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あなたは間違っている 9
マイが備え付けのタオルで身体を拭いていたときそれは襲った。
タオルを放り出し、近距離にある便器に駆け寄り顔を寄せる。
嘔吐の発作は胃の中のもの全て吐き出しても止まらない。えずきが、三度四度と襲ってくる。
空っぽの胃を酷使して、胃液が酸で体内を焼きながら這い上がってくる。
胃袋全体を裏返しにするようにして胃液を喉元まで運び、口中に残った苦味を水ですすいで洗い流し、立ち上がるのも億劫で便器にもたれていると、声がした。
「はじまったな」
見上げれば、そこにあるのは冷ややかな瞳。
「石の侵食。あとどのぐらい持つ?」
マイは目を伏せた。
「……長くて、半年」
「そうだな、それぐらいまでが、マイの寿命だな。石の危険性を判っていながら、石に手を出すなんて馬鹿なことをした報いだ」
感情を含まない冷静な物言いは、彼の十八番だ。
疲弊した心には沁みる口調だったが、言い返そうとは思わない。間違いではないし、返す言葉も見つからないからだ。
白い陶器の便座に手をかけ目を伏せるマイと、青年の間に沈黙が流れる。
§ § §
夜出発し、夜をついで列車を乗り継ぎ、早朝、その地にたどり着いた清和水和の両親は憔悴した色を浮かべていた。
出迎えに当たったのは、カイン一人だけだ。
他の人間は皆、心理的事情から両親との対面を回避した。
ふたりはカインだけということに驚いたように目を上げた。不快そうな色がうかぶ。軽んじられたと思っているのだ。
「あなただけですか?」
「はい―――……」
「他の人は……」
「あなた方を軽んじているわけでも、会いたくなかったわけでもないのです。それだけはまず先に、判ってください」
「ではなぜ……」
といいかけた夫を制して、妻が言った。
「理由を、聞かせてもらえますね?」
カインはうなずく。
運転免許を持っていないため、カインはタクシーを呼び止めた。場所は駅前、タクシーはすでに客待ち状態で待機している。
車内で、夫婦は事情をききたげに口を開き、そしてすぐに運転手の目を意識して口を閉ざした。
といって、世間話をする気分にはとうていなれず―――車内には居心地の悪い沈黙が舞い降りる。運転手も、そんな空気を読んで話し掛けてこない。
駅からタクシーでかなり走り、たどり着いたのはかなり大きな敷地を持つ土塀で囲まれた屋敷だった。
タクシーに礼をいって料金を支払い、降り立つと、母親のもの問いたげな瞳とぶつかった。
「ここに……?」
「はい。――若様の遺体は、こちらに安置されています」
「電話である程度は聞きました。幻が、見えるのだとか」
「はい。それこそが、私以外の誰も出迎えにこれなかった理由です」
「……わかりません、なぜですか?」
カインはためらい、目を伏せ、またあげ、また伏せ、結局正視できずに告げた。
「まだ、警察に連絡していないのです」
「どうしてですか! もう何時間もたっているでしょう!」
カインは、うなずく。
そして説明した。
「連絡できなかったのは、二つの理由があるためです。ひとつは、上から何も指示がないこと。もうひとつは……幻が止めるのです」
「ええ、幻が消えるそうですね、それが何です、いっそ好都合ではないですか!」
母親の声が、言葉をすすめるうちに感情が激昂して叫び声になった。
カインは怒鳴りつけられても、不快に思わなかった。むしろ当然の反応であり、哀れみを抱いた。
理屈で言えば、そのとおりなのだ。
「幻を見ている人間は十人ほどおります。そのうち一人でも警察に通報すれば……いえ間違えました。誰かが警察に通報すれば、それだけで全員幻が見えなくなります。彼らは、俺に主張しました。幻を消すなと、たとえ幻であっても自分たちはこの目で見、この手で触れているのだと。幻を消すなんてそんな権利がお前にあるのかと、懇願しました」
話していて思い出してしまうのは、その時の痛みだ。
カインは、結局、水和の遺体を見ていない。見て、愛惜の思いを抱いてしまえば幻に囚われる。それを……彼らが止めたのだ。
闇の中の一筋の善意は、どうしてこうも胸を打つのだろう。
幻を消すなと嘆願する彼らは、お前になにがわかるといった彼らは―――説得に最も有効な「幻を見せる」という方法をとらなかった。自分たちの仲間に引き入れる事が一番簡単で手っ取り早い事はわかっていただろうに……、しない事を選んだのだ。
だからカインは、その制止を振り切って警察に連絡する事が出来なかった。
それが一番正しい道にもかかわらず。
声もなく、両親は聞き入っている。
「しかし彼らも、自分が間違っている事はわかっているのです。警察に通報すべきであって、通報しないのは間違いなのですから。だから、彼らはあなた方の選択には従うと、そういっています」
「え……?」
「清和水和様―――土の寵児である水和さまのご両親であり、もっとも水和様を愛しているあなたがたの選択に従うと、そう言っています。警察に通報するとあなたがたが決めるのなら邪魔はしない、従うと」
カインは付け加えた。
「だから、彼らはあなたがたが選択を終えるまで、あなた方と顔をあわせることはしないと決めたのです。言葉を発せずとも、嘆願の表情も、雰囲気も、あなた方の選択を揺らしてしまい、結果として干渉することになるので、そうすることにしたんです」
思い出すだけで、沈痛な、陰鬱な表情になる。
自分が間違っていることは重々承知で、それでもそれをやめられないことに、彼らは苦痛を感じていた。
ほんとうに……正論だけで世の中が済めばどれほど楽だろう。
玄関先で、カインは尋ねた。
「警察に通報されますか?」
「もちろんです」
「では、遺体へは、会われないほうがよろしいでしょう。電話のあるところまで案内いたします」
屋敷に入り、先頭に立って案内していると、ぼそりと声がした。
「……なぜ会わないほうがいい、などと言うのです?」
強い棘を含んだ口調に、思わず振り返る。
息子を失った母親の、ねめつける眼差しが、彼を見据えていた。
「どうしてあなたが、そんなことを決め付けるんです」
あなたごときが―――。
言外に含まれたそしりに、カインは目を細める。
慣れっこだ、こんなことは。
ここは日本であり、自分は日本人ではないのだから。
「失礼いたしました」
深々と頭を下げる。しかし、息子を失った母親のささくれ立った神経は、やっと見つけた怒りのはけ口を中々手離してはくれないらしい。
「あなたが、どうしてそんなことを決める権限がだれがあるといったのです!」
文法的に多少おかしいが激昂しているとき完全に文法的に正しい言葉でないのは普通のことだ。
「だいたいどうしてあなたがここにいるんですか!」
「は―――?」
とっさに意味がつかめなかった。
「息子も守れず、どうしてのうのうと生きているのです! お前が死んででもあの子を守るのがお前の役目でしょう!」
言葉もなく、カインはうな垂れる。
「それをお前はおめおめと息子を殺させて……、どの面下げて私に指図するのか!」
よく響く声に、夫のほうは人目を気にしだした。
他人の屋敷の中で、人をカン高い声で罵っているのだ。今のところ誰も顔を見せないが、無人のはずはないし、聞き耳を皆立てているだろう。
宥めるように妻の腕にふれると、罵声を吐き出しきった彼女は大きく息を吸い込んで宣言した。
「おまえなどに、指図されるいわれはありません! 息子はどこです、私は会います!」
警察に通報するならば会わないほうが、いい。
カインは周囲の人間の態度から確信していたが、それを彼女に言えばまた「指図」と言って声を荒げるだろう。
息子を殺されて、母親に平常心を期待するほうが無茶な話だ。
また、神経がささくれ立っているときというのは、罵られ役がほしいものだ。しかしその罵られ役を押し付けられる側はたまらない。
再三の罵りを「息子を殺されたのだから苛々していても仕方ない」と自分の心を宥めているカインにしても、かなりかちんときているのだ。
忠告をしても、この調子では聞かないだろう。
だが義務とおもい、カインははっきり口を開いた。
「警察に通報されるおつもりならば、会わないほうがよろしいと思います」
彼女の顔から血の気が引いた。
白くなった顔で、瞳だけがカインを見ていた。
「おまえは……私が息子と幻を混同するような馬鹿者と思っているの」
こうなっては、何を言っても聞きはすまい。
カインは諦める。
忠告はした。それに、確かに彼女の言うとおり、彼女は幻などものともせずにいられるかもしれないのだ。
「こちらへ」
カインは案内し、扉の前で立ち止まる。
自分もまた見るべきではないかとおもい―――よぎったのは、「お前は見るな」といっていた、幻に囚われてしまった同僚の姿。
心の痛みに顔をゆがめながら、それでも良心に拠って忠告してくれた彼らの表情を思い出せば、答えはすぐにでた。
「どうぞ」
カインは扉をあけ、二人に指し示す。
清和水和の両親は扉の中に入っていった。
そして、カインは扉を閉めた。
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2006 7/22 up
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