海を渡る風 2
3
基が小学校に入学した年、6月の人事異動で唐突に父が司にかなりの権限を任せるようになった。もともと後継として色々な部署を回されていたが、今回は正式に役職にも就け、はっきりと後継者としての位置づけをするようになったのだ。
にわかに忙しくなった司は今まで以上に帰りが遅くなり、午前様になる日も少なくなかった。しかしそれだけでは済まなくなり、いつしか家に帰らない事が多くなっていく。たまに帰っても深夜遅く寝に帰り、朝また慌しく出社し、日中着替えだけ取りに来て何日も会社に泊まりこむ事が続くようにもなる。
突然の変化に苑子は少なからず戸惑った。
それでも笑顔で夫を送り出し、いつ帰ってきても良いように食事の支度を整え、寝ずに夫の帰りを待つ。
しかし、その料理も次第に顧みられることが無くなってくる。
深夜廻って帰ってくる夫に食事の用意を申し入れても疲れているし、明日も早いからもう寝ると言われる。
それでも食べる時があるかもしれないからと苑子は毎日きちんと食事を作る。
毎日、毎日。
次第に午前様が多くなってくると、ある時、司が言った。
―――こんな時間まで起きている必要はない。今はいつ帰れるか分からないから先に寝てていい
―――いやだわ、あなた。気になさらないで。これも妻の務めですもの
司は口を開きかけて、すぐ閉ざした。
そのうち会社に泊まりこむ事が多くなる。たまに帰ってくると苑子はパタパタスリッパの音を立てて司を迎える。
―――お帰りなさい、あなた。お食事になさる?それともおフロにします?
ダイニングには手の込んだ料理がラップにかけられてのっていた。
―――今日帰るとは連絡してなかったと思うが…
―――あら。あなたが帰ってきた時食べるものが無いなんて妻失格だわ
苑子は笑って答える。
―――最近戻らない日が多いだろう、無駄になるから食事の用意はいい。遅くなれば、会社でも外でも何か食べてるから。今は家に連絡する程気が回らないんだ
―――お仕事忙しいのでしたら電話してくれなくてもいいのよ?外でお食事なさらなくてもちゃんと用意してありますから
司は妻の顔をじっと見る。苑子は久しぶりの夫の顔を嬉しそうに見つめ、頬を上気させる。
司は少し目線を外して、そっと小さな溜息を吐いた。
◇ ◆ ◇
秋になって父が倒れ、入院した。
医師が言う。どうしてもっと早く検査にこなかったのかと。
春の段階で警告していたはずだと。
どういうことかと尋ねると、健康診断で気になる影を見つけたので再検査をしたいと申し入れていたという。父は自分は会社を預かる身だからもってまわった言い方はしないではっきり言ってもらいたいと執拗に問い正したので、がんではないかと疑っていた事を告げたという。父は分かりましたと答えると、そのまま梨のつぶてだったと云う。
「かなり進行しています。この分だと春の時点でも難しかったかもしれませんが…。手術しても…取りきれるかは正直よく分かりません。開いてみなくては。どうなさいますか」
「―――このままだと…どうなるのですか」
「もって半年。早ければ3ケ月です…」
医師の言葉に司は黙った。
父はもう自分ががんである事を知っている。
司は本人と母や聡を交えてどうするか相談した。結果、とにかく手術を受けてみる事にした。それしか術がなかった。
父の体力の回復を待って、その日を迎えた。
――――が、開かれた胸はすぐ縫い合わされた。すでに取りきれない程転移していた。無理に行っても長時間のオペはいたずらに患者の体力を消耗させるだけで、かえって命を縮めかねなかった。
司はそれから父の穴埋めと会社を継ぐ為に会社と病院の間を往復して指示と教育を受ける日々を忙しく続ける事になる。家には帰らなくなった。どうしても着替えが必要になれば社の人間に言いつけて自宅に取りにやった。
母も父の看病に毎日病院に行く。
家と病院との往復はこの年だと辛いからと病院のすぐ近くにアパートを借りてそこから通った。
苑子は一人、基と家に取り残される事になった。
小学校に通う基がいる以上、苑子が家を空けるわけにはいかない。
初めての一人きりの生活は苑子を不安にさせ、落ち着かなくさせる。
それでも縋るようにいつ夫が家に帰ってきても不自由がないように食事の支度を続けるのは欠かさなかった。
たまに姑の義母が孫の顔を見る為と様子見がてら戻った時に聞いてきた。
―――今はあの子も帰ってくる余裕がないみたいだし、そんなに頑張って用意しなくていいのよ?
―――いいえ、お義母さま。夫の代わりに家を守るのが妻の務めですもの。あの人が帰ってきた時に何も用意が出来てなかったなんて立派な奥さんとは云えませんわ
苑子はお見合いの席で初めて顔を合わせた夫の司に一目で恋をした。
寡黙なところもちっとも問題ではなかった。
自分が彼と結婚出来る事に感謝した。
彼の為に何か出来るのは喜びだった。
そう、彼の為にすることは全て愛情の証明だった。
それでもやっぱり一人は心細かった。
義弟に頼んでたまに泊まりに来てくれないかとお願いしてみた。
聡はいくら義理の姉弟とはいえ、第三者の者がいない家に男が泊まるのはマズいでしょうと断った。口さがない人間が何か云えば、義姉さんが傷付くと。
しょんぼりする苑子に聡は続ける。
その代わりマメに顔を見せに寄るからと答えて約束した。
聡は約束通り、大学の合間に病院に見舞いに寄り、苑子がいる実家に顔を出し、基と遊び、義姉に笑いかける。時には二人を誘って父のお見舞いに行く。それでも聡は暗くなる前に必ず家を辞去する。甥の基がねだっても泊まる事も遅く居ることもなかった。
◇ ◆ ◇
その日は随分珍しく司から一度家に帰るという電話がきた。
苑子は張り切って腕によりをかけて凝った料理を作り出し、たまたま来ていた聡にも今日は一緒に夕食をとりましょうと引き止めた。聡も兄さんが帰るのならと承知し、残った。基は今日はすぐに帰らない叔父に喜んで相手をねだり、いつまでもいつまでも遊んでもらっていた。それでも遅くなるので息子には先に食事をとらせたが、食事が終わる頃には力一杯遊んで疲れたのか、こっくり、こっくりし始めたので早めに寝かせた。どちらにせよ、もう就寝時間になる。
苑子は司が帰ってくると顔を輝かせてまめまめしく世話をする。
3人で楽しく食事を囲み、舌鼓をうつ。食事が終わると聡は辞去しようとするが、久しぶりだから一杯だけ付き合えと司が誘ってきた。
それくらいならと聡は承知して、それなら兄さんは先にフロに入ってきなよと促し、飲むのはそれからにしようと提案する。
聡はかって知ったる自分の家とばかりキャビネットに屈み込んで酒を勝手に物色する。それでも出すのは一本だけだ。ここは盆暮れにうなるほど酒が贈られるが、生憎ここの人間は酒に強くなく、あまり嗜まない。だから消費するより供給の方が早くて溜まる一方だった。これだけあれば商売できるかも、とひとりごちてくすくす笑う。
苑子はキッチンに行ってグラスと氷を用意しに行った。
聡は少しだるい身体を持て余し、軽い眩暈を覚えながら頭を押さえる。
甥っ子のパワーに力負けしているようじゃ僕も年か?26で若年寄りなんて洒落にならないと嘆息する。ひざまづいていた身体を起こそうとして血の気が下がった。
まずい、と思った時には胸が締め付けられるようなひきつる痛みが走った。
息が詰まり、呼吸が苦しい。足に力が入らず、再び崩れる。
忘れていた症状だった。身体が小刻みに痙攣して、胸を掻き毟るように掴み、苦しさにうずくまった。
キッチンから出た苑子はグラスと氷をお盆に乗せ、居間に入った。
そして見えた光景に突然の事にとっさに反応出来ずに、一瞬呆然と突っ立った。
「キャァ――――――ッ!」
お盆が手から離れて氷が転がった。
「聡さん…、聡…さんっ!?そんな…誰か…誰か来て!あなたっ!あなた!!来て!」
司は突然聞こえた苑子の切羽詰ったような悲鳴に、慌ててお風呂からバスローブをひっかけて飛び出し、居間に駆け込んだ。
そして苦しそうに全身冷や汗を出して震えている聡に気付いて夢中で駆け寄った。
途切れ途切れに喘ぐように呼吸をし、顔色は蒼白で、指先も、唇も、紫に染まっている。チアノーゼだ。
聡は声を振り絞って
「兄…さ…財布…に…薬…から…飲ませ…」
胸を押さえて苦しそうになんとか伝えた。
それを受けて司は弾かれるように探した。そして聡を抱きかかえ、それを口元に押し付ける。
聡は嚥下しようとするが、痙攣する喉は咽て薬を吐き出してしまう。焦った司は夢中で怒鳴った。
「苑子!水だっ!!」
苑子は今まで聞いたことのない夫の厳しい声にビクリと身体を震わせて怯えた後、弾かれるようにキッチンに駆け込みグラスに水を持ってくる。
司はそれを奪い取るように受け取ると、錠剤を口に放り込み、グラスの水を含むと抱いた弟の頤を乱暴に掴み、もどかしげに自分の唇を押しあてて口付けると、むりやり唇をこじあけるように強引に舌先で水と薬を送り込む。聡の喉はようやく水の力を得てこくりと喉仏が上下して嚥下した。その様を司は真剣な目で見つめ、祈るように抱きしめる腕に力が篭る。
するとしばらくして徐々に落ち着いた細い呼吸を繰り返すようになった。兄に抱かれたまま縋り付いていた腕の力をようやく緩めた聡は息を整え、慎重にゆっくり息を吐いてささやくように呟いた。
「もう…大丈夫…」
「何が大丈夫なんだっ、驚かせやがって」
司は顔を顰めて安堵のあまり叱りつけるように文句を言う。
「ほんと…大丈夫。久しぶりだったから…ちょっと…びっくりしただけだよ」
「心臓か?」
「ん…一応治ってるんだけど、こうなる時あるんだ。ここ数年なかったから油断していた…良かったよ…まだジギタリス剤持っていて」
そう答えて聡は兄の腕から逃れてゆっくり立とうとするが、足の力が戻らず、すぐに崩れてまた司に支えられることになる。
「無理するなっ」
「…ご免…」
「今日は泊まっていけ」
「大げさだな…。少し休めば平気だから。そしたら、帰るよ…」
「バカ云うな!とにかく、帰りたいなら後で車で送ってやるから今は横になっていろ」
そう云い捨てて、司は聡の膝裏に腕を入れて身体を抱き上げる。
「ちょっ…兄さん、格好ワル…」
「おまえ、軽すぎだ。ちゃんと食ってるのか?」
そう云って司はソファーに横たわらせた。
「兄さんがバカ力なんだ…」
そうぼやいて聡は溜息を吐く。
司は聡の汗をかいて冷えて額に貼りついた前髪を慎重に優しくかき上げる。
「少し寝てろ。その方がいい」
そう言って瞼に手を置いて眠りを促す。
「う…ん…」
聡はわずかに口元に笑みを浮かべてすうーと眠った。
それを見届けて司は安心したように顔を緩め緊張させていた全身を弛緩させた。
気付くと聡の着ているシャツに雫が落ちていて、あちこちにうっすらとシミを広げて素肌をシャツ越しに浮き上がらせていた。
それでようやく思い出したように自分の濡れた髪を掻き揚げ、着替える為に応接間を出た。
苑子は、唇を噛み締めて二人をただ、見ていた。
理由の解からない胸の痛みを抱えて―――
◇ ◆ ◇
翌年。
闘病生活の末、父は亡くなった。
小雨が降りしきる中、葬儀が社葬で行なわれた。
母は疲れた顔をして丁寧に弔問客に頭を下げる。
雨が、しとしと降る。
涙雨だった。
火葬場の煙突から細く、高く、昇る煙をぼんやり見やる。
全て荼毘に付されるまでの、空白の時間だ。
「兄さん…ここだったんだ」
振り向いた先に弟が立っている。司は吸っていたタバコをもみ消した。聡は嗜好品を制限されている。タバコの煙もダメだ。酒も少量なら許可されているが、暴飲はダメ。どちらにせよ兄弟共酒には強くないが。それでも珈琲だけはこいつは我侭を通している。
「ごめん、せっかく吸っていたのに邪魔したね」
それに首を振る。
「―――――結局最期まで、暴君だったな」
病室でふんぞり返り、アレが欲しいだの、こうして欲しいだの、要求を突きつけ、末期がんの痛みが激しければ八つ当たりをして母に当たり、我侭放題を尽くした父の姿を思い出す。
「……あれでも、甘えていたんだよ」
聡が微笑む。
「僕もそうだったから解かる。不安な時とか、苦しい時とか、一番頼りになる人に縋るんだ。甘えて、怖いのを紛らわすんだ」
「母さん、きっと分かっていた。それに苦笑しながらきっと嬉しかったんだよ。父さんもずっと仕事人間だったから、入院して、面倒みて、ようやく長い夫婦の時間を取り戻したんだ。八つ当たりされても生きていてくれた方が良かったんだ。だって、いつもしょうがない人ね、て零しながら大きな赤ん坊なんだからって笑っていた。父さんが死んでから、母さん、何だか小さくなったみたいだ」
「そうか…」
司は呟く。
「………そうか…」
もう一度、空の煙を見上げる。
4
新社長に就任した司はもっと忙しい日々を過ごすことになる。旧重役連もこちら側に取り込むか、切り捨てるかして新しい体制を作り上げなくてはいけない。自分のモノに出来なければ会社自体が割れて空中分解してしまう。最初が肝心だった。
父の一周忌が過ぎた。
その翌月、春に製菓会社の社長が誘拐された。
社長は無事に帰ってきたが、企業恐喝という新しい手口の犯罪が産声を上げた。
業界は騒然となり、にわかに対策マニュアルを練り上げる企業が増えていった。
司の会社も例外ではなかった。
ますます家が遠のく。
苑子は帰らぬ夫をじっと待つ。
家は静かだ。姑の義母は前ほど明るい表情を見せてくれない。
放心したようにぼうっとしていることもある。
基は一人、賑やかだ。祖父が亡くなったのは小学2年に上がる直前。死んだことに今イチぴんと来ないようだ。一緒に住んでいたとはいえ、あまり顔を見たことがない。会ってもおっかない顔をした、無口な人だったし、いつか跡継ぎとなる基には躾にも厳しかった。だからあまり懐いていなかった。
基は学校から帰るとランドセルを放り投げてすぐ遊びに出掛け、帰ってくると、母や祖母を相手に片っ端からその日あった出来事を話して聞かせる。
そうすると祖母は嬉しそうに熱心に聞くのだ。
その時だけ場が賑やかになる。
だけど基が寝付くとまた家は静かになる。
この頃義母は床に就くのが早い。
だから、独りきりで、夫の帰りを待つ。
シンとした空気。
苑子は寂しかった。
だからたまに夫が帰るとなるべく一緒にいようとあれこれ世話をやこうとする。
夫は疲れた顔をしてろくに苑子の顔を見ずに無口だ。
それでも彼に会えると彼女の顔は無邪気に華やぐ。
◇ ◆ ◇
秋の夜長。ひょこりと社長室に弟が顔を出した。
差し入れだと云って、百貨店の惣菜店で仕入れた食べ物を次々出す。
休憩しなよと言いつつ自分も一緒に箸を付ける。
司は苦笑しながら仕事を中断して相伴する。黙々と粗方二人で片付けた後、聡が社長室備え付きの給湯室を勝手に物色して自分用に珈琲と兄用のお茶を持ってくる。
聡は修士と博士課程を経て大学院を卒業した後、そのまま研究室に残っている。教授の助手として雑用を努めながら生活費を稼ぐ為に学生時代に習得した語学を駆使して翻訳にも手を出している。
父が存命中も援助を申し出たが、聡は笑って断っていた。
院を出るまでは学費も家賃も面倒見てもらっていたが、これ以上甘えるわけにはいかないと主張して小さなアパートを借りてギリギリやりくりをしていたようだ。
今は翻訳も軌道にのって受ける仕事量が増えているのでなんとか食っていけてるらしい。
もう時間は深夜に及んでいて、先ほどまで居た秘書の人間ももういいからと帰らせた。
静かな空間でこんなビルの中では聞こえないはずの虫の鳴き声が聞こえるようだった。
聡はひとくち珈琲を口に含み、少し顔を顰める。自分好みの豆じゃなかったようだ。
お茶にしておけばよかったかなとぽつりと零す。
兄に入れたお茶は来客用と思しき高そうな葉っぱだったのだ。
聡は来客用のソファーに深々と腰を押し付ける。
うーん、やっぱり研究室のと違うやと呑気に呟く。
兄のデスクの向こうには闇い夜空が見える。細い眉月が鋭く光っていた。
「どうした?」
司が声を掛ける。
「うん?」
「今までここに来たことなかったじゃないか」
聡が僅かに微笑って目を瞑る。
「……兄さん。昔僕は病院に居た頃、夜が怖かった」
答えにならないことを歌うように口に出す。
「時々、夜中に目が覚めると枕元に死神が立っているのが見えたんだ」
聡はかまわず独り言のように喋り続ける。
「僕は死ぬんだ、迎えに来たんだと思って必死に姿が分からないように布団の中に潜り込んだよ」
「だけどその死神はちっとも僕を連れて行かないんだ。それでも今度こそダメかも知れないと見るのが怖かった」
「―――随分後になって判ったんだけど、それって父さんだったんだ。どうやって忍び込んでいたのか知らないけど、面会時間がとっくに終了した夜中に来ていたんだ」
聡は可笑しそうに微笑う。
「あの親父がねえ」
司は信じられないといった表情で失笑する。
「知ってた?……僕、小さい時、兄さんが憎らしい時があった。自分がここから出られないのに、兄さんは好きな時に出られる。不公平だ、ズルいって。――だけど自分が悔しがってるなんて知られたくなくて、強がっていた。僕はちっとも兄さんの事なんか羨ましがっていないんだと」
司はハッとした。初めて聞かされた事実に。
あの笑顔が嘘だったのかと思うと胸が痛んだが、聡の立場で考えれば、それも仕方ないと思える。それでなくとも自分が病室を見舞うようになったのは随分後でもあった。聡の事を責める資格などなかった。
だけど、と聡が続ける。
「だけど、いつか堪らなくなって兄さんの前で泣いた。そしたら兄さんが黙って背中をさすってくれた。………嬉しかった」
「僕はいつも聞かされたよ。『もう少ししたら帰れるよ』『後少しの辛抱だ』『君が頑張ればきっと』と。いつ外に出られるのかと尋ねる度に医者や看護婦がそう答えるんだ。母さんも。……その度に思った。いつかっていつ?いつまで待てばいいの?」
「兄さんは――答えなかった。それが、嬉しかった。何か…ホッとしたんだ。楽になったんだ」
聡は溜息を吐くように遠い目をする。
「その時に認めた。兄さんに笑っていたのは強がりだけじゃない。来てくれて、嬉しかったからだ。いつも、いつも、兄さんが訪ねてくるのを待っていた。あの気持ちは、嘘じゃない」
聡は一度目を瞑り、暗い、切ない顔をする。
「兄さん、ご免。僕は随分長いこと気付かなかった。羨ましがるばかりで。僕は母さんを、独占していたんだね。生まれた時からずっと。母さんが僕の側にいる時間をずっと。当たり前のように独占していた。その間、兄さんは独りだったのに。父さんもだ。後になって聞いた。あの頃、父さんも殆ど家に帰ってなかったんだ、今の兄さんみたいに会社に泊まって。それなのに、たまに僕の様子を見に夜中に来ていたんだ。家に帰らずに。僕が、母さんを、父さんを、独占していたんだ。ずっと、ずっと!……ズルいのは、僕だっ」
―――ううん、多分知ってた。それでも僕はそれに目を瞑っていたんだ……
そう、懺悔するように聡は吐き出す。
「バチが当たったのかな」
聡は呟くように自嘲する。
「こないだ、発作起こしたよね。その時に念のため、病院に行って診てもらった」
「僕、高校の時に予め云われていたことがある。『治ったといってもあまり過信しないように。特に全速力で走ったりしないでください』『飛行機に乗るのは感心しません。気圧の変化が発作を誘発する可能性があります。だから山登りもです』『あまり激しいセックスはしないように。これも発作を引き起こすきっかけになるかもしれません』『それから精子の数が少ないです。子供が作れないかもしれません』『でも現時点ではですから。若いですから、精子の数に関しては、将来増えるかもしれません』」
「最後のヤツなんかその時はピンとこなかったから気にしなかった。もう、今度の事があるまであまり通院してなかったし、簡単な診察だけだったし、そんな事忘れていた」
「今回ひととおり診てもらって。発作は起こしたけど、おかしな処は出てこなかった。少し過労気味だったようだから、そのせいでしょうと。だけど念のため、今までどおり飛行機には乗らないでくださいと忠告された。でも、あと一つだけはっきりした事がある」
聡は言葉を切った。
「僕は子供が作れない」
聡は真っ直ぐ司を見る。
「僕の精子では、卵巣に届く絶対量が足りない、届いても、受精させるような元気な状態で届かない。子供を作る力が無いんだ」
「だから、僕の子供は生まれない」
「僕の血筋は、残らない。いつか、独りで死ぬよ」
司は息を呑んで、聡を真っ直ぐ見た。
聡はそれを受け止める。が、ゆらりと視線が揺らぎ、ぎこちなく目を伏せた。
長い沈黙を破ったのは今度は司だった。
「――――――今度、子供が生まれる。予定日は3月だ」
聡はのろのろと顔を上げ、わずかに笑みを浮かべた。
「…そうなんだ。おめでとう…」
「おまえが名前をつけろ」
「……え…」
「おまえが名付け親になるんだ」
「なに、言って…」
聡は笑おうとして、失敗した。
「その子はおまえの子だ、おまえが名前をつけるんだ」
「まってよ、勝手に…。義姉さんに断りもなしに…」
「決めたんだ、これは変えない。今度生まれる子供はおまえだ。次に生きるおまえだ。おまえの血は途絶えない、おまえは独りじゃない」
「バカだ…、兄さん…」
聡は言葉を紡ごうとして、なのにそんなことしか口から出てこなかった。
「莫迦だよ…」
「いい名前を考えてくれ」
「…うん。…うん………」
苑子は夫の着替えを取りに来た秘書室の人間を、遠慮するのを説き伏せるように応接間に案内してお茶を振る舞い、その間に着替えをバックに詰めた。
戻った苑子はそのバックを、待たせていた部下の人間に渡してあの人をよろしくお願いしますと挨拶をした。
恐縮したその人は丁寧にお辞儀を返してご馳走になった紅茶のお礼を云い、辞去の挨拶と共に世間話のように話した。
「社長と弟さんは仲がよろしいのですね」
「え?ええ」
「実はつい最近弟さんが会社に見えて、夜食の差し入れをなさってたんですよ。社長と一緒に召し上がっていたようです。わたくしは先に帰らせて頂いたのですが」
―――男兄弟というのは難しいでしょう?私にも一人おりますがケンカばかりでしたよ。かえってお二人のように年が離れていた方が親しくなれるのでしょうかね
そんな事を笑って話しながらお邪魔致しましたとお辞儀をして帰っていった。
苑子はそれを見送りながらもどう返したのか覚えていない。
頭の中に占めるのはひとつだけだ。
あの人と聡さんが会っていた?
食事をしていた?
あの人はここに帰って来ないのに?
ここにあの人の食事があるのに?
私が待っているのに?
莫迦なことを考えそうな自分を笑おうとして失敗した。
苑子は何かが揺らぐのをぼんやり感じた。
震える手の平がゆっくり腹部を撫でた。
まだ…なだらかなそこを。
◇ ◆ ◇
翌年の父が亡くなった月である3月。
基が小学3年の時に弟ができた。
早生まれだが、元気そうな赤ん坊を見て、まるで父が生まれてきたようだと母が嬉しそうに顔をほころばせた。
その母はまた明日学校が控えている孫の基を帰らせる為に同行して先に病室を出た。
また明日も来るわねと声を掛けて。
苑子が一仕事終えて満足そうに疲れた顔をほころばせて寝ているベッドの隣に司と聡が佇み、ねぎらっていた。
先ほど保育器が並ぶ新生児室を見てきて、新しい次男を評してあの中で一番可愛いと聡がベタ褒めする。
それを嬉しそうに苑子は相槌をうっている。
「そうだ、兄さん。名前を考えてきたんだけど…」
聡が思い出したように、はにかむように切り出す。
「『薫』っていうのはどう?……人生に薫りを出すように――て、ちょっとクサいかな」
聡が伺うように聞く。
「いや…。いい名だ」
良かったと聡は照れくさそうに笑う。
「………い…や…」
「義姉さん?」
気が付くと苑子は蒼白な顔で頑是無い子供のように無意識に首を振っていた。
「いや…イヤよっ!この子は私の子よっ、私のっ!…なんでっ、聡さんが名前をつけるのっ」
司が苑子に聞く。
「良い名前じゃないか、何が気に入らないんだ」
「あなたがつけたんなら、私だってっ…でも、なんで聡さんが…っ」
頼りない声で苑子は呟く。
「俺が頼んだんだ」
堪らないように苑子は叫んだ。
「―――出てって!…出てってよっ!渡さないわっ、あの子は私の子よ…っ」
―――だって、あの子がいれば、あなたは私の側にいてくれるんでしょ?
その思いが胸の中に渦巻く。
何を口走っているのか自分にもよく分からないまま泣きながら苑子は言葉を叩き付けた。そして枕に顔をうずめるように嗚咽を上げる。
彼女の耳はしばらくしてドアの閉まる音と遠ざかる2つの靴音を拾った。
「………なんでっ…あなたまで、…居なくなっちゃうの……?」
苑子のか細い呟きは誰も聞く者はいなかった。
病室にはいつまでも細い泣き声が響いた。
その頃男達は入り口に近いロビーで座っていた。
「……やっぱりマズいよ…」
聡はポツンと呟いた。
「女親にとって子供って特別だもの…。部外者の僕が名前をつければ面白くないよ」
「あの子はおまえの甥だ。部外者じゃない」
「でも…」
「―――名前はあれでいくぞ」
「兄さん…」
「俺は気に入った。あれがいい」
そして弟の頭を小突いた。
「何情け無い顔している、28にもなって。これからもたまに家に顔を出してやってくれ。母さんも喜ぶし俺もその方が安心だ。俺はあまり家には帰れないからな」
そう続ける兄の言葉を聡は泣き笑いの表情で受け止めた。
◇ ◆ ◇
基は不思議だった。
いつも優しい祖母は祖父が亡くなってから何だが元気がなかったが、弟の薫が生まれたのを見届けると、何か透明な表情で日々を過ごしていた。
薫のおしめを替え、ミルクを飲ませ、げっぷを吐かせ、甲斐甲斐しく面倒を見る。
まるで独占するように赤ん坊の面倒を見る義母を嫁は一言も口を挟まない。
ただ、家中をぴかぴかに磨き上げ、花を飾り、手の込んだ料理をひたすら作る。
祖母が弟を寝かしつけるように子守唄を細い声で歌うのを基は何の歌?と聞き、それに祖母は笑って、答える代わりに基を抱きしめるように肩を抱き嬉しそうに話しかける。
―――基ちゃん、この子可愛いでしょう?守ってくれる?
―――それっていつも側にいなくちゃいけないの?
基は難しい顔をする。
小学4年の彼は忙しいのだ。学校の友達と遊ぶといくら時間があっても足りないと真剣に思っている。遊ぶ時間がなくなっちゃうのは何ともつまらないと考えた。
―――そんなことないわ。基ちゃんはこの子嫌い?
とりあえず遊ぶ時間を削らなくていいらしいと判断して基は安心して、真剣に考えてみる。
―――泣いている時はうるさいけど、嫌いじゃないよ?
正直な孫の言葉に祖母は微笑んだ。
―――基ちゃんの出来る範囲でいいのよ。お願いね。大好きよ、基ちゃん…
そう言うと彼女は大きくなった、でもまだ細い孫の身体をぎゅっと抱きしめて歌うようにささやいた。
―――僕もおばあちゃん、大好き
基は屈託なく笑った。
その年の夏、御巣鷹山に日航ジャンボ機が落ちた。
次々と続報が流れる、生存が絶望的な状況を知らせるテレビ画面を、老いた眼差しで痛ましそうに見つめていた彼女は。
年を越すことなく、その冬に逝った。
就寝中にくも膜下出血を起こし、病院に運ばれたが、眠ったままもう目を覚ますことなく息を引き取った。
享年64歳。奇しくも父と同い年になった年に。
最期まで良妻賢母な母親だった。
そして、祖母の死に、基はいつまでも泣いていた。
聡は甥の基を慰め、寂しがる甥を慰める為に時折家に顔を出し、一緒に遊んだ。
小学生の頃の1年はとてつもなく長い。
基は食事をし、学校に通い、友達と遊び、叔父と過ごし、眠りに就く毎日を重ねる内に次第に祖母の死が遠のき、声も薄れ、面影がおぼろげになっていき、不在に馴れる。
そしていつしか思い出さなくなっていく。
春に起こったチェルノブイリ原発事故が投げかける時代の警鐘を。
今、空前の好景気を迎えているこの極東の島国では感じ取る事なく世の中は活気付き、それにのるように司も引き受ける受注先を次第に増やし、規模を拡大していく。家には殆ど帰らずに部下に着替えを取りに行かせる日々を重ねていた。
聡は相変わらず大学の研究室に通う日々だったが、順調に舞い込む翻訳の仕事と時折頼まれる講師の仕事を掛け持ち、いくらか余裕が出来たので増え続ける蔵書のスペース確保の為にもう少し広い、小さなマンションに引っ越した。
いつも居心地が良かった実家の醸し出す空気は少しずつ変わっていった。
母の匂いが薄れていき、今住む人間の匂いだけに占められていく。
賑やかな笑い声は聡が甥っ子達と遊ぶ時だけ響く。
苑子の笑い声が混じることはなかった。
あんなに仲が良かった義理の姉弟は今は見えない透明な膜がかかっているようだった。
時の流れは否応なく変化を促す。
そしてそれを象徴するように今、ひとつの時代が終わり新しい年号が誕生しようとしていた、そんな頃。
いつしか聡の姿がこの家から消えた。
つづく
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