ブラックコーヒー 2
この年、世間ではイヤなムードがよく漂う年だった。
年の初めのロシア船籍のタンカー座礁による三国海岸への大規模な重油流出事件を皮切りに、
東海村での原発事故での放射能漏れ騒ぎ。
消費税の値上げ。
神戸の連続児童殺人事件。それが自分より2つ年上の中学三年男子の犯行だった事が判った時には世間は震撼した。
しかし、そんなことは薫には関係なかった。
ひたすら碁一色の生活をしていたからだ。ニュースなど聞いても素通りしていた。
しかし、無視できない事態が起きた。
まるで今までの事が不吉の前触れのように。
8月の、酷く暑い日。
薫は苛立たしげに電車の中で扉のガラスに写る自分の姿を凝視していた。
目当ての駅に到着すると、扉がゆっくり開くのを待ちきれずに強引に隙間から飛び出し、階段を2段抜かしに駆け上がり、改札を通り抜け、長い通路から日差しのきつい屋外に飛び出した。うだるような暑さに眩暈さえ感じながら、それでも全速力で向かっているのは、叔父が入院している総合病院だった。
随分顔を出していなかった。
先月、叔父が入院したと聞いた時に、慌てて顔を出したきりだ。
その時も、いつもの調子で話していた。
―――なに、大したことないんだよ。またちょっと調子が悪くなったから念のため入院しただけだから
―――病気がちの人はかえって健康な人より自分の体調管理に慎重になって長生きする人が多いというだろう?私なんてその典型だよ
―――私のことなど気にしてないで、君は自分の事に集中しておいで
朗らかに笑って言うのに安心した。
確かに叔父がたまに入院するのに馴れていた。それが日常のヒトコマのような気がする程。
だから、直にまた退院するんだろうと楽観していた。
そう、7月にようやく1組に上がれた薫は一つでも勝ちを上げるのに必死だった。自分の棋力を少しでも引き上げたくて夢中で碁を打った。薫は自分の事で頭が一杯だった。とても叔父の見舞いに行くのに気が回らなかった。
だが、今回は。
危ないかもしれない、と聞いた。
「聡叔父さん!」
息せき切って駆けつけた、病室のその人は、いつもより随分線が細く、顔色が悪かった。
それがショックだった。
判ってなかった。所詮、健康体に恵まれた自分には実感出来てなかったのだ。全然、解ってなかった。
「…薫。血相を変えて、どうしたんだい」
その落ち着いた声音に薫は泣きそうになった。これ程酷い顔色でもこの叔父は自分をいつもと変わらぬ様子で迎えるのだ。
自分の苦しみも、痛みも、闇に潜む死の影が自分を見ているのかもしれないという恐怖さえ、自分一人の中にしまい込んで外には出そうとしない。
叔父は、強い。身体は弱いかもしれないが、心はなんて強いんだろう。
それに比べて、自分はなんて弱いんだろう。
そう、弱い……。
今まで―――足掻いて、足掻いて、けして認めたくなかったその事実を、叔父に会ってようやく認めた。
8月に入って、薫はようやく入った1組からまた2組に落ちた。
1組の中で、薫は勝てなかった。そこの上位につけている者には勿論、まだそれ程でもない、最下位の自分より順位が少し上の者にも中々勝てなかった。自分より年下の者にも負けた。その日の昼休憩の中で、その負けた相手が仲の良さげな年上の者に『ふー。警戒したけど、あいつ、大したことなかったなぁ』と声変わり前の高い声で言っているのをたまたま聞いた。相手も『…そうだな』と相槌を打っていた。
知っている。自分は彼にも負けていたのを。彼は院生トップだった。
きゅっと唇を噛み締めた。
『でも、油断するな。いつ強敵になるか分からないんだから』
『分かってる。オレだって、もっと強くなってやる』
そう云ってニカッと笑うその子の頭を小突いてグチャグチャに掻き回している相手は、楽しそうに笑っている。
薫は自動販売機で買った缶を握り締めて、ぼくだって、と思った。
負けたくない、絶対勝ってみせると言い聞かせた。
薫は寝る間も惜しんで碁に没頭した。
勝ちたかった。負けたくなかった。
それでも、努力しても、努力しても、白星を掴めなかった。
成績不振のまま月末を迎え、薫は1組に残る事が出来なかった。
1組のハードルはそれ程高かった。
それでも、薫は諦めなかった。また上がってみせると思った。
でも、勝てなくなっていた。1組の間で容赦なく叩きのめされた事実は尾を引いた。
今まで順調に棋力を伸ばしてきたつもりの自分にはそれなりの自負があった。
院生試験にも一発で通った事は自信にも繋がった。だが、ここに通うようになって初めて、自分程度の者はいくらでもいるのだと思い知った。井の中の蛙だった事を恥ながら、それでも少しずつ順位を上げていって、半年かけて上のクラスに入るチャンスを掴んだ。
同じ事をしていけばいいのだと思っていた。
しかし、1組と2組の差は歴然とあった。その差は眩暈がする程だった。
格の違い―――。認めたくないこの言葉を薫は屈辱と共に刻み付けられたのだ。
ぼくは、ダメかもしれない
初めて薫はそのことを思った。
1組になっても、実際プロ試験に合格するのはほんの一握りなのだ。
自分はそこでさえ、通用しなかった。
それなら、自分ではプロに手が届かないのではないかという思いは、心の柔らかい部分を酷く掻き毟る刃になった。それでも、終わりたくなくてがむしゃらに足掻いた。望む場所に到達したかった、諦めたくなかった、認めたくなかった、まだやれるはずだと言い聞かせた。
2組の中で一進一退を繰り返しながら、あれ程楽しかった碁がいつの間にか、酷く苦く、辛いものに変わっているのにいつしか愕然となった。
『…、…、…』
頭に浮かびそうになったその言葉を慌てて飲み込む。
好きなことをしているはずなのにどうして?
薫は答えの出ない迷路に迷い込んだ気分だった。
押し黙ったまま口を開かない自分を叔父は黙って見つめていた。
話しても、話さなくても良い。
眼がそう云っているのを感じた。
薫は、喘いだ。見舞いに来たはずの自分が、叔父を労わるのではなく、甘えるのか?
ダメだ。
そう自分を叱咤しても、叔父の顔を見ているとその強がりもぐずぐずに溶けていくのを頭の隅で意識する。いつだって、自分はこの人の前では素になった。
自分の家ではなく、自分の家族でもなく、自分が一番近しく感じる身内はこの人だった。
この人の前でしか、自分を曝け出せなかった。
立っている、足が崩れた。
そのまま、叔父が身を横たえるベッドにうずくまった。
そして、激情のまま、今まで身の内に押し込めていた感情を解き放った。
「ぼくはダメだ、弱いんだっ、どんなに頑張っても、努力しても、上にいけないっ、いけないっ!―――――このままだと!碁が嫌いになる!」
下を向いて、一気に吐き出した。
聡は背もたれから緩慢に身体をおこして、身を伏せて肩を震わせている甥の頭をそっと触れた。
「やっと言ったね…薫…」
触れた体がビクリと震えるのが手のひらに伝わる。
「おまえが悩んでいたのは薄々知っていたよ。これでも甥バカだ…」
聡は優しくゆっくりと頭を撫でた。
それが合図だったように雫がボタッとシーツに落ちた。
顔を歪めて薫は泣いた。声を押し殺すように。
それでもシーツに顔を押し付けるように存分に泣いた。薫が自分を晒せるのはこの叔父だけだった。ここじゃないと、弱音を吐けなかった。
―――いいんだよ…薫。辛かったら逃げても良いんだ…
―――立ち止まるのも、引き返すのも、弱いからじゃないよ…
―――弱いからじゃない…。私はそう思わないよ…
―――ただ、どう進むか、決めるのは自分だ。どんな答えでも自分で出しなさい…
それが、叔父と交わした最期だった。
容態が急変した叔父は意識を回復しないまま、1週間後息を引き取った。
41歳での死だった。
喪主を務めた父は無表情で淡々と全て葬儀を取り計らった。
まるでいつものビジネスライクのように動くのを、相変わらずだと思いながらも身内が亡くなってもこうなのかと悔しい腹立ちが湧き上がった。
が、それがあるものを見て変化した。
◇ ◆ ◇
それは叔父の住まいも全て処分し終わった頃だった。
聡叔父の蔵書はあらかた薫がもらった。
いつものように父の書斎から本をくすねて読もうと入ろうとした時、中の灯りが点いていたのにびっくりして慌てて気配を殺した。
普段はまだ帰らない時間だというのに、もう帰宅していたのだ。
わずかな灯りが射し込むドアの隙間を一瞥して、今日は諦めるかと踵を返そうとしたところで足が止まった。いつもと違う光景、それが目に入ったのだ。
あまり酒が強く無いはずの父の前にいくつもの酒のボトルがあった。ソファーに座って無表情で酒を呷っている父の前にはボトルに埋もれるように写真立てがあった。
―――あれは…知っている。書斎の本棚の片隅に置いてある写真だった。父がまだ子供だった時の家族写真だ。そこには―――叔父も一緒に写っているはずだった。
薫は足を潜めてそこから立ち去った。
自室に戻ってベッドに寝転がった薫はじっと天井見つめ、そして目を閉じた。
お通夜の時の情景が眼に浮かぶ。
しんみりした中でもガヤガヤと大勢の人の入り混じる気配。
もう、あらかた焼香は済んでいて、義理や建前で来た人達や母方の親類などはもういない。父方の――叔父の近しい血縁者はすでにない。祖母父も死んだから独身のまま逝った叔父の縁者は父だけなのだ。祖父母に連なるような遠い親戚はとっくに辞去した。父の会社の人間達も手伝いに残った者以外は姿を消した。ここに残っているのは故人を悼み思い出話に耽って帰りがたく感じる者だけだった。そしてそれは叔父の大学関係の者が大半だった。
そう、身内である自分達を含めた親戚縁者より、心から悼んでいるのは赤の他人の方だった。
父は最初から無関心な無表情を崩そうとしない。
兄も――ある意味父と同じようだった。
兄は薫のように叔父の部屋に遊びに来たことはない。あまり接してなかったようだ。だからかもしれない。ただ、学校こそ違うが大学生の兄なら何かの拍子に顔を合わせた事があるかもしれないと思って弔問に訪れた叔父の知人らで知っている人がいたかと尋ねてみた。が、知らないと端的に返された。
―――小さい頃はよく叔父が自宅に来て、相手してもらったような記憶があるけど、叔父が顔を見せなくなってからは殆ど会ってなかったな。母さんが――隔意があるように感じたからかもしれないけどな
そう、自嘲するように、苦笑するように云った兄の言葉を薫は意外な思いで聞いたと共に、妙に納得したような気もした。
この年の離れた兄とはあまり親しく喋った事がなかった。
兄が自分の家をどう感じて、どういう自分の世界を持っているのか薫は知らない。
その彼は、今年度大学卒業と共に父の会社に就職する事が決まっている。
結果的に父の引いたレールの上を忠実に歩いているように見える、この兄が実際どう考えて父の跡を辿っているのかいつか聞きたい、聞いてみたいと初めて思えた。
そして、母は―――。
彼女が一番不確かだったかもしれない。
薫がかなり小さい時でも彼女は叔父の部屋に遊びに行こうとする自分の子供を止めもしなかったが、一緒に行こうとした事はなかった。さすがに幼い頃は部屋まで送ってくれたが、中に入って挨拶することもなかった。薫はそのまま帰りは叔父に送ってもらうのがしばしばだった。そして、電車に乗れるような就学年齢になると薫は一人で通った。
家に帰って叔父の部屋で何をしていたのかも聞かれた事が無かった。
学校で今日は何をしたのかは聞かれても。
あまり頻繁に行くのは迷惑ではない?とだけ一度聞かれた。
自分が顔を振って、いつでも遊びに来ていいと云われていると答えたら、そう、とだけ言った。
その母は、お通夜の間中、何か気の抜けたような放心した、不思議な表情だった。
母の表情は、お義理の悲しみではない、悲しみと、迷いと、虚無と、―――安堵が交互に現れ、それに戸惑い、困惑するような曖昧さが顔に張り付き、それでも機械的に喪主の相方を務め、弔問に訪れる者達に義理の弟に対する礼を尽くした挨拶を返した。
それらの雑務が済んだ時、空白の瞬間のように母が一人で力なく座り込んでいた時があった。
―――だからかしら…
母親が叔父の棺の側に座ってぼんやりつぶやくように独り言を云っているのが聞こえた。
―――こうなるって分かっていたから、あの人、聡さんに名前をつけさせたのかしら…
確かに聞いた、小さな呟き。
訝しく思った一瞬。
云っているのが多分自分の名前の事だと思ったが、それでもまさかと思った。
あの、父が、叔父に名前をつけさせた――?なりゆきじゃなく、父から頼んだのか――?
まさかと疑った。
およそ父には似合わない行動だからだ。
そう、薫の知っている父はあまり弟である叔父に関心があるように見えなかった。
叔父が時折入院していた時も見舞いに来たことなど一度もなければ、たまに家に居る時にも話題に出す事もなかった。自分が叔父の部屋に入り浸っていると知っていても、それでも聞かれた事がない。今回の危ないと云われた時だって見舞いに来なかった。昏睡状態に陥って、もう覚悟して下さいと通達された時になって初めて病院に来たのだ。
そんな父が今、普段飲まない酒を呷っている。薫は目ざとく例の写真立ての前に酒が注がれたグラスが余分に置いてあったのを見ていた。
―――ねえ薫、表に見えるのは…
ああ、そうなのかな。聡叔父さん。
あれを見てようやく薫は他人と同じくらい希薄だった父親という人間が近くに感じられた。いや、父親という記号で認識していたものが、ちゃんと自分の身内のなのだと納得出来たような…。そして、それは悪くなかった。まったく、悪くなかった。
薫は、長い間、キリキリに絞られたままだったモノが少し緩むのを感じて、その心地よさに誘われて眠気が訪れた。
◇ ◆ ◇
2学期に入って、また薫は学校と棋院の間を往復した。夏休みの終わりに亡くなった叔父の事は誰にも知られる事はなかった。
それより学校の話題は夏休み最期の日に亡くなったダイアナ元皇太子妃の事故死に騒然としていた。そしてまた日を置かずにマザーテレサの訃報が報道された。
でも、薫にとってはそんな著名人の死よりも叔父の死がこの年を印象づけた。
学校の中では誰も知らない、この人の不在が。
薫はあれから半年、棋院に通った。しかし、1組に戻れる事はなかった。
そして、年が変わった2月。院生を辞めた。
薫は自分が出てきた棋院の建物を振り仰いだ。
―――ねえ、聡叔父さん。ぼく立ち止まって考えるよ。そうしても、イイんだよね
もう一度考えてみよう。
自分が囲碁を好きだったのは?
瞼に叔父の面影と、珈琲の匂いがよみがえった。
4月。2学年に進級した新学期に入って、薫は学校の囲碁部に中途入部した。
プロは諦める。しかし、碁は止めない。それが薫が出した結論だ。
院生上がりだということはすぐに知れた。メリットもデメリットも全て引き受けた。
尊敬も、羨望も、そして『所詮、院生を辞めたんじゃないか』という中傷も嫉妬も。
全て黙殺し、必要とあれば実力で捻じ伏せた。
そして、3年が引退した時、薫は部長を努めることになった。
年度が変わって4月。
3学年になった今日は始業式だ。
「おーい、岸本ぉー」
「何だ、美和か」
「おまえ、聞いたか?」
「何をだ」
「ほら、今年有名人の息子が入るって噂があっただろ?囲碁の名人の息子。えーと確か…塔矢…ア…なんだっけ」
―――塔矢、アキラ
幼少時からの英才教育で、囲碁の天才。しかし、一般にはろくに顔を出した事がない。それは、ちょっと事情通の囲碁好きならわりと知られている事だった。
「まあいいや。とにかくそいつが、囲碁部に入るかも知れないンだってよ」
「まさか」
「えー?即答か?校長がらみで流れた話だからかなり信憑性があると思うンだけどなあ」
「絶対、無い」
そう、彼のようにすぐにプロに手が届くに違いない人物が、部活動に参加するはずがない。入る必要もない。
「ガセだ」
そう切り捨てて、背を向けた。
―――――だが…
まだ、アソコから完全に縁が切れた訳ではなかった事を薫は知った。
「―――すみません、遅れました」
部室の扉が開くと共に、まだ声変わり前の少年の、少し高いキレイな声が響いた。
淡い憧憬の象徴がカタチを伴って目の前に現れた事実を、岸本薫は息をつめて確認した。
―――ツキリ…
胸が痛んだのを感傷と共に静かに受け止め、そして唇の端でわずかに苦笑した。
END杉浦のコメント
岸本くんのお話はこれにて幕。
ただし、「岸本家のお話」はまだあります。
岸本くんのお父さんのお話です。
しんみり、思わず涙ぐむ、感動巨編です。
ごく普通の、ちょっとしたすれ違いすらも含んだごく普通の日本の一家。
その中に存在する情と、敵意と、ゆがみと、愛情。
それらを克明に描き出した逸品です♪
あーもうほんとにQooさま、お上手っ。
そんな小説へのジャンプはコチラ。
「海を渡る風1」に行く
ちなみに、ほとんど別モノで、こちらは健全だったので分けましたが、これは月の満ち欠けシリーズの番外編、「迷い子」とつながっています。迷い子も、健全です。
Qooさまの作品には健全ものも多いので、これを期にいかがでしょうか。
以下、同性同士の恋愛要素を含まない作品リスト。
贈り物
ファインダー
不動
船出
あぐりな日
早春賦