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あなたは間違っている 10
カインは腕時計を見た。
一時間以上が経過している。
壁に寄りかかって立つ足がつかれた。
椅子でも借りてこようかと思ったとき、だしぬけに扉が開いた。
カインは両親の名を口にしかけて止めた。
一瞬だけ、しっかりとその姿を焼き付けてから目を外した。
子を失った母は、泣いていた。
目元を涙でおさえ、うつむいている。嗚咽は聞こえてこないが、かすかにしゃくりあげる音―――意志の力ではどうにもならない生理的な音は聞こえてくる。
子を失った父は、妻の肩をだきしめ、そして反対側の手は、……何かと手を繋いでいるような形で、下げられていた。
「……これは、挑戦です」
床の木目を数えていると、声が聞こえた。
カインは顔を上げる。
ハンカチを外し、涙の跡がのこる年老いた女の顔が正面にあった。
「あの人殺しは、私たちに挑戦しているんです。幻を振り払えるものなら、払ってみろと、そういっているんです。だったら、どうして、逃げる事ができるでしょう。どんな事でも同じ立場になって初めて説得力を持つ言葉というのがたくさんあることぐらい、知っています。自分の為に、何の罪もない子どもを殺すような、そんなけだものと私たちはちがう―――ちがう人間です。同じ立場になってみろというのなら、逆に言えば同じ立場になれば言う事を聞いてやるということでしょう。……逃げる事は、できなかった。そんなこと、できなかったんです……」
悄然とうつむいた女の顔は、横を向いている。
カインの目には、何もそこに見えない。
うすうす、わかってはいたが―――それでも口に出して尋ねた。
「警察に、通報されますか?」
掌に、泣き顔を隠して、彼女は顔を背けた。
夫は、黙っていた。
視線は、繋いだ手の先に向けられている。
カインにとっては虚空、彼にとっては愛しい息子を見て―――無言の眼差しで会話を交わして、カインに戻した。
「いや。通報は、しない」
母がハンカチを握り締めて低くつぶやく。
「これほど……誰かを憎んだ事はありません……!」
幻と息子の仇の二択を、息子の仇の手により強いられ、そして屈服した。
ねじ折られた矜持が、心を鋭く突き刺す。
「これほど……人を殺したいと思ったことはありません……!」
話を詳しく聞くところによると、こんな風だったらしい。
最初しばらくの間は、何の変哲も無かった。
警戒していたふたりも、用心しつつも警戒をといた。そして死体に触れ、息子の死を現実のものとして受け入れる。
絶望が心を覆う。
悲嘆が、部屋を満たした。
それも憎しみに転化することで、心に火がともる。唇を切れるほど噛んで、息子の死を悼み、殺した相手を憎んだ。
復讐の意志を強くもって遺体に背を向けた瞬間、声がかかったのだ。
―――お父さん、おかあさん? と。
息子の声に、彼らは反射的に振り返ってしまった。疑念を感じるゆとりもない、反射的な行動だった。
そして、それを見た。
寝台に横たわっていた息子が起き上がり、彼らに手を伸ばすところを。
予備知識は、充分あった。
幻であるという事は、教えられていた。
だから彼らは動かなかった。凍りついたように、その場に張り付いていた。
そしてよろめきながらも息子は起き上がり、ふらついた足取りで近寄って、倒れた。両親の目の前で。
倒れこんだ小さな体と肌が触れた。
触れあった肌のぬくもり、声、顔……全てが永遠に失われたものと同じだった。
人というのは、本能的に体温を感じると心がやすらぐ。
肌のぬくもりを感じ取って、「まぼろし」というものを視覚の錯覚に過ぎないとばかり思っていた(情報伝達のミスである)彼らは著しく動揺した。
それでも、頭ではこれが幻だとわかっている。そう口にも出した。
けれど、すると息子の幻は傷ついた顔になり、こういったのだ。
「……僕は、たしかにオリジナルじゃないけど……ニセモノだけど……ここにいる。お父さん、お母さん、僕が見えるでしょ?」
泣きそうな顔で、失われた息子はそういい―――両親は陥落した。
カインに、母親が言う。
「息子を殺した人間が……私たちにこんな思いをさせる人間が……憎くてなりません」
恨めしくて憤ろしくてなのに心の中には幻によって癒された分の心の鬱積があり、傷つけられたプライドの痛みもあり……心中は複雑だろう。
そして、そんな状況に陥れた殺害者を憎むのは人として、当然である。
「いつ、息子を殺した人間はつかまるんですか?」
カインは嘘は言わなかった。正直に言った。
「難しい情勢です」
「どうしてです? たかが普通人ではないですか」
超能力者と普通人。普通ならばどちらが強いかは決まっている。
「これは例えるなら、震えながら拳銃を構えている素人と、人殺しになれた侍のどちらが強いかという話です。たとえ銃を持っていても、震えながら構えているのでは当たりようがない。……相手は、歴戦の殺人者です。人殺しに慣れきっています。しかも闇雲に人を殺して回る狂犬ではなく、頭がある。居場所をかぎつけられたらすぐに移動して、若様を殺めたのもとっさの感情ではなく、若様が居場所を突き止めることのできる能力を持つがゆえでしょう。冷静に、ここで殺したほうがいいと判断したためです。……都会で、そういう人間を捕捉するのは、至難の業です」
「―――その人間は、どうしてあの子がその事をできると知ったのです? 普通人なのでしょう? おかしいじゃないですか」
この母親は、決して、頭は鈍くない。
「それは……」
カインは言いよどむ。
水和が死んだために、今のところうやむやになっている問題。
水和が、一度捕らえた渡辺麻衣を外に出し、殺害されて逃げられた、ということをこの母親に言うのは躊躇われた。
「若様が、ご自分で口にされました」
「あの子が? ―――そんな、馬鹿な。それほど愚かな子ではありません! おまえ……自分のミスをあの子のせいにしようとしているんでしょう!」
カインはこの日本で、外国人だ。勝手な思い込みで罪を作り出され、糾弾されることには慣れている。
金銭がなくなっていたとき、真っ先に疑われるのはカインだった。大抵それは金を持ち出した本人が悪気なくやったものですぐに本人が名乗り出てくれておさまったが、その後、疑いをかけた人間がカインに謝ったことは一度もない。
余談だが清和の家ではこの手の騒動は決して大事になることはない。
心を読める能力者がいるため、「やったやらない」論争は過熱する前に真犯人が自己申告して終わるのだ。過熱して、シンジが呼び出されればいくら抵抗しようと真実は明らかになるのだから、自分で言った方がましなのである。
―――しかし、そのシンジはもういない。
マイに殺された。それも、見た人間が絶句するような変わり果てた姿となって。
あのとき、現場にいたのは水和とカインとマイだけだった。カインの無実を知っているのはマイだけだ。
だからカインは黙っていた。自分の無実を証明してくれる人間がいない以上、何を言っても無駄だ。
人は信じたいものを信じるのだから。
この場合は、カインが悪いということを、信じたいのだから。
長年にわたる日本での生活で、カインには徒労にも似た諦めが身についていた。
どうせ、無罪を主張したところで、無駄なのだ……。
§ § §
冷たい感触が額にあった。
マイはぼんやりと目を見開く。
「……シュレイル」
冷たい掌が、額に触れている。
幻でも、マイにだけは触感がある。だから、冷たいという感触を与える事も可能なのだ。
「立てるか? ベッドに横になった方がいい」
「……うん」
立ち上がり、ベッドに移動する。
天井の模様を見ながら、そういえば、こんなことが以前もあったっけ、とマイは回想する。
故郷から引き離されてすぐのころで、まったく違う気候風土、劣悪きわまる栄養条件、過度な運動にマイはすっかり体調を崩して寝込んでしまった。
こんなベッドもなく、野外の地面に布を広げただけの寝床で高熱にうなされた。
彼は、マイに告げた。
正確な言葉は覚えていないが、意味は憶えている。
―――お前に付き合っている暇はない。置き去りにするが、お前は死ぬより酷い目に合うだろう。望むのなら殺してやるが、どうする?
と。
マイが頷けば、彼は即座に痛みのない方法で殺してくれただろう。
しかし、マイは頷かなかった。
高熱にうなされながらも、声を上げた。
―――いや……生きたい、生きたい、生きたい、生きたい……ッ!
……彼が何を思ったのかは、マイの想像でしかない。
何を言われても、マイは「生きたい」と連呼した。しまいには言葉の意味も判らないほど意識が薄れても連呼していた。
殺してほしいといった事は一度も無かった。
その態度に、彼が哀れみを感じたのか、敬意を表したのかはわからない。
結局、彼は足手まといのちっぽけな小娘を見捨てなかった。置き去りにするのが楽だということは彼もわかっていたはずなのにそうはせず、森に分け入って解熱作用のある薬草を採ってきて、マイに飲ませてくれた。
無骨な手がマイの唇を開かせ、薬草をのませてくれたときのあの喜びを憶えている。
額には、冷たい感触がある。シュレイルの掌だ。
幻の利点で、体温を吸ってぬるくなることもなく、冷たいまま、マイの額を冷やしてくれる。目蓋をあげれば、心配そうな顔で見守る瞳がある。
その姿を見るたび、心が和む。閉まっていた心の扉が緩む。幻なのに。
愛していると……思う。
「幻だと判っていても、愛しい人の姿を前にすれば心が緩む」。
今頃清和水和の親族も同じ事を実感しているだろう。
人の心は、理屈でわりきれやしない。
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2006 7/29 up
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