないが、この怪我の状態では、わずかな体力の消耗が死に直結する。
どこかへ移動しなくては、と首をぐるりと見回して、何かの暗がりを見つけた。
一人で見にいき、充分な奥行と空間があることを発見する。誰かが生活していたのだろう。竃や篭の痕跡があった。
先住者が帰ってきたら非礼をわびるとして、シンは、頭と足を固定し、体がずれないように尻から抱き上げ、とりあえずそこに運び込んだ。
人を傷つける技術と、人を癒す技術は、伴って学んだ。
自分は術に適性がない。
適性がないものに多くの時間を裂くより、別の長所を見つけることを教師は支持し、シンもまたそれを望んだ。
……シンはキールがこの世でいちばん嫌いだった。
多くの力を持って生まれたくせにそれを何とも思わず、何にも役立てず、一人自分勝手に生きている。
そんなにいらないのならば、寄越せ。もっとずっと有効に使ってやる。さもなければ、自分に力を貸すのでもいい。
お前が自分の力の使い道も有効性も知らないのなら、僕が使ってやる。その方が、いったいどれだけましか!
わかっている。これは、自分の勝手な言い分だ。キールには、自分に手を貸さなければならない理由は何一つないのだから。
……でも、憎い。
嫌いだ。
大嫌いだ。
それだけの力が自分にあれば、もっと有効に使ってやるのに、なぜ使う意志のある自分のところには何も来ず、キールのところにばかり、来たのだろう。力という名の贈り物は。
キールを見て、猛烈な憎悪に襲われるのは、あいつが、何も、していないからだ。しようともしていないからだ。
一生、あいつはシンが喉から手が出るほど欲しい力を怠惰に生き腐らせて、死んでいく。それが、目に、見える。
目に、見えるから……腸がねじれきれるほど、悔しい。
竃に火を人力で起こす努力は放棄し、シンは護符を取り出して火を放った。
木は意外と火持ちする。 少し場を離れても大事無い。
部屋の隅にも枯れ枝の束はあったが、シンは足りないと判断し、拾いに出掛け、短時間でかなりの収穫をあげて戻ってきた。
草の民と深い付き合いをしていた経験がものをいった。
怪我人は額にびっしりと汗を浮かべている。シンは同じく採ってきた薬草を口のなかで噛み砕き、人工呼吸の際の気道確保とは反対の食道確保をして、口移しで飲ませた。
容体は、体力次第だった。
全身に汗をかいていたので、服を脱がせてそれで拭いた。
シンが瘴気で動けなくなるのは、明日の夜。 ……明日の昼になっても意識がもどらなければ、見捨てて勘にかける。
首尾よく無効地域から出られれば、後は簡単だ。転移し、知らせる。
……より高い確率で助けるために、なんていう詭弁は言わない。
見捨てるのだ。
どう言葉を言い繕おうが、事実はそうだし、言い繕う気もない。
シンには、自分の命の方が大事だった。
―――しかし、また一方で、彼の適切で迅速な応急処置がなければ、幼なじみはとうに息を引き取っていただろう事も、事実だった。
ここまで応急処置法を知っている人間がどれほどい、どれほどの人間が薬草に詳しく、ためらわず失敗を恐れずに与えることができるか。
それは希少な数字に違いなかった。
今も、シンは怪我人の看護を精一杯やっている。体の汗をふき、その額に手をあてると、ため息をついた。
そして自分の服に手をかけると一息に脱ぎすて、肩に、ガウンのように服をはおって、人肌の暖かさを寄り添わせた。
傷口に負担がかからないよう、そっと。
あつい。あついってば。
どけって。
あつくるしい!
足で何かを蹴る感触で、目がさめた。
たった今蹴りとばしたばかりのどなたかは、彼の右前方にいた。
そして、地面に手をついて起き上がる動作の途中、視線に気づいて笑顔を作った。
その美しい顔をにっこりと最高に可愛らしく変化させた笑顔は、他人ならともかく、彼にとっては身震いするようなものだった。
シンは優雅に笑って、言った。
「おはよう、キール」