生贄募集 3 



 昔々のお話です。

 今から百年ほど前のある日のこと。
 とつぜん、ある生き物が現れました。
 人しか食べられず、人よりも強く、人からみてとても醜い怪物です。
 そんな生き物が、忽然と世界に現れたのです。

 彼らを、人間は「ゲーグ」と名づけました。

 ゲーグは瞬く間に世界を制圧しました。
 手に武器を取り合って抵抗した人たちももちろんたくさんいましたが、皆殺されて食べられるか、あるいは食べられるところを見て、戦意を消失してしまいました。
 皆を率いて戦おうとした偉い人は、真っ先に食べられてしまったそうです。

 国?
 今、この世界に国はありません。
 王様も、お姫様も、王子様もいません。
 そういう呼び名に相当する人は、世界のどこにもいなくなってしまったのです。
 国と呼べるほどの土地を支配している人は、どこにもいません。
 隣町の親戚が生きているのか、死んでいるのかすらわからないのに、どうしてずっと遠方の国王様が無事なのか、なんてことがわかるのでしょう?
 同じように、徴税官も来なくなりました。
 代官様も来なくなりました。
 連絡をつけようと出かけていった人間は、それきり二度と戻ってくることはありませんでした。

 村や町や街で、一番偉いのはその集落の長です。
 そして、それでおしまいです。
 国なんてものはありません。
 集落の外に出ていけば、そこは魔物の土地。
 生きては戻れないのですから。
 そこで生まれた人間は、一生をそこで過ごすのです。

 ゲーグ。
 人よりも強く、人から見て非常に恐ろしい姿をして、人しか食べられない生き物である彼らによって、人間の尊厳は奪われました。
 どこかへ出かけることも、物と物のやり取りをすることも、とても難しいものになってしまったのです。
 人しか食べられない彼らは、人間を滅ぼすつもりはありません。
 大事に飼い、増えてはさらって捕食します。
 人間が彼らとの境に打ち建てた柵は、一体誰に対してのものなのでしょうか?
 柵には二つの意味があります。

 一つは、外のものを中に入れないようにするもの。
 もう一つは中のものを外へ出なくするためのもの。

 果たして人間が自分自身の領域に立てた柵は、どちらなのでしょうか?
 家畜の厩舎に建てた柵との違いは、あるのでしょうか?
 もはや人間は万物の霊長の座を追われました。
 いまや、この大地の覇者は、彼らゲーグです。

 ゲーグの発生と同時に、この世界には福音がひとつ、もたらされました。
 それは、異世界人です。
 彼らは世界中いたるところに現れいでて、住民に理解不可能な言葉を撒き散らす異邦人でした。
 魔物の発生と、彼らの流入は同時に起こりはじめました。
 彼らこそが、ゲーグ……魔物の発生した原因で、この世界に存在する異世界人をすべて退治すれば、世界は元通りになってゲーグもいなくなるなどと言い出したのは、一体誰だったのでしょう?

 たとえ最初は意志の疎通が困難でも、数年すれば言葉を覚えます。
 言葉を覚えた異世界人は、さまざまな役立つ知識をこの世界にもたらしたでしょう。
 異世界人の多くは、有能な人間でした。素晴らしい知識をたくさん持ち、元の世界では一目おかれている人ばかりでした。
 農耕、牧畜、武器の作り方、発電、紙、電話、飛行機さえも彼らは伝えてくれたでしょう。
 ―――でもそれは夢の話。

 異世界人とわかれば狩るこの世界では、異世界の人は数日と命を永らえることができずに無残に殺されていきます。
 突然言葉の通じない、風習の違う世界に放り込まれ、その住民のふりをするのは不可能です。
 純朴な農民でさえ、異世界人には鍬を振り上げて襲い掛かります。
 それが、隣人や家族のためになるということを信じているから。

 幸運にも人家のないところへ落ちても、飢え死にか、乾き死か、魔物に襲われて死ぬかのどれかの運命しかありません。
 異世界人は、ほとんどが落ちて数日で帰らぬ人となります。
 生き残るごくわずかな人々も、自分たちが異世界人であることは固く、固く秘めて誰にも悟られてはいけないと肝に銘じています。

 大地の支配者たるゲーグに飼育されている人間たちは、ゲーグの意志どおり、自分たちを助けてくれるはずの異世界人を殺しつづけているのですから。

     § § §

「マイ、頼まれてくれるか?」
「ん、わかってる」
 相棒が何を言いたいのか正確に汲み取って、この世界で初めて会った人間が異世界人だったという極度の幸運に恵まれた人物はうなずく。
「本当に、生贄候補があの二人なのか、だろ?」
 情報のウラはとれ。生きるうえでの鉄則だ。
「行商人の情報なんて何一つ信用できない。当の本人からの情報なんてもっとだ」
「大丈夫、うまくやるよ。こういうのは僕の方がうまいしね」
「任せた」

 シュレイルは憂鬱そうな顔になる。
 マイも付き合って憂鬱そうな顔になろうかと思ったが、やめた。
 かわりに別のことを言う。
「何考えてんのか、当てようか?」
 シュレイルが顔を上げる。面白がる表情が浮かんでいる。
「へえ? 俺が何を考えているのかマイにはわかるのか?」
 マイは涼しい顔でいった。
「わかるわかる。まず一文の得にもならないことで、考えて結論が出ても出なくても大差ないことで、自虐的なことだろ。でその上、今の状況でシュレイルが考えそうなことといったら決まってる」
「……」
「生きるために人間を食らう魔物は果たして悪だろうか、いやちがう。ではその魔物を殺し、その死体を売りさばいて利益を得ようとする生き物は善だろうかって考えているんだろ?」
 大当たりだということは、表情を見ればわかった。

 マイは正解を当てたことを確認すると、腰に手を当てて一息に言い放つ。
「はっきりいおうか? ばっっかばかしいね!」
「……馬鹿馬鹿しいのか?」
「うん。頭のいい人間って、これだから困るよ。魔物が悪じゃないって? 自分たちが悪じゃないかって? そんなこと考えてどうすんの? なんか得ある?」
「じゃあ、マイは魔物は悪だと?」

「あたりまえ。僕は僕の生存のために戦っている。僕を殺して食おうとしているやつは悪。僕の生存の邪魔をしようとするやつは悪。僕の生存を妨害しようとするやつは誰がなんと言おうと、僕にとっては悪だ。よって魔物は悪。シンプルだろ?」
 シュレイルはぽかんと口をあけて、マイを見た。
「頭のいい人間は、余計なことを考えすぎるんだよ。僕は僕の生存を助けてくれる相手は善で、妨害するやつは悪だと思ってるよ? それで今まで何の支障も出てない」

 マイの思考方法はシンプルだ。
 呆れるほど単純で、それゆえに迷いがない。
 自分が生きることを迷わず「善」と定義でき、全力を注げるのがマイの最大の強みだった。
 自分が生きていていい人間なのか自分は何のために生まれてきたのか判らずむなしい、なんていう言葉を真面目に語る人間は、マイにかかっては「贅沢者のたわごと」だろう。
 そうした言葉を、阿呆らしいと感じさせるパワーの持ち主だった。

 シュレイルは何かを言いかけてやめ、何かを言いかけてまたやめ、ということを合計四回ほど繰り返した後に、白旗をかかげた。
「降参」
「よろしい」
 横柄に言って、二人でそろって吹き出した。

     ◆ 

 翌日の昼、やってきた姉弟は行商人が条件をのんだことを伝えた。
 それはマイたちにとって小さくない驚きだったが、そうと決まれば話は早い。
 次の生贄候補がこの姉弟だということも、ウラがとれていた。
 最後に、マイははっきりした口調で確認を求めた。
「お前たちが逃げ出したら、他の人間が犠牲になる。それでもいいんだな?」
 高圧的な口調は、故意だ。

「かまわない」
 言い切ったのは、弟だ。
「俺たちを犠牲にして生き延びようとした他の村人たちがどうなろうと、俺たちは知らない」
 一面の正論ではある。
 ……その姉弟の前にも、生贄としてささげられた人々がいたのだということをのぞけば。

「わかった。……僕たちのところへ来たことを、あなたたちは隠した?」
「え? いや……?」
 これだから素人は困る。
 旅人に生贄候補が接触したら、何が起こっているか、他の村人からは丸わかりだ。
 マイは、鋭い眼差しで二人を見据えた。
「―――今の台詞、忘れるな。僕らは僕らの生存およびあんたたちの生存を第一に考えて動く。他の人間の面倒まで、見るゆとりはないからな」

 その言葉の意味を二人が理解したのは、すぐだった。
 シュレイルに腕を切り飛ばされた村人と、マイに斬り倒された村人の姿に。

 凍りついたようになった二人に、マイは怒鳴りつける。
「お前は他の村人がどうなっても知らないといっただろう!」
 マイは、姉の方の手をとって走り出す。もう一方はシュレイルが受け持ってくれるとわかっていた。

 宿屋を出てすぐ、村人たちに包囲された。
 彼らは恐らく何事かを要求しようとしたのだろうが、その前に二人の剣が鞘走っていたのだ。
 村人たちは今の惨劇で動きが鈍い。
 魔物相手にわたりあい、平気で村や町を行き来する凄腕の旅人のうわさは、行商人のグローブによってこの集落全体に浸透していた。
 そのうわさを今の一瞬の惨劇で思い出せば、自然と前へ立ちはだかろうという意気もくじける。

 ほとんど抵抗もなく行商人の馬がつながれている厩舎にまでたどりつくと、グローブが馬の側で待っていた。
「お早かったですね」
 準備万端整えてにっこりと微笑む姿に、真意が一層わからなくなったが考えるのをやめる。
 長い間騙したり騙されたりしていると、人の純粋な善意すら疑うようになってしまうから、困る。
 グローブが善意でしたことの裏を、マイたちがあれこれ勘ぐっている……。それが案外正解なのかもしれなかった。

 二頭の馬には鞍と蹄鉄がつけられ、荷袋が積まれている。今すぐにでも出て行ける姿だ。
「必要なものはすべてその中に準備しておきました。お元気で」
 マイは、彼を見つめた。
 マイが余計な感情を込めず凝視すれば、大抵の人間は動じる。
 グローブもいぶかしがった。自然な反応だ。
「なにか……?」
「僕らは、人より疑い深くなっている。あんたがこうまでしてくれる理由が、今ひとつわからない」
「正直な方ですね」
 真正直に言う態度に、グローブも苦笑ぎみだ。
「理由は簡単です。私は、生贄制度というやつが、気に入らないのですよ」
「でも、それで助かる人間は数多い」
「そうですね。でも、病弱な何の役にも立たない人間だから、なんて理由で選ばれた人間には、生贄になってほしくないんですよ」
 理屈でいえば、それはおかしい。

 しかしマイはそれ以上の追求は控えた。
 のんきに話し合いなどしている場合ではないようで、どうやら村人たちが厩舎ごと火をつけようとしているようだし、人間の感情は、理屈がおかしいことがほとんどだし。
 なにより、一人残ったグローブが村人から酷い目にあう確率の高い現状からすれば、その善意に感謝だけして、追求などしないほうがいいだろう。

 騎乗したマイは、姉の方に手を伸ばして引き上げる。
「しっかり横座りに腰掛けて、僕の体にしがみついて」
 マイが指示をだして、姿勢を安定させる。
 駆け出す間際に姉弟はグローブに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
 おざなりではない。
 心からのものとわかる、感謝の熱い気持ちのこもった言葉だった。

 マイはしっかりと二本の腕の間に女性を挟み込むと、馬を走らせる。
「絶対に剣の軌跡にはいらないように体を小さくしてしがみついて!」
 人間一人抱えたまま馬を手綱で操りながら剣を抜いて交戦するのは、たいへんだ。
 厩舎の前に立っていた人間は走る馬の迫力に自ら体を引いた。

 集まっていた人間も馬を止めようと前に出てくることは無い。
 人間の身ひとつで、疾走する馬の前に立ちはだがるのは相当の度胸がいる。
 人間にとって馬は大きいし、それが全速で走ってくるのだ。慌てて身をかわしたくもなるのが当たり前だ。

 町の境界に設けてある柵の前で、シュレイルは一旦足を止めた。馬を操って横付けにすると、剣を振るって柵をばらばらにする。
 ほんの一跨ぎ程度の高さにしてしまうと、四人はその柵を越えた。

     ◆

(も、あの町寄れないなー)
 その日の晩、マイは野営の準備をしながら思った。
 マイたちは町から町へと移動しつづけて二度同じ町によることはほとんど無い旅人だから寄る確率が低いが、今後、何か変なアクシデントで寄らざるを得ない状況にならないことを祈る。

 外を歩くときは、街道沿いが鉄則だ。
 魔物の大地となったこの世界で、それでも外を歩くのなら、これだけは守らなければならない。
 離れてもせいぜい片道30分まで。
 幸い、この世界の街道は補修もないのにきちんとしている。……あまり誰も突っ込まないが、それは考えたくないからだろう。魔物が街道を手入れしているところなど。

 人間が餓死をすれば、魔物にとってもマイナスになる。
 飢饉になれば死体が手に入るが、手に入るのはやせ細った体だけで、さらに人口増加も見込めない。安定した食料供給のためには、魔物にとっても人間が元気よく、健康で、どんどん増えてくれた方が都合がいいのだ。

 マイは、依頼人に目をやる。
 仕事として請け負い、金も受け取った以上は、仕事としてきちんとやる。
 先ほどマイは、グローブが用意した荷物のなかの食料を二人に渡した。
「これは君たちの分の食料。これを十日で消費する。ペースは自分たちで決めるといい」
 マイたちは、自分たちが用意した食料を自分で食べる。
 毒でも混ぜられたらたまらない。

 その日、焚き火の番をしていると、話しかけられた。
「あの……、マイ。少し話をしたいのですが」
「ああ、いいよ。どうぞ?」
 彼は地面の上に座った。
 膝に手をやり、上半身を思い切り倒して、星空を見上げる。
 ほうっと吐息。
「……ここが、『外』なんですね」
 そういう反応は珍しくない。

 ほとんどの人間は、生まれた町で育ち、生まれた町を出ることなく死ぬ。
 親も、こんこんと子どもに言い聞かせる。なにせ、魔物につかまったら子どもだろうがいたずら半分だろうがそんなこと聞く耳など持たずに殺されて食べられてしまうのだ。必死になって子どもに外へ出てはいけないとさとす。繰り返し繰り返し、子どもであっても言いつけを守れるぐらい、延々と。
 子どもが、意識の奥に外への恐怖心を宿すほどに。
「外へ出たら、最初の一歩目で襲われて食べられるのかと思っていました」
「こっちは馬だからね。連中は頭がいいんだ。追いすがっても追いつけない相手は最初から追わない」
「魔物は馬より足が遅いんですか?」
 意外そうな響き。
 マイはかぶりを振る。
「魔物にもいろいろあるんだよ。馬より遅いのが多いけど、早いのもいる。馬を使えば追いつけないなんて簡単な連中だったら、とうの昔に連絡網が復活してるよ。でも、やっぱり、馬より徒歩の方が危険だけどね」
 ひきつった笑顔が浮かんだ。尻に手をやる。
「まだ尻ががくがくします」
「そう、その調子」
「え?」
「無理にでも笑うんだ。笑うと、どん底でも光がさすからね。やせ我慢も実力のうち、笑うほどの余裕がないときでも、やっぱり笑うんだ。これから、もっときつくなるから」
「シュレイルも、マイも、平気そうですね」
「慣れてるし、鍛えてるから」
 マイは、言葉を添えた。
「魔物が出てくるのなら、これからだ」
「え……っ」
「そのときは僕とシュレイルの指示に従って。守るから、うろちょろ邪魔にだけはならないで」
「わ、わかりました。指示に従います」

 そして、マイは、相手が聞きたいだろうことを答えた。
「殺してないよ」
「え?」
「生きてる。僕も手加減したし、シュレイルも手加減した」
「そう、ですか……」
 ほっとした様子の彼は、やはりそれが気になっていたのだろう。町の人間は運命共同体だ。全員が全員と顔見知りで、助け合いながら生きていく。名前も家族構成も知っているものなのだ。
 いくら一瞬心を非情にかためても、それでも普通の人間は割り切れない。もやもやと、くすぶり続ける。それが、人間らしい心というものなのだろう。

 マイはくすりと笑う。
(じゃあ、僕は、もう人間じゃないのかな?)
 そんなことさらさら思っていないからこそ、そんなことを考えてみる。
 マイ自身は自分を、これ以上は無いというほど、人間らしい人間だと思っている。
 自分と相棒が無事であるためには人を殺しても許される、と「良心の咎めなく」考えている人間だが。

 マイは気配を感じて顔を上げた。
 腰に手をやると、青年を突き飛ばした。先ほどまで青年の頭があった位置を、鋭い音とともに飛来したものが貫く。
「そのまま伏せてろ!」
 天幕に叫ぶ。
「シュレイル!」

 焚き火が作る光に照らされて、魔物が浮かび上がる。
(二足歩行……)
 歩くたびジャカリジャカリとゆれる木の葉は、魔物の体中にこびりついている。
 魔物は木の葉に手をかけ、脱ぎ捨てる。
(木の葉の、ころも……か!)

 昼間ならともかく夜になんでそんなものを着る必要があるのか不思議だが、おそらく、昼に人を襲う用に着ていたのを今脱いだのだろう。
 ゲーグに知能があることを知らない旅人など一人もないが、それは同時に人間と同じようなポカミスもするということだった。
 二足歩行のその魔物の顔面は岩に似ていた。石の色の肌は、質感までもが石だ。きっと硬さも石だろう。
 武器の損傷を思うと、ちょっと悲しい。この戦いで剣が駄目になっても、最寄の町に寄ることもできない。

 天幕からシュレイルが飛び出してきた。
 マイは魔物から目を離さず、彼に声を掛ける。
「シュレイル、よろしく。僕剣限界」
 マイは彼にバトンタッチして後ろに下がる。

 戦いはあっけなく終わった。
 シュレイルが剣で数回薙ぐと、いかにも硬そうな魔物は肉片になった。
 それでも油断せず、脳天に剣を差し込んでどんなに生命力が強くても絶対に起き上がって来れないよう、とどめをさす。
 魔物は、殺したつもりでも起き上がってくることがあるから厄介なのだ。

 まだ律儀に伏せていた依頼人の青年に、マイは声を掛ける。
「もういいよ」
「あ……」
 起き上がろうとして地面についた手が震えた。
 顔がぬれていて、汗を大量にかいているとわかる。止まらない震えにこぶしを作る青年の姿を、マイたちは黙って見つめた。
 嘲笑などは浮かばない。人間として当然の反応を、あざわらうような人間には、なりたくない。

 震えを数分掛けて押さえ込み、青年は立ち上がって頭を下げた。
「あ―――りがとうございます」
 シュレイルがいう。
「当然のことをしただけです。明日も、また長い一日になる。少しでも休んで体力を取り戻してください」

 闇の中から異形の手がのびて肉片を攫った。
 偶然それを目にしてしまい、青年はうろたえた。
「あ、あれは!?」
 シュレイルは答えた。
「この辺に住む、別の魔物でしょう」
 平然としているシュレイルとマイをみて、青年は気味の悪いものを見るようなまなざしを向けていたが、数秒で視線はやわらいだ。
 それは、特別なことでも意外なことでもない、彼らにとっては普通のことだと理解したようだった。
「き……危険は、ないんですか?」
「魔物の死体が一体あれば、魔物はそれを喰らって飢えを満たします。飢えていない魔物ほど安全なものは無いですよ。人間とちがい、人間に対して食料となる以外のことを求めませんから」
 人間にとって、飢えていない人間は危険だが、飢えていない魔物は危険ではない。
 飢えていなくとも人間は人間にとって危険だ。強姦や強盗や殺人する人間はこの世界でもたくさんいる。
 でも、飢えていない魔物は危険ではない。
 豚に、食料となる以外のことを求める人間はいないだろう。そういうことなのだ。

 視線に、畏怖のようなものが混ざる。
 それが恐慌になるまえに、マイは口を開いた。
 視界の端に、天幕から女性が出てくるのが見える。
「恐ろしいですか? 魔物が」
「恐ろしくない人間なんて……いないじゃないですか。それともあなたは怖くないとでも?」
「そうだね。僕も魔物は恐い。でも、それは魔物に自分が殺されることが怖いのであって、魔物という種族自体を怖いという感情は、あんまりないんだ」

 静かに耳を傾ける姉弟に、マイは続けた。
「どこが違うのかと思ってると思う。その気持ちはよくわかるよ。僕も禅問答はきらいで、判りやすいのが好きだ。―――そうだな、あなたの町では、プーイーを飼っていたでしょう?」
「え、ええ」
 プーイーとはダチョウのことだ。
「そのプーイーがもし暴れたら、あの巨体だから、命にかかわる。何かの事故でプーイーに攻撃されたら、人間なんて大怪我してしまう。でも、そのことに気をつけていても、だからといってプーイー自体を怖いとは思わないでしょう?」
「でもそれとこれとは違います!」
「どこがちがうの!?」
「プーイーは、人間の役にたつ素晴らしい生き物です! でも、あいつらは……! 人間しか食べられない!」

「そう。僕は、そのこと自体を怖いとは、思わないんだ」

 言葉が浸透するまで、数秒を要した。
 シュレイルもマイの言葉に耳を傾けているが、視線はマイではなく、外部に向けられていた。
「僕は旅人でこんな生活だから、あと十年も生きられないだろう。そう遠からず、数年以内に殺されてゲーグのご飯になる。……人間に殺されるか、魔物に殺されるかは、わからないけれど」
 それは、ほとんど確定した未来としてマイの目に映る。
「そして、君たちも、あと五十年は生きない。死んで、そして、ゲーグのご飯になる」
 時を未来に移しただけの、それは事実だった。
 この世界で、埋葬される人間なんて一人もいない。はるか昔に埋められた死体にいたるまで全て掘り起こされ、魔物に与えられた。骨だけでも、魔物の空腹を癒す役には立ったから。

 マイは腕を上げて、暗がりの奥、咀嚼音が聞こえてくる方を指差す。
「あの魔物も、そう長くは生きない」

 わずかに二人の表情に動揺がはしった。魔物への恐怖が染み付きすぎて、不死のように感じていたのだろう。
「あの魔物も、五十年は、生きない。老いて弱ったところを仕留められるか、老衰で死ぬかして、必ず命が尽きる」
 それが自然の摂理。
「そして、他の命をつなぐ、糧となる。何も食べずに生きていける生き物なんていやしない。永遠に生きる生き物なんていやしない。死んで、食べられて。食べた方も、弱って、死んで、食べられる。そうして、命は繋がっていく。この地上の最後の一匹にいたるまで」
 マイはかすかに微笑む。
 それは、口元に浮かんだほんのわずかな微笑みだったけれど、珍しく、嘘のない笑みだった。

「僕は、自分がその命の輪につながっていることを、怖いとは思わない」

 確信とともに語られる言葉は、いつの時代も説得力がある。
 マイが語る言葉は、聴くものの心を揺らす力がある。
 マイが語ったのは、「魔物をそう怖がるな」ということだ。それを少し表現を変えて言ったにすぎない。
 少なくとも、闇雲な恐怖を少しは軽くしただろう。
 この話をしたのは、魔物に襲われた後の一般人が陥りやすい恐慌状態の末の非難を封じるためと、今後魔物に襲われたときに恐怖でパニックにならないようにという意図からだ。
 だが、話したことは本心だった。

 マイは、魔物自体に恐怖は持っていない。殺されることは怖いが、それだけだ。自分の死体が食われて自然に還ることには、感謝すらおぼえる。……もっとも、異世界人の死体を食えるかどうかはわからないが。

 食物連鎖という名の、命のつながり。
 その頂点に立っていた人間の傲慢はもうなく、魔物にとってかわられた。

 人間が生きるために家畜を屠殺して食う。
 魔物も人間を食う。
 変わらない。変わらない行為なのだ。
 生存のための、捕食行動。

 それを理解してなおマイが他とは違うのは、「だから魔物に罪はない」とはいかないところだ。
 マイはこう考えている。
 ―――だが、人間である以上、魔物を肯定してはならない。
 と。

 シュレイルのように考え込むなんてもってのほか。
 魔物に食われる側の人間は、絶対に何があっても魔物を肯定してはならないのだ。正義かもしれないとか、食われるのが運命かもしれないとかは考えてはならない。
 否定して、否定して、抵抗して、拒絶して、憎んで、殺して、そうして生きていかなければならない。
 それはもうすでに義務だ。
 食われる側の、権利であり、義務。

 だからマイは、一生魔物を否定し続けるし、生存権など認めない。
 それが人間の、正しい態度だ。
 向こうが人間に「生存権」なんていうものをまったく考えないように、人間も考えるべきではない。
 食物連鎖。
 その鎖に結ばれた二つの種族はお互いの無理解と断絶こそが正しいのだ。
 たとえ一万年すぎようと、魔物と人間が仲良く暮らせるときなど絶対に来ないのだから。

 マイは二人を促した。
「さあ、もう寝よう。シュレイル、まだ僕が見張りの時間だから、寝てていい」
「ああ、頼む」
 そうして三人は寝床に戻っていった。





2007/06/2 up

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