白青緑10

 

 

 ナギはこの時代の人間の少数派の人生を生きた人ではない。しかしそれでいながら、結果として極少数の派閥に属することになった、奇妙な人である。

 ナギはごく普通に生をうけた。つまり人工授精による人工子宮を母として、血のつながらない(この言葉はもはやレイオスでは死語であるのだが)草の民の両親に育てられた。

 両親を失い、そして彼はふと思いつく。もしかしたら、この世には自分の血縁がいるのかもしれない、と。これも別段めずらしい発想ではない。

 思慕などという高次の想いからでは最初はなく、好奇心、もしくはもっと簡単に言うと、単なる暇つぶしからだったのだろうが、彼は自分の血縁を見いだすことに成功した。
 それは、自分と同じ卵子と精子から誕生し、彼より年長で、女の性別を選んだ人間だった。そして、すでに結婚していた。

 ナギは物珍しさからだったので衝撃も何も受けず、とりあえず、といった形式で姉に会いに行ったのである。

 そして、同じ血の為せる技か、異様に意気投合してしまった。

 血縁を捜索するまでは割合によくいる人々であり、少数派とはいえない。そういう人々のための捜索法や、体験談まであふれていたのである。
 しかし、実際に会った血族と養子縁組をするまで仲良くなるのは、これは少数であるといえた。
 ナギは彼の姉の養子になり、その関係から、キール・スティンの養育権を、死者となった姉から譲り受けることになるのである。

 ナギが姉夫婦の死を前にしてどのような感情にとらわれたかは判らない。しかし確かなのは、ナギが双子をまったく平等に扱い、キールひとりを特別扱いなどしないことによってキールとの仲をごく円満に築き上げたこと、そして、キールの自由を頑強に主張し、ついには獲得したことである。

 ナギの視点からはこのようになる。
 三つ巴の戦いがまださめやらぬ頃、ナギは毎日彼の子供となるべき子供に会いに来ていた。この時ナギは戦いが行なわれていたことは知っていたが(養育権が、自分が若年ゆえに討議の対象となっているのだろう、という予測をしていた)、彼が育てる子供が、前代未聞の能力者だったことはまだ知らなかった。

 施設の奥部、人工子宮の前には両親だけが通される。そして、常ならば最低二三人は、自分が育てることになる赤子が透明の板の向こうに浮いているのを愛しげに見つめているのだが、この時部屋の内部にいたのは、ナギだけだった。

 むろんこれには理由がある。
 人工子宮では常時入れ代わり立ちかわり胎児が生育されているが、この時、一般の胎児はまだ一ヵ月。

 能力検査があるのが七ヶ月目以降であり、それ以降に両親が決まるので、要するに自然児である二人の赤子とは時期がずれていたのである。

 余談であるが、シンの年齢が彼らと半年違いなのは、シンの方が一般の時期であるからである。
 ナギはただ二人、他の子供たちとは明らかに大きさの違う赤子の前に立つと、囁くように言った。

「元気で、健康に生まれてきなさい。頭がよくなくても運動ができなくてもいい。元気で健康でありさえすれば、何もいらないからね」
 ナギはついでに一つ付け加えるべきだっただろうか。
 善良に、と。

 もし運命をつかさどる神というものがこの世に存在していたならば、皮肉に満ちていることは世の人間の等しく共通する考えである。

 彼の子供は元気で健康に生まれてきた。しかし、それだけではない手土産を二つ三つ四つと抱えてきたのである。
 親として、ナギは無欲であったが、その無欲さは最悪の形で裏切られることになった。

 彼の子どもが抱えてきた手土産は、人々の恐怖を駆り立てるには充分すきるほどのものであったのだ。
 ナギが子供にささやいたその翌日、ナギにも子供の能力が通知された。

 そしてそれは、ナギのみならず居合わせた人間全員を呆然とさせるに足りる内容であった。
 ナギがそれを通知された場所は、施設の内部の一室であり、能力通知には普通は両親のみが同席する。
 普通は瘴気浄化能力者ではないことはもう判明しており、となればごく形式的で短時間で終わることで、とりたて禁止事項はなかったが両親以外立ち合う人間もいない、というものだったからだ。

 しかし、その慣例はナギの子供の場合やぶられた。
 おおよそ三十人にものぼる人々がつめかけ、その内のほとんどはナギに許可をとっていた。ナギとしてみれば集団で家に押し掛けられ、その圧力と断る理由もない、という理由から頷いたのだが、これのみを取り上げてナギを短慮と言うには無理があるだろう。もっとも、後日彼はそれを激しく後悔する羽目になったが。

 彼らが集まった裏にはいささかの事情があった。
 つまり、ナギが育てる子供が、異常者であるという噂がたっていたのである。

 具体的には前年からどこからともなく湧き出た噂で、予言の形をとっていた。
 普通でない生まれ方をする子供が、特別な能力を持つ。その子供はいずれ大いなる災厄をもたらし、大地を悲嘆と涙でそめるだろう。というのが簡略した内容である。

 普通でない生まれ方、ということで、双子が注目された。ここでもし、特別な才能が何もないとなれば、彼らは所詮噂は噂と何事もなく帰っただろう。
 ところが、噂は途中までは見事なまでに図にあたっていた。
 普通でない生まれ方をする子供、は、特別な能力を本当に持っていたのだ。

 それまで、彼らとしても噂を信じていたかは怪しいものだ。面白いとは思い、心には引っ掛かっていても、それと信じるのとは、別の次元の話だった。

 しかし、噂は真実だと証明された。
 ……もしくは、証明されたと信じた。

 ならば、後半も真実ではないのだろうか……?
 そんな空気のなか、一人が質問した。
「その……子供は瘴気浄化能力者なんですよね? じゃあ、はぐれになるんですか?」

 悪気はなかったのだろう。
 しかし、配慮に欠けていたのも事実だった。

 さっと空気の色が変わった。
 そう、それがあったのだ。
 はぐれという言葉には不吉さが漂う。殺人者という意味が含まれている。
 しかし、はぐれとは脱走した瘴気浄化能力者のことであって、自由な瘴気浄化能力者のことではない。 
 ―――けれどもそれは、この際彼らにとって大事なことではなかった。彼らはただ、人殺しをしてもわからないような人間が、野放しになることを懸念していたのである。

 係官は困惑して、こう言った。
「あ、いえ。それはまだ決まっていません」
 その言葉がこれほど不吉に落ちたこともなかっただろう。
 再び一同は沈黙した。

 一触即発の危険をはらむ、沈黙だった。
 沈黙、その後、勃発。
 そう形容される事件の始まりだった。

 幸いなことは、この事件によって負傷者は出ても、死者は出なかったことである…。
 キールは回想を終えた。

 ナギは一度暴徒と化した人間に肋骨の骨を折られながらも、追いすがった。
 キールは、殺意の群れと自分とを隔てる盾か壁のように立ちふさがった人影を、覚えている。そしてそれが、毎日言葉をかける人間と同じ、「もこもこ」という感触があって、同じ人だとわかった。 傷つき、倒れながらも、その人は自分を守ろうとした。

「シミナーを傷つければ問答無用で死罪となる! 貴様らその覚悟があるのか!」
 最終的にその一声が、狂奔の熱をさまし、理性に立ち返らせ、惨劇を未然に食い止める功をなした。
 それを言ったのは全身骨折であと百秒治療が遅れていれば命がなかったナギではなく、駆けつけた係官だったけれど。

 後日この係官にはナギから丁重な謝礼がなされ、五歳のときか、キールはナギにつれられてイールも一緒に「命の恩人のおねえさん」に、お礼に行った。

 そして、この事件を盾にとって、ついでに姉夫婦が死んだ事件も剣にして、ナギは行政と交渉したのだ。
 「双子なんだからまともなもう一方だけで我慢すればいいじゃないか」というあちらの論理を、ナギをふんと軽蔑の鼻息をかけたあげく、蹴っ飛ばした。

 あなたがたの、責任で姉たちは死んだ。そしてその挙げ句またもや、あなたがたの、不手際で双子は死にそうになった。どういう羞恥心をしていればその挙げ句に双子の片割れを引き離そうという思考回路が出てくるのでしょうか。あの子たちは、私の子供です。私に養育権があり、私は、あの子たちを護るために死の寸前までいきました。そしてその間あなたたちは何をしていらっしゃいましたか?

 瘴気浄化能力者? ではシミナーを一生涯幽閉すると。なるほどなるほど。さぞかしこき使いやすいでしょうね、シミナーを幽閉して人権など与えなければ、さぞ楽でしょう。

 三者三様に痛い物言いだった。
 精神治療者協会およびシミナー管理局は、ぎくりとしたことだろう。
 なんせ、シミナーに人権など与えず馬車馬のように働かせるのが最も楽に決まっている。上の人間たちがそれをできないのは、彼らの絶え間ない尽力のせいである。

 一方キールをもし幽閉すれば、瘴気浄化能力だけは馬車馬のようにこき使いながら、シミナーの能力は放置しておく、なんてことになる筈がない。もう一方の能力もこき使われると見るべきであり、それはまずい。
 行政の側はもう言うまでもなく、ナギが怪我の跡やらなにやらをわざとらしく見せつけて、「責任」だの、「不手際」だの、「姉たちが死んだ原因はどこにある」だのと言われれば、ひるまざるをえない。

 そのようにして、ナギは双子の養育権をもぎとったのである。

 まあ、ナギの主張も故ないものではなく、双子というものは片割れを引き離すと、精神的におかしくなる場合も多い。
 シンなどは、「お前がイールと引き離されて精神的におかしくなったら、指差して笑う」と酷評しているが、まあ赤子のキールに対しては通じる論法であった。

「……おい!」
 キールは声をかけられて、顔をあげた。

 床は天然石。黒光りして金線があるところからみて、黒輝石だろう。それがかなり広い浴室一面に巡らされ、下水道完備。
 蛇口もついていてひねればお湯が出て、三十人一緒に入れるだろう浴槽は総木材のいい匂いがついている。
 幸いにして彫像だのという趣味の悪い装飾はなく、金は大層かかっているだろうが、単純で機能的で調和のとれた、誰にとっても居心地のいいだろう空間だった。
 そういういい浴室に入るのは初めてではなかったが、そこに佇む人影には違和感でめまいがした。

 黒系で統一された室内に、白が現れた。
 初雪のような銀髪と、白い服と、白い肌。目を射るように白い。
 どんな装飾よりもこの人間一人の方が目を引く。

 しかしそれにしても、浴室に服をきている、というのがこれほどめまいがするものだとは……。
「いつまで入っている? 事後処理も食事のしたくもできたぞ。……キール?」
 めまい、が……。
 シンの髪に手をのばそうとして、キールはぶくぶくぶく、と湯ぶねに沈んでしまった。

 風を感じて目が覚めると、シンが団扇で扇いでいた。
 小さな部屋の長椅子で寝かせられていて、隣でシンがあおいでいた。

「……おどろき」
 と言ったのはキールだ。

「は?」
 風が止んだ。
「続けて…」
 また風が起きた。

「お前、そういうこと、人にやらせると思ってた……」
「お前を誰か使用人に会わせるほど私は馬鹿じゃない。そしてあいにく、現在、暇な影はいない。それにあんまりお前の前で影を使いたくない。殺される危険がある。以前影が気に食わないからっていう理由で殺してくれたよな?」

「道具になってる可哀相な肉人形を壊したって言ってくれ……。のみもの」
「ほら」
 シンから手渡されたものに、キールは疑いの眼差しをそそいだ。
 薄い橙と黄色の中間色の不透明な飲み物。
 吸い上げやすいように、透明な管がついていた。

「いくつかの果実を牛乳で割った。うまいぞ」
「……毒見は?」
 緑の座が用意した食物ならばまだともかく、命を狙っている人間がわんさか掃いて捨てるほどいるシンが使用人に用意させた食物は毒が入っていると見るべきで、べつに毒入りだろうが気にしないが、とりあえず聞いてみた。

「してある」
 体を起こし、透明な管に口をつけた。

「風呂に何時間入ってたんだ? 完全にのぼせていたぞ」
「……ざっと四時間」
「おい」
 呆れ声でシンはいい、その「非凡な容姿」を不安にかげらせた。

 キールが、長椅子に崩れるように体をゆだねたからだ。
 自分の体の制御がうまくできない。体の反応がにぶい。
 思ったとおりに動かすことができない。

「キール?」

 キールは手をのばして、頬の横で揺れるシンの長い髪をつかもうとした。
 今度はうまくいって、手の中に、その軽い質感が入ってきた。

 目の前がかすんできた。
 頭の中でもちつきをやっているか、飴を引き伸ばしているようだ。伸びて丸めてかき回して、また限界までのばす。餅か、飴のように。

 思考がまとまらない。視界も保っていられない。ただ渾然一体となった気持ちの悪さだけがあった。
「キール!?」
 現実世界の音がとおい。


 母の鼓動の途絶える音。
 悲鳴と苦痛の際限のない繰り返しが止んで、安堵すらおぼえた。

 うまれておいで。私が待っているから。
 ナギの語りかけてくる声。
 ああ、この人が親なのかと思った。

 ナギの苦痛、衝撃、恐怖……。
 それよりはるかに大きい殺意は、無数の群れが一つの意思に飲み込まれて暴走していた。
 隣にいた弟の恐怖とあたたかさ……。
 抱きしめてやることしかできなかった。だいじょうぶだと、ただ繰り返しとなえて。


 キールが最後の力をふりしぼって眼を開けると、視界には、一瞬にして引き戻させるだけの力を持った美貌があった。
「……お願いだから、そばに、いて……」
 シンのぎょっとする気配が、感じられた。





 くちびるを割りびらかれる感触に、意識がさめた。
 氷のように冷たい温度の液体が注ぎ込まれて、喉を鳴らしてのみこんだ。

 髪の垂れ幕が肌で触れ合う感触から、誰なのかは想像がついていた。
 目をあけると、シンの髪はまだ手中にあって、シンが床に両膝をつき、長椅子に横たわるキールと胸と胸をあわせるように覆いかぶさっていた。
 シンが体をひき、視線があった。

 一瞬の空白……。

「ほんっっとに、危なかったんだからな。脱水症状でも熱中症でもひどいときは死ぬんだ、このオオボケ」
 それがシンの目覚めの第一声だった。

「ゆめ……見てた」
「ゆめ?」
「俺の母親が死ぬ夢」
「……想像でつくったのか?」

 シンがそう言ったのも当然で、キールの母が死んだ際、キールはまだ胎児の状態で、人工子宮のなかで浮かんでいた。
 馬鹿は、露骨な真似をする。
 子供への配慮と、無様な嫉妬。その均衡が弾けたのは、双子が人工子宮に移され、母体から切り離された直後だった。
 双子が移された……その事を知っていたのは、よほど親しい人間だけだ。
 「ちがうよ。……知ってるんだ。母親との精神的同調。双生児にあるだろう、あれが、……」

 さすがのシンも、とっさに何と言っていいものかわからなかった。
 キールの母親はなぶり殺しにされたのだ。
「母親の恐怖で、俺の意識が目覚めた。あとはお定まりの定型料理を食べさせられた。恐怖と苦痛と絶望と怒りを。一生分、いやってくらい」
 まだ仰向けに長椅子に横たわっているキールは、手をあげて額をおおった。

「……母親が死んだときは、心の底からほっとした」
 言ってからわかったが、今、自分の心の鎧がいくぶんか、剥がれ落ちてしまっているようだった。
 シンの注視を顔をそらすことでさけ、キールは言った。
「……ナギにもイールにも言うなよ」
 どうして自分は、この幼なじみに自分の中に踏み込むことを許すのだろう?
 いや、むしろ、進んで踏み込ませるのは何故なのか。
 ナギにも、イールにも言ったことのないことを、語るのは。

「じゃあキールお前、……全部さいしょっから知っていたのか」
「……ナギが俺に隠そうとしていたから、知らないふりをしていただけで、知ってた。憶えてる。忘れようったって、どうやれば忘れられる? 殺意の群れ。俺を殺そうとする人々の群れ。絶対的に無力な赤ん坊に対して大人数で襲い掛かり、そしてそれを絶対的な正義だと信じる人間の群れ! 隣のイールの恐怖。前にたつナギの、ちっぽけな存在の中の勇気……ぜんぶ、憶えてる」

「……イールも?」
 キールはゆっくり、かぶりをふった。
「知らないよ。正確には、憶えてない。イールは思考が言語の形を取るほど明瞭じゃなかった。だから憶えてない。……シン、いま、何時?」

「ああ……お前が気絶してから10を40回数えるくらいしか経っていない。脱水症状だから、水のめ」
 部屋の卓の前にはすでに食事が用意されていた。
 ただ、その食事には毒味の跡が残っていて、見た目は非常に悪かった。「食べ残し」に見える。
「……我慢してくれ。私が用意させたものは、私あての毒物が入っていることがあるんだ。影は買収される事も秘密をもらす危険もないが、毒味ぐらいで影を死なせることはできない」

 それはキールが倒れる前に用意させた食事なのだろう。
 シンはまず、胴長で寸法の大きな陶器の保温瓶を手にとった。
「お前には、水分と糖分が必要だ」
 毒味済みの紅茶が入った茶器から、とぽとぽとぽ、という心地よい水音をたてて、紅茶が注がれる。
 白い手がその器を持って、銀の匙で四杯の砂糖を付け加え、キールに差し出す。
 糖分と水分が必要、というシンの方針はどうやら体の方針にも合っているようで、キールは立て続けに四回、陶磁に金で細工した器をからにした。

「食事、食べられるか?」
「いらない……」
「食欲ない、か。珍しく気弱だな。私に何をしてほしい?」
 シンは、実戦力としてはほとんどあてにならない。シン自身それを自覚しているのだろう。だから、影に指令を出した後は暇なわけだ。
「なんで? 俺についてることないだろ」
「お前が、私に、そばにいてほしいって言ったんだろうが」
「……ああ、いま、思い出した」
 そういえばそんな事も言った。
 そしてシンはそれに忠実……というより、今日に限っては自分の都合よりキールの言い分を優先させようという思いがあるらしかった。

 シンは苦いため息をつきつつ、五杯目の紅茶を相手に渡した。
「お前が人に頼るなんて歴史的な出来事だと思って、その通りについててやったんだぞ」
 キール自身もそう思う。キールは誰かに頼ったことがない。家族にさえ。
 頼らずとも、1人でなんでもできてしまうからだ。
「そういえば起きたとき、髪の毛握ってたっけ……」
 気絶したら、手も開く。シンが少し動いただけで、髪はすべりぬけるはずなのに。
 本当に、そばにいてくれたのか。
 くすぐったいような、恥ずかしいような気分で、キールはふと微笑んだ。
 幸か不幸か、シンはちょうど紅茶を取るために長椅子に背を向けていたので、その表情を見ることはなかった。

「お前の昏倒は脱水症状と熱にのぼせただけ。要するに、長風呂のしすぎだ。体かるいだろ? 生気入れたからな。いきなり倒れるから何かと思った」
 翻訳、心配しました。
 キールはくつくつと笑ってしまった。
「おまえさあ……皇族なんてやめたら?」

 キールが見るところ、シンは、個人の、ひとりの人間としての質は、これまでに出会った無数の人間のなかでも最上級だった。
 「いい奴」なのだ。要するに。

 キールを嫌っていて憎んでいて(ここらへんは確実だ)、それでも心配してしまう。後の打算や計算は言い訳で、本当は心配だからするのだ。
 頼まれればついているし、好きな相手は裏切れない。
 嫌いな相手であっても倒れれば見捨てられない。口では何と言おうと助けてしまう。

 まったく、シンは相手の見返りを期待せずに相手に手助けすることができる、極々希少な……それこそ幻の○○といったぐらいに貴重な人種だった。
 問題はそういう面は、皇族として作った顔に隠れているということだが。

 シンはすっと目を細めた。
「私が皇族の責務をはたせないとでも言うのか」
「向いてない……わけでもないから問題なんだよなぁ。お前、個人としちゃ物凄くアマちゃんだけど、公人としては非情だもんな。皇族、やめれば? 俺が守ってやるよ」
「いやだ」
 半瞬の迷いもない、はっきりとした答えだった。

「だろーな。お前、庇護されるのに我慢できるほど克己心や自尊心、低くないから」
 単純にただ言ってみただけなので、不快になることもなくそう言って、キールは目をとじる。
 前髪をなぜる感触がした。
 シンが額に手をおき、熱をはかっているのだ。

「……ナギには使者を出した。返答ももらった。明日の夜までには帰れ、と。キール、食事にするか? 寝るか? とにかく、休んだほうがいい」
「ん……お前、仕事は?」
 シンは掠めるような笑いを浮かべた。それは皮肉と彼の経てきた経験を感じさせる、さめた、大人びた表情だった。
「あったらお前の介抱なんてほっといてる。一夜あければ死屍累々。結果が楽しみだ」
「……ああ、そういえば影がいないって言ってたな。赤の座の死を知らない皇族に奇襲しているわけか……」

 シンは白皙の面に、懸念の表情をひらめかせた。
「その通りだが……。鋭すぎるのも考えものだな。お前もう少し鈍くなったほうが、人生楽できるぞ」
「俺も、つくづく、そう思う」
 断言に思わぬ力が入ってしまった。
 意外そうな顔をしてくるシンに向けて、キールは笑ってみせた。
「でも、しょうがないだろ? わかってしまうんだから」

 シンが卓の前から移動し、長椅子のキールの前にたって、特殊な織られ方の高価な絨毯の上にひざをついた。
 瞳がのぞきこんできて、超至近距離。
 息がかかる距離の絶世の美貌を、キールは疑問に思いつつ見返した。
「……瞳がはねない。キール、お前、私とよく似た人間を、知っているな?」

 さて。
 本当か、嘘か。どちらを答えようか。
 瞳をあわせたまま、いつもの顔を微塵もくずさずに、ばれないような大嘘をこくことなど、キールにとっては造作もない。
「知ってるよ。誰でどういう人でどういう関係かは、教えないけど」

「つくづく思うけど、キール。お前、なんとかしろ。その秘密主義」
「俺が秘密主義でなくなったら、真っ先に困るのはナギとお前だと思うけどなぁ。お前の犯罪、ナギやイールに言ってもいいわけ?」
 シンは盛大な舌打ちをして、キールから離れた。

 なんだかんだ言いつつ、キールはシンが気に入っているのだ。それはシンもキールも知っている。
 本当に気に入らなければ、毎度毎度皮肉の応射や殴り合いの喧嘩はしないだろう。

 キールはふと苛め心を出して聞いた。
「そーいや思い出したけど、お前いまいくつ?」
「……十三。お前も知っているだろう?」
「十七まであと何年?」
 シンの返答にはいきなり間があいた。
 キールの意図をかんづいたのだ。
 それでも答えないわけにもいかず、渋々といった様に答える。
「……あと四年」

「じゃ、あと四年で緑の座になんなきゃ俺の接待するわけね。いやー、不可能への挑戦だよなー。がんばれよ、青様?」
「……。もしも私の名前がそれまでにイシスからディーンに変わったら、みてろよっ!」
「変わったら、な。お前もわかってると思うけど、変わらない確率の方がずーっと高いなぁ。あ、その前に死ぬ確率ってのもあったか。シン、どの確率がいちばん高いと思う?」
 キールは相手にどう見えるか承知の上で、にっこりという書き文字つきで笑ってみせた。
 イシスは第一番目という意味で、青の座の名乗るものである。その下からは第二番目の、第三番目の……とつづくが、緑の座の名乗るディーンとなると、一転して「至高の者、崇拝される者、尊き強き者」という意味になる。
 ちなみに青様を音で示すとディ・クレシェドとなるが、このディは、尊称であり、ディーンの変化形である……。

 シンは手のなかの食器をふるふると震わせていた。
 皇宮で鄙猥な冗談も嫌味も皮肉も雨霰のように受けていて、人より大分爆発点は高いシンだが、キールの皮肉は実現性という一点で、比類なく神経をささくれだたせるのだった。

「……お前、そうなったら受け取るのか?」
「貰ったものはいただく主義、おれは。贈り物はよくもらってるだろ」
 患者からの貰い物がキールの家にはわんさかある。そしてそれをキールのみならずシンももちろん知っていた。
「…………」
 笑いだしそうな気分で、キールは葛藤する幼馴染みを見ていた。
 もしもこの世でキールを繋ぎ止めることができるものがあるとしたら、それは―――…。

 ささやかな確信。
 何の根拠もない、ただの。
 花が熟し、実となって弾け、地面に落ちる。
 白が青になり、青が緑になるのだろうか、もしかしたら。

「お前はほんっとに、人の神経を逆撫でするのが上手だな。ああよし、わかった。その時になったらせいぜい下手くそとせせら笑ってやる」
 白から青を経て、緑の座へ?
 ささやかすぎる予感と予測。
 ひょっとしたら、それは実現するかもしれない。しないかもしれない。予感でしかない。  とりあえず、キールは笑って返した。
「お前にだけは言われたくない」


あとがき

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