あなたは間違っている 36



 良質の喫茶店の戸をくぐる。

 運ばれてきたコーヒーは美味く、ほどよく苦い。店内の雰囲気もいい。客は適度に入っていて、流れるクラシック音楽も趣味よく店内の空気に調和していた。
 信二がかるく目を見張って、店内を見回している。
「いいお店ですね」
「だろう?」

 説明には順序が大事だ。
 さあどこから説明しよう?
 考えつつ、麻衣はこれだけは言わなければならない前置きを言った。

「これから僕は君に話をするけど……」
 信二の居住まいが正される。
 顔がさっと引き締まった。
「はい」
「信じなくていいから」
「……はい?」
「信じる必要は、まったくない。君の精神の為にも、無理に信じようとしないほうがいい。もし信じてしまったら、君のこれまで培ってきた常識とか生き方とかそういうものが壊れてしまうかもしれない。だから、信じる必要はない。もし僕の話が信じられないと思ったら、無理に信じずにこう思うといい。―――そんなホラ話をマジメに話すなんてバカだなあ、って。それぐらい信じられないし、それぐらい、君にとって危険な話だ。何度も言うけど、無理に信じる必要はない。もし信じたら、君の世界が壊れるかもしれない。壊れると感じたら、遠慮なくホラ話だと思うんだ。そうすることで君の心は守られる」
 こんなことを言われて、落ち着いていられる人間はいないだろう。
 信二は一層緊張を増した顔で、麻衣を見つめていた。

「で、僕が高校一年の六月にどういう目にあったのかというと―――」
 麻衣はそこで言葉を切って、息を吸う。
 別に演出効果を狙ったわけではない。
 あまりにも「常識」とかけ離れた言葉を口にするのに、心の抵抗があったのだ。
「異世界に飛ばされた」

 しばらくの間、信二の表情は空白だった。
 空いた十秒の間は、麻衣自身が自分の話すことを整理する時間だ。
「自分の部屋の扉を開けたら、そこは砂漠。頭は真っ白。炎天下の中さまよって、行き倒れて、そこを助けられた」
 目が覚めると、背が高く、顔立ちは彫りが深い。一目でわかる外国人が立っていた。その彼に英語で話しかけられて、冷や汗がにじんだ。
 日本の高校生で、いきなり外国人に英語で話しかけられて流暢に応対できる存在は稀だ。知っているはずの英単語も文法も脳裏から逃げ出して、しどろもどろの下手糞英語しか話せなかった。
 彼は麻衣のその様子に言語を切り替えて話し掛けてくれた。
 二三回目だろうか……日本語に当たったのは。
 たどたどしい単語の羅列だったが、日本語だった。
 ―――麻衣は未だに、あの時の自分の判断を拍手喝采で褒めてやりたい。

「それで、まあ……なんとか戻ってくるのに、六年かかった」
 こんな話、誰も信じない。
 履歴書に書いたら精神病院を勧められる。
 だから誰にも言わなかった。家族にだけ話したが、信じてくれたかどうかはあやしいところだ。兄などは話の途中で激昂してわめきだしたので一発殴って失神させた。唯の事で恨みもあったし。
「ちょ……ちょっと、ちょっと、待ってくださいよ。どうしてそれを皆に言わないんです?」
「言ったところで信じるとおもう?」
 麻衣が、あんな目に合わずに同じことを主張する人間をテレビで見たとする。
 ―――キのつく人にしか見えない。
 証拠物件は、一応ある。
 麻衣が持ち込んだこの剣。

 不思議な力を持ち、表面を覆う銀の純度はきわめて高くこの世界の人類が精錬不可能なレベルで、なぜか錆びない。
 だが、あの人との唯一の絆をいじりたおして解体して科学者達に検証させ、実験材料に使いたいとは麻衣は思わない。
 そうまでして、自分の主張を認めて欲しいとも思わない。メリットもさほどないし。
 そんなわけで、麻衣は沈黙を選んだ。

「あの、その、でも、……あなたがそういう目にあって……どうして戻って? そんなの偶然じゃ片付けられない」
「いや、偶然で片付くと思うけど」
「だって……あなたがそういう目にあって、どうしてたまたま戻ってこれたんです?」
「……どういう意味?」
「確率的にありえなくないですか? だって……だってですよ、だって、そんなのが起きる可能性なんて、万に一つもないでしょう? さらにそれで生還できる可能性なんて、そんなのがたまたま渡辺さんだなんて―――」
 だって、を連発する信二はすっかり動揺している。まあ、それはパニックになるな、と麻衣はコーヒーをすすりながら思う。
「君は主体を取り違えてるよ。僕に視点を当ててみれば、確かにそれはありえないぐらいの低い確率だし、君がありえないというのもわかる。でもね―――どんなひどい大災害だって、奇蹟のような確率で生き残る人はいるんだよ。その人単体を見れば、それは奇蹟そのもののような確率だろう。でも、災害全体を見てみれば、そういう人は結構いる。……向こうの世界で、僕は、何人かの異世界人と出会った」
 信二が息を吸い込み、呼吸を滞らせる。
「向こうの世界に何人が落ちたのかは判らない。でも、この世界からだけでも、ずっとはるか昔から、誰にも気づかれる事なく少しずつ、これまでに結構な人数が落ちていることは間違いない。それだけ人数がいれば、なかには生きて帰る人間もいるよ。それが、たまたま、僕だった。それだけだ」
 信二が呆然としつつも、恐るべき脳の順応性を見せたのはそのときだった。
 信二はコーヒーカップをつかむと、一口飲み、それから大きく息を吸って上を見た。 天井を睨みつけること数秒。
 信二は息を吐き出して、それから光を取り戻した目で麻衣を見る。
「わかりました……え? 『この世界からだけでも』?」
「向こうの世界で僕が会った異世界人は、ここから落ちた人じゃないよ」
 もう衝撃を受けるゆとりもないのか、信二は目を丸くしただけだった。

 シュレイルは、語彙に制限を受けた言語でなるべくわかりやすく説明してくれた。
 この世界以外にも、世界は沢山ある―――この概念自体はありふれていて、わかりやすい。
 そして、その沢山ある世界というのはまったく関係ない世界ではないらしい。
 シュレイルは、麻衣の世界の未来に当たる世界の住民なのだという。
 麻衣があの世界に落ちたのはここ、からだが、シュレイルが落ちた世界はもっと未来で、技術的に進歩した世界だ。
 もっともこの辺のことを考えると、とてつもなく恐ろしい結論が湧き出るので、シュレイルは定番の言葉で締めるのが常だった。
 ―――考えてもしょうがないことは考えないのが一番だ。

「……このあいだ……渡辺さんは、月を見て言ってましたね」
 麻衣は眉を上げる。
 まあ、記憶力のいい事で。「このあいだ」どころかずっと前の話だ。
「あれは、ひょっとして、そういうことですか? 渡辺さんは……その地で、月を見ては故郷を懐かしんでいたんですか?」
 麻衣はニッとする。
「化け物を倒しながらね」

 どうして月があるんだろう。
 二人で焚き火をかこむ夜。
 夜空を見上げて、相棒に語ったのは麻衣の方からだった。
 ここは日本じゃないし、地球じゃないのに、どうして月があるんだろう。月みたいな巨大な衛星は珍しいって聞いたことがあるのに、どうしてこの世界に月があるんだろう。
 シュレイルの返答は、身も蓋もなかった。
 ―――考えてもしょうがないことは考えるな。俺たちはこの世界とは関係のない人間だ。

 彼らしからぬ問答無用で会話を打ち切る調子が気になって、麻衣は考えてみた。
 きっぱりとした返答は、麻衣に対する思いやりだと理解したのは、……あの世界に月がある意味を推測したときだった。

 化け物が跳梁し、文明レベルは一部例外もあるが中世程度。
 頻繁に飢饉が起こり、人を喰う化け物の姿に人々は逃げまどう……あの世界が、もしも、地球の未来の姿なら?

 パラレルワールド。
 シュレイルの世界が麻衣の世界の未来にあたるように、あの世界が、麻衣の世界の過去もしくは未来である確率は、高い。月が存在した以上、そして月のような衛星が極めて珍しいものである以上。
 いや、……おそらくこれからなるのだ。
 石がここにあるのだから。

 


2006 11/4 up

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