あなたは間違っている 22


「被害は?」
「33人と、4百万」
「さ……ッ! ……なんでそんな大金が?」
「もしものときにそなえて、屋敷の主人は現金を常にある程度確保しておいたらしい。金庫が破られて、中の現金だけ消えていた」
「……その主人は……」
「殺害されている」
「多額の現金を手に入れたのか。面倒だな」
「同感だ。それだけの現金があれば、当分は働く必要もないし、外に出る機会が少なければ発見の機会も少なくなる。潜伏は容易だろう」
「それよりどうする? その33人の死の処理は。一族の医師に任せるのは、まずいぞ。化け物騒ぎの死の処理だけで、倫理観と真っ向から対立して良心に苦しんでいる。これ以上さらに捏造を強制させれば……」
「思いつめて警察に駆け込みかねない、か」
「そうだ。……生存者の証言は取れたか?」
「とれた。嘘をついたら顔面に傷を負うという破れない誓いをさせた上での証言だから、嘘は絶対にない。…………、内通者がいるそうだ」
「……33人の一族のものを殺すのは、一人の普通人には無理だな……」
「そうだ。よって、内通者の存在はまず間違いない」
「破れない誓いを全員にさせて、聞き取り調査させるか? 裏切り者がいれば、それで露見すると思うが」
「いい案だ。賛成する。……だがその前に、聞いておきたい。これだけの大量虐殺を、警察に通報するかどうか。君の意見を」

     § § §

「ただいまー」
 言いながら扉を開け、中に入り、扉を閉め鍵をかけて顔を正面に戻して……渡辺麻衣は動きを止めた。

 体をわずかに左に傾けて、腕組みをし、その長身のてっぺんにある頭から麻衣を見下すようにして、最愛の人の幻は部屋の中央に立っていた。

 一瞬にして全身に警戒信号が発せられる。
 ―――ヤバイ。
 漂う雰囲気、細められた瞳、軽く唇をつぐんだ表情―――すべてが、麻衣に警告を発している。
 相棒の機嫌が悪い。それも、かなり重度だ。
 いやこれは幻なのだけれどもでも麻衣の記憶から出来てる幻で、だから麻衣の記憶からしてこの幻は現在機嫌が悪そうだということはホントに機嫌が悪いわけででもこれは幻で。
 ―――とにかく。

 麻衣は刺激しないよう慎重に、目線をそらし、声をかけた。
「帰ったよ。ただいま」
 相棒の幻は言う。
「―――血の匂いがする」
「30人ほど殺したからね。それはするだろうと思うよ」
 できるだけさりげなく答えた。冷静に、淡々と。

 相棒の幻は腕組みをとくと、軽く息を吐き出す。
 そして、マイを真っ直ぐに見ていった。
 氷のように鋭い声だった。
「―――まったく、俺も相当いろいろ不快なものを見てきたが、かつて愛した人間の愚かに変わった姿ほど不快なものはないな」
「……シュレイル……?」
 聞いた言葉を頭が拒否して、その名前を呼ぶことしかできなかった。

「以前は確かに愛していたのに、今はちっともマイのことを愛しいとは思えない。でも、愛した記憶はあるし、愛した感情の残滓もある。だから尚更その変貌がみじめでやるせない。あれだけ輝いてた強かったお前は、どこへいった?」
「シュレイル!」
 マイの叫びを、相棒は巨石のような口調ではじきかえす。
「人を殺すなとはいわない。でも、自分の中のルールを揺るがすなとはいったぞ、渡辺麻衣」
 ……フルネームを彼が呼ぶのは、かなり本気で気分を害しているときだった。
 本物の彼にそんな風に呼ばれた事は、一度しかない。

「それはあんたの……!」
 反射的に言い返そうとして、マイは押し留める。
 あんたのためにやったんだ。
 そんな風に責任転嫁する人間は嫌いだったし、軽蔑してもいた。自分は―――そんな風に責任を他人になすりつけるような人間じゃなかったはずだ!

「一度でも自分との約束を破った人間は、良心の痛みに言い訳を考える。そして、その言い訳を使って何度でも同じことをする。今お前が言おうとした台詞は、自分との約束を破った自分の良心のとがめに、おまえ自身が考えた言い訳だ」
「シュレイル……」
「俺がマイとあったとき、半年と持たないだろうと思ったよ。連れ歩くようになってからも、その評価は変わらなかった。清く正しい世界で清く正しく生きてきた人間は、汚く醜い世界に免疫がない。人に騙され裏切られ、死ぬと思った。案の定すぐさまボロボロになって、そのまま死ぬと思った。……ところが、生き延びた。ずるく、したたかになって、あの世界で生き延びた。不死鳥のようにといってはいいすぎか。俺はマイの中に、人間のしぶとさと強さを見たとおもったよ。そこに俺は惹かれたんだ」
 ―――俺は、かえる。絶対に帰る。生きて帰る。どんな事をしてでもかえる。
 そういっていたシュレイルは、帰る方法を見つけたとき、……それを実行しなかった。

「人間は、時として自分のルールを曲げなきゃいけないときがある。それはわかるよ。現実は、ルールに沿って組み上げられているわけじゃない。人は、意に添わない事でもやらなきゃいけないときがある。自分の決めたルールなんてものは容赦ない現実の前で曲げなきゃいけないときも当然あるだろう。―――でも、俺はそういう人間を美しいとは思わない」

 何を言おうとしているのか、直感的に理解して、誰かの手に押されたように、麻衣の体がぐらりとゆれた。
「何より耐えられないのは、マイを愛した事が、一度は確かにあったということだ。今のマイは不愉快だ。見るに耐えない。……でも愛した記憶はある。だからこんな人間じゃなかったのにどこで変わってしまったのかと割り切れない思いばかりが募る。ずっと、ずっと、ずっと、自分に弁解をし続ける今のマイを見ていると、どうしようもないほど不快だ」
「シュ……」
「―――お前をそんな風に変えたのは、俺だろう。ちがうか?」
「っ……ち、ちがうっ!」

「俺は、今の自分が幻だという自覚も認識もある。石が作り出した幻だ。こうしてマイにふれても……」
 シュレイルの手が、マイのほおに触れる。
「他の人間には何も見えない。そんな下らないものの為に、お前は一体何人を殺した? そしてこれから何人を殺す? どうして間違いをやりとおそうとする?」
「それしか僕には残ってないからだよ!」
 やっと反撃の糸口をつかんで、麻衣は叫んだ。
「それしかない! 僕にはそれしかないんだ! 学歴もない、家族もない、友人もない! あるのは人殺しに慣れたこの手と、変わり果てたこの体と、この命だけだ! だったら持てる全てをつぎ込んで、僕は幸せをつかみたい! そうすることにかけたんだ! そのどこがわるい!」
「悪いよ。その何もかも全てが悪い。自分の為に他人を犠牲にする態度も悪ければ、自分の為に自分のことを犠牲にする態度はなお悪い」
 逃げる余地をいささかも与えず、シュレイルは断罪した。

 頬に置いた手を、シュレイルは下に滑らせる。
「この腕も……、肺も、胃も、腸も、すべて食われていく」
「……」
 こんなときだというのに、昂ぶっている身体に、手の感触が気持ちよかった。
「石に食われていくのを判っていて、幻でしかすぎない俺にしがみついて何になる? 俺の為に間違いを犯し続けるお前は、見ていて不快だ。そのうえあんなに輝いていたお前が変わってしまったのは俺のせいだと思うと尚更やりきれない」
 不快ってだって………………幻、じゃないか……。
 自律して考える事なんてできるはずのない、幻じゃないか……。
「いろいろ考えたが、これが誰にとっても最良のことだと結論した」
「いやだ! 消えるな!」
 本能的に、シュレイルが何をするかを悟って叫んだが……無駄だった。

 突いても突けない、斬っても斬れない幻が、消える。
「―――シュレイル!」
 消える……消えてしまう! そんな!
 不滅のはずの幻が……どうして!?
「シュレイル―――!」

 つかみかかった手は空を切り、バランスを崩して麻衣は床に手をついた。

 ひんやりとしたフローリングの床の冷たさが麻衣の体温を吸い取っていく。
 幻で、幻で、幻で。
 あくまでニセモノで麻衣の作った幻で幻なのに!
 どうして自分で判断する? どうして意志があるようなことを言う? 幻だろう、自分の意志なんてあるはずないじゃないか!

 そうだ……幻だ。存在しない幻だ。
 でもその幻は、麻衣の記憶を元に動くのだ。
 昇った血が、急速に下がっていく。狂った頭が瞬時にといっていい早さで元通りになるのは、六年間の名残だ。衝撃から素早く立ち直れなければ、殺される。そういう生活だったのだ。
 「シュレイルならこうするだろう」という麻衣の記憶を元に、たとえ麻衣の不愉快な行動だろうととる幻。そこに麻衣の意志が入る余地はない。
 あくまで、幻は、幻。麻衣の記憶を元に、シュレイルならとるだろう行動をとる。

 だから、つまり。
 ―――麻衣が、「シュレイルがこういう状況に投げ込まれたらこんな行動をとるだろう」と思っていたから、ああしたのだ。
 そうだ……考えてみればそのとおりだ。
 あの人が、もし、いきなり幻なんて身になって記憶はそのままで麻衣の側で生活するよう言われたら。
 しばらくは麻衣に付き合って慰めになってくれるだろう。
 でもそのせいで麻衣がどんどんすさんでいったら?
 麻衣が以前のように、自分で自分が好きだとためらいもなく言い切れる強さが無くなったのは、麻衣が一番よくわかっている。
 麻衣に幻滅して愛情が無くなったと言い、自分のせいで麻衣が更に愚かになるのを嫌って姿を消すのは、シュレイルがいかにもやりそうなことじゃないか……。

 ―――願い事は、何?

 頭を落ち着けると、石の声がいやにハッキリ聞こえた。
 麻衣は立ち上がり、台所に行って水をコップにくんで口に運ぶ。
 こくりと喉が動いた。
 殺しの後は、いつも体が昂ぶっている。その点、女も男と変わりない。大抵マイは男を誘ってはその昂ぶりを鎮めていた。
 ……今も、身体は熱をもっているが、さすがにそんな気にはなれない。

 幻は、消えた。たぶん、同じ設定で幻を作っても同じ事だろう。
 麻衣が「シュレイルはこういう行動をとるはず」と思っている限り、新しく幻を作ってもやはり消える。
 では、幻の設定を変えるか。
 麻衣の不愉快な言動をしないよう、そう設定して幻を作るか。

 ダン!
 麻衣は力を込めてコップを台所に置いた。
 ―――そんなのはあの人じゃない。
 麻衣の機嫌をびくびく伺っているようなのは、あの人じゃない。麻衣の気に障ることでも、傷つく事でも、それが正しければ躊躇わず口に出した、それがあの人だ。
 そんな粗悪なニセモノがほしいのなら、整形手術で事足りる。
 麻衣が欲しいのはそんなものではなかった。偽物でも、麻衣にとって本物に等しい価値を持つ相手が欲しかったのだ。

 ではどうする?

 もう……やめるか?
 石を差し出してあの一族と和解するか?
 麻衣は一瞬だけ考え、かぶりをふる。

 阿呆か。あれだけ殺しておいて、何言っているんだ。
 もう戻れる一線を越えている。どちらかが破滅するまで、どっちも引けない。
 麻衣だったら、石を差し出した瞬間殺す。
 ……では、死ぬか。

 結局そこに行き着いた答えに、麻衣は息を洩らす。
 ……死ぬしかないのなら、六年前に死んでいればよかったのだ。同じ答えなら、何も死体の山を築いてまで生き延びる事はなかった。

 ―――かつて愛した人間の愚かに変わった姿ほど不快なものはないな。
 麻衣はコップを持つ手を震わせる。
 泣きそうな感情の波をこらえ、押し戻す。
 ……自分は弱くなった。認めよう。認めるしかないほど、自分は弱くなった。
 麻衣はこんなにも無様だ。
 男にしか見えない外見は、シュレイルといたときにはコンプレックスに感じた事などほとんどなかった。
 彼と一緒にいるためには、そうなるしかなかったし、彼はまるでそれを気にしない人であったからだ。
 美貌ではあるが、男にしか見えない外見。
 日本に帰って、その外見でこれほどまでに奇異の目で見られ、損をすることになるとは……。予想はついていたが、まだ、甘かった。

 そして、麻衣は、何もなかった。
 あるのは人殺しになれた精神と、人を傷つけることに熟練した腕だけ。そしてそんなもの、日本では何の役にも立たないのだ。
 学歴もなければ、家族もなく、友人もなく……自分が「落伍者」人間である事を自覚しながらその中で生きていくのはつらかった。
 このまま就職も出来ずフリーターで暮らしていくのか、若いうちは体がもつが年を取ったらどうしようなんて不安を、抱えての生活だった。

 両親については、恨む気持ちはない。あれはどうしようもないことだったのだ。
 人として当然の心の流れだ。
 何年も帰らぬ人間を変わらぬ心で待ち続けられる人間などいない。「待っている」というポーズこそ作っていたものの、心の中では「死んだ」と思っていたのだろう。
 それが生きて帰り……誹謗中傷と面白おかしい憶測が乱れ飛んだ。
 中には麻衣のせいではないのに「お前が失踪したせいで警察がした捜索の手間賃を払え」なんていうとんでもないピントの外れた言葉まであった。
 ああいう人間は犯罪被害者の家族にも同じようなピントのずれた言葉をかけるのだろう。「お前の家族が殺されたせいで警察が捜査をしなければならなくなった。その費用を払え」とか、「お前が誘拐されたせいで警察が捜査をしなければならなくなった。その費用はお前のせいでかかったんだ」とか。
 そのただ中に普通の神経の人間が放り出されて、耐えられるはずもないのだ。
 それに、麻衣が両親を恨める筋合いでもない。
 だから、麻衣は両親に対しては悲しいだけだった。恨んではいなかった。……それでも、心のどこかで、帰ってきたことを喜んでくれることを……身勝手にも期待してしまっていたのだけれど。

 そんな自分を、麻衣は、かつてのように迷いなく「好きだ」とはいえない。
 自分の事を好きになれない人間は、病む。自信をもてない人間も、病む。
 そして、自分が間違ってしまった事を知っていながら引き返せない人間も、……病むのだ。
 腐るほど人を殺したので、日本でも同じように普通に人を殺せると思ったが、間違いだった。
 後悔なんていうものが、くっついてきた。

 ―――人を殺すなとはいわない。でも、自分の中のルールを揺るがすなとはいったぞ。
 自分の都合で、自分のルールをまげてしまったときから、いや、ちがう。
 間違っているとわかりつつ石の誘惑に負けたときから、麻衣の心は自分が正しくない事をわかっていた。それを指摘する言葉に逆らって開き直ってみせても、麻衣の心は、自分が正しくない事を知っていたのだ。

 そして心は素直なものだ。
 今の状態がほめられたものでないことを知りつつも目をそむけてきた麻衣に、シュレイルがどう思うかを……こんな形で目の前に突きつけたのだ。

 間違いだとは判っていた。
 でも、引き返す気はなかった。
 間違いだろうと、幻だろうと、あの人が側にいてくれるのなら……麻衣は構わなかったのだ。
 そうして殺されても、最期まであの人が側にいてくれるのなら幸せだとすら考えていた。

 そして、今の自分がある。
 家族も最愛の人も誇りも自分への自信も何もかも……、失った。





2006 9/23 up

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