あなたは間違っている 17


 恐怖の混じった驚愕の表情は、自分に向けられる分には快い。
 目の前の青年は、恐怖に歪んだ顔で麻衣を見ていた。
 もっとも臆病というのは可哀想だろう。
 仕切り一つない目の前に猟奇殺人者がいて、その人間が刃物を持っていたら、そしてたった今まで何も持っていないように見えたら―――普通はそうなる。

「な……んで動けるんです!?」
 答える義理はなかった。
 だから言った。

「僕が、この数ヶ月ただ逃げてるだけだと思った?」
 声は優しく響いた。
「内通者、裏切り者、背反者―――どんな言い方でもいいけど。僕に力を貸してくれたよ。この呪縛がとけるように」

     § § §

 朝霞(あさか)は観光と買い物を終え、山になった荷物をタクシーにつんで帰ってきた。
「ほわー、お客さん、源氏屋敷の人ですか!」
 タクシーの運転手の感嘆する声が快い。
 朝霞の所属する一族はとにかく人数が多く、人数が多い割りに連帯感が強い。超常能力者として、一般人の中では圧倒的少数派である自覚が結束を強めているのだろう。
 一族は全国各地に散らばり、ところどころに地方の名士といわれる成功した人物がいて、こうした屋敷を構えている。
 つまり、塀から家まで徒歩で一分以上かかるような広大な敷地の屋敷、ということだ。

 そして、一族の人間が訪ねてくると快く部屋を貸してくれるのだ。
 特に今回は一族の間で今一番の懸念となっている石の所有者の調査ということで、話は非常にスムーズだった。逃げ回る対象者とあわせて朝霞も移動したがその都度その地方の家は、親身になって協力してくれた。

 運転手がタクシーから紙袋を下ろすのを手伝ってくれ、笑顔で別れた。、
 袋の中身は勤め先のみんなへのお土産だ。
 いかに一族が権力のある人間で、会社のトップと話はついているといっても、一ヶ月以上職場を留守にしたのだ。職場の同僚の間で不満はたまっているだろうし、ここで手を抜くと、後日の人間関係にさしさわりがある。
 いかに実家が超能力者だといっても、そういう点は世間一般と変わりないものである。
 その仕事も依頼人の要求を満たして終了した。
 成功報酬で懐も潤沢、今日はこの屋敷で休んで明日は実家に戻る予定だった。

 両手に紙袋を山とぶら下げた朝霞の足取りが止まった。

 探偵という職業の朝霞だからこそ気づいたのだろう。
 浮かれた気分であっても鋭い観察眼が、見過ごしてしまいそうな自分の足元を凝視した。

 先ほどから、歩く端から……赤いものが一瞬見えた。
 まるで歩く朝霞の歩みの前に立ちふさがろうとするかのように。
 朝霞が足を止めると、赤いものは見る見るその面積を増やす。

 上を見たが、まだ屋敷の中に入ってすらいない今、青空が広がるばかりだ。日が落ちる間際の、青い空。何かが滴り落ちるような場所ではない。
 上向いた目線を下にさげると、飛び石の上に赤い文字が完成していた。

 簡潔な一言。
 逃げろ。

     § § §

 声は我ながらしわがれていた。
「ど……ういうこと?」
 次元の隙間に入ってしまった人間の事を、朝霞は聞かされていた。
 地下でしか触れ合えないし、話せない。でもそこにいる。そんな人物の事を。
 だからその人物が必死にいま自分に警告してくれているのだということは理解できた。

 点々と、門から家の玄関まで連なる飛び石。
 その石に文字を書こうとしては朝霞に追い越され、朝霞が足を止めたことでやっと書けたのだろう。

 しかし。頭が「危険」の中身の理解を拒絶した。

 だって、まさか、そんな。
 あれだけの術者をかき集めて。
 一族全部からめぼしい術者を全部かき集めて。
 不意打ちして。
 たかだか普通人一人に、そんな―――
 認めたくなかった。何の能力もない一般人に殺されるなんて事があるとは。だから頭が理解を拒絶した。

 透明人間からの次のメッセージは、そんな朝霞の卑怯な逃げを木っ端微塵に粉砕する、疑問の余地もない返答だった。
 ―――殺される。逃げろ!

 反射的に、背を向けようとして踏みとどまる。
 ……逃げてどうなる?
 掌をきつく握り締める。
 逃げて、どうする!

 朝霞は緩くかぶりをふった。
「だめ……逃げられない」
 どうして! と責める声が聞こえた気がした。
「だって、私は……探偵だもの。私の調査報告が元でこんな事態になったのなら、わたし……、ただ逃げるわけにはいかない。少しでも、知らなくちゃ。調べなくちゃ。見なくちゃ。どうしてこんなことになったのか、その情報の切れ端でも手に入れて帰らなくちゃ、私を育ててくれた社長に顔向けできない」
 半分以上、自分に言い聞かせながら言った。

 朝霞は周囲を見回す。
 何も見えないし、触れ合うこともできないけれど。―――ここに、いるのだ。
 危険を警告して、逃がそうとしてくれた人。
 朝霞はすがる目で言った。
「お願い、ナビゲーターして。私の行く先が危険だったら、床にバツを書いて欲しいの。私、裏口から中に入ってみる……」

 生還は絶対条件だ。
 どんな情報も、生きて戻らなければ意味がないのだから。
 でもそれと同じぐらい、何も情報を持たずに帰ることも意味が無かった。

 後で、それを、どんなに後悔するのか思いもせずに。





2006 9/8 up

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