それはとても公平な唯一のかみ。

 


 月の綺麗な晩に、音も気配も息すらもせず、その存在は舞い降りました。

 今にも息絶えんばかりの病人の臥所には、たくさんの人間がいます。けれど新たな訪問者の姿に気づいた者は、誰もおりません。いえ、正確にはひとりだけおりました。

 病人の枕元にたたずんでいる、ひとりの青年がそうです。
 彼が入ってきた瞬間、病室の中にいたすべての人間は、病人を除いて全員が直立し、それから腰から体を二つに折るようにして、ふかぶかと一礼をしました。
 彼は室内をぐるりと見渡し、誰にも気づかれることのなかった訪問者にも目線をあてて、鷹揚に微笑みました。そんな仕草が似合うところを見ると、とても身分の高い、偉い人なのでしょう。
 そしてとても美しい人でした。
 背を覆う長い銀糸の糸。陶器のような白い肌。まるで月の神さま自身が降り立ったような、輝くような美しさでした。

 美しい人は病人に一言二言見舞いの言葉をかけると、早々に引き上げて行きました。
 彼が出て行ったとたん、病室には先ほどまでとは質の違う喧騒が溢れます。
 今死に瀕しているこの人は、あのような身分の高く美しい人の訪れを受けるほど地位の高いひとではないのです。
 先ほどまでただひたすらに、一心に病人のことを気遣っていた人々は、口々に美しい人の慈悲と寛容を口にし、疑惑をぶつけ合います。
 病人に対する気遣いと、心配を忘れなかったのは、病人の側近くで見守る恋人だけでした。
 そしてまたその恋人も、彼らを恨む気持ちはこれっぽっちもありませんでした。
 あの美しい人には、それだけのことをさせる価値があるのですから。

 さて姿の見えない訪問者は、死を目前とした沈痛な空気が一人の人間のおとないによってあっけなく壊されてしまったことに少々興味をそそられ、彼が出て行った後を追いました。
 するとどうでしょう。
 廊下には、さきほど出て行ったばかりのかの人が、たたずんでいるではありませんか。

「やっと出てきたか。待っていた」
 彼はそう言いました。
 どうやらその美しい人は、本当にこちらのことが見えるようでした。
「私がわかるか、リルレーン」
 リルレーン。
 聞いたことのない名前です。
 しかし、その名で呼びかけられた瞬間、姿のない訪問者の中から姿があらわれました。
 わずかな空気のゆらぎが作る、見えない衣を脱ぎ捨てるような一瞬が過ぎ去ったあと、そこにいたのは、女の人でした。

 けれどもそれが人ではないことは、すぐにわかったでしょう。
 彼には、彼女はとても小さな頭と、地面にふれるほど長い髪の貴婦人に見えます。けれどその髪は決して地面にはふれません。頭皮の部分は人と変わらぬその髪は毛先にいくにつけて周囲の髪と集まり、ねじれて、錐のような形状になっています。そのような髪の束がいくつも彼女の周囲に浮かび、それ自体があたかも彼女の身にまとう漆黒のドレスの装飾品のように体に絡み付いていました。
『―――私を呼びましたか?』
 彼女は口をひらきました。その声は知性と教養を感じさせる、身分のたかそうなものです。
 それもそのはず、彼女は精霊の女王でした。けれど、孤独を強制される女王です。
 なぜなら彼女は死、そのものを司る女王ですから。
 精霊すらも彼女を恐れます。ですから彼女は常に孤独でした。
 そんな彼女に、最近ようやく友人ができました。……長命をほこる精霊の世界での最近ですから、実際はもう十年以上も前のお話なのですが。
 その友人の、更に友人が、この目の前にいる美しい人なのでした。

「……一つ……いや、三つほどたずねたい。さっきのは貴方ではないのか?」
『私は死を司る者。ですが一や二の死にいちいちかかずりあっていられるほど、暇ではありません。私は死の精霊ではありますが、死の精霊は、私だけではありません。あなた方に判りやすく言うと、あれは私の手足の一つにすぎません』
「彼は助かるのか?」

 おや、と彼女はその美しい人を見返しました。
 彼女はそのとき悟ったのです。この人は、それを聞きたいがために、ここにいて彼女を待っていたのだと。
 彼女はゆっくりと言いました。
『私は唯一公平な運命。死だけはどれほど高い身分の人間にも巨万の富を築いた人間にも訪れるもの。けれど私のもたらす運命は絶対ではありません』
「……意味が、よくわからない」

『この世には、決定している運命などありません。死者を生き返らせる運命ですら、極わずかな道ですが残っています。つまり彼が今ここで死ぬかどうかも、決定はしていないのです。生き延びるかどうかも決定していないものですが』
「ではなぜ死の精霊があの場にいたのだ?」
『人の間では、人の体の中には魂というものがあってそれを死の精霊が冥界へ導くという俗説が信じられているようですが、とんでもありません。命に貴賎はありません。それが本当だとしたら、昆虫が一匹生涯をおえるたび、一匹の獣が命を終えるたび、ごまんといる人間が生涯を終えるたびに、精霊はその場に赴かなければなりません。つまり、見渡す限り死の精霊が存在しているということになります。けれど、あなたは死の精霊を見たのは今日がはじめてでしょう』
 美しい人は短く肯定を返します。

『死の精霊は死の気配に敏感です。それに引きつけられてその場に姿を現すこともあれば、無視することもあります。彼が助かるかどうかは、彼自身の体力と運と周囲の尽力次第であり、死の精霊の有無はなんら関係ないのです。―――こんなところでよろしいですか? 緑の座』
 美しい人は右手を左手の肩にあて、優雅に一礼しました。

「ご教授、感謝します。人外の高貴なる御方」

 死の女王は軽く頷いてその礼を受け入れ、姿を消そうとしてとどまりました。
『死にかけている者とは誰なのですか?』
 美しい人は返答しました。
「私の教師であった人間です」

 彼女は納得し、その心の裏側で安堵して、そして今度こそ虚空に姿をすべりこませました。
 彼女は死の女王。
 この世で唯一、公平なる運命です。
 彼女がどんな病人もけが人も、一時だけとはいえ死のあぎとから救うことができるという事は、決して人には知られてはならないものでした。
 そう、彼の友人でもある彼女のたったひとりの友人が死に瀕していたとしたら、彼女はその誘惑を退けることができたか、彼女自身にもわかりません。

 ですから、彼女は安堵したのです。
 現在死に瀕している人間が、彼女の友人ではないことを。
 人間が不公平な生き物であるのと同様、精霊もまた、不公平な生き物だったのです。

 


 これはパラレルワールドです! 本編には関わりないお話です。

オリジナルイラストをしこたま描いていただいた瀬戸さまへの寄贈品。
天の烙印シリーズの、番外編的物語です。

「ちょっと今リクが山とたまっていて忙しいので……、ふつうのリクエストは受け付けられませんが、これだけ貰っていて貰い逃げというのもアレですから、短編でよければお礼にお書きします。
 シンとリルレーン。
 キールとリルレーン。
 精霊とリルレーン。
 どれがよろしいでしょうか?」
と杉浦から三つ指定して、瀬戸さまがお選びになったのは「シンとリルレーン」でした。

 返事が返ってきたその日のうちに、あっというまに書き上げることができて、私としても久々にとても楽しく書けた作品でした。

 

2002 6/11 up

 

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