どうやってかぎつけたのか。
カノンがホテルから出てきたとき、そこには腕を組み仁王立ちになったひよのがいた。
その表情は険しく、背後にそびえる業火のごとき光背まで見えそうだった。
ひよのは無言で、背後のタクシーを指差す。
カノンが逆らわずに乗り込むと、つづけてひよのも乗り込んだ。
「……どこへいくのかな?」
その質問に答えたのは、カノンへの返答ではなく、タクシーの運転手に行き先を告げる声だった。
ひよのが目的地として告げたのは、彼女の家の住所である。
やれやれと、カノンはソファに身体を沈める。怒っているらしい少女を、人前で激発させるのは得策ではない。家に着くまで黙っているのが良だった。
ひよのは家に着くと、防犯システムを解除して家に入る。
この家と契約している有名な警備会社は、家に入るのに鍵とパスワードを必要とする。
ひよのは玄関先で、くるりと身体を回してカノンに向き合うと、言った。
「手を出してください」
差し出した手に落とされたのは銀色。
「この家の鍵です。パスワードは……何度かカノンさんの前で解除したので、カノンさんなら憶えているかと思います」
早口で言い切って、彼女はすたすた前へと進んでいく。
それを追って、カノンはダイニングでやっと話しかけた。
「これは受け取れない。無用心にすぎる」
「カノンさん、ちょっと失礼しますね」
にこやかな笑みに戦慄が走った―――と同時に繊維が裂ける音がした。素肌に、外気があたる感触。
カノンのシャツのボタンを引きちぎって、ひよのはカノンの上半身を剥き出しにした。
「……キャー襲われるーっていうべきなのかな、ここは?」
カノンの肌に残された痕跡をたどるひよのの手の感触が、くすぐったい。
少女の手は、お世辞にも綺麗とはいえない。パーティのときも手袋をはめていたが、彼女の手は白く細く、火傷や切り傷が無数にあり、無数の薬品を扱う関係上だろう、荒れていた。貴婦人の手と呼ばれる、美しいだけの飾りの手ではない。
自分で自分の糧を稼ぎ出し、自分の面倒を自分で見ている労働者の手だった。
カノンの戯言を完全無欠に無視し、ひよのはぼそりと一言。
「……腹立ちますね」
「ごめんね。でも……」
「僕にとって大したことじゃないよう、なんていったら、再起不能にしますよ」
黙った。
「……信じがたいことなんですが。結構、本気で、腹が立ってるみたいです。わたし。あなたに助けられたこととか、あなたが私の意志を綺麗さっぱり無視したことだとか、助けられたことにほっとしてしまっている自分がいることだとか、―――あなたが身代わりになってくれてよかったなんて思っている自分だとかに」
カノンは賢明にも黙っていた。
助けて怒られるのは割に合わないという気持ちは正直あるが、なんせひよのが拒絶するのを力ずくで強引に奪い取り、勝手にカノンがやったことである。ひよのの意思を無視したのは事実で、怒られるのはしょうがないし―――ひよのが最も腹を立てているのは自分自身なのだから。
「どうして……あなたは私が助けて欲しいとき、いつもいてくれるんですか」
台詞とは裏腹、苦いものを吐き出すようにひよのは顔をそむけて吐き捨てる。
「歯、食いしばってください」
殴られるかと、覚悟しつつ閉じた目。
やってきたのは拳でも蹴りでもなく。

唇に重なった柔らかい感触。―――まさか?
急いで目を開くと、ひよのは真っ赤な顔でカノンを睨むようにしてみていた。
「い、いっときますけど! 感謝とか罪悪感とかそういうのじゃないですからね! 誤解しないでくださいよ!? 誤解したら怒りますからね!」
カノンの鈍った頭が意味を理解するまで、すこしかかった。
「……それ、君が僕を好きだと解釈していいのかな?」
「いいんじゃないですか」
ぶっきらぼうにいって、顔をそむける態度に、ようやく実感がわいてきた。
「……ひよのさん」
振り向いた顔をとらえ、カノンのほうから口づけた。
「ん……っ」
長い間見てきた愛しさを、注ぎ込むようにキスをした。
結崎ひよの。彼女とキスをしていると思うだけで、身体の芯が熱くなる。
ずっと想ってきた少女と想いが通じた現実はふわふわとして実感がない。自分が見ている都合のいい夢でないと、誰が言える?
その現実を確かめるために、彼女に触れたかった。
最初カノンを押しのけようとした手が力を失い、抱きしめているのと大差なくなる。
カノンが唇を離すと、ひよのは上気した顔で見上げてきた。
いきなりなにするんですかとか、突然すぎるとか、言いたいことは山ほどあったに違いないが、ひよのはそれらを飲み込み、数秒の間のあとこう言った。
「……キス、上手いんですね」
「好きになったのは君だけだよ」
ひよのが気恥ずかしげに目を伏せる。長い睫毛が繊細に震える。
その目元に唇を落とすと、声が聞こえた。
「カ、ノンさん……」
煽っているとしか思えない、震えながら消えていく声。切なげな響き。
「わかってる……これ以上何もしないから」
「カノンさん、かがんでくれます?」
言われたとおりにすると、ひよのはカノンの顔を両手でつつむ。
茶色の瞳と緑の瞳がまじわり、ひよのは張り詰めた顔にふわりと笑みをはく。
「約束します。もしもこの先あなたが狂ったら―――、私が殺してあげますから」
ひよのから与えられたキスは、ぎこちない。彼女が本当にこういったことに慣れていないのだと、カノンに教える。
触れるだけの稚拙なキスは、どんな女の情熱的な口付けよりもカノンを幸せにした。
つき上がる衝動のまま、カノンはひよのを抱きしめた。
「愛している」
「私も……あなたが好きです、カノンさん」
§ § §
鳴海歩は、脳裏で組み立てられた推理に必然的に不機嫌だった。
本日も理緒と一緒に昼食を取る予定になっている。
やがてやってきた彼女に弁当を差し出し、歩は尋ねた。
「鵜飼に火澄の情報を流したのはお前だな? 理緒」
一拍の間をあけ、理緒は微笑む。
「―――なんでそんなことしなきゃいけないんです?」
「俺もそれが聞きたい。でも、理緒。お前しかいないんだ。鵜飼のことを知ってるやつ。でかつ火澄のことを知ってるやつでかつ、鵜飼の性癖を知ってるやつ。そんなのはお前しかいない」
「そんなの、アイズくんだって知ってますよ」
「アイズは鵜飼の存在すら知らない。鵜飼を知っているのは、武器を調達したお前と、カノンだけだ」
歩はじっと理緒を見つめた。
「自分で情報を流し、自分で依頼し……。正月のとき、ひよのを襲わせたのはお前か? あいつが襲われているって言って、俺をひっぱっていったのもお前だったな。どうして、あいつを窮地に立たせたがる?」
理緒は答えない。歩は吐息をついて、続けた。
「―――ひよのが犠牲にならなくて、よかったな。そうなってたら、今頃カノンに殺されてるぞ」
『冷酷』という言葉を体現したような。カノンは地獄の獄卒も震え上がるような凍りついた無表情で歩に告げた。
二度と、ひよのを傷付けさせるな、と。
理緒に直接言わなかった理由はわかる。
理緒には歩に言われるほうがダメージだろうというのが一つ。もう一つは、カノン自身理緒に会ったら自制がきかないせいだろう。
半殺しか全殺しか、カノンにはそれができる能力がある。理由もある。仲間意識と、薄く頼りにならない自制心だけがとどめているのだ。
「ひよのの初詣の予定を聞きだしたのは、アイズからだな? ひよのは誰にも洩らさなくても、カノンはアイズには洩らしたろう。カノンにしてみれば自分の失策が原因、さぞ腹を立てただろうな。理緒、ひよのにカノンがついてることはわかっていたはずだ。どうして襲わせたりした?」
「ひよのさんに、敵はいくらでもいると思いますけど。どうして動機のない私がそんなことするんです?」
「襲ったのは、ひよのに脅迫されてる被害者じゃなかったから。ひよのは全員の顔を覚えてる。たしかにひよのに敵はいくらでもいる、偶然初詣に見かけることもあるだろう。でも、そのとき因縁つけるのは本人だろう。人を雇う時間があるとは思えない。事前に初詣の時間を知りえていて、人を雇えるのは、理緒だけだ」
「……」
「でも、動機はわからない。どうしてこんなことをした?」
「―――鳴海さんが、そうしてひよのさんのことばかり気にするからです」
悲しげに、理緒は歩を見ていた。
予想していたが当たって欲しくない予想が当たって、歩はため息をつく。
「あのな……俺はあいつよりあんたを選んだんだぞ?」
「嘘です。歩さんは、いつもひよのさんの姿を探してます! みんなもそうです……何かあったらすぐにひよのさんひよのさん。今回だってそうです! みんな口々に言いました。ひよのさんがいればって。お正月のとき、歩さんはひよのさんに危険がせまってるとなったら、私を置いて行っちゃいました!」
「あのな……それはひよのが危険だったからで、あんたとひよのが同時に危険にさらされたら、あんたを選ぶぞ」
だいいち、あのカノンと一緒にいたひよのに危険もくそもない。それを知っていたら遠くで見物に回っていた。絶対に。
「……動機は、って言いましたね。ひよのさんを傷つけるつもりはありませんでした。カノン君がついてるんです、絶対何があってもひよのさんだけは守るでしょう。私は、知りたかったんです。―――ひよのさんが危険なとき、鳴海さんがどうするのか」
だから理緒は歩に告げた。ひよのが暴漢に襲われてると。
歩の反応は―――理緒の予想を上回るものだった。
言い終わらないうちに踵を返した。場所を聞くのも気がせく様子で、人をかきわけ走った。……そしてそこで、カノンと並んで立つひよのを見て、全身の動きをとめ、見惚れていた。
理緒は、その顔を歩の隣で見た。自分の恋人が、自分のことなど意識からすべて追い出して、ひとりの女に目を奪われる姿を。
あんなにも、ひとりの人間を憎みぬいた瞬間はない。
「……鳴海さん、あのあと上の空でした。ひよのさんにみとれていたんでしょう」
否定しようにも、完全な事実であった。
おそらくは、カノンのために着飾ったのだろう艶姿。結い上げられた髪のほつれ毛も悩ましく、いつもの印象とはほとほとちがうひよのの姿があった。
しかし理緒にそんなことを言うわけにはいかない。歩は誤魔化しにはしる。
「あのな。そりゃあちょっとひよのの姿に驚いたのは事実だけど、そのあと上の空だったのは、あんたのことを考えてたせいだぞ」
「わたし―――ですか?」
「ああ。ひよのを襲ったのが誰の指示で、あんな離れた場所からあんたがひよのの危険に気づいたのはなんでかってな。必死に心の中で否定してた。悪いか」
「―――嘘が下手ですね、歩さん」
「嘘じゃ」
ない、といおうとして、歩は理緒の表情に気づいた。
理緒はあきらめきった悲しい顔で、首を振っていた。
「いいんです。鳴海さんは、ひよのさんが好きでいいんです。ずっとそれに気づいてなくて、今頃やっと気づいて、それでもいいんです。だって私が、歩さんを好きなんですから」
ひよのが好き―――?
すとんと舞い落ちた言葉に、納得してしまいそうな自分を歩は叱咤した。
そんなはずない。そんなわけない。
自分は理緒が好きで、理緒が最優先で……
―――あなたが守りたいのは誰ですか? 誰より真摯に守りたい人は、一人しか選べないんですよ。あなたが何にかえても守りたいのは、私ではないでしょう?
蘇ったのは、いつかのひよのの言葉で。
歩は動揺してしまった自分に激しく焦った。
冗談じゃない、だって。もう。ひよのはカノンを選んでる。いまさらのこのこ出て行けるはずがない、自分は理緒が好きなはずで、だからそんなことはあるはずなくて。
歩はそこでやっと、悲痛な顔で自分を見つめる理緒に気づいた。
「ご、ごめん」
謝りながらも顔が赤らんでいくのが止められない。
うわあ……、である。
(俺……そうだったのか!?)
認識と自覚がいっぺんにわいてきて、歩はとてつもなく焦る。
そのとき、食堂前廊下をカノンとひよのが通りがかった。前から親しげに良く連れ立っているふたりだったが、最近の空気は決定的に違っていた。ひよのの手がカノンの肘にあり、カノンの慈しむようなまなざしや、ひよのの嬉しそうに見上げる目線など、どう贔屓目にみても『できている』としか思えない。
二人が通過するのにかかった時間は三秒にも満たない。
しかしその三秒で、歩の脳裏には談笑する二人の姿が細部に至るまで記憶されてしまった。
いよいよ決定的になって、歩は落ち込む。
歩の気持ちを勘付いて、理緒はいろいろやったのだから、理緒を不安がらせたのも何もかも、すべて歩が悪い。
そして、どれほど呪っても、時間は元には戻らない。
どれほど嘆いてもののしっても、時すでに遅かった―――。
多分皆さん「こいつ馬鹿かっ!?」の絶叫になったことでしょう。
馬鹿ですよねー。ほんとに。
この小説の元の原型は、キスをねだる子供。 様のところにあります。ものすごく書き増して自サイトに掲載しました。ただでさえ長いのに、ざっと2倍か?
だからといってこっちが良いとは限らないのが現実です。正直短くすっぱり大胆に取捨選択して、シーンをカットしてある贈答品の方がいいかもしれないと思う日々……。
なお、作中時間でこの後の話となるカノひよのおまけ1(別窓)、おまけ2(別窓)の小説をお読みいただけると、今後の理解に一役かうかと思われます。
また。
言おう言おうと思っていて忘れてたんですが(冷や汗)。
スパイラル原作と、この小説は、時間系列合ってません。
スパイラル原作では、11巻、カノンのカーニバル後の歩の退院の時点で服装からみてどう見ても冬なのに、この小説の開始は夏の終わりでしかも「亮子や香介が退院してから随分たってる」設定……(爆)。
かといって歩が一年生なんですから、一年経過してるわけでもなし。
まあ二次小説ですし、大目に見てやってください(謝)。
素直に冬から始めればよかったんですけどね。そうするとひよのの初詣が書けなくて。ひよのがカノンと初詣行く気になるまで親しくさせるのに時間かかるし、亮子や理緒や香介を退院させるにはどうみても数ヶ月かかるだろうし……。原作どおりの時間じゃ絶対間に合わないんですよー。
最後に。
この小説は、お馬鹿歩の名誉挽回編につづきます。
もうすこし、お付き合いください。
……しかし、頑張ってるじゃないか、わたし! 毎日更新はや三週間目です。
歩名誉挽回編にいく
|
|