弓張月 2

 

 何かざわざわと落ち着かない気分のまま公園を突っ切ろうかどうしようか迷いながら横
目に見る。ポケットを上から触りながら、預かっているこれのことが気になって落ち着か
ないんだろう、早く連絡をとれば済むことだと思い直して公園を通る事にする。早く進藤
の電話番号を調べよう。
 噴水の側まで来た時、何か諍う音がしたような気がしたが、特に目に付くこともなかっ
たので気のせいだろうと足を早めようとしたとき、突然頭の中で
『―――――早くっっ』
 という叫び声がして反射的に辺りを見渡した。
 さっきは気づかなかった茂みの向こうでかすかに進藤の声が聞こえた気がして衝動的に
駆け出していた。
 近くで救急車のサイレンが鳴ったこと。
 それを利用してとっさに
「警察だっっ!!そこを動くなっっ」
 と叫んだこと。
 ヤツらがいきなりのことで驚いて逃げ出したことはまったく僥倖だった。
 ナイフに気が付いたのは後からだったが、あの偶然がなければアキラは武道の心得もな
いのにいきなり丸腰でヤツらの前に姿を現すことになっていただろうから。
 しかしそんなことに思い至ったのは随分後だった。
 いきなり目の前に飛び込んできた惨状にアキラの頭は血が上がってマヒしていたからだ。


 思いもかけない光景にアキラの足は知らずに震えた。
「し…しん…どう?」
 蚊の鳴くようなかすれた声しか出ず、喉がカラカラに渇いていた。

 踏みしだかれたそこには、壊れた人形のように進藤が転がっていた。
 頭の上にあげられた両手はネクタイで縛り上げられている。
 みだれた髪が顔のまわりに広がり側には組み紐が落ちていた。
 コートもジャケットも前をはだけられて体に纏わりついている。あれは全てボタンが飛
んでいるに違いない。
 中のシャツは刃物で切り裂かれて直接肌がのぞいている。
 なによりショックだったのは下半身が無防備にさらけだされ、側に下着ごとズボンが捨
てられていたことだった。
 『レイプ』という言葉が頭に浮かび、それを進藤に結び付けることを感情が拒絶した。
 震える足で進藤の側に崩れるようにひざまづき、そっと顔をのぞき込む。
 見開かれた眼はなにも感情をうつさず、自分のことも見えていないのだと感じさせた。
 こみかみに酷く殴られた痕を認め、知らず唇を噛み締めていた。腹部にもうっすらとア
ザが浮かび、ここも殴られたことを窺わせる。そして首筋に内出血の跡と血が滲んだ歯型
を見つけた時には、自分でも制御できない程の猛烈な怒りに駆られて殺したいほど人が憎
いという衝動が初めて身内に沸き上がった。
 それでも思考の一部で早くここから進藤を連れ出さなければという思いがかろうじて溢
れる感情を無理やり抑え付け、こみかみの傷にそっと手をそえた。するとビクリと体が震
え、正気づいたのかとそっと名前を呼んだ。
「…進藤?」
「フ…あ…」
 遅まきながら手の拘束を外さなければと手首に触れた途端、反応が激変した。
「…ヤ…イヤッ、ダッ…いやだっっ!嫌っ―――!!」
 叫んで必死に身を捩ろうとする。
 しまった、と後悔したが、とにかく正気に返らせようと頬を叩き、名前を繰り返す。
「進藤、進藤っ!ボクだ、ヤツらはもういない!!進藤っ」
「とう…や?…」
「そうだ、ボクだ」
 ようやく空ろだった眼に力が戻り、視線がアキラの眼と合った。
「…塔矢…」
 力が抜けて呆然と呟く姿にたまらなくなり、アキラは夢中で進藤の体をかき抱いていた。
 ビクッと一瞬強ばったが、次第に力が抜けてなすがままになっている。

 しばらくそうした後、ゆっくり体を離し、ごめんとアキラは呟いてヒカルの腕をとった。
「これ、早く、とらなくちゃ…」
縛られていた手首を自由にしていく。
「それから、傷も病院で診てもらわないと…」
「病…院…?」
「頭、殴られてるだろう?心配だ」
「イ…ヤ」
「進藤?」
「嫌っ!いやだっっ!!行かない!行かないっっ!」
「でも…」
 ブンブン激しく頭を振り、固く目をつぶり頑なに拒絶する。
「かえ…る、帰る…っ、ウチに帰る!」
 叫ぶように繰り返し、体をブルブル震わせる。
 アキラはしばし躊躇した後、慎重に尋ねた。
「キミの…家?」
 ヒカルは力無く頭を振った。
「オレの…へや…」
 そう答えてヒカルはギュッとアキラの袖を握り締めた。
 俯いてうったえるように腕にしがみ付く進藤を見て、アキラは判ったと頷いた。
 すると安心したようにヒカルの腕の力が抜けていき、ズルリと体が傾いだと思うとその
まま気を失った。

 その様にアキラはあわてて、よっぽど病院に連れて行こうかと迷ったが、あれほど頑強
に拒んだ進藤の事を考えると騙し討ちするような真似はすまいと思い直した。
 もう一度傷の有無を見て他に特別無いのを確認し、悪いと思いながらも下肢もあらため
た。そして決定的な事態に至る前だったことにホッと安堵の息を吐き、身なりを取り繕っ
た。下はともかく、上は全部破かれている。迷ったすえ、破れた衣服はそのまま着せ、ボ
タンの飛んだ上着は体を覆うように巻き付け、進藤のコートを脱がし、自分のコートを羽
織らせてボタンをきっちり全部はめた。
 そしてタクシーを呼んだ。
 携帯を持っていてよかったと思う。電話を探す為に進藤を一人にしたくなかった。
 そして道路に面している公園の入り口まで進藤を運ばなくてはと思う。
 脱がせた進藤のコートを脇に抱え、ふとジャマかと考え、思案したのち、ボタンが飛ん
でいるだけだからと思って自分が羽織った。さいわい、そう体格がかけ離れているわけで
はない。
 そして進藤を苦労して背中に背負い、歩き出した。


 覚えていた進藤のアパートの住所にタクシーを誘導して、運転手の人に頼んで部屋に運
ぶのを手伝ってもらう。背は一応アキラの方が高いが、細身の体でそう鍛えているわけで
はない身には少々つらい。それでなくても意識の無い人間の体は重いからだ。表札が書い
てあってよかったと思う。さすがに部屋番号までは自信がなかった。
 謝礼を渡した後、最後の仕上げとばかりにベッドまで引きずってようやく一息ついた。
 ここまでで結構体力を使ったらしい。
 しかしこのまま寝かせるわけにはいかない。さいわいベッドに脱ぎ散らかした寝間着が
あったので、それを着せることにした。家捜しするのは気が引ける。
 全部すんでようやくアキラは進藤の顔をゆっくり見た。呼吸は安定している。こみかみ
の傷は最初見た時よりアザが濃くなっているのを見て眉をしかめる。これでは腹部ももっ
と酷くなるかもしれない。心配だったが、家主の許可も取ってないのに泊まるのはためら
われた。一度家に戻って、明日の朝早くまた来ようと決心すると、踵を返し、進藤のコー
トのポケットにあったカギを握り締めた。これはドアのポストに落とせばいい。
 身を屈めて靴を履こうとした時、物音がしてハッとした。
 進藤が激しく寝返りをうったのだ。そして叫ぶ。
「…ァ…う…ンッ…ァアッ、イヤッ、いやだっっ、放せっ、ィヤ―――ッッ!!」
 うなされてる。
アキラは青くなってベッドに駆け戻った。思い出しているのだ。
「進藤、進藤っ!もう大丈夫だっ!アイツらはいない!大丈夫だっ!」
 繰り返し繰り返しそう言いきかせ、手をしっかり握り締めた。
 しばらくしてようやく呼吸が落ち着いてきてまた静かな寝息に戻った。

 それを見て安堵の息を吐き、たちまち体の力が抜けたアキラはベッド下に崩れるように
座り込んだ。それでも怖くて手は放せなかった。落ち着いてきて進藤の様子をもう一度そ
っと伺うと、目尻にうっすら涙が浮かんでいた。
 そしてまた進藤にこんな思いをさせたヤツらのことを考えるとはらわたが煮え繰り返
るような気がする。駆けつけた時には遠ざかる後ろ姿しか見えなかったので、犯人の顔さ
え判らなかった。側に落ちていたナイフ。あれで進藤を脅していたに違いない。
 そして入り口に向かう途中、噴水の近くに財布が落ちているのを見つけた。見覚えがあ
る。進藤のだった。お金はなかった。
 ヤツらはお金を盗った上に、進藤を強姦しようとしたのだ。
 アキラはギリギリと唇を噛み締めた。

結局、またうなされないか心配でアキラは帰れなかった。
 うつらうつらしながらベッドにもたれるように起きていたが、明け方近くにとうとうベ
ッドに突っ伏して寝入ってしまった。それでも手は放さなかった。





 ヒカルは胸元がなんだか重いなと思いながら、それでも手が何だか温かくてそれを手繰
り寄せるように身を縮込ませた。顔になにやら息がかかったような気がしてハッとして眼
が開いた。
 目の前に整った塔矢の顔があってびっくりして身じろぎすると、それで気が付いたらし
い。
「…う…ん…」
 という声とともに塔矢の目が開いた。
「ごめん…寝ちゃってたか…」
アキラは顔を上げると軽く頭を振り、進藤の方を向いた。
「吐き気はしない?熱は?」
 そう言いながら繋いでいた手を放し、ヒカルが離れた体温をどこか寂しく感じたと同時
に今度は顔が真っ赤になる気がした。塔矢が顔を近づけて今度は額に手を置いたからだ。
「ん…、顔が少し赤いみたいだけど、熱は無いようだね」
 ―――おまえのせいだろっ、オマエの!
 とヒカルは内心罵倒した。
「――頭痛はしない?お腹は痛くない?」
 そう言われてようやく昨日の事を思い出し、居たたまれなくなって顔を伏せた。
 そして力無くゆるゆると首を振る。
「…頭は…大丈夫…そんなひどくない。…お腹は…少し、痛い…かな…」
「そう…。進藤、やっぱり病院行こう。頭だけはどうしても心配だ。念のため検査しても
らった方が良い」
 進藤は蒼白になってブンブン首を振った。
「いやだっ」
「進藤っ」
 ヒカルはベッドの上で膝を抱えてそこに頭を伏せた。わずかに体がふるえていた。
「――進藤、キミは昨日ケンカに巻き込まれて、頭を殴打されて、腹部を殴られた。だか
ら、念のため病院で診てもらう。それだけだ」
 アキラはそれだけ言ってじっと待つ。
 かなりの時間をおいて、進藤の頭がかすかに頷いたのを見てホッとした。

 アキラはタクシーを呼ぶと近くの総合病院に案内してもらった。外来が多く、順番に時
間がかかる。
 待っている間、ヒカルはポツリと呟いた。
「おまえ…どうしてあそこに居たんだ…?」
 アキラは失念していたことを思い出し、自分のコートのポケットを探って進藤に差し出
した。
「これ、キミのなんだろう?緒方さんに聞いた」
 ヒカルは手のひらに乗せられた金色の留め具をぼんやり見つめた。
「そっか…」
 落とした事にさえ気づかなかった。
 ―――お母さんの、おかげだな
「サンキュ…」
 ヒカルは受け取ったものを握り締めた。

 やがて呼ばれた進藤に付き添ったアキラは、次に検査室に向かう進藤を見送って、ロビ
ーで進藤が戻ってくるのを待った。
 長い待ち時間の末、現れた進藤に目線で尋ねる。
「…とりあえず、問題はないだろうって。念のため後日詳しい結果報告をするって」
 あと、二週間後にもう一度来院して問題なければ大丈夫だってと告げる。
「――そう…」
 あきらかにホッとした様子で深々と息を吐いた塔矢にちょっと笑ってヒカルは言った。
「…ありがとう…。――なあ、メシ、食いに行かねぇか?オレたち朝も昼も食って無いン
じゃなかったっけ?お礼にオレが奢るよ」
 笑ってそう提案する進藤にアキラもやっと顔をほころばせて頷いた。

 腹が空いたと旺盛にかきこむ進藤の食いっぷりにアキラも吊られていつもより食が進む。
 最初は興味も嗜好も違う2人は話がかみ合わなかったが、そのうち碁の話しになると一
気に話は盛り上がり、夢中になった。性格の違いが出て切り込む角度が微妙に違う互いの
見方は却って新鮮で、その上2人とも鋭い視線でとらえている為に思いがけない局面を認
識して碁談義に花が咲く。その気分のまま食事の帰りに歩きがてら目かくし碁をしている
うちにそれだけでは足りなくなって、無言で目を見合わせた後、2人でそのままヒカルのア
パートに戻り、碁盤を囲むことになった。


「あー、ちくしょうっ、負けたー!」
「さっきはキミが勝ったんだから、あいこだろう」
 2人とも負けず嫌いな為に自分が勝つまで続けたくなり、いつの間にかとっぷり夜が更
けていた。
 ジャラジャラ碁石を片付けながらヒカルは言った。
「なあ、もう随分遅いから泊まっていったら」
「だけど…」
「オレならかまわねぇし、それにここまで遅くなったらおまえが家に着く頃には深夜だぜ。
家の人にも迷惑じゃないか?明日は仕事が午後からだって言ってたじゃねぇか」
 かまわないだろ?と目線で聞いてくる。
 アキラは逡巡した後、言葉に甘える事にした。
「おまえ、先にフロ入れ」
 そう言って、予備のスウェットの上下と未開封の下着を押し付けて洗面所に放り込むと、
ヒカルは寝床の準備をした。
 思案した後、コタツを片付けてコタツ布団を自分のベッドに放り込み、ベッド下にコタ
ツ敷きと自分のベッドパッドを重ねてその上に羽毛布団を掛けた。客用布団なんて気の利
いたモノはここには無いのだ。
 フロから上がった塔矢はこれにびっくりし、自分はコタツ布団で十分だからと辞退した
がヒカルは聞かなかった。
「だめだ、おまえは客なんだから。それにオレはベッドがあるからシーツだけで十分だし、
布団もこれで大丈夫だ。おまえのは敷き布団も薄いヤツなんだから、せめて掛け布団は暖
かいのにしろっ、風邪を引かれたらオレが困る」
 それともオレに移したいのかと凄まれてアキラは不承不承あきらめた。

 その夜、喉の渇きでアキラは夜中に目が覚めて、隣の進藤を起こさないようにそろりと布
団を抜け出した。台所で水を貰い、寝床に戻る。
 そしてふと進藤の方を見た。
 わずかに開いたカーテンの隙間から外の灯りが漏れ、うっすらと進藤の顔を浮かび上が
らせていた。静かな寝息に何となくホッとしつつ、目を戻しかけたところでドキリとした。
 首筋の、アザ。
 それを目にしたとき、アキラは訳の分からぬ衝動のままそのアザに唇を押し付けて跡を
残した後、進藤の唇にくちづけていた。
 頭が真っ白のままさらに舌を滑り込ませようとしたところでハッとした。
「…ん…佐…為…?」
 弾かれたように顔を上げ、アキラは呆然とした。
「…っ、ボク…今…なにを…?」
 うめくように呟いて、混乱した頭に手をやる
 進藤の穏やかに続く寝息をぼんやり聞きながら、アキラは途方に暮れたように立ち尽く
していた。


 翌朝、ヒカルは目が覚めるとアキラがいない事に気が付いた。
 見れば敷き布団は畳まれていて、羽毛布団が自分の上に掛けられている。
 枕元にはメモの走り書き。
『用事を思い出した。先に帰る。泊めてくれてありがとう』
 一瞥して呟いた。
「なんだ…、帰っちゃったのか…」
 ヒカルはつまらなそうにぼやくともう一度ベッドの中にバフンと倒れ込んだ。
 そういえば、夢の中で何かを捕まえたと思った途端逃げられた事を思い出す。
「なんだったのかな…」
 思い出せない夢に早々にヒカルは諦めた。そのかわり、昨夜の楽しい時間を想いながら、
もう一度目を閉じた。





 ヒカルは休憩時間に長椅子に腰掛けてボーとしていた。
「よお、進藤。ここだったのかよ」
「ああ、和谷」
 今日のイベントでの仕事は和谷も一緒だった。
 和谷はドスンと進藤の隣に腰を下ろすとグイッと顔をのぞき込んだ。
「なあ、お前、最近塔矢とつるんでねーか」
 ヒカルは目をパチクリとする。
「今じゃあ、俺もお前らライバルだと認めてるけど、仲良かったことなんかあったかよ?」
 大体、塔矢みたいなスカしたヤローとお前のような能天気なガキで会話になんかなんの
かー?と失礼なことを聞いてくる。
 ヒカルはいささかムッとしつつも答えた。
「なるよっ、まあ、そうはいってもしゃべんのほとんど碁の事ばっかだけど」
 それは本当だった。塔矢とはあれから手合いの帰りにたまに一緒に食事をするようにな
った。その後大概、ヒカルの部屋で碁盤を囲み、熱中して遅くなればそのまま泊まる事も
ある。
「へー、お前らがねえ」
「あいつ、さすがに鋭いトコ、ビシバシついてくるから見方変わって面白いぜ?」
 おまえも今度一緒する?というヒカルの言葉に和谷は肩すくめて首を振る。
「俺はやめとく。アイツ苦手だし。しっかし、お前らみたいのがタッグを組んだらたまん
ねーな、つけ込むスキがますます減るじゃねーか」
 そう言ってぼやく和谷にヒカルはけらけら笑って言う。
「ンなこといっても、遊びでも負けるとムカつくぜ?あいつもそうだから一旦始めると長
い長い」
 あーそれ、分かる気がするなー俺もそうだもん。プロになるヤツは大抵そうだよと相槌
を打って一言クギを指す。
「いーけど。くれぐれも森下師匠にはバレねーようにしろよ?血の雨降るぞ」
「違いない」
 2人は顔を見合わせてげらげら笑った。



 アキラは近頃困惑していた。
 進藤とは最近よく連れ立って食事をしたり、碁を打ったりしている。
 アキラは同年代で親しくしていた者はいない。今まで親しくしていたのは全て父の研究
会を通じて知り合った、年上の人間ばかりである。だから、まったく敬語を使わずに話す
ような、同い年の人間と友人付き合いしたのはほとんど進藤が初めてと云っていい。
 だからだろうか、憎まれ口を叩きながら彼と碁討議したり、碁盤を囲むのはとても楽し
く息の抜ける時間だ。友人の部屋に泊まるというのも進藤が初めてで、たまに遅くなりす
ぎた時に泊まらせてもらう事はいつも新鮮だった。
 この年でようやく子供の頃体験するような事をやり直しているような感覚はくすぐった
く、いつまでも続けばいいと思ってしまう。
 だからこそ、あの日衝動的に進藤にくちづけたことは普段頭の隅に押しやっていた。
 あの後、寝付けないまま朝を迎え、寝ぼけてたんだと無理に納得しつつも顔を合わせる自
信もなくって、進藤が起きる前に部屋を出た。
 それから会う進藤は屈託なく笑いかけては軽口を交わし、ご飯を食べたりと楽しい時間
を共有していたので、努めて忘れたふりをしていた。

 だが、付き合う時間が増えるにつれて、ふとした瞬間進藤を見つめている自分に気づく。
 碁石をはさむ指、かしげる首筋、やわらかそうな髪、伏せる存外長いまつげ、物を咀嚼す
る口元、乾いた唇を嘗める舌、嚥下して動く喉仏、そんなものにいつのまにか目がいく。
 たまに、視線を感じたらしい進藤が何?と聞いてくるが、自分でも答えられないまま黙
っていると、ヘンなのと言いながら時折ふと不安そうな表情をする。
 それを見るとズキリと心臓が痛むような気がする。
 そしてフロ上がりの進藤の上気した肌にぞくりと血が騒ぐのを感じるようになって、遅ま
きながらどういう意味なのか判った気がしたアキラは焦った。
 ボクは進藤にそういう感情を持っているのか?
 友達付き合いも出来る、いいライバル同士だと思っているハズの進藤に?
 まさか、と思った。
 そんなハズは…と思ったところで、いつかの衝動を思い出す。
 だから?
 否定したい考えを嘲るようにいつの間にか進藤を夢で見るようになる。
 進藤と会って、そのまま別れた夜に。
 進藤に触れる自分。
 進藤にくちづける自分。
 夢は進む。
 そして決定的なものを。
 もう、進藤の部屋には、泊まれない。

 一度自覚したら止まらなくなった。
 進藤と話すのは楽しい。碁盤を囲むのはたまらなく楽しい。
 だけど、側にいるのは辛い。体温が感じられるほど近寄られると自分が何をするか分か
らない。
 進藤には告白できない。
 男同士だからだけではない。あの記憶を抱えている彼にこの感情をぶつけるのはためら
われる。あれから自分が泊まったときにうなされている様子はなかった。
 だけど忘れたい記憶の筈だ。うちあければきっとキズをえぐる。
 自分がそういう目で見ていると知れば。
 イヤ、そうじゃない。自分はきっと拒絶されるのが怖いのだ。
 昔のように、また目の前でカーテンを閉ざされるのが耐えられない。
 ボクはキミの前ではこんなに臆病になる。



 このところ塔矢は泊まりにこない。
 最近付き合いが悪いし、時折困った顔で自分を見ていることがある。ヒカルが何かと尋
ねても、曖昧にかわされる。
 オレ、何か怒らせるようなことしたかなと時々不安になる。
 自分に失言癖があるのは何となく自覚している。
 そうでなくとも、出会った早々に怒らせたことは覚えているし、それで何かと苦しい立
場になったことは心当たりがありすぎる。
 無意識に云った言葉であいつの気に障った事でもあったんだろうかとため息をつく。
 つまらない、とヒカルは思う。
 部屋の隅に置かれた、布を被せたままの桂の碁盤をぼんやり見る。そしてさっきまで棋
譜を並べていた目の前の折り畳み碁盤の上の碁石をぐちゃりと崩す。

 佐為と精神まで繋がった状態で四六時中一緒にいた時間の長かったヒカルは気をゆるし
た相手なら同じ空間にいるのは苦ではなかった。
 それでもここに越してからこの部屋に誰かを招いたことはない。
 ここはヒカルにとって避難所みたいな感覚があったので、無意識に他人を拒絶していた
のかもしれない。あれほど親しくしている和谷でさえ、この部屋に来たことはなかった。
 遊ぶにしろ泊まるにせよ、その相手の部屋に行っていた。
 だから、ここに誰かを泊めたのは実は塔矢が初めてだ。
 なぜかは分からない。でも、塔矢ならいいと思った。
 いや、むしろ塔矢相手なら歓迎していたふしもある。
 長らくしていなかった友達同士のお泊り会のようで楽しいし、佐為と同じように碁に夢
中で、碁バカの塔矢と一局打つのは同じ穴のムジナの自覚はあるヒカルとしては魅力的な
時間だった。
 それに塔矢が一緒の時は、まず、あの夢を見ない。

 あの事件の後、時折ヒカルはうなされる。
 飛び起きた後に、ふと手首にアザが浮かんでいた時は、心底ゾッとしたものだ。
 自分の体が何か得たいの知らないモノに作り替えられたようでその日は眠れなかった。
 しかし、塔矢が泊まっていったときは不思議と夢を見たことはなかった。
 そのうちだんだん見なくなったが見ない保証がない以上、怖いことには違いない。
 だから、お守り代わりにしているようで気が引けるが、塔矢が側にいると安心できるの
だ。
 それに、もうすぐ、あの日がくる。
 もう、4月の中旬を回っていた。



「塔矢――――っ」
 手合いが済んで棋院を出たところで後ろから声がした。
 後ろのしっぽを揺らしながら進藤が駆けてくる。
「おまえ、勝ったんだろ?早かったな」
 息を整えながら進藤がのぞき込むように話かけてきた。
 アキラは一歩引きながら答える。そのとき進藤の目が一瞬揺れたのに気づいて、またか
と思う。
「ああ、キミは?」
「勝ったっ!」
 とガッツポーズをするのに笑いがもれる。
「なあなあ、メシ、食いに行かないか」
 一瞬躊躇した後、答えた。
「………いいよ」

 進藤は賑やかに喋りながら舌鼓をうつ。食欲も旺盛だし、舌の滑りも良い。だが、どこ
かおかしかった。
 アキラがそれに気づいたのは4月も下旬にさしかかろうかという頃だった。
表向き変わったところはない。勝率も下がっているわけではないし、良く笑うし、冗談
も云う。が、進藤をよく見ているアキラはあることに気づいた。
眼だ。進藤の眼が弱い感じがするのだ。普段の進藤の眼は性格をそのまま写したような
クルクル変化する快活な強い光を放つ。それがここ最近眼が揺れていることが多い。
ふとした瞬間に不安そうに揺らぐまなざし。
何が、と思う。
自分のことで?と一瞬考えながらもまさかと打ち消す。
それでも心配なことには変わらない。
今日もそういう目をしている。
だから、このところ断ることの多かった誘いも受けたのだ。
気分転換になるのならそれにこしたことはない。

店を出て、駅に向かう道筋をゆっくり歩く。
食事をした後、碁会所に立ち寄って進藤とたっぷり打ったので辺りはもう暗くなってい
た。
もうすぐ、進藤の使う路線の改札が見えてくる。
「じゃあ、ボクはこっちだから」
 手を上げて、別れの挨拶をすると、進藤は弾かれたように顔を上げた。
 少し躊躇した後、にこりと笑って言った。
「なあ、今日は泊まっていかないか」
「……」
「ほら、最近ずっとご無沙汰だっただろうっ?たまにはいいじゃん」
 進藤は早口で言い募る。
「…悪いけど…」
「何でっ?」
「明日は仕事が入ってるんだ」
「…なら、ならウチから行けば良いじゃん」
「そうもいかない」
じゃあ、また。そう言って背中を向ける。目の端に何か言いたげに進藤の口が動くのが
見えたがあえて無視した。彼の部屋に泊まるわけにはいかない。
 数歩いったところで声がする。
「なあ、塔矢」
 聞こえないフリでそのまま歩く。
「塔矢っ」
 言葉と共に腕を掴まれる。
 反射的に、振り払っていた。しまった、と思ったが遅い。
 傷ついた目をして進藤が立っていた。
 揺れる声で聞く。
「…オレ、何か…おまえを怒らせるようなこと、した…?」
 不安そうな、目。
「違う、そんなんじゃないよ」
「だって…、ならどうして最近付き合い悪いんだ?泊まるくらい、いいじゃんっ」
「……」
「なあっ?」
 どこか、切羽詰ったような進藤の眼が問いかけるように目の前にせまる。
 思わず目をそらして早口に言う。
「だめだっ」
 キツイ声音に進藤の肩がビクリと揺れた。
「やっぱ、オレ…気に障るようなこと…したんだ?」
「違う」
「……」
「ボクがっ、…しそうなんだっ」
 言うまいと思っていた言葉が口をつく。
「ボクは、キミが…好きなんだ」
「だから、泊まらない」
 問いかけるように進藤の目がまたたく。
「泊まったら…キミを抱く」
 夢の中で何度陵辱したか。
 進藤の目が強ばる。
 これで終わりだと思いながら進藤の手首を掴む。
 予想通り、緊張した腕がすくみ、体が一歩逃げる。
「そんなの、イヤだろう…?」
 言い捨てて、背を向ける。
 そこから逃げるように足早に。

 嫌だ。
 進藤は遠ざかる背中を見て混乱のままそんな感情が浮かぶ。
 行っちゃイヤだ。
 塔矢が遠くなるごとにとてつもない不安に襲われる。
 だって、明日なんだ。
 その事を思うと恐怖で体が竦む。
 あの日を、一人で、迎えるのか?
 こみかみがガンガンしてきて、動悸が速くなる。なのに、息が、できない。
 怖い…、怖い、怖いっ、怖いっ!――――――ダレカ、タスケテッ!!

「いやだっっ!!」
 ヒカルは叫び、駆け出した。
「嫌だっ、塔矢っ!!」
 夢中で背中にしがみつく。
「一緒にいてっ!今日は一人にしないでっっ!!」
 泣きそうな声で叫び、懇願する。
「一人はイヤだっ!独りは嫌っっ!!」
 ぼろぼろ涙が溢れて止まらない。それにかまわず力一杯塔矢に縋り付く。
 背中が硬直しているのがしがみついた腕から伝わっていたが、ヒカルはそんなことにも
気づく余裕などなかった。
 ―――しらないよ
 そう言った塔矢の声さえ聞こえてなかった。

 

つづき

 

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