放課後の教室。
冬のこの時期、日が落ちるのはあまりに早い。
黄昏の緋色のひと時はもうとっくにおわり、カノンは素早く電気をつけた。
人工の灯りにこうこうと照らしだされる教室。外はすでに墨が広がっている。
教師も恐れる新聞部部室。
そこに、三人の男女がいた。
他の二人に背を向けて立ち、肩の線に拒絶が見えるのは、結崎ひよの。
その背に、理緒は話しかけた。
「組織内で、こういう動きがあります。―――火澄の存在を、公表しようという動きが」
「! 理緒さん、あなたは―――」
「知っています。……鳴海さんに教えていただきました。火澄さんのこと。そして、組織の中で、彼の存在を公然としたものにしようという動きがあるんです」
理緒はそこで言葉を切ったが、ひよのが何も言わないので、続ける。
「彼の存在を公表されたら、私たちは終わりです。鳴海歩という存在に基づいて認められていたわずかな希望まで抹殺され、組織の人々はためらいなく私たちに刃をむけるでしょう。これまで中立だった人たちも、敵にまわっては私たちは狩られていくしかありません」
まだ、ひよのは何も言わない。
理緒は息をついて、話を続ける。
「あなたに依頼したいのは、組織への根回しです。カノン君を復帰させたほど影響力をもつあなたならできます。どうか公表を止めてください。誰が公表しようとしているのか、……私も調べてみたんですが、巧みに隠れていてわかりませんでした。それを探り、その人物の弱みを探って圧力をかける……あなたならできます」
理緒が口を閉じても、しばらくひよのは何も言わなかった。
カノンはひよのを見つめる。期待を込めた目線ではなく、労わりをこめて。
不意にひよのが振り返り、カノンと目を合わせてきた。驚きながらもその眼差しを受け止めると、ひよのはやがてまた背を向けた。
「―――どうして鳴海さんが来ないんです?」
「え、でもあなたは―――」
「私が鳴海さんに要求したのは、けっして私の前に姿を現すな、ではありませんよ? 話し掛けるな、です。理緒さんの後ろにあの人が立っているだけで、私への圧力としては充分です。私はこの依頼を受けざるを得なくなる。どうしてそうしなかったんですか?」
そんなことも判らないのか、という馬鹿にした響きがある。
むろん、これはひよのの誘いだ。これで、「もちろん判っていた」「判らなかった」どちらがひよのの望む答えなのか、理緒にはわからなくなる。
理緒はひよのの真意を探りながら、真実を答えるしかない。
「……それを提案したのは、事実ですけど。鳴海さんは拒絶したんです。あなたの気持ちを、これ以上利用したくないと」
「なるほど……」
ひよのはかるく頷き。言った。
「あなたが差し出せる代価は何です?」
「ダイカ? それは何です?」
言葉の意味を判らず問い返す理緒に、冷然とひよのは告げた。
「これは取引ですよ。あなたが私に差し出せる代価はなんですか?」
「え? だって今まではそんなの求めなかったじゃないですか!」
……眉をひそめたカノンが一歩踏み出すより早く。
ひよのの硬質の声が響いていた。
「そう、私はこれまで、何も求めずあなたがたに協力してきました。それは、一体何故だと思います?」
ひよのは意地悪く、そこで言葉を切る。
依頼をしにきた立場の弱い理緒は、流れる沈黙の責任を負って、言葉を返すしかない。
「……あなたが、鳴海さんを好きだったから……」
「そうです。そして、鳴海さんは私をふりました。……これまでのことは、いいですよ? 私が好きでしていたことですから。でも、これからはあなたも、鳴海さんも、他の人と同じように扱わせていただきます。私が、まさか無償で依頼を受けてるなんて聞いていないでしょう?」
カノンは息を吐き出す。
……ひよのの論理には一点の瑕もない。理緒の負けだ。
理緒は拳を握り締める。
「わかりました……あなたの言い値を支払います。おいくらですか?」
「一千万」
背を向けたままのひよのの返答が部屋に落ちる。
カノンは目を閉じた。
高校生にたかるには、あまりにもとんでもない金額である。一瞬反駁しようと口を開けた理緒は、結局、何も言わずに目線を下に落とした。
「……わかりました。ただし、成功報酬でよろしいですね?」
「ええ」
「依頼、受けてくださってありがとうございました」
礼儀を守って一礼した理緒の自制も、部屋を出るまでだった。
憤然と去っていく足音を聞きながら、そっとカノンはひよのに声をかける。
「よく、頑張ったね」
たぶん、ひよのにとってこれは侮辱だろうけれど。カノンはそういわずにはいられなかった。
ひよのの一生の愛をささげた歩が選んだ少女を前に、悪罵を投げつけることひとつせず、彼女は自分を制しきった。その胸は、たまらないほど痛んだだろうに。
彼女は最も勝つに困難な「自分」に、打ち勝ってみせたのだ。
その次の瞬間起きた出来事に、カノンは意表をつかれた。
「カノンさん……!」
胸にとびこんできた少女の体に、カノンは大変驚きながらも受け止める。
頭を撫でながらささやく。
「よく、こらえたね。怒っても良かったのに、怒らなかった」
よく理緒に味方してあげてくれたね。ありがとう。
その言葉をカノンは封じ込める。カノンはひよの側の人間でなくてはいけないから。理緒側の人間として、感謝をいうのは不適切だ。
「きみのその強さと誇り高さを、愛しく思うよ」
しばらくのあいだ、かけられた言葉をかみ締めるように、ひよのはそのままの姿勢でいた。
しかしやがてひよのはカノンの胸にうずめていた顔をあげ、距離をとって、微笑む。
「取り乱して、すみませんでした。理緒さんに頼まれたこと、開始しますね。ちょっといろいろ護衛が必要な場面もくると思うので、携帯は肌身はなさず、持っていてくださいますか?」
傷も、痛みも、完全に隠しきったいつもどおりの微笑。いつもどおりの言葉。
「ああ。君からのコールにはなにをおいても駆けつけるよ」
ひよのがパソコンの前にもどってしばらく、キーを叩く音が響いていた。
「……理緒さんが言ったこと、どこまで本当ですか?」
「疑っているのかい?」
「知性の根源は疑問からはじまります。疑うことが知性の表れといえるでしょう。―――私は依頼人といえども、その言葉をうかうか信じたことは一度もありません。すべて疑ってかかりますよ。だって信じる理由がありませんから」
理緒に、ひよのを陥れる理由は、なくもない。
なによりひよのの側に、理緒を信じる積極的理由は、何一つないのだ。
カノンは顎に手をあてた。
「ふむ……、とりあえず、理緒のいう話は聞いたことがない。帰ったらアイズに聞いてみるよ。なんせ、最近は君にかまけててすっかり組織のことを忘れていたから」
「無用心ですよ、カノンさん。自分を守るためのアンテナは常に感度良好にしておかないと」
他人ならばいざ知らず、それを実行しているひよのに言われては、苦笑しかできない。
「返す言葉もないね。……それで? 君は本当にそれだけの影響力を持つの?」
「すみませんが、今はまだ何とも言えませんね。火澄さんの暴露をもくろむ方が誰なのか、によります。私の影響力は、組織全体ではなく組織の構成員単体に及ぼすものですから。私とつながりのある方が推進しているのならなんとかなりますが、つながりのない方だと、かなり厄介ですね。その方を口説き落とすのにかかる経費は一千万よりかかるかもしれません。……安すぎましたね」
「ふっかけたわけじゃなかったのか」
意外さについ口にだすと、ひよのは心外そうだった。
「むしろ、最大限に安くしてますよ。……コトはカノンさんにも降りかかる事ですからね」
「……ひょっとして、理緒の依頼を受けたのは、僕のためだったりする?」
「あなたのためだけではありませんけど。あなたのためも、ありますね」
カノンは微笑んだ。
「僕は自分の身ぐらい守れるよ。気にしないで断ればよかったのに」
「そうですか? カノンさん、あなたは確かに戦闘では強いです。でも、毒やだまし討ちに、勝てますか? 戦闘なんかより、そちらのほうがずっと、人間というのは手ごわいものですけど?」
事実をずばりと突かれて、カノンは黙った。いかな武術の達人でも、たとえばさっきひよのが胸に飛び込んできたときナイフでも持っていたら? 刺されたに違いない。
どれほど戦闘能力が高くても、毒を盛られたら、一巻のおわりだ。
「それに、もしもアイズさんが狙われたら? あなたはアイズさんを人質にとられて、戦えますか?」
もしも―――の話だが、それでも胸が悪くなる話だった。
「それに、私は、……もう無関係なんですけどね、でも、これまで鳴海さんに深く関わりすぎました。依頼を断り、もしも理緒さんがハンターに殺されたら……無関係と飄々としていられないほどには、関わりすぎてしまったんです」
無関係と開き直るには、ひよのは関わりすぎた。カノンに助けられすぎた。
だから……、ひよのには、話を聞いたときから、ほかの選択肢などなかったのだ。
再びパソコンを打ち始めたひよのを見つつ、聞いてみた。
「ひよのさんは、ハンターと僕ら、どちらが正しいと思う?」
かつてハンターとなったカノンは、ハンターが間違っている、と言下に言うことは出来ない。
「私は正悪に興味なんてないです。そうですね、強いて言えば、お前たちが生まれてきたことが間違っている、なんて事を従容として認めるのはおばかさんです。あなた方がおばかさんではなく、必死に生きようとしているかぎりは、私はあなた方を応援しますよ。多少の縁もあることですし」
カノンは一歩踏み込んでみた。
「……その結果、僕らが殺人鬼になったら?」
「私が殺してさしあげます」
カノンは心底驚いてひよのを見つめた。
ひよのはパソコンを打つ手をいつの間にか止め、真摯な眼差しで、カノンを見ていた。
「私の情報網は、あなたがたの言動を逃さずとらえます。あなたがたがどれ程巧妙に闇に隠れて活動しようとも、見逃しません。もしあなたがたが悪魔になっていたら。私が殺しましょう。あなたがいかに戦闘の熟練者でも、人の狡猾さはその上をいく。戦いで敵わずとも、殺す手段はいくらでもあるのですから」
「……それが、君なりの責任の取り方?」
「ええ。大量殺人鬼となるかもしれない人間の、その命を助けようとする者の、覚悟です」
白く滑らかな頬は大理石のように超然としている。
瞳のなかにあるのは、澄んでいるのに深すぎて底の見えない湖のような静寂の覚悟だった。
普通の一般人の17歳の少女に、カノンは気圧されていた。人を殺したことのない少女の、人を殺す決意の壮絶さはカノンの想像を越えていたのだ。それは自分の選択と、それがもたらす未来に最後の最後まで付き合うという意思表示に他ならない。
カノンは体の底から湧き上がって来た衝動をこらえる。
彼女に触れたかった。
ブレードチルドレンの運命を知りながら自分たちを助けるといい、もしも戦いに破れたときはカノンを解放してくれるという少女に、無性に触れたいと思ったのだ。
陽の落ちた放課後の部室には、カノンを止められる人間はカノンしかいない。ひよのを押さえ込み白い肢体を蹂躙することぐらい、カノンには、赤子の手をねじるようにたやすい。
キスをしたい。抱きしめたい。素肌に顔をうずめて、匂いをかぎたい。
先ほど抱きしめた震えていた体の体温と、感触を思い出し、カノンの理性は屈服まぢかまで追い詰められた。だが―――。
―――あなたのためも、ありますね。
理性でなんとか凶暴な衝動を押さえこみ、カノンはぎこちなく微笑んだ。
「……リクエストしていいかな。僕の死は君が看取って欲しいな」
「わかりました。もし―――あなたが変わってしまったら。私の手であなたを殺してさしあげます」
再びパソコンに向かう無防備な後姿に、カノンはそっと、体の力をぬく。
与えられるものだけで満足していたと思っていたのに。
自分はどうやら、そう物分りのいいほうではないらしい。
§ § §
理緒がひよのとの会話を語ると、アイズはいつもどおりの無表情で腕を組んだ。
「一千万か……大金だな」
「ひどいよね……。そんなにお金が大切なの?」
「理緒。それは違う」
アイズは膝を折って目線を合わせた。
「ヒヨノは無関係の人間だ。無関係の人間に、協力を無理強いする権利はどこにもない。そこには代価があるべきで、その代価をどれだけつけるかは、ヒヨノの権利のうち、その条件をのむかどうかは、俺たちの自由意志だ。判りやすく言うなら、商品に値段をつけるのは商店の権利、その商品を買うかどうかは、買う人間の選択にまかされる。買ったその人間の、責任だ」
「でもこの場合は違うよ。だってこっちはどんな条件をつけられても買うしかないもん。銃を突きつけられて自分の命を買うかどうか迫られたら、どんな人間でもどんな高値でも買うでしょ? アイズくんの話は選択の余地があって、買わない権利がある場合の話だよ」
アイズは息をついて言った。
「……では理緒。お前はこういうのか? 誰かの命がかかっていることだから、無償でどんな事でもして協力しろと」
理緒の沈黙は、鐘を突いたように硬質だった。
……そんなこと、わかってる。
アイズの言うことは道理だ。馬鹿じゃない理緒はそれが、わかる。
「おまえがそう、ヒヨノに対して厳しいのはなぜだ? ナルミアユムはお前を選んだのだろう?」
黙って、頭を左右に振る。
事態を一番最初にアイズのもとに持ち込んだのは理緒だ。亮子や香介に火澄のことを教えられず、他に相談できる人間は歩とアイズしかいなかった。そのふたりともだ。
揃って同じことを言った。
―――ひよのがいれば。
歩のほうはもちろんそうストレートに言いはしない。
誰がたくらんでいるのか特定してもらって―――といいかけ、口を閉ざしただけだ。
アイズのほうは赤裸々に即断したが。ひよのに手を貸してもらえ、と。
……わかっていても、現実に突きつけられると泣きたくなる。
結崎ひよのと、理緒。どちらが頼れる人材か。どちらが、使いでのある存在か。役に立つ人間か。
理緒の揺れる心境は、アイズにはわからないだろう。
複雑になるべきはひよのであって、勝者である理緒ではないのだから。
今日見たひよのの表情は理緒の心のささくれをかなり癒しはしたが、程度の低い満足だという自覚はある。
泣きそうな顔で黙りこくる理緒に、アイズが膝をまげて覗き込んできた。
「……ひょっとして、ヒヨノになにか嫌がらせをされているのか?」
理緒は、黙って、かぶりを振る。否定したのは、彼女の最後のプライド。
嫉妬して、嫌がらせをしてくる女ならずっと精神的に楽だったろう。
ひよのは節度を守った。一定のエリアを踏み越えることはついになかった。
理緒は、彼女に守られたことはあっても、嫌がらせを受けた事はない。……鳴海歩を、彼女は誰より、愛していたから。自分のちっぽけな感情よりも。
「リオ。ナルミアユムはお前を選んだ。ヒヨノよりも。―――勝者のお前が、どうしてヒヨノに優しくできない?」
勝った者の、勝ったがゆえの余裕。勝った方にはそれがあるはずだ。なのに現実はどうだろう。負けたひよのの方に余裕があり、理緒は打ちのめされている。
勝った余裕なんてない。歩の目線の先には誰がいる?
醜い嫉妬で満ちている自分が嫌いで、自分をこんな気持ちにさせるひよのが嫌いで、ひよのの一点の瑕瑾もない態度に、ますます自分を嫌わずにいられなくなる。ひよのに非など、ひとつもないがために、嫉妬せずにいられない自分が情けなくなる。
「……アイズくんには、わかんないよ……っ!」
ぜんぜん勝ったなんて思えない。
選ばれた実感なんてない。
うつくしい少女。ひよのは下手すれば小学生にみえる理緒よりずっと可愛い。それも理緒のように子供っぽいのではない可愛さ。
可憐な容姿に、怜悧な頭脳、類稀なる行動力、卓越した情報収集力。あのカノンがひよのに恋したのも、無理はない……。
いざというとき、頼りにされるのはひよので、求められるのもひよのだ。
事実、もしもという仮定を組み上げる。
……理緒は、この事態に、何ができる?
ひよのなら対処できるだろう。誰がやろうとしているかを特定し、脅しなり金銭なりをちらつかせる。理緒に同じ事はできないだろう。理緒には情報網などほとんどないし、できる脅迫は一種類―――従わなければ殺すというだけだ。そんな脅迫は相手の服従ではなく反抗を呼ぶ。ひよののように、弱みを握っての脅迫など、できない……。
歩のとなりにふさわしいのは、理緒よりひよの。
みんな口に出さないだけで、思ってる。どうしてひよのではなく理緒を選んだのかと。
歩が、無意識に目でひよのを探しているのを知って、どうして自信なんてもてる?
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