あなたは間違っている 27


 ―――憐れみは、人間の最も高貴な感情だ。

 ……そういったのは、誰だったか。
 腹の立つ状況で腹の立つ調子で言われたので、その台詞はよく憶えている。

 向けられた同情を侮蔑ととらえた麻衣が、見知らぬ他人から差し伸べられた腕を拒絶したという状況で、そんなことを言った。そんな状況では、神経を思い切り逆撫でするも同然の言葉を、平易な口調で、ひとごとのように言ったのだ。
 たぶん、説教をしてもそのときの麻衣は聞き入れないことをわかっていたから、ひとり言のように無関心な口調で言ったのだろう。
 渡辺麻衣が五年弱のあいだ、一緒に旅をした相手は、そういう人だった。

    ◇

 渡辺麻衣は、手の中の紙幣を、目の間近まで寄せて見る。
 ……五千円札と、一万円札もあるじゃないか。まったく……いまごろは自分の行動を後悔しているだろうが、また随分と張り込んだものだ……。
 腕を動かしたとたんの痛みに、顔をしかめながら麻衣は考える。
 無理矢理にでも別のことを考えなければ、石の術中にはまってしまう。この痛みを消して欲しいと、心の中でだけでも思ったら、そこで願いは成立してしまう。

 口に出さない事はできる。でも、心の中で、思わずにいるのは難しい。
 麻衣はゆっくり体を起こす。
 体中で感じる痛みに、一瞬だけ、息をつめる。そして口から紐のように息を吐き出した。
 ……だいじょうぶ。我慢できる程度の痛みだ。

 しかし、身体を見下ろしてみるとやはり切り刻まれていて、とても外に出られるような大人しい服装ではない。
 夜とはいえ、日本の夜は、麻衣がいたところのような一寸先も見えない、壁伝いでなければ外も歩けない真っ暗闇ではない。いたるところに照明があり、真の闇というのは存在しない。
 一番いいのは交番に駆け込むことだろう。集団暴行されたと訴えて、信二からもらったこの金で、包帯と新しい服を買ってきてもらおう。
 怯えた演技も得意だし、傷の手当ても手馴れたものだと自負している。

 決めたら行動は早かった。
 たまたま行き会った通行人を怯えさせながら最寄の交番へと急ぐ。
 たとえ一時の避難場所でも、麻衣は周辺の地理に無知なままでいられるほどの勇気はない。主要な施設は記憶している。特に交番や、コンビニなどの位置は。
 当直の警察官は、さぞ驚いただろう。

 夜、交番で勤務していたら、中肉中背の血まみれの青年が、助けを求めてきたのだから。
 しかし驚きはしても、優秀さでは諸外国に名を馳せる日本の警察官である。
 明らかな異常事態にすぐさま表情を引き締めた。

「本官と病院に行こう」
「いえ……、すみません。連中の報復が怖いんです。包帯を分けていただければ、自分で手当ては出来ますから……」
 何度も説得されたが、強く主張すると、しぶしぶ相手は折れた。
 そして救急箱を運んできてくれた。
「上着……脱げるかな?」
 警察官はいたわりの篭もった口調で一度聞き、血であちこち凝固しているシャツを脱ぐのに麻衣が難儀しているのを見ると、ハサミを取り出した。
「切るけど、いいだろうか?」

「あ……すみません、トイレを貸していただけますか?」
 襤褸と化したシャツだ。切るのを断られるとは思ってもいなかったのか、警察官の目が不思議そうになる。
「……こんな姿なのでわからなくても無理はないと思いますが、僕は女なので……」
 警察官は驚いた顔をすると、一層親切になった。

 途中から外に出ていたもう一人の警察官も戻ってきて、服も買ってきてくれ、腕などの手当てしにくい箇所の手当てもしてくれた。
 しきりに被害届けをだすよう説得されたが、麻衣は青ざめた顔(血がなくなったせい)で、かぶりをふって唇を震わせ、「警察に訴えたら、あいつらは僕の写真……」といいかけ止める。
 女性が暴走族に集団暴行にあったときき、真っ先に一般人が思い浮かべる事を警察官達も思い浮かべたらしい。
 さすがにそれ以上は勧めてこなくなった。押し黙る沈黙の中、たくさんの傷に消毒液をぬってもらい、包帯で巻いてもらう。
 手当ての最中、麻衣の傷や麻衣自身を観察している気配がびしばしだったのは、血まみれで交番に助けを求めて、でも病院にも行きたくないし被害届けも嫌だ―――なんて怪しすぎる人間に対して市民を守る義務のある警察官がとる当然の態度だ。
「……この傷は、この辺の病院が怖いというのなら、どこか遠方の病院にでも行ったほうがいいよ。本来なら縫う傷だ」

 仕上げに、全身鏡を見せてくれた。
「……ミイラ男ですね。まるきり」
 腕、胴体は言うに及ばず、足も、ズボンの裾から白い包帯がのぞく。
 顔も浅く切られているから、包帯は顔面にまで及ぶ。
 これは傷跡が残るなとちらりと思い、まあ眼球が無事だったのだからいいかと諦めをつけた。こぼれた水を嘆いても、一銭の得にもならない。最悪の事態を想定して、それよりはいいと思うこと。 「自分の納得のさせ方」を、麻衣は学んでいた。

「お世話になりました。包帯代ぐらいにしか、なりませんけど……」
 と、麻衣は一万円を一枚、机の上に置いた。
「これは……?」
「財布は奴らに盗られちゃったんですけど、万札を一枚、もしものときのためにいつも持っているんです。それはだいじょうぶだったから……」

 むき出しのお札を何枚も持っていたら、逆に盗ったと誤解されやすい。
 麻衣の説明は警察官は納得してくれたらしい。麻衣の傷が、狂言や自分がつけることのできる範疇を超えていた事、麻衣が女性であったことなどが原因だろう。仲間に傷をつけてもらっての狂言なら、もうすこし数を減らすだろうし、顔も避けるだろう。自分がつけたにしては、手の届かないところも切れている。
 麻衣のたどたどしい説明どおり、「数人の若者に暴力を振るわれて、面白半分で傷つけられた」という説明が、もっともしっくりくるのだ。

 麻衣は傷が痛むのですこしだけ頭を下げて、そして歩き出した。
 送っていくという申し出もあったが、病院と同じ理由で断った。
 警察官がひそかにつけてくる可能性もあったので、麻衣はゆっくりした歩調で、マンションに向かう。
 日付はもう翌日になっている。傷の手当てにかなり時間がかかったためだ。
 人通りも少ない。つけてくる人間がいればすぐにわかる。麻衣は、亀といい勝負の足取りで歩いているので尚更だ。麻衣とおなじ速度で歩く人間がいたら、尾行してますよと言っているようなものである。

 動いた事で、傷口が開き始めた。
 警察官の言った事は正しく、これは縫う傷だ。縫わないのだから傷口は血の凝固でだけ閉じているわけで……。
 15分の道のりを1時間以上二時間近くかかってたどり着いた。包帯男は、ほんのり赤包帯男になっていた。

 マンションの前に座っている人間を見た瞬間、麻衣は思わずげんなりした。
 これだけ傷だらけでも戦闘をこなす自信はあるが、傷が痛むし開くし治りも遅くなるのだ。
 どうせ来るなら手当て前に来て欲しかった。手当ての後に来るなといいたい。
 また一から手当てのしなおしなのは、うんざりなんてものじゃないのだ。

 麻衣はつっけんどんを絵に描いたような態度で言った。
「あらかた一族のめぼしい人間は死んで、君のご希望どおりになったと思うけど? 何の用でしょうかこのひとは?」



2006 10/13 up

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