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あなたは間違っている 45
この剣は、嫌いだ。
人を切っても、何の感触もないところが嫌いだ。
空気を斬るのも人体を斬るのも変わらない、手に伝わる感触がない、肉を裂く感触も骨を叩き折る感触もない、そんなの何が楽しい。
シュレイルに対して、面と向かって言った。
切れ味がいいのは認めるし、いい剣なのも認める。手入れの労力がいらないのもすごくいいメリットだと思う、でもその剣は嫌いだ。
人を殺しても、何の感触も手に残らない。そんなの、つまらない。僕は肉を断つ感触も骨を折る感触もすべて手に残る剣がいい。
◇
何の手ごたえもなく。
一瞬のひやりとした感触が、麻衣の体を切断する。空気を斬るように何の感触も残らない。やっぱり、嫌いだった。
麻衣は歯を食いしばりながら、剣を慎重に下ろした。
切り落としたのは、左腕の肘より少し上。
痛みは―――さほどでもない。痛み止めが効いているのだ。それに、初めての経験でもない。
痛みでいえば、この間超能力者にやられた「アレ」の方が10倍は痛かった。
麻衣は切断された自分の左腕を見下ろす。麻衣は両手利きだ。右も左も同じぐらい器用につかえる。六年間で、身につけた技能だ。
生まれてきてからずっと一緒だった手。すこしだけ感慨のような物がわいたが、もうすぐ死ぬのだと思うと、その感慨も消えた。
「カイン!」
叱咤の響きで声を出すと、人形のように固まっていたカインは生命を吹き込まれたように動き出した。
駆け寄り、用意されていた紐を手に持ち、手早く止血をする。この段階でカインの手は必要だ。どうしたって片手では手早くこの作業はできない。そうするうちにも出血は床に赤い水溜りを作っていく。
経験から、麻衣は出血の多寡が思考力さえ左右する事を知っていた。まともにものを考えられなくなったら、おしまいだ。
カインが止血作業を終えるまで、一分ほどかかった。これだけの流血沙汰に突然出くわしてのこの数字は、非常に手際がいいといえる。
そしてその間に、麻衣は自分が賭けに勝った事を知った。
激痛が、右太腿から上へ、胴体に昇っていく。
これが、石だ。
石が麻衣がやろうとしていることに気づいて、避難を始めたのだ。四肢から基幹部へ移動している。
通常、石の移動には痛覚は伴わない。痛みを伴うほどの速さで、石は移動している。焦っているのだ。
石が麻衣の痛覚までのっとってないか。
石が麻衣の胴体に潜んでいないか。
石が居場所を知らせるような、移動をするか。
どれもこれも、賭けだった。
しかし麻衣は、賭けに勝った。
麻衣は床―――ビニールシートをひろげた上に座り込むと、右太腿の少し上、足の付け根の真上で剣を横に構え、一つだけ息を吸い込むと速やかに下ろした。
自分の足を切り落とす作業の間でも、冷静に、床を傷つけることなくかといって足を切断し損ねることなく手をとめた沈着さは、褒められるべきだろうかそれとも戦慄するべきだろうか。
少なくともカインは後者の眼差しで麻衣を見ていた。
「―――カイン、止血」
痛みに顔をしかめながら、変わることのない冷静さで麻衣は指示する。
身震いのように一瞬震え、弾かれたようにカインは動き出す。
麻衣は止血が終わると、床に座ったまま、上半身を起こす。片手片足を失い血を大量に失った身体に鞭打って、また、剣を上げた。
先ほど切り落とした自分の足を、丹念に切り刻む。
事前に説明を受けていたとはいえ、カインが血の気引いた顔で、それを見ていた。ちなみに一部始終はビデオカメラに録画されている。
後日、カインが殺人犯の汚名を着ることのないようにと、麻衣なりに配慮したのだ。
剣を振り下ろし、剣を振り下ろし、剣を振り下ろす。
……手ごたえのない。ほんとうにつまらない。
とはいえ、その切れ味は楽といえば楽だ。
骨も筋肉も障害にはならず、刃がすべっていく。
やがて血と肉の塊の中から明らかに違う輝きの赤い石が転がり出てきたときには、心底ほっとした。
麻衣は剣を握りなおす。
……これで、すべてが終わる。
自分がこの世界に生まれたことも、あの世界に飛ばされたことも、そしてこの世界に戻ってきて絶望を味わったことも、すべてに意味があったと思える。
剣で石を一撃すると、石はあっけなく壊れた。
割れたのではなく、砂のように崩れていったのだ。
麻衣は剣を鞘に収めてから、投げ出す。
……終わった。
自分はただこのために生まれたとしても、それでもいい。
人生すべてを投げ出しても悔いのないほど、愛することができた。
自分と同じぐらいひたむきに誰かを愛せた人間は滅多にいないだろう。それほど愛せる誰かに出会えた人間は、とても少ないに違いない。
出会うまでの人生よりも、家族よりもそれまでの暮らしよりも何よりも愛している。
あの人に出会えた。それだけで、異世界に落ちたこと、それまでの暮らしをすべて奪われたこと全部許せた。
こんなにも人を愛せた人生は、ここで終わる。
満足のいく一生だった。
足には太い動脈が走っている。
出血の血だまりはますます広がり、麻衣は気がつけばその生温かい海のなかに倒れていた。
カインは唇を引き結び、何かにたえる男の顔で、麻衣を見ている。離れたところから麻衣を見て、救急車や、助けを呼ぼうとはしない。
麻衣はうっすらと笑う。―――それでいい。
利害が一致していたのはついさっきまでの話。
今となっては、渡辺麻衣は一族の多くの人間を殺した、仇だ。
手を貸すのは一時の安っぽいセンチメンタリズムを満たすにすぎない。死んでいくのを、見届けるのが、カインの立場としてもっとも正しい行為だった。
―――痛みは、いつの間にか遠のいていた。
激痛と引き換えにしても石を壊したご報美か、人生の最後に、神様がオマケしてくれたらしい。
悪い気分ではなかった。酒に酔ったような、気分の高揚。
天井の模様を数える思考が、五で止まる。
眠りに落ちるように、思考が分解する。ほどけていく糸を、引き戻す意志もない。
さらさら、さらさら。
麻衣の目蓋が、ゆっくりと落ちる。
―――耳を打ったのは、どんなときも聞きたがえることのない人の声。
「マイ!? どうしてここに……!?」
一瞬で現実に引き戻されて、麻衣は目を開けた。
抱き起こされる感触。首がのけぞって、その視界に、あの人がいる。そしてその背後にいるのは黒髪の……ああ間違いない、何度か聞いた、「彼」。彼も驚愕の眼差しでこちらを見ている。その背景は麻衣がいたホテルとは似ても似つかない……。
剣が落ちているあたりは見慣れたホテルの内装だ。
ちょうど麻衣がいる辺りを境界線にして、二つの世界が融合していた。
麻衣を抱き起こした人の目が、投げ出された剣に向かう。
「ああそうか……。剣、お前が……」
麻衣も理解する。
剣のもともとの所有者は? ―――シュレイル。
今の所有者は? ―――渡辺麻衣。
なんで麻衣が持っていた?
―――シュレイルが、譲り渡したから。
麻衣がいるから剣はこの世界にあった。しかし、麻衣が死んだら、剣はシュレイルの側に戻りたがる。
剣が、次元を繋いだのだ。
麻衣は残った右手を、シュレイルにのばす。
震える手は血に染まり、シュレイルの服や顔に赤い汚れを残す。
視界が揺らいだ。
……会いたかった。
何を犠牲にしても会いたかった。
間違っているとわかっていてもなお、石の誘惑に乗るほど―――会いたかったのだ。
こうして、彼の腕の中で、死んでいくことができる。
「あ……り、が……と……いし」
―――幻は、麻衣が目を閉じると消えた。
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2006 11/26 up
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