あなたは間違っている 26



 三十分後。
 麻衣は目を開けて、空を見るのにも飽きたので目を閉じていた。
 生きていた。

 麻衣は心中で悪態をつく。
 ……あの、馬鹿。
 せっかく挑発してふんぎりをつかせてやった親切心を台無しにしやがって。
 顔も腕も胴体も足も、切り刻まれていたが軽症だった。死体の検死官が来たら、記録に嫌な顔をするだろう数が体中に刻まれていたが、骨まで達しているものは一つも無かった。どれも浅手だ。
 出血多量で死なないかなと期待してみたが、30分たっても死ぬ様子がないうえ、血も止まりかけているあたり期待はやめたほうがよさそうだ。
 あの、まぬけ。
 と、麻衣が罵りたくなるのもわからないでもない。死ぬ事はないが、ここまで切り刻まれていると、外は歩けない。多分外観は壮絶に血だらけだ。すぐさま通行人に通報される。
 路地は生ゴミ臭いし、気分は最低だし、気力もないし、全身を倦怠感が取り巻いていて、立ち上がるのも億劫だった。

 かといって、このままここにいてもしょうがないということもわかっているのだけれども。
 それでも身体が動かなかった。

 ぼんやりと、これまでの人生なんぞを回想してみる。
 そして、これからやりたいことなんかを考えてみようとする。俗に、奇麗な言い方をすれば夢や希望、汚い言い方をすれば欲望といわれるものを。
 …………。
 何も無かった。

 自分は、欲望に忠実な人間だと思っていたのだが、その自己認識は誤りだったらしい。
 なんというか、日本では欲望とも見なされないキホンテキジンケンの範疇が麻衣の望むもので、それが満たされると意外に無欲なのだ。
 欲しいものがないって、虚しいなあ。
 麻衣はそんなことを思い、そして相棒の気持ちが、ほんの少しだけわかった気がした。
 欲しいものは何でも手に入る、だから欲しいものは何もない。
 相棒が直接そう語ったわけではないが、彼を見ていて思い浮かんだのはそんなフレーズだった。

 起き上がらなければならないのは判っている。でも、気力が湧かない。
 そのままその姿勢で、どれだけいたのだろうか。
 たぶん、一時間ほどはそのまま、暮れていく空を見上げていたと思う。

 路地の入り口を、行きかう人の気配は感じていたが、何の拍子か、そのうちの一人が立ち止まった。
 こちらをうかがっている気配がする。
 日が差し込まず、窓から手を伸ばせば隣のビルに届くほど接した狭い路地は、窓から投げ捨てられたゴミでいっぱいだ。ゴミ捨て場と化した異臭のする路地を覗き込もうとする人間はそういない。

 こちらを注視する人間が誰なのか、気づいた瞬間、麻衣はため息をつきそうになった。
 ……自分の強運は、昔からよくわかっていたが、どうしてこんなときばかり強運なのか、神様とやらに聞いてみたい。
 相棒なんかは真面目そのものの顔でいったものだ。
 ―――マイの強運は確かだが、不運も確かだ。こうなると、人生の幸運の量は決まっているからこれまで不運な人はこれから幸運なことばかり起きるというあの説が思い出されるな。
 確率なんてあてにならない。
 たぶん、渡辺麻衣はそれを誰より確信している人間だろう。
 確率にしたら何万分の一という確率を三度続けて射止めた経験から、そう断言する。

「……まったく、君は……どうしていつもいつも……。無関係だって言うのに……」
「―――渡辺さん!?」
 信二の驚いたような声が上がる。
 声をかけたのは、……たぶんあのままでいても同じことになったろうから。
 注視の末、気を取り直して無視していってしまうことを期待するには、麻衣は自分の不運を信じすぎていた。

「どうしたんですか!?」
「近寄るな」
 冷ややかに言い放つ。
 麻衣は、その気になればいくらでも冷酷な口調ができた。
 初めて聞く声音に、信二が動揺したのが薄闇を通して伝わってくる。

「僕は、怪我をしている。血を、流している。―――僕はHIVウイルス感染者だ。感染するぞ、近寄るな」
 信二の身体がすくむのがわかった。
 ほとんどの日本人は、他人を故意に傷つけようとは思わない。
 でも、ほとんどの人間は、自分が重大な不利益を負ってまで他人を助けようとは思わない。これは、人間の普遍的な性質というものだ。

「じゃ、じゃあ救急車を……」
「呼ばないでくれ、頼むから。―――信二くん、このまま回れ右をして、帰るんだ。君は何も見なかった、何も知らなかった。そうして毎日を過ごしなさい。いいね? こちらの世界に関わるな。君は、まっとうに生まれて、まっとうに育った。まっとうに、幸せに生きていける人間なんだから」
 麻衣はまっとうといえる生き方をした。16までは。
 16の春に、実の兄が親友を強姦して、それを警察に通報しなかったときから、麻衣の日常は狂ってしまった。
 別に通報しなかったからあんな目にあったのだとか、自責の念にとらわれた非論理的感情論を展開するつもりはない。
 事実として、述べるだけだ。
 九時近くに道場から帰宅して、殴られ腫れあがった唯の顔を見たときから、麻衣の日常は壊され、そして二度と戻らなかった。

「ここで僕に手を貸せば、君まで巻き込まれる。―――巻き込みたくない」
 口にして気づいたが、それは混じりけなしの本心だった。
 打算も何もなく、人を気遣う言葉を吐くとは、自分にしては珍しい。
「だから、忘れなさい。君は今日、僕なんて見なかった、知らなかった。―――それで通すんだ。いいね?」
 迷っているのが、空気を通じて伝わってくる。
 どこまでもお人よしだ。
 善良である事へのこだわりというのもあるのだろうけど。

「君は、自分の軽率な行動で、ミコトさんまで巻き添えにしたくないだろう? 僕も、君を巻き添えにしたくない」
 麻衣は、切り札を出す。
 大抵の人間は、自分のせいでかかる自分への迷惑なら許容できるが、自分のせいで家族にまで迷惑がかかると知らされたら、それでもなお進めはしない。
 心の揺れは充分。最後の一押しと見て、麻衣は強い声を出す。
「行って! はやく」
「……僕は、ミコトが大事ですよ。世界でいちばん、大事です」

 絞りだすように言う少年と、同じ名前の少年を、麻衣は殺した。
 そして、その復讐に、こうして身体を切り刻まれた。
 そうしたらその倒れたところを同じ名前の少年に見つかるとは、信じがたい偶然だ。神秘論者なら、そこに神の見えざる手を感じるだろうし、普通の人間でも漠然とした「なにか」の意志を感じてしまうだろう。
 しかし、麻衣は「偶然」とやらがいかに信じられないような確率で起きるのかを知っている。
 相棒曰く、「マイがこっちにきてすぐ人に出会って、偶然その人間が同じ境遇の人間で、偶然マイを助ける気になるお人よしで、偶然日本語が出来て、偶然治癒能力者だった確率はどれぐらいだ?」である。

「でも……死に掛けてる人を見捨ててこのまま踵を返せないんです!」
 信二はそう叫ぶと、信じがたい行動に出た。
 財布とおぼしき黒いものをとりだすと、中身の紙幣を鷲づかみにしてすべて差し出したのだ。

 かなり、驚いた。
 紙幣は五枚はある。最低でも五千円ということだ。
 一家の主婦にとって、五千円という金額は簡単に募金箱に入れられる金額ではない。
 よほどボランティア精神溢れた人間でもせいぜい募金箱に入れるのは千円というところだ。
 つまり、その、えーと。
 珍しい事に、思考が迷路状態で停止していた。出血による思考力低下もあるだろうが。

 信二は照れているのか、真顔で凝視している麻衣の前で早口でいう。
「これは、僕の、自己満足です! 自己満足のために犠牲になるあなたには気の毒ですが、どうか受け取ってください。あ―――包帯、ほしいですか? なにか欲しいものあるなら買ってきます」
「……いや、いいよ。充分すぎるくらいだ」
 麻衣は、ゆっくり、かぶりを振った。

 実は、渡辺麻衣は、超がつく現実主義者だが神の実在を信じている。
 ただし、悩み苦しむ人間を救済する意志があるとはかけらも思っていないが。
 ただ……こうして、打算のない人の善意に触れたとき、震える心の存在を胸の奥に感じる瞬間は、こうした心を創造した神というのは、大したものだと思わずにはいられない。麻衣ですら。

 麻衣は相棒がいつか洩らした言葉を呟く。
 ―――死者は墓の中、人の心は忘却の恩恵の中、だから世界の秩序は保たれる。
 言葉は日本語ではなかったので、信二が訝しげにたずねる。
「……なんて?」
「乾いたときにうけた一杯の水は、生涯かかっても返しきれぬ大恩である、という意味。―――信二くん」
 麻衣は、真剣に言い諭した。
「ありがとう。この恩は忘れない。―――でも君は、今日僕に会った事は、忘れるんだ。いいね?」
 一瞬、信二が反論しかけるが、すぐに瞳の圧力に負けてうなずいた。

「……はい」


2006 10/7 up

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