あなたは間違っている 35




 人間は醜くて。
 人を騙し裏切り嘘をついてばかりだ。
 自分勝手で、利己的で、他人のことなんか考えない。
 誰だってわかっている。
 地球環境のためには、人間なんていなくなってしまったほうがいい―――。

 ……でも、それでも、たぶん、あの人ならこういう。
 口元に笑みを浮かべながら。
 人間っていきものは確かに、本当にくだらなくて、下劣で、死んだほうがいい人間ばかりだけれど。俺には大切な人がいる。マイが言う下劣な人間には、マイにとって大切な人は入っているのか? ちがう? だったら、そんなことは言っちゃ駄目だ。マイの大切な人間も、人間なんだから。俺は、俺に大切な人がいるかぎりは、人間が最低だなんて思わない。それは、大切な人をもおとしめることだから。

 それから、こうもいうだろう。

 マイ。
 大切な人間がいない人間だけが、そういうことを考える。
 愛される事より、愛することの方がずっと重要なのは、そのせいだ。愛する事を知らない人間の心はすさむ。人は、愛する人を、見つけなければならない。そうすることではじめて動物は人になるんだ。

    ◇

 渡辺麻衣が、その決心をするまでに、数ヶ月の時間が必要だった。
 心は波間を漂う木切れのように揺れて、一度ならず「放っておく」方面に心が揺らいだ。何度も決心を固めた。揺らがないと決めた。……その心を、もう一人の自分がそれでいいのかと囁きかけ、固めた決心が揺れる。
 その繰り返しだった。

 とうとう繰り返すことにつかれて、答えを出すために、マイは一つの賭けをした。
 長い事連絡を取っていなかったのに、呼び出しを二つ返事で了解してくれたあたり、人がいいのは相変わらずだな、と、マイは電話口でかすかにわらった。

 マイが呼び出したのは、草薙信二である。
 どうせ暇なので、待ち合わせの時間より一時間以上も早く来て、雑踏をながめる。
 鋭敏な五感は、広場に満ちる喧騒を拾い上げて退屈させない。
 広場のあちこちで交わされている会話は、聞いているこちらが馬鹿馬鹿しくなる下らないものばかりだった。
 こういう話を耳にするたび、マイの決して豊富とはいえない自己犠牲精神が磨り減る。こういうのを救う為に自分の身を呈してやろうという気が無くなる。

 待ち合わせの時間よりかなり早く、信二が現われた。既にいる麻衣の姿に驚いたように駆け寄る。
「ひさしぶり。元気そうだね」
「……渡辺さんは、元気でしたか?」
「んーまあ。いろいろと楽しかったよ? ……で、信二くん。最近何かまずい事が起きてないかい?」
 聞いたのは、念のためだ。
 だから、その返答にはほっとした。
「特に、なにもないですけど?」
「そうか。残念。僕はね、先日の借りを返しにきたんだ。僕は貸しを忘れないかわりに、借りも忘れない。じゃあ、信二くん。何か僕にしてほしいことはあるかな?」
「してほしいこと?」
「そう。何でもいいから」
「……とくにないですけど」
「僕の六年間、話そうか?」
 一瞬、信二は迷いの表情を浮かべた。
「やめておきます。聞きたいのは事実だけど、弱みを盾に、話したくないことを無理に聞き出すのは、いやですから」
 麻衣は微笑む。
「君は、そう言うだろうと思った」

「……そんなに読みやすい性格してます? 僕」
「褒めてるんだよ。僕はただ単にちょっとばかり、君と似た思考パターンの人とずっといたから、予想できたってだけ。誠実を絵に書いたような人だった」
 たぶん当の本人が聞いたら苦笑して、そんな人間じゃないよ、というだろうが。

「思えば日本で、何の見返りなしに、真剣に、僕の身を案じてくれたのは君だけだった。―――だから、君がいいと思ったんだ」
「……渡辺さん?」
「貸しも借りもない。誰でもなく、ここで、ただ一人何の裏もなく心配してくれた君に、聞いて欲しい。長い話になるから、嫌ならもちろん無理強いはしない」
 訴えかけるように、瞳を見つめる。

 信二がここで断れば、自動的にゲームセット。
 全てを投げ出して死んでしまうつもりだった。

 しかし、信二は躊躇いながらも、頷いた。
「僕なんかでいいんでしたら……」
 麻衣は微笑む。
 笑ってから気づいたが、久しぶりに、嘘ではない笑顔だった。
「場所移そう」

 歩きながら、どういう手順で説明すべきか、その順番を考える。
 長い話になりそうだった。




2006 11/3 up

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