臥待月
――6年目――
キミの心を深く抉った最初のキズは長いこと血を流し続けていた
ようやくそれが膿んでかさぶたになろうとした矢先
その上に新たにキズが付いてまた血が流れた
ボクはそれをキミと特別な関係になってからようやく知った
見える
パックリ割れたキズが
そこから滴る赤い血が
キミは時間をかけてゆっくり、ゆっくりそれを癒す
だけど、キミもボクも恐らく知っている
一度付いたソレは癒えてもきっと痕を残すと
ソレは魂に深く穿たれた抜けないトゲ
キミはそれを抱えて生きていく
そしてボクはそれ毎キミを愛していく
それは、キミを手に入れた時から決まっていたこと――
1
今年の新年会は塔矢アキラ碁聖、進藤ヒカル両名ともほぼ強制参加だった。
去年の活躍で碁界の目玉商品となったも同然の二人に拒否権は黙殺された為だ。
ただその代わり、次々紹介される来賓への挨拶は二人セットでやらされたので始終一緒
にいる事が出来たのが、唯一の慰めだろうか。
「…オレ、なんか、顔が強ばっている気がする…」
「――――ボクも…」
二人はタクシーの中でそんな事を呟いていた。
仲良く客寄せパンダをやらされた二人はひっきりなしに話し掛けられる為、笑顔の製造
をかなり長時間よぎなくされ、いい加減疲れも堪っていた。それでほぼ酒宴の色が濃くな
ってきたところでスキをみて逃げ出してきたのだ。一応義務は果たしたハズなのだからこ
れ以上拘束されるのは二人ともまっぴらだった。
「――なんか、オレ…寝そう…」
「良いよ寝てて。着いたら起こすから」
「ん…」
うとうとしていたヒカルは直に軽い寝息を立てて寝入ったようだ。
コテンと頭が塔矢の肩につく。じわりと広がる体温にアキラも次第に眠気が襲ってきた。
―――まあ、いいか。着く直前に目が覚める自信あるし…
アキラは重たくなってくる瞼の誘惑に逆らわず、睡魔にのる事にした。
◇
今日は洗濯日和だった。
休みのヒカルはたっぷり寝た後、ガタゴト洗濯機を回して、鼻歌をくちずさみながらベ
ランダで洗濯物を干した。
それからメシを作り、遅い朝食兼昼食をのんびり食べた。
腹がクチくなると、また睡魔が襲い、昼寝にシャレ込む。
そんな風にダラダラ過ごすとすぐ夕方近くなってしまう。
風が冷たくなる前にとっとと洗濯物を回収にかかる。
機械的に手を動かしながらボンヤリ考える。
今年は成人式の日を迎えた時、
―――そうか、オレ、来年なんだ
と思った。
昔は二十歳になったら大人なんだと思っていたが、自分がいざ、その年齢に近くなって
も全然そんな気がしない。相変わらず子供なままだ。
それでなくとも碁打ちなんてしていると、あまり曜日の感覚が無くなって一年があっと
いう間だ。つい最近までまだ中学だった感覚が残っている。
ただ、塔矢と暮らすようになって漠然と考えていた事がある。
成人式を迎えたら、両親に話してみようかという事だ。塔矢と付き合っていると。
ヒカルとしては進んでバラすつもりは無いが、両親には別だ。
隠している事は多いが、だからこそ、基本的に嘘は付きたくない。
ひとつの区切りとしていい機会かもしれないと思う。
云わぬが花という言葉があるのを勿論ヒカルも知ってはいたが、でも…と思う。
塔矢が好きだというのは自分の偽り無い本音だ。それを嘘にしたくない。ただの自分の
満足の為かもしれない。自分の気が済むだけなのかもしれない。――オレは、両親だから
こそ話したいのだが、逆に両親だからこそ甘えているのだろうか。きっと2人は聞きたく
ないだろうに。
だが、話すにしても塔矢の両親に飛び火するような事態にならないようにクギを刺さな
くてはいけない。このカミングアウトはオレの我が儘なんだからあいつに迷惑は掛けられ
ない。若先生の立場は絶対危うくさせたくない。あいつはオレと違って抱えるモノが多い
んだから。いつでも自由になれるようにしておかなくては。
ただ、話すにしても塔矢には了解をとっておかないととヒカルは考える。
いつか、聞いてみようかと思案する。
そんな折り、ビクリとヒカルは耳を澄ませた。
「はいはいはいはい――」
洗濯物を放り込んで、ヒカルは突然鳴り出した携帯に出るべく、慌ててベランダから中
に入った。
「はいっ」
『もしもし、ヒカルさん?』
「あれ、明子おばさん?おひさしぶりです。正月の時はご馳走様でしたー」
『あら、良いのよ。うちの男共に食べさせるよっぽど張り合いがあるもの。あれだけ喜ん
でくれると嬉しいわ。あの人たちなんてウンともスンとも言ってくれないんですもの』
「えー、そうなの?あんなに旨いのに」
『ふふ、また食べにいらっしゃいな。楽しみにしているわ』
「やった、ラッキー!あ、そうだ。何か用だったんじゃない?…アキラならいないけど」
『あら、だったらちょうど良かったわ。ねえヒカルさん』
「はい?」
『あの子の再来週の土曜日の予定分るかしら』
「あーはい、ちょっと待っててくれますか」
ヒカルは携帯を持ったままカレンダーのある場所へ移動し、確認する。
「えーと、再来週の土曜日だと…2月の…3…日…?」
ヒカルは無意識に背中がゾワリと逆立った。自分でも訳が分らないまま喉がカラカラに
なる。
『……ヒカルさん…?』
長い沈黙に明子は訝しげにどうかなさった?と聞いてみる。
その声に我に返ったヒカルは慌てて答えた。
「あっ、はい、えーとその日はあいつは仕事午前中で上がれます」
『まあ、そうなの。良かったわ』
明子は嬉しそうに胸を撫で下ろす。
『ねえ、ヒカルさん。悪いけど予定聞いた事、あの子には内緒にしてくださる?』
「え?まあ…良いですけど」
『お願いね?あの子に逃げられたくないのよ』
くすくす楽しそうにしているのに好奇心が擽られる。
「何か悪巧みですか?」
と悪戯っぽく聞いてみた。
『ふふ。内緒よ?お見合いさせようって思っているの』
「――――え」
『良いお話なのよ。前からアキラの事、気にして下さっていたらしいの。前にも一度あっ
たんだけど、あの子ったら会いもしない内に勝手に先方にお断りの電話入れちゃうんです
もの。今回はせめて会うだけでも会わせたいのよ、良いお嬢さんなんですもの』
朗らかに話す内容を、ヒカルは右から左へと聞きながしていた。気が付けば携帯を握り
締めたまま、床に座り込んでいた。いつ話を終わらせたのかも覚えていない。
「――お見…合い」
ヒカルは冷や水を浴びせられたようにゾクリとした。
「前…にも…一度…」
身体がガクガク震えて無意識に自分を抱き締めていた。
―――聞いてない、聞いてないよ……塔矢っ!
視界が真っ暗になるような感覚に襲われる。
スゥーと全ての感覚が遠くなり、四方八方闇の中に立ちすくむような。
覚えが、ある、感覚。以前、お馴染みだった…。
いつか、来るとは思っていた。
でも、まだ、早いだろ?
オ・マ・エ・がイナクナル。
マ・タ、イナク・ナル――
―――ト、ウ、ヤ。トウヤ、とうや、塔矢―――!!
ヒカルはそこら中、叫び出したくなる激情を必死に抑えた。
―――とうとう、来た―――
2
最近ヒカルの様子がおかしい。
ふと気を抜いた時にボンヤリしている事が多くなった。
それに此のところ減っていたスキンシップが復活した。
何かあったのかと聞いても『何でもない』と答えるばかりだ。
業を煮やして卑怯だと思いつつもセックスの時に追い上げて白状させようともした。
さんざん責めてもヒカルは何も云おうとしない。
その代わりのようにあどけない顔で普段口にしない言葉を拙い口調で繰り返す。
―――アキラ、…アキラ…好き、好き…
何度責めてもその言葉を繰り返すだけだ。
ヒカルは普段、アキラとは呼ばない。
『塔矢』の方がおまえだという感じがすると云う。
ただ、ボクの親といる時は区別する為にひどく言いにくそうに呼ぶ。
それと、セックスの時。
ボクがたまに最中に『ヒカル』と呼ぶと呼応するように『アキラ』と返す。
しかし、それも我を無くしている時だけだ。
それなのに、意識を残したままキミは繰り返す。
―――好き、アキラ…
壮絶にそそる、薄い瞳の、潤んだ眼で。
それでいてどうしてそんな無垢な表情なのか。
ヒカルのアンバランスさに堪らなくなる。
しまいにはそれで煽られて、ボクの方が暴走する。
それでもヒカルは文句を云わない。
いつもなら跡をつけるなと散々云い、オレを壊すつもりかと拗ねる。
それなのに。
それどころか壊しても良いとさえ口走る。
もっととねだる。
息も絶え絶えのクセにボクにしがみ付いて身体を摺り寄せる。
あの、自分の快楽には無頓着なヒカルが。
搾取するようにボクを求める。
嬉しい反面、ますます不安に駆られる。
彼は、一体何を抱えているのか。
◇
「――これは、どういうことですか。母さん」
低いアキラの声が席を一瞥した途端発っせられた。
今朝方、仕事に行く前に母から電話がかかってきた時はまさかこんなことだと思ってな
かったのだ。
『アキラさん。今日時間あるかしら』
「――?はい、仕事はお昼で片付きますが…」
『そう、良かった。悪いけど仕事の後、○○ホテルに来て下さる?用事があるの』
そう云って切れた電話に内心首を傾げながら出向いてみれば、何の事はない、ハメられ
たのだ。
案内されてみれば、見合いの席だったのだから。
「アキラさん。こちらのお嬢さんは…」
「――申し訳ありませんが、ボクは受けるつもりはありません。セッティングなさった方
には御足労おかけしたようですし、あなたにはなんの含みもありませんが、ボクの意志は
変わりませんので。――それでは、失礼致します」
アキラは切り口上で一気にそう締めくくると、目を丸くしている、おそらくお見合いの
相手に一度キチンと目を合わせて、深く一礼した。
「ア、 アキラさんっ」
目の端で慌てて立ち上がる母が見えたが、そのまま踵を返した。
「アキラさん、まって!」
ホテルのロビーが見えてきた所で、母に追いつかれて腕をとられた。
「アキラさん、不意打ちしたのは悪かったけど、ちゃんとお話もしないであんな断り方、
先方に失礼じゃありませんか」
困ったようにそう言い募る母に、アキラはため息を吐いて返した。
「それなら云わせてもらいますけど、内緒で事を進められたボクには失礼じゃないんです
か」
「それは…悪いと思ってるわ。でも、前回の前科があるんですもの。こうしないとあなた
会ってくれないじゃない」
「――どちらにせよ、受けるつもりはありませんし、これからもそうです。金輪際、こん
な話はもってこないで下さい」
「そんな…アキラさん」
明子は困惑したように口ごもった。
「……まだ、早いと思っているの?」
「…………」
「でも、お見合いイコール結婚ってわけでもないのよ?良いお嬢さんがいるならお付き合
いしてみてもいいんじゃない?気が合わないならそれからお断りしても良いんだし」
「…………」
「……それとも、お付き合いしている方がいらっしゃるの?」
息子の目が微かに揺らいだのを認めて明子は重ねた。
「いらっしゃるの?それなら紹介して下さればいいのに。水臭いじゃない」
アキラはしばし躊躇した後、母親をもっと廊下の隅に誘導し、低い声で告げた。
「――もう、会ってます」
「――え?」
「もう、知ってます。ボクが付き合っているのは――進藤ヒカル、彼なんです」
明子は意味がよく掴めないという顔で佇んでいた。
「ボクが今も、これから先も、傍にいたいのは進藤なんです」
アキラは口に出したからには一気に言った。
「――だって、貴方たち、友達じゃないの?」
「…………」
「だって…貴方たち…」
「…………」
「――そんな……」
「お母さんには申し訳ないとは思いますが、ボクの気持ちは変わりませんから」
キッパリそう言い切るアキラに明子は途方に暮れたように立ちすくんだ。
「………に…させて…」
「―――?」
「一人に、させてちょうだい……」
力無くそう呟く母親に、アキラは逡巡した後、一礼して立ち去った。
明子はそれをぼんやり確認しながらふらふらロビーのイスに崩れるように座った。
アキラは母親の姿に気掛かりなものを感じながらもロビーを後にした。
母も心配だが、もう一つ気掛かりなことがあった。
もしや、ヒカルは知っていたんじゃないかという事だ。
今朝、急な事とはいえ、イヤにタイミング良く予定を聞いてきた。あんな席を設けたか
らには事前に自分のスケジュールを押さえていたとしか考えられない。そうすれば、確認
するとなれば棋院かヒカル。日頃仲の良い二人を考えれば軍配はヒカルに上がる。
スケジュールの確認だけならまだ良い。だが、見合いの事も漏らしていたなら――。
此のところ様子の変だったヒカルの訳がそれで奇麗に付いてしまう。
いてもたってもいられない気がして足を速めようとした時に、ようやく耳についた。
「――さん。塔矢アキラさん」
ハッとしたアキラはようやくホテルの玄関の影に佇む女性の存在に気づいた。
「―――あなたは…」
名前を呼ぼうにも紹介される前に退出したので口に出せない。
「すみません。一言謝罪しておこうと思って」
彼女は真っ直ぐそう切り出した。
「あなたのお母さん、責めないであげて下さい。今回のこれは、私が無理に頼み込んだん
です。――私、前から知ってました、あなたの事。同じ、海王中だったんです。知ってま
した?」
「――え」
「まあ、あなたは有名人だったから私は一方的に知ってたけど、クラスも同じになった事
はなかったから、認識されてなくても仕様が無いですね」
彼女は苦笑してそう云ったが、アキラはその通りだったので何も言えない。
「私は好きだったけど告白しないままずっと見てたんです。塔矢君、碁以外興味なさそう
だったし。そのまま、終わるつもりでした。だけど、私の伯母があなたのお母さんと知り
合いだったと最近分かって…」
―――ダメもとで、ケリを付けるつもりで我が儘言ったんです
そう肩を竦める彼女にアキラは何て言ったらいいのか分らなかった。
「――塔矢君、付き合っている人、いるんでしょ?」
アキラはハッとして彼女を見た。
「やっぱり」
クスクス笑って続けた。
「正直ね。断った時の目を見てそうじゃないかと思ったんだ。―――大切な、ヒト?」
アキラは真っ直ぐ正面を見た。彼女も真剣な顔をしていた。
言わなければ。自然にそう思った。
「――そうです」
「…そう。ありがとう、ちゃんと言ってくれて。ごめんなさい、こんな席に引っ張り出し
て」
「いえ…」
彼女はクルリと背中を向けた。
「大切にしてね。ソノひと」
ポツリとそう呟くと彼女は軽やかに駆けていった。
アキラはそれを、見送った。
3
ヒカルは半ば上の空で指導碁をしていた。それでも無意識によどみなく石を運び、周囲
に気づかれる事はなかった。そこへ、携帯のベルが鳴った。
ヒカルはビクリと身体を揺らした。仕事中だというのに切り忘れていたのだ。
ヒカルは相手に謝罪して、一旦席を外した。――番号は見覚えがなかった。
「――もしもし」
『――ヒカルさん?』
塔矢の母さん―――。ヒカルはきりきりする胸を無意識に抱き込んでいた。
『お話がありますの。ご都合ついたら、○○ホテルまで来て頂けるかしら』
ホテルの名前を聞いて、ヒカルは蒼白になった。
―――行きたくない
そう思ったが、ヒカルの口は感情を無視して動いていた。
「仕事が終わるのは夕方過ぎになりますが――」
『――お待ちしています』
そう云って、通話は切れた。
ヒカルはのろのろと携帯の電源を今度こそ、OFFにした。
◇
ヒカルはぼんやり前を見上げた。
このホテルには良い思い出がない。動きたくない足を無理に動かして前に進んだ。ふと
携帯を切ったままにしていたことに気づいて電源だけ無意識に入れた。
もうお見合いは済んだだろう。どうなったにせよ、今、それを知る事になるだろうとヒ
カルは思った。
怖い。だけどそれでは済まされない。
ロビーをくぐって喫茶室を探す。後ろ姿ですぐ、分った。
「お待たせしました」
明子は目線で座るように促した。
ヒカルは着席しながら近づいてきたウェイトレスに「モカを」と頼んだ。
明子は何もしゃべらない。ヒカルも黙ったままだ。
注文のコーヒーが届いた。
ヒカルがひとくち口に含んだところで切り出した。
「――あの子、断りました」
ヒカルはガチャリとソーサーに戻した。
動揺したヒカルを静かに見て、明子は続けた。
「あの子、付き合っている人がいると私に言いました」
まさか、という表情をするヒカルに明子は無表情に口を継いだ。
「――あなたなんですってね。……どうしてっ、言って……」
声が震えていた。
「同居だなんて――――私をっ、騙していたのっ」
詰問するように声を荒げる明子にヒカルは何も言えなかった。ただ――蒼白な顔で真っ
直ぐ明子を見つめた。
「……どうしてっ……」
泣きそうな声でそう口ごもる姿にヒカルはどうしていいか分らなかった。
「明子…おばさん…」
「そんな風に呼ばないでっ…」
その拒絶は確実にヒカルの心を抉った。
仕方ないと思っても一度心を許した相手からの否定はヒカルには痛く、しばらく動けな
かった。
しかし、そう叫んで立ち去った明子をそのままにするわけにもいかず、痛む心を抑え付
けて、手早く会計を済ませて慌てて後を追った。
ロビーにはいない。ヒカルはすぐ、表に飛び出した。せめてタクシーに乗る姿を確認し
なければ落ち着かない。
しかし、車止めには彼女の姿は何処にもなかった。
そんな、と思った正面にはうっそうとしたアノ、公園がある。
そこに入る彼女の後ろ姿を辛うじて確認したヒカルは一瞬、躊躇した。
―――それでも、
「おばさんっ」
ヒカルはそう叫んで後を追った。
明子は混乱した感情を抱えたまま闇雲に歩いていた。
こんな気持ちのまま家に帰る気がしなかった明子は少し頭を落ち着かせようとして正面
に目に付いた公園の中に足を踏み入れた。
周囲はもう暗くなっていて、わずかな街燈が灯ったきりだが、それも頓着できてなかっ
た。
噴水近くまで何も考えず進んだところで、いきなり何かに突き飛ばされたような気がし
た。
「きゃあ!」
明子は突然の事で訳の分らぬまま転んでいた。
側を男が何か掴んだまま走り出す。
ハッと気づいた時にはバッグを奪われていた。
「泥棒っ」
咄嗟に叫んだが周囲には誰もいない。
しかし、背後から声が聞こえたと思ったら誰かがそのまま追い抜いていった。
「―――まてっっ!」
「ヒカルさんっ」
ヒカルはタックルするように男に飛びついて、バックを奪い返した。
「ヒカル…さん」
明子は思わず近くに寄ろうと歩み寄った。ヒカルは一瞬明子の方を見てバッグを掲げて
ニコリと笑んだ。その一瞬無防備に背を向けた時に背後の男がむくりと起き上がり、懐か
ら何かを取上げたのが見えた。
「――ヒカルさんっっ」
キラリときらめくモノが垣間見えて明子は切迫した声を上げた。
明子の所へ戻ろうとしていたヒカルがその声で反射的に飛びのいた。
ナイフが空を切る。
「きゃあ!!」
「来ないでっ」
ヒカルは咄嗟に明子を背後で庇うように立ち塞がり、対峙していた。
目の前には髭面の痩せた男がブルブル震える手で安っぽいナイフを構えていた。
ヒカルは蒼白の顔でそれでも眼に力を込めて相手を睨み付ける。
しばらく睨み合いが続いた。
―――その時、唐突に携帯のベルが鳴り響いた。
それにビクリとした男は慌てて踵を返して逃げ去った。
それを見送ったヒカルは突然糸の切れた人形のようにその場に崩れた。
明子は慌てて側に駆け寄った。
「ヒカルさんっ!」
ひざまづいて様子を見たとき、ドキリとした。
ヒカルは喘ぐように胸を掴み締めていた。
「――そんなっ、ヒカルさん!」
明子は混乱のまま背中をさすり、さっきからしっきりなしに鳴っている音を無意識に探
した。それはヒカルのポケットの携帯。表示が――息子の名前になっているのを見て、縋
るように飛びついた。
『進藤…』
「アキラさんっ?」
◇
アキラはマンションで一人ヒカルが仕事から帰ってくるのを待っていた。
しかし、何事もなければ戻ってくる時間になっても帰ってこない。今日の仕事先に電話
をかけてももう帰ったと云う。ヒカルの携帯はつながらない。仕事中は電源を切っている
のでそのまま忘れているのかもしれない。それでも胸騒ぎがした。アキラの実家も電話が
つながらない。母も帰っていないのだ。
気になったアキラはあのホテルに戻った。無駄足になっても良い。
ロビーに足を踏み入れたアキラはグルリと辺りを見渡したが、見知った顔はいない。
母はもう、帰ったのかもしれない。
ヒカルが捕まらないかもう一度彼の携帯に電話をかける。
今度は反応があった。しかし、いつまで経っても出てこない。不安になったアキラは携
帯を耳にあてたまま、足早にホテルを出ようとした。
――その時、ようやく相手が出た。
「進藤!?」
『――――アキラさんっ?』
「か、母さん?――どうして…」
『アキラさんっっ、早く!ここに来て!!ヒカルさんがっ』
みなまで云わせず悲鳴のように訴える声に緊張を強いられ、場所を聞いた途端、胸騒ぎ
が現実のものになったのを知った。
目の前にあるうっそうとした公園、ヒカルの鬼門。そこを目がけて携帯をつないだまま、
アキラは全速力で駆けた。
「アキラさんっっ」
ひざまづいた母親の側で倒れ付しているヒカルを見て、アキラは真っ青になった。
「呼吸がっ」
泣きそうな母の声に、アキラは反射的にヒカルの心臓に耳を当て、鼓動が聞こえないの
に蒼白になる。
「救急車をっ!早くっっ!!」
アキラはそう叫んで母に自分の携帯を放り付けて、無我夢中でヒカルの気道を確保して
ウラ覚えの救命法を試みた。
「進藤!進藤っっ」
アキラは必死に呼びかけながら、数を数えて息を吹き込み、強く、心臓を押す。
数分が永遠に近いような時間の中、ヒカルの心臓はまた動き出し、呼吸が戻った。その
頃、救急隊員がストレッチャーを持って駆け付け、救急車の中で慌ただしく処置をされな
がら、「いいですか、意識を保つように、ずっと名前を呼びかけて下さいっ」そう告げる救
命隊員の言葉に頷きながら、アキラは祈るように進藤の名前を呼び続けた。
4
「今、容態は安定しています」
アキラは無言で深く頭を下げた。
処置室から出てきたヒカルはそのまま別室へ移動となり、母はそのまま付き添って行っ
た。
アキラは出てきた医師の言葉を聞く為に残ったのだ。
「検査の結果、幸い脳波に異常はみられません。起きてみないことにははっきり言えませ
んが、心配されていた酸素不足による障害も恐らく大丈夫でしょう。詳しい結果はまた後
ほど出しますので最低限明日一杯入院して頂きますが――」
そこで医師は一旦言葉を切った。
「彼の、心停止の原因ですが――機能的には問題ありません。むしろ、心因的な…心療内
科の領域のようですが…」
心当たりがおありですかと聞いてきた。
それにアキラは蒼白な表情でゆっくり、うなづいた。
「――そうですか…。ところで、入院手続きをするのに保護者の方と連絡をとって頂きた
いんですが」
看護婦からも聞いていると思いますが…と続けたのを、アキラは制した。
「――そのことで、ご相談があります。彼の両親には連絡を取りたくないのです。彼も望
まないと思います。彼自身、すでに独立していますし、今の同居人はボクなんです。手続
きはボクが代行するわけにはいきませんか」
「――しかし、彼は独立していても、まだ未成年でしょう…?」
「お願いします、ボクでダメなら今、ここにボクの母もいます。母でもいけませんか」
お願いします。アキラは深く、頭を下げた。
医師は逡巡した後、ちょっとこちら良いですかとアキラを別室に招いた。
「――キミが、そう云うのは、彼が前にケガした事と関係あるのかい?」
意味深な言葉にアキラはハッとして目の前の医師を見た。
「覚えてないかな。前に進藤ヒカル君、彼をここで診たことがある」
そう、ここは偶然にも進藤がレイプ未遂に遭った時、連れてきた病院だった。
「前は分らなかった。だけど今、彼は君共々有名人だからね。後に前のカルテで名前を確
認したよ。――あの時のケガ、ケンカに巻き込まれてって事だったけど、本当かい?」
医師の真面目な顔にアキラは知らず、緊張した。
「こんな職業に就いているとね、様々な状態で付いたケガを診る。あの、こみかみや腹部
の殴打以外にあった、手首のアザ、首の跡、――そして、触診されていた時の、彼の様子
…これらは或る時の症状と良く似ていた」
アキラは喘ぐように医師を睨み付けるように見つめた。
「――女性が、レイプされた時の様子と酷似するんだよ――」
アキラは無言で目を閉じた。
「――そして、そんな眼に遭った彼女たちがよくなる症状が…『PTSD』」
アキラはビクリと体を揺らした。
「もし、彼の今回の心停止がそれが原因なら…結構、深刻なんじゃないのか?」
アキラは唇を噛み締めて顔を背けたが、――何も、云わない。
それを見て、医師はやれやれという風に肩を竦めた。
「…まあ、俺は精神科は専門外だ。今回たまたま俺が当直だったから前回と繋ぎ併せてこ
んな仮説を立てたが、俺以外、誰も知らん。憶測云ってもしょうがないな。――でも、」
医師は胸元からボールペンを取り出して、すばやく何かを書き記した。
「もってろ。知り合いだ。まだ若いが心療内科医師としては腕は良いハズだ」
そう云ってムリやりアキラにそのメモ用紙を押し付けた。
「――さて、入院手続きの方は俺が何とかしておきましょう。ところで、塔矢先生。今夜
は念のためICUに居て頂くし、当病院は完全看護ですので付き添いはご遠慮申し上げま
す。お見舞いしたければまた明日のご来院をお待ちしております」
そう云って背を向けると後ろで手を振った。
アキラはそれを見つめて最後に一礼して部屋を出た。
「ありがとう御座いました」
◇
「――お母さん?」
「アキラさん…」
明子は横たわるヒカルの側に座っていた。息子だと勘違いした看護婦が特別に許可して
くれたらしい。
「アキラさん、この子…心臓に何か持病を持ってらしたの?」
明子はヒカルの顔を心配そうに見つめながらそう尋ねた。
アキラは一瞬苦い顔をして眉を搾り、静かに首を振った。
「――違います」
「……え?それなら、どうして…?」
「………それは……」
アキラは迷って逡巡していると、静かに眠っていたヒカルの様子が変わってハッとした。
「……う……あ…」
ヒカルは苦しげにわずかに首を振った。
「……イ…ヤッ…ハッ……あぁ……!」
横の心電図の数値が上がり、ヒカルは喘ぐように胸を掴み締めた。
「ヒカルっ…さん!」
明子は急変に驚くと共にナースコールを押そうとしてギョッと手が止まった。
ヒカルの手首にじわじわアザが浮かび上がってきたのだ。
アキラはヒカルの瞼に手を当て、もう片手で震えて胸を掴む手首をそっとおおうように
握り込むと、耳元に屈み込み、ささやいた。
「――ヒカル、大丈夫、もうイヤなヤツはいないよ。キミの側にいるのはボクだ。大丈夫、
大丈夫…」
強く、静かにそう繰り返すと、ヒカルの様子は徐々に落ち着いて、スゥーとまた静かな
寝息に戻った。
アキラは瞼の手はそのままに、ヒカルの手首を軽く撫で、ついで乱れた髪をゆっくり梳
いた。瞼からそっと手を放すと目尻にうっすら滲んだ涙を指でぬぐい取る。
「……アキラ…さん…?」
息子の慣れた様子に明子は戸惑った。
「――っ、失礼します」
看護婦が入ってきた。
「患者さんの容態に変化が出ていたので――」
問うように目線で聞いてくるのにアキラは了解したように説明した。
「先程、うなされていました。今はもう落ち着いています」
看護婦は頷いて、ざっとテキパキと患者の様子を確かめる。
明子はドキリとしてヒカルの手首を見て――、再びギョッとした。さっきまでくっきり
浮かび上がっていたアザが今はもう目立たないほど薄くなっている。
明子はパッと息子を見たが、アキラはそっと目を伏せて静かに首を振った。
「――大丈夫なようですね。済みませんが、もう面会時間は終了しておりますのでお帰り
願いませんか。御心配でしょうが、数値を絶えずモニターでチェックしておりますので変
化があれば駆けつけます。ここは私どもにお任せ下さい」
「――よろしく、お願いします」
アキラは深く、お辞儀をした。
「……いきましょう」
そう声を掛けて、母を促し、ドアに向かう。
アキラは最後にクルリと振り返って気掛かりそうにヒカルを見た後、思い切るように病
室を出た。
帰りのタクシーの中で明子は絶えず物問いたげにアキラを見たが、始終、固い顔をして
押し黙った息子の様子にその度、口に出せなくなる。
車中は無言のまま家路に向かった。
5
「――遅かったな」
出迎えて、何があったんだと開口一番尋ねてくる。
「進藤君に付き添ってるとしか聞いていないが…」
そう言い、二人を見れば、明子は困惑した表情で息子を見、アキラは固い顔をしたまま
だ。
「……ここではなんだ。明子、悪いがお茶でも煎れてくれんか」
そう言って踵を返すと居間に向かった。
お茶を啜って一息入れた後、おもむろに問うた。
「一体、何があったんだ」
追及の手を緩めない一言に、アキラは押し黙った後、静かに母を見た。
「……その前に、お母さん、あの場で何があったのか、もう一度、詳しく、話してくれま
せんか」
その静かな気迫に明子はひとつ、ひとつ記憶を確認するように順々に辿って口に出した。
最後のところで、アキラはピクリと反応して無意識に拳を握り締めていた。
「……ナイフっ…」
ヒカルの袖口の切り裂かれた跡を見て、もしやと思っていたが改めて聞くと怒りが沸い
てくる。
「……もうひとつ、確認したい事があります。……彼は今日の事、知ってたんですか」
「ええ……。あなたのスケジュールを聞いた時、話してしまいました。――でも、どうし
て?彼、心臓に持病は無いとあなた云いましたよね?それなのに、どうして呼吸が止まる
ような事に?それに――あの、アザ……」
アキラは唇を噛み締めてしばらく俯いていた。
そして、話し出した。
「――この事は、他言無用にお願いします」
いいですね、とアキラは鋭い目線で二人を見た後、頷くまで待った。そして、切り出し
た。
「彼は、『PTSD』を患っています―――」
息子の唐突な言葉に思わず二人は顔を見合わせて問うようにアキラを見た。
「――医師には診せていません。あくまで素人判断です。彼がボクにそう云い、ボクもそ
うだと思っています。それに――今日、医師にもその可能性を指摘されました」
「なぜ――」
「なぜ、医師にかからないか、ですか?コトは彼のプライヴェートに深くかかわります。
容易に人には話せません。医師でも、です――」
「………」
「――間違っていると云われるかも知れませんが、ボクはそうしようとは思いません。も
し…彼がそう望めば、別ですが…」
「……お前は、聞いているのか」
「ええ」
彼が全て、話してくれましたとアキラは呟く。
「呼吸が止まったなど、ただ事ではない。それでも、か?」
「―――はい」
「頑固だな」
「父譲りですから」
「……でも、アキラさん。本当にそれでも呼吸が止まるなんてタダ事ではないわ。今日は、
どうして……?」
明子はそう言いながらあの時の事を思い出してゾッとする。夫が倒れた時を連想して余
計に胸が痛くなる。
「――それは、条件が揃いすぎました…」
アキラは暗い顔で呟き、躊躇した後、言葉を継いだ。
「彼は、ここに、二度深いキズを負っています」
アキラはそう言って自分の胸を指した。
「一度目は、彼がプロになった頃、大切なヒトを亡くした時」
「そして二度目は3年前、ちょうど今頃です」
「一度目の時、PTSDに罹患したのを自覚したのは次の年になってからだそうです。そ
れから彼は自力で治す努力をし、事実症状はかなり軽くなったそうです。……しかし、そ
の癒しの最中さらに二度目のキズを負いました。――今回の事はその二つのキズが微妙に
複合して出た結果だと思います」
「もともと彼はここ数週間不安定でした」
明子はピクリと反応した。
「そして、日付、時間、場所が揃い、あるものがきっかけで発病した――」
ここでアキラは言葉を止めた。そして眉を搾って押し出すように一気に語った。
「彼の二度目のキズが、この時期、月違いの今日、あの時間帯にあの公園の噴水の側で男
たちにからまれ、財布を奪われた後、―――ナイフで脅され、レイプされたものだからで
す」
明子は蒼白になり、体がすくむ様にぶるぶる震えた。女だからこそ、レイプという言葉
が余計に生々しく感じられる。
「――幸い、未遂で済みましたが、それでもボクが駆けつけた時は酷い有様でした。彼の
受けた暴力は何も変わりません」
「――あなた、その場に、いたの…?」
明子は喘ぐように聞いた。
「……でも、遅すぎました。もっと、早く、駆けつけていれば…っ」
そう言って、アキラはその光景を思い出すようにギリギリ唇を噛み締めた。
「ボクが彼のPTSDの事を知ったのはこの事があった随分後になってからです。…彼は
ずっと一人でそれと戦っていたんです」
「もう、かなり、良くなっていると思っていました。ただ、根は残ってました。だからこ
そ、本当は彼はあの公園に入るのもイヤだったハズです…」
きっと、母さんだったからですよとアキラは切なそうに笑った。
「……それなのに、来てくれたの……?」
明子は色んな意味を込めてそう呟き、ハラハラ泣いた。
「この事は、彼の御両親は何も知りません。彼は知らせたくないと思っています。ですか
ら、お父さん、お母さん、二人共この事は胸にしまっておくだけにして下さい。お願いし
ます――」
そう言ってアキラは深く頭を下げた。