性分化後の混乱 キールバージョン
性分化を終えて一年がたち、大人になるというのがどういう事か、イールは否応なく思い知らされていた。
体の欲求を持つようになる。食欲とか睡眠欲とかいう生きていくための本能的欲求じゃない。性欲という欲求だ。
……シンがやたらまぶしい。
昔はまだほんの子供のシンにその手の感情を抱く大人を軽蔑したものだが…今となってはその気持ちがよくわかった。
彼は、こんなに美しかったのか、と感歎した。
視界が激変したといっていい。なぜキールやシンは全然普通なのだろうとすら思った。
そして自分だけがおかしいのではないかと不安になった。
シンは以前と同じく、ごく普通に着替えをし、眠り、食事する。
のぞく白い肌、微笑む顔、口元に運ばれる料理と白い歯、桃色の舌。
不躾で無礼な事ながら、イールは想像した。その肌の感触を。その美貌が官能に崩れ、その唇が快感にほころぶ顔を。隣を通り過ぎる際に薫る肌の匂いから抱き締めた時の感触を思い出し、その艶やかな腰まである長髪に手を差し入れて梳きほどき、絹地のような肌に口づけたいと思った。
これが、……これが、シンに恋愛感情を抱いているというのなら、イールは真っ当に告白して正面衝突すればいいだろう。
しかし、そうではないのだ。
イールはただ単に、体の欲求のまま妄想を抱いているに過ぎない。
男ならイールの態度はごく普通であるのだが、あいにくイールの周囲の同世代は、二人とも正常ではなかった。
おかげでイールは自分こそが異常なのだと思い込み、自然な体の欲求をもてあます羽目になった。
一方、戸惑ったのはシンである。
イールに避けられている…のはわかるのだが、何故なのかが判らない。最近イールを怒らせるような事をしただろうかと、頭を悩ませた。
「…ね、イール。僕は何か、気に障ること、した? そうなら教えてほしいんだけど」
切り揃えられた毛先が何の束縛もなく弧に広がる。腰までの長い銀髪と、その髪に切り取られた白い面。
ふわりと宙に舞う髪に目を奪われて、イールは束の間口篭もった。
「……シンは悪くないよ」
以前も美人だ、綺麗だと思っていたが…動作の一つ一つが端麗で艶があり、イールの目は吸い寄せられるようにシンを見てしまう。
「…ほんと。僕が…勝手に、その…やってるだけなんだ。ほんとに、シンは、悪くないから。ほんとに」
―――それが悪くないって態度か?
シンはそう思ったし、実際いい態度であるとは言い難かった。
「…とにかく! 何でもないからっ!」
脱兎のごとき勢いで、イールは逃げた。
後にとり残されたのは、増々困惑が深まった美貌の少年である。何かイールの気に障る事をしたのではないかと、落ち込みとともに回想した。
シンは、十五の性分化から視界が激変したりはしなかった。
彼には性欲が非常に薄い自覚があった。十五を迎えても、一向に異性同性どちらにも欲情した試しがないのである。
ただ違ったのは、容姿にある程度自信のある官が、相争って体を投げ出してくるようになった事ぐらいだ。
元々、シンは絶世の美貌と呼んでも何らさしつかえのない容姿をしていた。しかも皇族である。それも、もっとも有力な。寵愛を得ようと考える輩などいて当然だった。
「、……なあ、キール。僕は何かイールを怒らせるような事をしたか?」
悩んだ末、シンは隣を通り過ぎようとした喧嘩友達にたずねた。
洗濯物を山盛りにもち、足早に通り過ぎようとしていた相手は呼び掛けられて止まる。そこに浮かんでいるのは、呆れの表情だ。
「……おまえ、本当にわかんないの?」
「? なにがだ?」
シンは今、半袖の白の上衣に袖なしの青の上着を羽織り、ごく普通の下衣を履いている。
肘から手までの肌が剥出しであり、普段は無造作にくくられている髪も今は腰で揺れていた。
「お前、下心ある相手に襲いかかられたことなんて何回もあるだろ?」
「何回も、どころじゃないな。数える事すら馬鹿らしい」
「…で、なんで気づかないんだ?」
シンは考え込む。その間にキールは手に持った荷物を置きに、さっさと家の中に入っていった。
そしてまた戻ってきたときも、シンはまだ考え込んでいた。
顔をあげ、隣を通り過ぎるキールに聞いた。
「さっきの、どういう意味だ?」
「……なんで、お前、気がつかないわけ?」
シンは、決して鈍くはない。しかし、今はとぼけているのではなく、本当に気づかないのである。
キールはそれに気づいた。
これが他人ならば、最初の品定めの視線の時に瞬時に気づいたことだろう。しかし、シンにとってイールは兄弟同然といっていい相手である。
自分とはあまりに違うその素直さ、純真さ、無垢さを彼は深く愛し、それ故に、その純真さを過大評価しすぎていた。
イールはシンにとって聖域であり、であるが故に、そのような薄汚い欲望をイールが抱いているとは、想像できないのだ。
シンにとってイールは家族に近い。そして普通の人間が家族に性的欲求を持つことを根深いところで拒絶するように、シンにとってもイールは、いわば「対象外」なのだった。
キールは目を細めた。
はっきり言って、この相手を見て欲情しない男がいたらそいつは欠陥品だ。
梳き流れ波打つ白銀の髪、玉石を彫りこんだかのような端正さを誇る小さな白い面と華奢な肢体。それは見る者の視線を奪って離さない吸引力を放ち、戸惑いと不安に揺れる瞳は抱き締めたい欲望をそそる。
毛筋の一本に至るまで造形美の極みである幼なじみに、かつては感じなかったものを感じる時、キールはその肌の肌理こまやかさだとか、うなじの白さ、首の細さに目がいっている自分に気づいて苦笑する。
「…ナギって、すごいかも」
キールたちと違い、ナギはシンと出会ったとき既に成人していた。
否応なく性の欲求を持ち、この視界を持ち、それでいてシンの誘惑を切って捨てたのだから、凄い。
彼らは恋愛をするとき性別にはこだわらない質である。元々両性でのちに自らの意志で分化する、という構造から男女の能力差も小さく、法的な不平等も…結構ある。女性に有利なのである。そうしないと体力面で劣る女性になりたがる人間が、いなくなるからだ。
「ナギがどうしたんだ?」
「……お前を襲った奴らって、全員十五歳以上だよな」
「当たり前だ。十五以下に性的欲求はない」
「―――で、俺はもう十五歳を迎えたんだけど、わかってるか?」
シンの目が見開かれた。ああそうか、と何度も頷く。
「―――で、キール」
シンがキールの方を向いて、口元だけで笑う。不穏なものを感じさせる魅力的な微笑だった。
腕組みをし、顔にかかる髪を払う。
肩にもたれる髪が、はらりと腕に落ちた。
「……抱くか?」
瞬時に拒絶の返事が出ない自分こそに、キールは焦った。
口は言葉を発する役目も息を吸う役目も忘れ、ただ目だけが婉然と微笑む絶世の美貌を見つめていた。
息をする音すら途絶える真の静寂が襲う。
シンの微笑は謎めいて深く、蠱惑的だった。
キールですら、即答できないほどに。
「…それで、お前に貸してる九個の借りをチャラにしろって?」
からかいと、揶揄の色濃い口調にシンはやれやれと腕組みをとく。
「、……あーあ。いい案だと思ったんだが」
「冗談じゃないな。せっかくせっせと貸し付けたのに」
「別に一回で全部なしにしろとまでは言わないぞ。貸し一個につき一回寝てやる。どうする?」
「じょーだん」
キールは両手をひろげ、口元にはにこやかな笑みを張りつけたまま、問題外という態度を示した。
「…お前に貸してもらっている借金は莫大だしお前はどう見ても甘い取り立て人じゃないからな。とっとと返したかったんだが……ま、しょうがないか。にしてもこの家の人間は、ほんっとに誘惑できないな」
「何言ってる。本気じゃなかったくせに」
本気の誘惑にしては、直截にすぎた。
「…そうか? お前は、本気で誘惑しても退けると思うけどな」
どうやらシンは、キールを過大評価する傾向にもあるらしい、とキールは考えた。
まあ心理的に、そうなるのは理解できる流れである。さんざ完膚なきまでに叩きのめされ、言葉と態度で己は格下であると思い知らされているのだ。
実際のところ、キールはシンに本気で誘惑されて流されずにいる自信など、なかった。顔を見るたび妄想にはげむ様では、流される確率の方が高い。
「…で、それとイールがどう関係あるんだ?」
キールはすべった。
「……………おまえ、なんで判らないわけ?」
キールが十五になったということは、当然イールもそうである。
しかし、その公式は、シンの脳裏からすっぱり流れているらしい。
………人間の思い込みというのは、恐ろしい。どれほど明晰な頭脳も、思い込みの前には役立たずだ。
「……なんでもない」
キールは結局、そう言った。
反面、弟にはしっかり釘を刺してついでに娼館に連れていこうと思いながら。
キールは、弟に「こんなの」と恋愛させる気は毛頭なかった。猫をかぶりまくっているが、一皮剥けば自分とどっこいの極悪非道である。
それでも弟想いの兄としては本気で好きなら応援せざるをえないが、今はまだこの顔にフラフラしているだけである。まだ釘を刺せば引き止められる範囲だった。
そう、簡単だ。
こう言えばいい。
おまえ、あいつと釣り合うと思ってる?と。
2002 6/16 up