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あなたは間違っている 30
頬をなぐられ、変色した肌の色は赤と紫色が混ざり合っている。
その顔をぐっと上げて、彼は麻衣を見た。
「その傷にいくら払う?」
「……なに?」
「こちらの手札は、人質だけじゃない。その傷の治療も行う。どうだ?」
捕虜の、突然豹変した様子に驚く気配もなく、渡辺麻衣は考え込んだ。
飴と鞭とはよく言うが、実際の交渉でも多用されるテクニックだ。
脅しと、利益。双方ちらつかせれば、落ちる確率は片一方だけよりはるかに上がる。また、これだけのカードがそろっていれば、交渉に未熟な人間にも任せる気になるだろう。……実際はそれ以前の問題だったが。
「……なかなかいい話だけど。交換条件を聞いてないな」
返答は簡潔だった。
「情報と、石」
「…………。僕は一級品のエゴイストだって言う自覚はあるけどね。自分が死んだ後の世界が滅んでしまえ、とまではいうつもりはないんだ。石を君達に渡して、この世界を、化け物の跳梁跋扈する世界に変える気はないんだけど」
「石に飲まれなければいい」
麻衣はゆっくりとかぶりを振った。
「冗談じゃない。石にとりこまれなければいい? それこそ愚かというものだよ。自分で精神力強固だとかいう奴ほど、脆いんだ」
麻衣は付け加えた。
「……僕がそうだったようにね」
相手は沈黙する。
痛みなら耐えられる。でも、強いばかりの人間などいない。
心の一面が強くなればなるほど、裏側の脆さは自分でも驚くほどだった。
たかだかあれだけの誘惑に、麻衣は崩れ落ちた。
六年もの間、見知らぬ土地で貧困にも飢餓にも犯罪にも戦争にも耐えて生き延びたこの自分が、だ。
どんな誘惑にも耐えられる人間なんていない。強固な精神力という意味ではこれまで見た人間の中で一番の評価をしている相棒ですら、誘惑には心揺らいだ。
石の誘惑に「絶対に勝てる」といえる人間はいない。
カインですら、次はどうかは判らない。
「……じゃあ、あなたは石をどうする?」
「僕は死ぬ間際に海に身投げする。石は海底に沈むだろう」
渡辺麻衣は相手を見つめる。
不思議な人間だった。
男のようにも女のようにも、子どものようにも大人のようにも見える。
両性具有、という言葉が脳裏に浮かび、連想して現われたとある記憶に嫌な気分になって振り払う。
「それより、質問の答えもらってないよ。草薙信二はどこだ?」
「名前は草薙信二。住所は―――だ」
今度は麻衣が黙る番だった。
このニッポンで、明確に危害を加える意志がある人間が、相手の顔、名前、住所を知っていているということは、いつでも危害を加えることができる、ということなのだ。
SPにまもられた政治家ならともかく、一般庶民がその攻撃をかわせる確率は、一割もない。
上目遣いに、少年(少女?)は見つめた。
「いっている意味は、わかるな?」
「……まあ、わかるよ。随分やり方が上手くなったじゃないか」
プレッシャーをかけるとき、言葉は多すぎても駄目だ。素人はそこをよく勘違いする。
「石は諦めよう。その代わり、情報と、協力が欲しい」
あっさりした妥協は、石を跳ね除けられる事前提の条件として出してきたからか、それとも本当に諦めたのか。
……ここで断れば、あの親切な少年は自分に関わったばかりにとんでもない災厄に見舞われるわけだ。
平凡な日常が突然壊される光景を麻衣はよく見てきたが、それが自分に無償で手を差し伸べてくれた少年に降りかかるのは、かなり気分が悪かった。
そういえば、前にもこんな事があったなあ、と思う。
どうしてそんなに親切にすると聞いたら、「彼女が親切にしてくれたからだ」と相棒は答えた。
相棒は、人の泥のような心の中の奇麗な部分を見つける才能に長けていて、とりわけ、同情とか、憐れみとかいう感情を素晴らしい宝物と考えていた。
そして、その宝物を持っているために不幸になった人間に対しては、格別親切に接したものだ。
思索の時間は短く、他人から見れば迷わず頷いたように見えただろう。
麻衣は、頷いていった。
「わかった。ただし、僕の寿命は短い。それまででいいのなら」
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2006 10/19 up
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