 |
あなたは間違っている 19
朝霞は目を細めて、自分の目の前の既に命の灯を消されてしまった人を見つめた。
「……どうして……」
思わず、声が滑り落ちる。
音を立てる危険に気づいて口をすぐにつぐむが、やりきれない気持ちは渦巻いていた。
死者となり横たわる自分と同じぐらいの年の(もっとも外見年齢はちがうが)女性。
何か一つでも間違えば、彼女は自分だったかもしれない。
朝霞にとっては、顔も知らない、 親しくもない相手だ。
でも、そんな彼女を大切に思い、大事にしている家族や、友人が、いたはずなのだ。
こんな風にあっけなく、虫でも潰すようにあっさりと、どうして人を殺してしまえるのだろう? 相手は人間なのだ。誰かを大事に思い、大切な誰かを傷つけられたら自分を傷つけられたのと同じぐらい傷つく生き物なのに。
遺された相手が、どれだけ悲しむか。
それを思えばできない。
同じことを自分がされたら、自分の大切な人を殺されたらどれだけ苦しむか、それを思えば、朝霞はできない。
―――それを、彼女はこんなにもあっけなくしてみせる。
悔しいのか悲しいのか、自分でもわからない。
遺体を見つめるうちにぐちゃぐちゃの感情が極まって、涙がでた。
「……?」
朝霞は頭を上げる。
……いま、撫でる感触がした気がした。
もちろん、彼は、触れ合えない。
でも、優しい気持ちは伝わった。
朝霞は目をぬぐうとしゃんと顔を上げる。
そして、歩き出した。
◇
一体いくつの死をみたのか、数えたくもなかった。
それでも朝霞が卒倒せずに済んだのは、死体が奇麗だったからだろう。
死体はどれもこれも奇麗だった。手際よく、一撃か二撃で片付けている。一番多いのが頭。次に心臓。
内臓がはみ出たものは少ないし、派手に血が飛び散っているものもほとんどない。最小限の手間で手際よく片付けていった―――そんな印象が伺えた。
そして、そんなことを思う自分に、……慣れたことを知る。
移動するたび、目に入る物言わぬ骸に、頭の一部が痺れていく。足取りにも、現実感がない。
踏みしめている床の感触がなく、空中を歩いているような気持ちになる。
そうだ―――これは、夢だ。歪んだ夢……。
死体死体死体死体死体死体死体死体死体。
一体いくつの死体を見ればいいのか。自分は、昨日まで、ごく普通の日常を生きていたはずなのに、どうしてこんな、血臭と屍肉の巣窟に迷い込まなければならないのだろう……。
ふらつく足取りで廊下を曲がり、古めかしい黒電話を見つけ、朝霞は飛びつく。
そうだ電話! なんで思いつかなかったんだろう!?
警察を呼ばなきゃ! 警察を!
そうすればこの狂った世界から、これで逃げ出せる。
ぷちん。
朝霞は感情のない眼差しで、千切れた電話機のコードを見つめる。
受話器と、電話本体をつなぐ螺旋状のコードがぷっつりと切断されていた。
たぐると……ない。
電話線も、切れている。
恐怖が、ゆっくりと、浸透していく。
……ナンデ電話を切る必要があるのだ?
助けを呼ばれるのが嫌だから?
ナンデ?
電話を壊したところで、携帯電話があるじゃないか―――。
携帯電話!
朝霞ははっとしてバッグをさぐろうとして……家の外にあの紙袋の群れと一緒に置いてきたことを思い出す。
もう充分だ。もう耐えられない。
戻ろう。帰ろう。この狂った家からでて警察を呼ぼう。
足音を忍ばせながら振り返ろうとして、ぎくりとした。
……この足元の影はなに?
足元のバツサインは何?
私の影はこの小さいもの一つ。
この、大きな影はなに!?
私の背中にかかる影は何―――!?
「どこへいかれます? お嬢さん」
心臓を、じかに鷲掴みにされた気がした。
§ § §
青年は、楽しくてしょうがないという風に笑っていた。
楽しくて楽しくてしょうがないという風に笑っていた。
それは歪んだ様子のない自然な笑顔だったので、もし太陽の下でこれとはちがうシチュエーションで見たならきっとさぞ爽やかに見えるだろう。
―――今の状況では、悪鬼の笑いにしか見えないけれど。
その服のいたるところに、血が。
血しぶきが。
そして、赤い縁取りをした顔が、にいっ、と、笑う。
わななくばかりで、朝霞は何も出来ずに見入っている。それには、ほんの少しだが、恐怖以外の理由も含まれていた。
全身に血を浴び、片手には凶器を下げ、黒い髪は房となるほど血を浴び―――、そして、この世のものとも思えぬほど、美しかった。
血を浴び、死体に囲まれて一層生き生きと強く発せられる存在感、生命力。
楽しくてしょうがないというふうに笑う青年。
ここずっと張り付いていて一度も見たことのない笑顔。
花が太陽の下でこそ一番美しいように、この青年もまた、殺戮の中こそが最も際立つのだ。
「あ……あ……」
のどの奥が痙攣して、声が出ない。
あの人が、せっかく……警告してくれたのに。
死にたくなかった。
でも、もう駄目だ。
殺されるのだ……。
「ふうん……」
渡辺麻衣はしげしげと床や壁を見つめる。
やがて納得したように頷いた。
「―――そこにいるね、清次郎?」
驚きで声も出なくなっていると、渡辺麻衣は続けた。
「この子、見逃してあげようか?」
「え……?」
「僕にとってはこの子より、あんたのほうがよっぽど厄介だ。見えず、聞こえず、感じ取れない完全なスパイ。一体何日前から僕に張り付いていたんだか……。だから、僕にとってこの子よりあんたのほうがずっと価値があるわけだ。
あんたを殺させてくれれば、この子を見逃してあげよう」
白状する。一瞬、心が動いた。
だって、朝霞は死にたくなかったのだから。
そんな卑怯な心がたまらなく嫌で―――、反発が突き上げる。朝霞は迸るように叫んだ。
「だめ!」
麻衣が朝霞のほうを向く。
「へえ?」
「だめ……だめ! 私は殺されてもいい、だからあなたはちゃんと帰って! この人のことを、みんなに伝えて!」
大声を出すと、怖くなくなって覚悟ができた。
キッと渡辺麻衣を見据える。
「最低……! あなたって最低! どうしてあんなに人を殺すの! 人を殺せるの!? あなたにだって大切な人がいるでしょう! その人が殺されたら、あなたはどう思うの!?」
「まー、草の根分けても探し出して、八つ裂きにするなあ。いやそのまえに尊敬するかも」
正直な答えにびっくりした。意味不明の後半部分はどうでもいい。
その答えに勢いを得てつづける。
「だったらどうして! こんなことするの? あなたが殺した人はみんな……みんな! 誰かにとっての大切な人だったのよ!? どうしてこんなに殺すの!? どうしてこんなに、殺せるのよ! あなた一人が大切な人の幻を追い求めるのなら勝手にすればいい! 誰も止めない! でも、あなたの勝手な望みの為に他人を巻き込むのはよしてよ!」
ここまで言えばさすがに怒って殺されると思ったが、……予想外にも、青年は、にこやかに笑った。
「お嬢さん、あなたの言う事は正しい。でも、……それが、何?」
ぞわりと、背筋に悪寒が這いのぼる。
「正しい正しくないなんてことは重要じゃないんだよ。この世では、自分の言い分を聞かせる力のあるほうが、正義なんだ。あなたの言う事がいかに正しくても、あなたの言う事を誰も聞かない。なぜなら、あなたには力がないから。正しいか、正しくないかが人がその言葉に従うかどうかを決めるんじゃない。言う人間にどれだけの力があるかが、決める。あなたには、その力がない。どれだけ正しい事をいっていても、無視されればおしまいだ。無視されない力。人に聞かせる力。
僕に、その力があるのとは反対に、あなたには、力が、ない。僕に殺されるのを防ぐ力が、ない」
朝霞は悟る。清明に。
……私はここで殺される。これまで見てきた屍の一体になる。
だから。
だったら。
いいたいこと全部言ってやる!
「あんたは間違ってる! 誰がなんといおうと間違ってる! 自分ひとりの為に大勢の人を殺して、何にも関係のない沢山の人を殺そうとしている! 石のもたらす惨劇を語ったのはあんたでしょう! まだそれを続けるつもり!?」
「うん」
……あまりにもあっけなく頷かれて、力が抜けた。
躊躇も葛藤の色さえもなく、当たり前のことを聞かれて当たり前に返事したと、いわんばかりだった。
朝霞は見上げる。
渡辺麻衣は女性にしては長身だった。
その顔を見上げて、その瞳が穏やかながらも強く光っているのを知る。
渡辺麻衣は、真正面からの、正論極まる弾劾にも、小揺るぎもしなかった。
揺らがない事を強さというのなら、それは強さだった。
「僕は間違ってる。それは判っているよ。でもそれが、何?」
朝霞は大きく喘いだ。
間違いを、間違いだと知って、それを指摘されでも動じずにそれが何だと返す、この人間が理解できなかった。
たとえ間違いであっても人間そうしたい時がある、それはわかる。
でも、心のどこかでは間違いだとわかっていて、良心の呵責にちくちくと心が痛み、指摘されると強烈に反発する、それが朝霞の知る普通の人間の反応だった。
こんな風に、優雅に微笑みながら宣言する人など、知らなかった。
「僕はその間違いを最後の最後までやりとおす。僕を止めたいのなら、僕以上の力で僕を殺すしかないよ。説得で、僕は止まらない」
間違っている人間は、弱い。
でも間違っている事を自覚し、間違っていてもなお進もうと決意している人間は、とんでもなく強い、ねじくれた強さがある。
|
2006 9/12up
|
 |