風紅葉下 1




 「おらおらっ、邪魔だ、邪魔だっ、どけ!小僧っ」
 乱暴に背中を小突かれた虎次郎は勢いを殺せずに思わずその場で転んでしまった。
 そのままぶつかった男は天秤棒を担いだ姿で振り返りもせず足早に去ってしまう。
 それでなくても人で賑わったこの河岸ではいつまでも転がっていたら小さい虎次郎など踏みつけられてしまいそうだった。
「やれやれ乱暴なもんだ、これだから魚売りってぇのは…」
 そんな声が頭の上で聞こえた。
「大丈夫かい」
 そう言いながら虎次郎が立ち上がるのを手を貸してくれた者が居た。
 そして手から離れた手荷物をほこりを払って渡してくれた。
「かたじけのうございます」
 虎次郎はそう言って親切な行きずりの者に感謝の言葉を述べた。
「なに、気にしなさんな。坊主、さっき着いた南航路の船から降りてきただろう?小さい坊主の旅装なんて珍しかったから目立っていたよ。あんた、西の何処から来たんだい」
「因島という処からです」
「あん?どこだ、そりゃ?」
「備後の下にそういう島があるのです」
「へえ?あいにくオレは教養がなくてね。さっぱり分からん」
「いえ、いいのです。小さな島ですから」
「すまねえな。それからさっきのアレ、大目に見てやってくんな。あいつらはいかに新鮮な内に売りモンの魚をさばくかが勝負だ。売れなきゃおまんまの喰い上げだからな。荒っぽい奴等ばかりだが、悪気はねえんだ。着いた早々嫌な思いをしたかもしれねえが、せっかく来たんだ、これで江戸を嫌いになったりしねえでくれよ」
「いえ、気にしていません。ぼんやりしていた我も悪かったのですから。お心遣い、礼を申します」
「こりゃ、しっかりした坊主だ。それに鷹揚だな。あんた、きっと将来大物になるよ」
 そう云って愉快そうに豪快に笑った男は虎次郎の肩をバンバン叩いてじゃあなと告げてその場を去った。

 それに軽く礼をして見送った虎次郎に声が届いた。
 
―――虎次郎!路銀は無事ですかっ?
 
 それに一瞬きょとんとした虎次郎は佐為の顔を見、次の瞬間にはハッとして慌てて袂を探った。
 懐を覗き、着物を叩いて探ったが、無い。
「…しもた」
 青くなる虎次郎を見て佐為もはあ〜と袖で顔を隠した。
 虎次郎は江戸に着いた早々親切な男に路銀を掏られたのである。
 虎次郎の初江戸入りは波乱含みで幕が上がった。


◇ ◆ ◇


結局虎次郎はすきっ腹を抱えたまま、ひたすら徒歩で父者の住まう42万6千石の大藩である広島藩主浅野家の下屋敷の武家長屋に辿り着いたのである。道中散々迷ったせいもあってもう暮れ六つになろうかとしていた。
虎次郎はまず正座をして居住まいを正し、到着の挨拶をした。
「父上…久しゅうございます。ただ今着きましてございます…」
そう奏上したかたわらでグーと盛大に腹の虫が鳴った。
「よう、参った。立派に挨拶が出来るようになったな。まずは夕餉にしようか」
 桑原輪三はすました顔で言った後、顔をゆるめた。
 その隣で長子の兄者が遠慮なく笑った。



親子三人でささやかな食事を囲み、道中の話をした。
「ほう、そうか。堺から樽廻船に乗れたか。それで早かったのだな」
「はい、浅野公と橋本吉兵衛殿が便宜を図ってくれたそうです」

 橋本吉兵衛というのは加登灰屋(かどはいや)という号を構える尾道の豪商である。
 虎次郎は6歳の頃に尾道の秋祭りに行った。
 そこで母者の本家の商家と取引がある、大紺屋の渡橋源兵衛と後に虎次郎の後援者として奔走してくれる橋本吉兵衛とが対局しているのを熱心に観戦して動かなかったのである。
 年端の行かない幼子が飽きもせず大人しく見ているのを興じがった橋本が試しに九子置かせて打たせたところ、とても初めて対局したとは思えない手筋に驚き、この時から絶えずこの少年を気にかけることになる。
 虎次郎はそれまで家にあった碁石をいじって遊んでいたことはあったが、自分で石を置いたことはなかった。母者がたまに石を並べていたのを見ていたくらいである。
 それがこの対局をきっかけに母者に碁を教えてもらうようになる。
 そしてその翌年には橋本相手に今度は四子で打っている。
 上達の早さに舌を巻いた橋本は大いに虎次郎を将来有望な少年だと太鼓判を押し、この初段の腕前を持つ加登灰屋のお墨付きの話はいつしか安芸広島藩浅野家の分家筋にあたる三原城主の元にも届き、手合わせするきっかけとなる。そう、当時は本職だろうと市井だろうと実力に開きはない。初段なら等しくその実力を持っているということなのだ。
そしてこの第10代三原城主浅野甲斐守忠敬は虎次郎の腕にいたく感心し、当時この地方でかなりの棋客と知られた竹原の葆真和尚を紹介したのである。

「しかしそれなら路銀はまだ余裕があったのではないか?その喰いっぷりだとまるで今日初めて食事をしたように見えるが…?」
兄者が素朴な疑問を述べれば、
「それに…寺西隆徳様が先触れで知らせて下さった文だと江戸湊に着いたのは明け三つだと書いてあったが…そのわりにはここに来るのが遅かったの? 心配しておったぞ。御一緒ではなかったのか?」
 父者も不思議そうに尋ねてくる。
 虎次郎は焦って思わず傍らの佐為を見上げてしまった。
 その彼は着いた早々物珍しそうに長屋の内部をひとしきり感嘆した声を発しながらきょろきょろ見ていたが、今はにこにこして父上と兄上に対して座っている。
 ―――助けになりそうな知恵は貸してくれそうになかった。
 虎次郎はいけない、こんなことを神様に頼ろうなんて心得違いだと首を振る。
「そ、それは…その、寺西様は殿様の所要で寄る処があるとおっしゃっていたので湊で別行動をとったのです。その後にその…」
虎次郎は一度箸を置き、居住まいを正して、顔を赤くして河岸での顛末を消え入りそうな声で語った。
聞き終わった輪三は息子が緊張した様子で下を向いて平伏しているのをしばし見つめて静かに口を開いた。
「―――虎次郎」
「―――はい」
「盗みはいかにも悪い事だ、その者は罪深い。……が、わかっておろう?隙のあった、そなたも悪い。」
「はい」
「…我が家は武士というても家格は低い。禄も僅かだ。次男のおまえには継がせるものとてない。おぬしはすでに桑原の名を捨てて安田姓を名乗っておるが、それでも武の心を忘れてはいかん。刀を捨ててもお主の目指すものは勝負の世界なのであろう?畑は違えぞ、戦なのは同じこと。真剣勝負の世界であろう。それならば、心も鍛えねば、いざという時ものの役には立たぬぞ。そして人を見る目も養わねば。お江戸のように人が多ければその分不心得者も増えるのだから。いつまでも故郷にいる時のようにのんびりしていてはいかん、判ったか」
「―――はいっ」
 虎次郎は生真面目な顔をして父の目を見て頷いた。
 それを見届けて輪三はくしゃりと相好を崩した。
「ふ、ふっ。しかし災難だったな。ああいった湊には馴れぬ旅人を親切づらして食い物にするような胡散臭い者も沢山おるのだ。まあ、それだけで済んだのなら良いほうだ」
「面目次第もありません…」
虎次郎は思わず小さくなってそう呟いた。
それが合図だったように吹き出した様な笑いが父と兄から漏れ、中々笑い止まない。
それに囲まれて虎次郎は赤い顔をしたまま憤慨すればいいのか笑えばいいのか非常に困ったような支離滅裂な情けない表情になり、それを見てさらに二人はこらえられないように爆笑し、とにかく無事に着いて良かったと笑った。
これで今まで面識が乏しかった為に多少ぎこちなさがあった三人の空気が非常に親しみのある和やかなものになった。


「ところで囲碁の修練の為に江戸に参ったのだろう?」
「はい。葆真和尚様と浅野公が本因坊家への紹介状を書いて下さりました」
「そうか。ここから通うのか」
「いえ、もし先方で許して下されば住み込みで弟子入りしたいと思っております」
「そうなのか?ここからでもいいのではないのか?」
「公がせっかく遊学の機会を設けて下さったのです。その期待に報いなくてはいけません。その為にも是非。ここにいるとどうしても甘えが出てしまいます」
「そうか…そうだな。忠敬様の面目が立つように精進してくれ、虎次郎。…いや、すまぬ。改名したのであった。…栄斎と呼ばねばならぬな」
 それに虎次郎は居心地悪そうにもじもじして頬を赤くしながら奏上した。
「いえ…あの、父上…。もし良ければ今だけでも虎次郎と呼んでくれませぬか。…改名したとは申せ、郷里の者にも虎次郎と呼ばれ馴れておりましたのでどうも未だに落ち着きませぬ」
 だがそれだけではない。始終側にいる佐為にも虎次郎の方で呼ばれているのでいつまでたっても馴れないのだ。

 実は虎次郎は葆真和尚に師事するにあたって、宝泉寺の僧籍に入ったことに建前上なっているのでそれらしく改名した。三原城主浅野公の心配りだったのだが、苗字も武家から出たことにして、母者の実家の安田の姓を名乗る事になったのだ。もともと母、かめの本家の安田家はその三原の地に縁が深く、代々庄屋でもあった上に手広く商いもしていた。かめの実家はそこの江戸での出先支店なのだ。
 虎次郎は形の上ではこの安田家に養子に入ったことにして『安田栄斎』を名乗っていたのである。
 それというのも因島から毎日竹原に通うのも幼いのだから大変だろうと、安田本家のある三原から通えるようにした方がよかろうとの便宜だった。三原の安田家も殿様のお声がかりという事もあって快く承知したのである。

「そうか、その方がわしも助かる。どうも栄斎だと他人を呼んでいるようでなあ」
 と父者も兄者も一緒になって笑った。
「そうじゃ、明日は本因坊家へ行く前にかめの実家に挨拶に参ろう。寺西殿にはお許しを頂いてある。一応安田の養子に入ったことになっておるのだからな。江戸に来て挨拶も無しという訳にもゆかぬじゃろうて。それになにより孫の顔見せもせねば義父上にも義母上にも何と言われるか分からぬしのう」
 そう愉快そうにからから父者は笑った。
 いつのまにか故郷の訛りまじりになっているのに、虎次郎は懐かしそうに微笑んだ。耳に馴染んだ言葉は故郷に置いてきた昔馴染み達を思い出させる。



明日は早く出るからと早めに床に着く。
狭い長屋は三人で寝ようとすればたちまち一杯になってしまう。
折り重なるように寝床を敷き詰めてすし詰め状態で眠る。それでもまだ虎次郎が小さいからマシな方なのだろう。布団だって虎次郎用に急遽借りてきてくれたのだ。

父者と兄者はすぐ寝息を立ち始めたが、虎次郎はまだ初めての将軍様の居るという江戸入りの興奮が抜け切らない。しきりに寝返りを打つが中々寝付けない。
それを見かねたのか、佐為が話しかけてきた。

―――虎次郎の父上も兄上も優しそうな方ですね
それにかすかに嬉しそうに虎次郎は笑った。
―――我もそう思う。本当はちょっと心配だったんだ。…だって別かれたのは随分小さい時だったから、父上も兄上も顔がおぼろげだったし…。我のことも分かってくれるか自信がなかった…。だからちょっと緊張してたんだ、本当は。でも、良かった…
虎次郎は照れくさそうに布団に顔を埋めた。
佐為は微笑む。
―――離れていても外浦の母御と頻繁に文のやりとりをされていたのでしょう?距離があっても寄り添う心もあるのですよ、きっと…
その言葉をくすぐったい思いで虎次郎は聞く。
―――明日は初めて母上殿のお祖父様とお祖母様をまみえるのでしょう?どんな方達なのでしょうね。かめ殿のように囲碁がお好きなのでしょうか。楽しみですね
佐為の鈴の転がるような柔らかい口調が子守唄のように虎次郎の耳に響く。
―――う…ん…
とろとろと眠気が襲いながらかろうじて答える。
しかしじきに完全に眼が閉じて語尾が途中で口の中に消える。虎次郎が寝息を立てていた。
それを優しげに見守り、佐為自身も自然に意識が拡散する。
―――おやすみなさい、虎次郎…
その言葉を最後に佐為の意識も完全に途切れた。


◇ ◆ ◇


 翌朝、虎次郎は小さな土間から聞こえる物音で目が覚めた。
「すみません、兄上にそんなことをさせるなんて」
「いいのだ、虎次郎。男所帯なのだから武家長屋に住まう者ならこれくらい誰でもする。妻子を故郷に置いて江戸勤めしておる者も多いしの」
「しかしそれなら私がしなければ…」
「なんの、普段は母上にやってもらっておったのだろう?これでもやりつけぬと面倒だぞ。馴れると何とかなるものだが。いいから座っておれ。おぬしも長旅で着いたばかりで身体もこたえておろう、ゆっくり休まぬか。今日は安田のお祖父様とお祖母様に挨拶を済ませたらそのまま本因坊家に出向くのであろう、しっかり体力をつけなくてはな」
 そう話しながら兄は手際よく青物をきざみ、囲炉裏にかけた鍋の様子を見る。沸騰したお湯の中にさっと青物を流し入れ、甕から味噌らしきものを一掬い落とし込む。そしてゆっくりかき混ぜるとたちまち良い匂いが立ち込める。
 それになんとなく不思議な心地がする。よく知っているわけではないが、母者が普段汁を作る時はもっと手間をかけていたような気がするのだ。
 その視線を敏感に感じ取ったのか兄は笑って説明した。
「この味噌はの、あらかじめお湯に流し込むだけで御御御汁(おみおつけ)になるように下味を付けてあるのだ。江戸にはこういう便利なものがあるのだぞ?」
 悪戯っぽく兄は笑う。
「普段はこれだけなのだが、今日はおぬしが来たから特別に青物入りじゃ。おかげでわしは久しぶりにご馳走じゃな」
 くっくと笑ったところで父の声がした。
「さあ、御飯が炊けたぞ。朝食にしよう」
 外にあるらしい共同竈から父がお櫃に入れて持ってきたらしい。ますます虎次郎は恐縮した。一番年少の自分が何もしないというのはなんとも落ち着かない。
 二人はかまわず朝餉の準備をする。
「さあ、食べよう」
 そう言って父が差し出した茶碗を反射的に受け取って虎次郎は目を丸くした。
「白い…ご飯ですか?」
 虎次郎にはとんでもないご馳走に思えた。郷里ではアワやヒエが混じったものが普通だった。全て白いご飯というのは初めて見た気がする。
 父は笑って説明する。
「江戸内では米余りなのだ。将軍様のお膝元でもあるから全国から米が来るしの。誰でも皆、銀シャリを食べる。例外は飢饉の時くらいじゃな」
 まあ、あれも全く無いといわけでもなく、たちの悪い仲買人が米の高騰を狙って隠匿する者が出るからでもあるのだが…。と嘆かわしいように父は呟く。
 それに耳を傾けながら虎次郎も手を合わせて箸をとる。
 湯気が立つ炊き立ての真っ白いご飯に出来たばかりの青物が浮いた御御御汁にたくあん。ささやかなようでもご馳走だった。

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