立待月
――5年目――
あの頃
佐為とオレはまるで片翼を分かち合った鳥のようだった
佐為の見たいものを一緒に見、オレの行きたい空へ一緒に飛んだ。
オレはおまえで、おまえはオレ自身でもあったから
だからか
佐為を失ってオレはバランスを欠いて失速して地に落ちた
片翼をもがれたオレは痛みにのたうちまわりうずくまる
他の鳥たちが空に来いよとしきりに誘う
だけどオレは飛び方を忘れてしまった
そしてひときわ目立つ鳥がオレの前に舞い降りた後、
挑発するように高く、高く、空を飛ぶ
飛びたいという思いが嵩じた時、側で羽ばたく羽音につられてオレは宙に浮かんでいた
それでも初めて自分の力だけで羽ばたくのに慣れずに空をふらつく
代わりに生えた翼はまだ弱く思うように自分の意志に従わない
ふらついて休息するたびにあの鳥が来て弱い翼の毛づくろいをする
そして飛ぶ、高く、高く、高く
オレはそれを追って必死に駆ける。遠くへ、もっと遠くへと
アイツはオレの体から離れられなかった佐為ではない
自分の翼で、自分の意志で自由に空へ駆けられる
今は一緒に飛んでいても望み次第でいつでも離れて違う地平へ飛ぶことが出来る
だから諦観と共に願う
いつまで
いつまで一緒に飛んでくれる?
塔矢――
1
「ただいまー!」
元気な声と共に勢いよく扉の閉まる音がし、バタバタ賑やかな足音が響くと同時に台所
に立っていたアキラの背中にヒカルが飛びついた。
「オレ、勝ったー!」
「知ってる。おめでとう」
あれ、何で?という顔をするヒカルにニュースで見たよと答えると、そっかーと照れ臭
そうに破顔する。
これでヒカルは本因坊戦挑戦手に大手を掛けたも同然になった。無敗同士だった倉田に
今日、ヒカルが土を付けたのだ。トップに踊り出たと同時に来期のリーグ戦残留は決定し
た。
ヒカルは挑戦者を取る気合マンマンだ。タイトル戦を奪ることにあまりこだわらないヒ
カルだったが、これだけは別だった。アキラも本因坊はヒカルが奪るべきだと思っている。
「夕食まだなんだろう?後、魚焼くだけだから着替えておいでよ」
「うん、サンキューな。もー、腹ぺこっ」
とヒカルはにっこり笑って身をひるがえした。
アキラはそれを見送りながらグリルに火を入れる。
ヒカルの対局中の集中力は並ではない。特に高段者との熾烈な戦いを繰り広げる時は対
局後は精も根も尽きたようにぐったりする。それもあって、その後は飲みに誘われても大
概断り、家に帰れる距離の時は直帰するのだ。
アキラは今回三次予選でヒカルに敗れ、リーグ入りすることは出来なかった。
悔しくないかというと嘘になる。とてつもなく悔しかった。しかし、死力を尽くしたせ
めぎ合いの末、文句のつけられない一手を放たれ、僅差で勝ちを奪い取られた。あの心躍
る盤面が終局した後、しばらく二人とも放心したようにぐったりした。外野が興奮したよ
うに検討を始めるのもしばらく耳に入らなかった程だ。深い深海の底から浮かび上がった
ように意識が戻ってきた時に、ふとヒカルと目が合った。彼も今気づいたというように目
をパチクリとした後、やわらかく微笑った。沁みるような微笑――、普段快活な彼が時折
見せる深い笑みだ。こんな時はきっと、カレを近くに感じたに違いない。ヒカルの心の片
隅に今も住んでいる大切な存在――それを思うとツキリと胸が痛むのを感じた。
ソレごと愛してるつもりでも、嫉妬が沸き起こるのは止められなかった。
「手伝うよ」
そう言ってスウェットの上下に着替えたヒカルが側に来た。
「じゃあ、そこの出来てる皿を運んでくれるかい」
「ん、わかった」
ヒカルは両手に皿を持ってテーブルを往復する。
アキラは手早くご飯を盛り付け、みそ汁をお椀によそう。そして最後にグリルの様子を
確認して魚を出し、器に盛った。後はこれが最後だったのでそのままテーブルに自分で運
ぶ。
「いただきまーす」
ヒカルはアキラが席に着いたと同時にそう宣言して旺盛に食事に取り掛かった。
今日のおかずは肉じゃがにホウレンソウ草のおひたしにみそ汁にアジの開き。失敗はし
なかったらしい、めでたい。
「今日のは生で見たかったよ」
アキラは食事をしながらそうボヤいた。生憎仕事が入っていて、叶わなかったのだ。
「後で棋譜を並べてやるよ」
ヒカルは欠食児童のようにおかずをかき込みながら答えた。
「あ、でも明日でもいいか?なんだか疲れたから今日は早く寝たい」
アキラは苦笑していいよと返した。集中力を出し切った後のヒカルはとにかく眠くなる
らしい。よくあることだった。
「倉田さん、どうだった?」
悪戯っぽく聞いてみると、ヒカルはニヤッと笑って答えた。
「すンげー、悔しそうだった。終わった後、しつこく検討に付き合わされたよ」
ヒカルはクスクス思い出したように笑う。
「でも、面白い布石だった。あの人との対局はオレ、好きだな。思いがけないトコに打た
れるもん。盤面でタップダンス踊ってるみたいだ」
楽しそうなヒカルにアキラは見れなかった残念な気持ちとその相手が自分じゃないこと
に悔しさが募る。まったく、ヒカルの事になると自分の狭量さにほとほと呆れる。
食事が終わって「後片付けはオレがする」と言うヒカルをいいから、とフロに入ってお
いでと追い立てた。食事の終わり頃には眠そうにしていたからだ。ヒカル自身自覚があっ
たのか案外素直に従った。
最後の皿をすすぎ終えて水道の水を止めた頃、コトンと背中に頭があたった。ヒカルだ
った。
「早いじゃないか」
「うん…。長く浸かるとフロの中で寝そうだったし…」
「髪、もう少しちゃんと乾かしなよ」
そう言って彼に向き直り、頭に被ったままのタオルを軽く引っ張って促しても、今度は
胸にポンと頭をつけてうんと云うばかりで一向にする気配がない。しょうがないなと言い
ながらタオルを奪い取ってポンポンと水分を取るようにヒカルの髪を叩く。口ではそう云
ってもヒカルがこうして甘えてくるのはアキラは好きだった。自分が彼の内側に許容され
てるという感じがするからだ。
あらかた乾いて、仕上げに地肌をマッサージするようにやわらかく髪を梳くとヒカルは
心地よさげにうとうとする。
「ほら、もう眠いんだろう。早く部屋へ行きなよ」
アキラは促すようにこれで終わりだと軽く頭をポンと小突いて合図を出した。
それでもヒカルはまだパフンとアキラの胸に懐いてくる。
やれやれとアキラは内心溜息を吐いてヒョイとヒカルの顎を持ち上げて軽く唇に触れ合
わせた。
「これ以上くっつかれるとこれですまなくなるよ」
眠いんだろう?と顔をのぞき込む。
ヒカルは閉じた瞼をゆっくり持ち上げてぼんやりした目でアキラを見つめた。
「ん…。眠いんだけど…神経が昂ぶってて…寝付けるか分かんないんだ…」
それはアキラにも解る。自分も心躍る一局を打った時は疲れていても、その上がりきっ
たテンションが中々冷めない。特に目の前の人物が相手の時は。そんな時は大抵その昂ぶ
りがそのまま性欲を伴なってヒカルにいってしまうんだが――
「だから…」
まさか――ゴクンと知らず息を呑んでいた。
「寝かせてよ…」
そう呟くヒカルの淡い瞳に眩んでアキラは貪欲に唇を貪っていた。
「…っ…フ…んっ…」
深いくちづけの合間に漏れるヒカルの吐息にますます煽られる。
さんざん深く嬲った後、ようやく離したヒカルの唇はぬめるように赤く光っていた。
「――――っ…ハ…ふ…」
ヒカルは喘ぐように呼吸を漏らし、既に膝に力が入らず腰をアキラに支えられてやっと
立っている状態だった。
アキラは片手をヒカルの瞼を覆うようにあてて、ヒカルのぷっくり腫れた唇を辿るよう
に舌で嘗めた。ヒカルの瞼が震えるようにピクリと反応するのを手のひらに感じる。
アキラはそのままヒカルの耳朶を軽く喰み、熱い声のまま囁いた。
「ベッド行こう…」
腕の中の身体がわずかに頷いた。
◇
気を失うように深い眠りに付いたヒカルの後始末をしてアキラはベッドの端に腰掛けて
やわらかくヒカルの髪を梳いた。セーブしようとはしたが、やはり少し無理をさせた。隣
で寝たいがまた火がつくといけないので今日はあきらめる。
ヒカルから求められる事は滅多に無い。それで余計に煽られた。
ヒカルは基本的に性欲に淡白だ。元々そういうタチなのだろう。一番ヤリたいざかりの
年齢にもそういう衝動はなかったようだし、話題も出れば付き合っていたらしいがさほど
関心がなかったらしい。その頃のヒカルの興味のベクトルは碁の方に一点集中していて、
他に気が向かなかったらしいのだ。
その点はアキラも似たようなものだったが、話題は兄弟子たちにさんざん吹き込まれた
おかげで知識だけは年齢不相応に豊富だった。
しかし、ヒカルも何も不感症なわけではない。現に女性との経験もあったと云っていた。
ただどうもそれは全部誘われたのに同意した結果だったらしい。
一人でいるのがイヤで繁華街で時間をつぶしていてナンパされた。しゃべっているだけ、
誰か人の気配を感じていればそれで良かったらしいのだが相手がそういう流れにもってい
ったから、なんとなくそうなっただけらしいのだ。
それを聞くと引っ掛かったのが女性で本当に良かった。ヒカルにそんなことを言えば何
バカ云ってると呆れられるか機嫌を悪化されるかのどっちかだろう。しかし、実際ヒカル
を抱いて思った事だが、彼は下手すると女性より余程感度が良い。自分の拙い女性経験か
らはそう感じられる。
だが、自分ではあまり自覚はないだろう。行為の間は感じていてもそれを積極的に貪ろ
うという気に乏しいからだ。女性との行為もどこか受身だったように、ヒカルには自発的
な衝動は殆ど無い。誘われれば受けるが、自分から要求することは滅多に無いのだ。
アキラ自身、自分もそういう淡白なタイプなのだと思っていた。ヒカルに恋愛感情を抱
いていると認識するまでは。それまでそっち方面にはとんと関心が無かった自分が、自覚
した途端どうしようもない衝動に日夜苛まれた。
初めてヒカルを抱けた時は自分がこんなに血が上って後先考えない行動をするとは思っ
てなかった。知識だけは持っていたがアキラが性交渉を持ったのはヒカルが初めてだった。
最初の相手が男だなんて自分は終わってると思おうとしても好きな相手を抱けた喜びで有
頂天になれた。それが刹那の幸福感でも。
ヒカルへの思いを振り切る為に女性と関係を持ってもそれはアキラを満たさなかった。
女性のやわらかな身体も、甘い香りも、ヒカルの薄くのった筋肉を感じさせるしなやかな
身体や、わずかに薫る体臭の方が自分をそそる。女性の甘い吐息や男を煽るように上げた
嬌声よりも、ヒカルの快感を耐える顰めた眉や殺そうとして漏れる喘ぎの方が自分を煽る。
女性の中に自分を解放するよりも、ヒカルの中に侵入した時の方が余程自分を感じさせた。
男も女も関係ない。自分はヒカルだから抱きたいのだ。ヒカルじゃないなら誰もいらな
い。
ヒカルも自分が好きだと言ってくれた。だから抱かれるのはかまわないと。
でも時々不安になる。自分からは要求しないヒカルが。ただ、求められるから了承して
いるだけではないかと。こんな関係は本当は求めてないのじゃないかと。
だからこそ、今日のヒカルからのリアクションに我を忘れたのだ。彼の些細な行動ひと
つで自分は呆れるほど心拍数を上下させられる。それは昔も今も変わらない。多分これか
ら先もそうなのだろうと感じられる。
2
一緒に暮らしていくうちに徐々に見えてきた事がある。
以前、頻繁にあった無意識のスキンシップ。それが昨年の5月、本妙寺で供養した後か
らだんだんと減ってきている。最初は分からなかった。はっきり認識したのは今年の春を
無事に過ごせた時だろうか。例年不安定だった眼がひどく静かな揺ぎ無い色をしていた。
夢も見なかったと笑って報告した。明るい快活なヒカルを見て、ひどく安心したと同時に
そういえば、と思い当たったのだ。去年の今頃は部屋で一緒に過ごす時は絶えず体のどこ
かしらを触れ合わせていたのに今年はそうでもなかった。相変わらずアキラの方から触れ
る時、ひどく嬉しそうなくつろいだ表情をする。しかし、ヒカルの方から触れてくること
は減ってきていた。それを指摘すると、キョトンとした顔をして呟いた。
「そうかな?」
その後、何やら思いついたような表情をして今度はバツの悪そうな顔をする。それに笑
って「いいんだよ」とヒカルを抱き込んだ。
「キズを癒すのに必要だったからいいんだ。いくらでもボクを利用すればいい。ボクはそ
れも嬉しいんだから」
そう、ささやく。
ヒカルは一瞬泣きそうな表情をしてうつむいた。
「―――ごめ…ん…」
細いかぼそい声だった。気にするなとポンポン背中をあやすように叩くと、キュッと強
く握り返してきた。
「……ありがとう……」
今度は少し強い声でしっかり目線を合わす。それに安心して潤んだ瞳にそっとキスを落
として、悪戯っぽくささやく。
「そのかわり、ボク以外の人にしたら許さないよ」
ヒカルはカッと顔を赤らめて胸をドンッと叩く。
「オレが触れたいって思うのはっ…おまえだけだ…」
プイッと顔を背けてそう言ってくれるヒカルに嬉しくなってキツク抱き締めた。
ヒカルを抉った一番最初のキズは随分癒えたようだった。
それでも見えないキズはまだヒカルの身体に色濃く残っていた。
まだはじめの頃、行為が済んだ後、二人ともそのまま泥のように眠った時があった。翌
日起きたヒカルが腹痛を訴えた。中をキレイにしないまま眠ったのが原因だった。
初めて知った事実と迂闊な自分にアキラは深く反省してこれからはゴムを使うと告げた。
しかし、ヒカルは強硬に反対した。
「イヤだ」
「でも、負担がかかるのはキミだよ」
アキラ自身、直にヒカルを感じたかったので本音ではイヤだったが、ヒカルの身体の事
を思うとそうもいっていられない。
「オレは女じゃない。避妊具は必要ない」
「でも、今日のようなことがあるんだから」
「シャワーを浴びれば済む。いらない」
「進藤…」
アキラは困って言葉が切れると、ヒカルがポツンと呟いた。
「ゴムを付けるときっと違和感がある。おまえだと感じられない方が…もっと、怖い…」
たよりない声でうつむくヒカルに言わせてしまったアキラは自分を罵った。
ヒカルをそっと抱き込んでささやく。
「わかった」
「…うん」
そっと握り返すヒカルをアキラはもっと強く抱き締めた。
ヒカルの二度目のキズは人に触れられる恐怖を引き起こし、一度目のキズは人に触れる
飢えを引き起こす。この正反対の欲求はアンビバレンス(二律背反)となってヒカルの心
をズタズタに引き裂く。タイトロープのような感情の綱渡りを重ねながらそれでもアキラ
の側に居てくれる。
アキラはもっと強くなりたいと切実に思う。
もっと自分に彼を支える力が欲しいと渇望した。
3
このところのヒカルは絶好調だった。
もともと長らくの不戦敗から復活してからは、ヒカルは確実に白星を上げていき、2年
目の絶不調から立ち直ってからの勝率は安定していた。ヒカルの急速の伸びはプロになっ
てからも相変わらずで、同期の和谷や越智、また当時似たり寄ったりの低段者たちに比べ
て頭一つ抜きん出て確実に昇段を重ねていた。
そのスピードはアキラを畏怖させると共に強く奮い立たせた。真っ直ぐ自分めがけて突
き進んでくるヒカルの姿に満ち足りた思いと甘美さえ感じたくらいだ。
そのヒカルの棋風が昨年5月の気持ちのケリが付いた後から徐々に変化していった。
もとからヒカルは歳のわりには手堅い老練な打ち方をしながらスキを見逃さず、一転怒
涛の攻めをする。また読みが深く、一見悪手に見える手をいつの間にか巧妙な良手に変え
てくる手腕は並外れだった。
それが一皮むけたというか、タガが外れたというか、それまでの打ち方を残したままで
今まで見た事も無いような棋譜を次々編み出していった。
ヒカルがもともと対局自体を大切にするタチで、負けるのは悔しいがそれでも勝敗には
あまりこだわらない方だというのはアキラも知っていた。自分も似たところがあるからだ。
しかし、それに拍車をかけたようにもっと純粋に盤上の石の軌跡を楽しみだしたようだ。
対局中でもふと思いついた布石を試すのに熱中するあまり、いつのまにかケリがついてい
たのに気づかず、「あれ、オレ負けたの?」と呑気にのたもうて相手を絶句させる事があっ
た。そうかと思うと鮮やかな石運びできっちり相手をやり込め、周囲の驚嘆も興奮も耳に
入らないように満足そうに盤上を見つめてにっこり無邪気に笑う。
ヒカルのその独創的で斬新な打ち込みは特にアキラとの対局の時に冴え渡り、対するア
キラもそれに答えるように名局といわれる棋譜を二人で編み上げる。これを見たさに二人
が対局する時のギャラリーはウナギ登りに増えていった。
このときすでにアキラはもちろんヒカル自身も三次予選、リーグ戦の常連になりつつあ
った。
そしてこの頃からヒカルは『新手の進藤』『本因坊秀策の再来』『棋譜のウィザード』と
いう通り名が浸透するようになった。
本人は眉を顰めるが、アキラはむしろ当然だとさえ思う。カレの弟子だということを抜
いても、ヒカルの繰り広げる目新しい棋譜の数々はアキラを唸らせ、追い付くどころか追
い越される日も遠くない事を戦慄と共に自覚させられる。それほどこのところのヒカルの
伸び、いや進化は群を抜いていた。
それにヒカルの暗譜力はひそかに知られていたが、それを決定づけたのはある日の棋院
の出版部でのことだった。
その頃アキラとヒカルはまだそれほど親しくはなかった。ただ、ようやく念願の対局を
果たしてからはそれなりに普通に会話が出来るようになっていた。
その時出版部にいたアキラはめずらしく天野氏と雑談を交わしていた。そこに進藤がた
またま飛び込んで来たのだ。
何かの拍子にパソコンの話になり、アキラがそれで棋譜整理をしていると話した時に進
藤が妙に感心していた。昔(何年前かもきっちり覚えているが)ホームページを覗いてい
た姿を思い返し、
「キミ、パソコン使えるだろう?していないのか」
と話を振ってみると、首を振ってヒカルは答えた。
「オレ、持ってない」
「そうなのか?それじゃあ、手書きだと整理が大変だな」
ヒカルは一拍おいた後、恐る恐る聞いてきた。
「――それって、しなくちゃいけないのか…?」
「しなくちゃいけないというか…した方がいいだろう?今後の参考にもなるし」
ねえ、と天野氏に目線をやるとうんうんと頷く。
「頭で覚えとくだけじゃだめ…?」
「しかし進藤くん。最初はともかく、今はかなり対局数をこなしているだろう?そうする
とさすがに全部は覚えられないだろう。小まめに棋譜を書き起こしといた方が良くないか
い」
「全部覚えてても?」
「「……え?」」
「一手目から全部言えるよ?今まで対局してきたヤツ」
天野がクルリと塔矢の方を見た。それにアキラはブンブン首を振った。
「それは…ボクも印象に残ってる棋譜ならソラで言えますけど…今までの、全部…?」
「うん」
ヒカルは真面目にコクンとうなづいた。
二人は試しに用紙とペンを渡し、プロ後初対局を皮切りに次々聞いていった。ヒカルは
さすがに日付や相手をよく覚えていないところがあったが、この日こういう事があったと
水を向けてみると、ああ、アレと思い当たったように次々埋め込んでいく。その作業は淀
みがなく、いささかの躊躇もなしにすべらかにペンを早い速度で動かす。ヒカルが腕が疲
れた、もう飽きたと言った頃にはかなりの量の棋譜が書き上がっていた。
天野はその山に唸り、アキラは貪るように棋譜を追っていた。
「そんなんどうでもイイじゃん。どうせならもっと面白い棋譜の話をしようよ」
ヒカルはそう言うとサラサラ一枚書上げた。
「それは…」
「塔矢くん?」
「父が最後に打った緒方さんとの十段戦最終局…」
「うん。面白いよなー、ここでこんな手打ってくるなんてワクワクする」
「キミは…もしかして自分と関係ない棋譜も覚えているのか?」
「え?塔矢もそうだろ。さっき、興味のある棋譜ならソラで言えるって云ったじゃん」
それはそうだが、量が違うだろうと内心突っ込む。
ここまで記憶の引き出しを自由に開け閉め出来るのに、どうして勉強が苦手だと言える
んだ?数学なんて数式さえ覚えれば後はパズルを当てはめるように解けるハズだし、英語
だって歴史だって大方は記憶力さえあれば学校教育のあらかたはクリア出来るハズだ。い
つか勉強が嫌いだとグチッていた事を思い返しグルグル考える。
「ああ、じゃあ、本因坊秀策の棋譜も覚えているのがあるのかな?そういえば前に資料室
で進藤くんに見せたって云っていた人がいたよ」
そこでいきなり進藤の顔が曇ったのを訝しく思いながらも好奇心に負けて尋ねた。
「いつのことです?」
「えーと、そう、確か彼が不戦敗で出て来なくなる前だよ。ゴールデンウィークの時!子
供にせがまれていたのに仕事でいけなくてムクレられたって嘆いていた時に聞いたんだ」
天野は思い出すのに必死になっていてヒカルの様子には気づかない。
「時間がなくってゆっくり見せてあげられなかったと云っていたけどどうだった?その時
初めて見たんだって?」
「…はじめて…?」
アキラは訝しく思う。彼の手にはあきらかに秀策の色があるのに。
「またいつでも見せてあげると云っていたよ」
ヒカルは俯いたまま呟いた。
「もういい…」
「え?」
「いいです。オレあれから本も買ったし、もう全部覚えたし」
「ハア?」
「全部…覚えた?」
天野とアキラはまた顔を見合わせた。
「あれって…確か400くらいあったハズだけど?」
「そうだっけ?でも何度も並べたし、もう見なくてもいいから」
彼がそう言うからには本当に覚えたんだろう。しかしそれにしたって…と2人は空恐ろ
しくなってゴクンと息を呑んだ。
天野はそろそろと机を引っ掻き回し、本を取り出した。
「進藤くん、ちょっといいかな。今読み上げるから、続き言ってみてくれるかい?」
天野は適当にページを繰り、最初の十数手ほどを読み上げた。
その後をヒカルは次々順番に手を言い続ける。とちることはない。
天野とアキラは目を皿のように棋譜を見つめ、確認した。
「――あってる…」
天野はうめくように呟いた。えんえんと続ける進藤にアキラはストップをかけ、また違
う棋譜を読み上げた。
黙って聞いていたヒカルは声が途切れたところで続きを言う。
何度か繰り返したそれらは全てあっていた。
帰り、珍しくアキラとヒカルは駅まで一緒に歩いた。遅くまで出版部にいたので、すっ
かり辺りは暗くなっていた。
もうすぐ改札が見える所でアキラが呟いた。
「キミは…凄いな…」
「――え?」
「プロ後、初めて対局した時も思ったけど、ボクが一番怖いのはキミだ。緒方さんでも、
倉田さんでもない。一番の強敵はキミだ。だけど、打っていて一番楽しいのもキミなんだ」
「――塔矢…」
ヒカルはびっくりしたように見つめた後、嬉しそうに笑った。
「また、戦いたいな!」
「ああ」
「今度こそ、おまえに勝ってやる」
「そう簡単に追い付かせないさ」
二人とも不適に笑った後、別れた。
この時のヒカルの棋譜はアキラが密かにコピーをとり、手書きの方を手元に持ち帰った。
そして自宅のパソコンに別枠を設けヒカルの棋譜をインプットした。直筆は今でもとって
ある。
そしてこの事は密かに出版部内で語り継がれた後、いつしか外部にも漏れ、棋士の間で
も知れ渡った。このパソコンいらずの脅威の暗譜力と鮮やかな打ちまわしから『ウィザー
ド』という異名がついたのだが…。
出版部では危機の時、念仏のように唱えられる言葉がある。
大切なタイトル戦の途中経過を知らせる棋譜を紛失して記事が書けなくなりそうな時。
年配者が多い棋院職員がおっかなびっくりパソコンに触って棋譜をあやうくデリートさ
せそうになった時。
『大丈夫、進藤君がいてくれる』
願わくば失くす棋譜が彼の興味を惹くものでありますように――が合言葉になっていた。
4
遅く帰ったアキラは静かに玄関のドアを開け、靴を脱いだ。
廊下のライトが点いているが室内はシンと静まり返っている。ヒカルは寝たらしい。
今日は地方で対局があった。
今日中に帰るとはヒカルにははっきり告げていた訳ではない。アキラ自身、どうなるか
分からなかったからだ。ただ、深夜でも帰れそうなら戻るつもりだった。今日はアノ日だ
から。
アキラはそっとヒカルの部屋を覗いた。
お互いカギを掛けない習慣なので、ドアは他愛もなく開く。やはり尾灯が点いている。
足音を立てないように静かに近寄り、うっすら浮かぶヒカルの寝顔を見る。特に寝苦し
そうにはしていない。一度熟睡すればヒカルは滅多なことでは起きない事を知っているの
で、アキラはベッドの端に体重をあまりかけないように浅く腰掛けた。
そしてヒカルのこみかみを軽く撫で、髪を梳く。寝息は相変わらず安定している。
あらわになった耳のピアスが僅かな灯りを受けてキラリと光った。これは新年早々髪を
切ったヒカルがこれもハズそうかなと言っていたのをアキラが止めた。『似合っているか
ら』という言葉で。事実そう思ったからなのだが、ヒカルは一拍おいた後、わずかに頬を
染めて承諾した。今年の誕生日は違うピアスでもプレゼントしようか、メッシュの前髪に
合わせて金が良いだろうかとぼんやり考える。
同居を始めて、何ヵ月後かに訝しく思った事がある。
ある決まった周期に現れる異変。
ヒカルは普段寝る時、真っ暗な中で眠る。明るいと寝付けないと云って。
それなのに尾灯を点けて眠る時があった。いや、それどころか居間の電気も廊下もトイ
レも点けっ放しなのだ。最初は単なる消し忘れだと思っていた。気づいた時は寝室はとも
かく、他の所は消してまわった。しかし、翌日起きた時、電気はまた点いたままだった。
ヒカルに聞いても覚えていないと云う。寝ぼけていたのかなとその時は笑い話で済んだ。
しかし、気づけばそれは翌月も翌々月もそんな事があった。さすがに変だと思って次に
そんな事があった時は注意していた。
そしてその夜。その日は一緒に眠っていた。隣の塊がゴソゴソ動いて目が覚めた。遠く
で水の流れる音がする。トイレに行ったらしい。ドアが開いて灯りが差し込む。ヒカルが
隣に潜り込みすぐ寝息を立てて眠った。熟睡したらしいのを確認してソッと起き出した。
寝室を抜け出ると案の定電気が点けっ放しになっている。居間も廊下もトイレもだ。一度
消したのに。思案しながらグルリと室内を見たとき、カレンダーが目に付いた。そしてド
キリとした。
今日の日付、それは月こそ違うがヒカルが二度目のキズを負った、アノ日だった。
まさかと心臓がドクンと鳴った。
さらに翌月アキラは待った。その日になるのを。そして結果は――
ヒカルは自分の行動を覚えていない。
すべて無意識のことだった。
アキラは痛ましい想いと共に理由が判った気がした。この日の夜、ヒカルは襲われた。
ヒカルは暗い闇が怖いのだ。それは思い出したくない記憶を誘発するから。
アキラは何も云わずにヒカルの好きにさせた。
これはきっと必要な事なのだ。無意識に自分に触れる事で心のキズを癒したように、こ
うする事でヒカルは心のバランスをとろうと無意識が反応しているのだろう。
あの頃に比べるとヒカルのキズは少し塞がったようだ。
以前は全体に点いていた灯りが一つ消え、二つ消え、今では寝室の尾灯だけになってい
る。
だけど、今日は廊下の灯りが一つ増えている。
うぬぼれでなければそれはきっと、自分の不在の為だ。同居を始めてから、この日付の
夜、アキラが部屋にいないのは今日が初めてだった。
アキラは優しくゆっくり髪を梳き続け、軽く前髪をかき上げあらわれた額にそっと唇を
落とした。
複雑に重なった2種類のキズはヒカルの心を癒えにくくしたようだが、それでもいつか
きっと治る。ヒカルの精神はしなやかに強い。それはアキラが良く知っている。
それでも一度深く抉られたキズはきっと薄い跡となって残るのだろう。自分はそれごと
愛せば良いとアキラは再度心に誓った。
◇
この年の夏、碁界は異様な熱気に包まれた。
わずか18歳の挑戦手が2名も出現したからだ。塔矢アキラと進藤ヒカル。両名共まだ
誕生日を迎えていない。
皆がかたずを呑んで注目していた。
本因坊挑戦者となったヒカルは若干18歳、まだ6段の若造が桑原本因坊を引き摺り下
ろせるかとこの時記事にされたが、7番勝負までもつれこみながらも奪取には至らなかっ
た。
そして、アキラは初タイトルを奪取した。まだ7段、若干18歳の若手がタイトル保持
者となったのだ。これはトップニュースに流れ、塔矢アキラ新碁聖という名の2世棋士の
存在を世間は認識した。
それからまた、ホットなニュースが流れた。
進藤ヒカルが早碁の大会で、タイトル保持者となったアキラを押さえ、優勝を決めたの
だ。
この実力が拮抗した同い年の若手棋士2人は見目の良さも手伝って、にわかに世間の知
るところになった。そしてこの頃から碁関係以外の雑誌からも徐々に取材を受けるように
なってきたのである。
2人のメディアの流出はこの年から始まったのだ。