結崎ひよのの家庭は、異常だ。
カノンは何度か思ったことを、また思う。
思うたびその確信は深まるのだが、深まってもその長所は地平線まで探しにいっても見つからなかった。
カノンがひよのの家庭の事情に深くかかわるようになったのには、いくつかのプロセスがあった。
我ながらストーカーじみていると思わないでもないのだが、影から結崎ひよのを見守っていたのが、最初だ。
気取られることもなく護衛していたつもりが、気づかれていたと知ったのが、つい先日。
「気持ち悪い」と言われるかと身構えて、言われたら説得しなければと思っていたら、ひよのはこう切り出した。
「これまで守ってくださってありがとうございます。でも、あなたの気持ちに付け込んで、一方的に利用しているようで、気が引けるんです。だから正式にお願いします、私に雇われる気はありませんか?」
彼女は、本物の天才だった。
特許による収入でふところは潤沢で、カノンにその中から護衛料を支払うぐらい、なんでもない。それで彼女の気が済むならと、金を受け取ることを承諾する。
実際カノンが自分の行為の不気味さを自覚しつつも、護衛をやめなかったのは、彼女への危害を意図する人間があまりに多かったからである。
金のあるところには、人が集まる法則だ。
蛆虫のような人間が。
ひよのは現在、未成年。当然両親の監督下にある。
彼女への危害を計画しているのは当の両親を筆頭に、親類縁者無数にいるのだと、ひよのはポツリと告げた。
正式に護衛として報酬を受け取るようになり、学校への行き帰り、一緒の時を過ごす様になって一月が経過していた。
§ § §
その日、彼女を家まで送り届けて別れるはずが、初めて誘いを受けた。
「カノンさん、お茶でもいかがですか?」
見返した顔には、邪気がない。
カノンはつい探る口調になってしまう。
「……いいのかな? 僕を家にあげて?」
彼女は微笑む。
「ええ。カノンさんは、私に無体を働くような人ではないでしょう?」
ひよのは人との接触が嫌いではないが、異性との接触はかなり激しく嫌う。
いや、自分に関心のある異性の接触を嫌うというほうが正しいか。
潔癖……なのだろう。彼女は下心で自分に触れる異性の手を、激しく嫌う。
それを知っているカノンは、危急の際をのぞいて一度もひよのに触れていない。
ひよのが何のこだわりもなく触れるのは鳴海歩だけであり、ひよのに触れられるのも、鳴海歩だけだった。
ひよのの家は、かなり特殊な形の屋敷だった。
一見は、普通の一軒家である。ただし、裏庭がかなり広い。ちょっとしたプールほどもある庭には無秩序に立ち木が植えられ月一回、園芸屋の手入れがはいる。
その下に、地上の何倍もの大きさの研究室があった。
「一見無害で普通の家」と、「最新の科学技術の研究所」が同居している。
その日ひよのがカノンを招き入れたのは普通の家のほうだった。
花柄の玄関マット、フローリングの床は少し冷たい。
掃除が行き届いた室内はいつ誰に見られても恥ずかしくない。ガラス戸のキャビネット、食器棚の中の食器は白く輝き、キッチンは台所とダイニングが一緒になった形のものだ。間をさえぎるのはブルーのカウンターだけで、素通しといっていい。
ひよのは手馴れた様子でティーサーバーに茶葉をいれ、紅茶をいれる。カノンの眼に気づいて、告げた。
「ティーサーバーってまずいって印象ありますけど、ホントはぜんぜんそんなことないんですよ。私の手で淹れるより、ずっと美味しく淹れられます。ためしてみてください、きっと気に入りますから」
ことりと差し出されたカップは、薄い萌黄色。口をつけた紅茶は、確かに美味しかった。
「……ひと気がないね」
「一人暮らしですから……一応」
「―――本題に入っていいかな?」
「私があなたを招いた理由ですか? まあ一応……内情をあかしておこうかと思いまして」
彼女が言った瞬間、音を立てて扉が開いた。
扉を蹴りつけ、部屋に乱入してきた相手にカノンはとっさに戦闘態勢にはいったが、ひよのはいつもの表情を崩さずテーブルについたまま、紅茶の香りを楽しんでいた。
部屋に入ってきた相手は、まだ小学生の低学年だろう少年である。
剛毛の直毛を短く切り、目つきといいなにといい、きかん気が全面にでていた。
「帰って来たのか、このブス!」
カノンはちらりをひよのに目をやる。
ひよのは涼しい顔で、紅茶を飲んでいた。
「さっそく男をつれこんでるのか、いいつけてやるからな! このばいた! ブス! やくびょうがみ!」
聞くに堪えなくなって、カノンは手っ取り早く少年の気管支を圧迫して黙らせた。
ひよのが黙って聞き流しているのだから口出しすべきでないかもしれないが、カノンはひよのが目の前で侮辱されるのを我慢できるほど辛抱強くない。
「カノンさん―――」
ひよのが微妙な間をあけていう。
「それ、一応私の弟なので、手加減してくださいね」
「これ……が?」
カノンは右手で喉を圧迫しつつ、覗き込む。
ひよのは亜麻色の髪の抜きん出た美少女で、外見だけならフランス人形のようだ。……あくまで外見に限っての話だが。ひよのの本性を多少でも知る者―――つまり月臣学園に在籍する全生徒にとってはとんでもない話だが。
しかしこの弟は純日本人的黒髪剛毛の髪といい、顔立ちといい、どうみても似ていない……のだが。
「君の弟にしては、頭がわるいね」
ひよのは、カノンの意図を見透かして微笑んだ。
「誘導尋問にのってあげましょう。―――私は、養子ですから。弟が私に言った言葉、本気にしないでくださいね。子供が両親に吹き込まれた悪口を意味も知らずに繰り返しているだけですよ」
「君の両親?」
「私の両親は、私をできれば天国に厄介払いしたいと考えてる人たちなので」
カノンは瞳に意志をこめて、ひよのを見返した。
同様の意味の言葉を、ひよのから聞いた事がある。心の中の要注意の壁にピンで留めた記憶。
「なんで君を?」
「私があの人たちに育てられながら、なんにも報いずにいるからですよ」
ひよのは薔薇色の唇に、すこし、笑みを浮かべたようだった。
カノンは右手の少年に目をやり、
「その話、弟くんに聞かせてもいいの?」
「ええ、聞いても理解しようという気がない人間には、何言っても同じですよ。よく言うでしょう、人は自分の都合のいいように言葉を解釈する、と。―――私の両親の言い分はこうです、育ててやったのだから、当然見返りよこせ。よこさないなら殺して遺産として相続する、と」
これまでの言動から、うすうすひよのの財力は察していた。それでも一応、確認する。
「……君は、財産を持っているの?」
「多額の財産を持ってますよ? ひよのちゃんは、天才ですから。誰かから譲られたわけでも宝くじをあてたわけでもない、ひよのちゃんのひよのちゃんだけの能力で作った財産がたくさんあります。この家は私が稼いだそのお金で買ったものです」
ひよのはそこで、くすりと笑う。
カノンはその笑みに目を吸い寄せられた。彼女の、はじめて見る種類の表情。
鳴海歩とともにある日々のうちでは彼女が決してしないだろう顔。
咲き誇る毒花の微笑だった。
「普通子供の財産は親の管理下です。でも、私は両親に扶養能力なしの烙印を押して、私が雇った人を名義上の財産管理者として立てました。だから私をどうにかしない限り、一銭も両親のもとにはこない、同様に、親戚のところにも、来ません。それを不服に思ったあの人たちは、手っ取り早く私の財産を手に入れるため、アレコレ手を尽くしているんです」
「……ということは、これまで僕が始末した彼らは……」
「私の親戚、もしくは親戚の共犯のチンピラですね」
カノンは考え、唇を開いた。
「―――家に防犯装置は?」
カノンはひよのの家庭環境についてどうこう言うほど、恵まれた家庭にいない。
関心があるのは現実であり、ひよのの身の安全だった。
「もちろんついてますよ」
「じゃ何でこの子は入ってこれたんだ?」
「昨日、家に泊めましたから」
「……なんでまた」
「力ずくで追い出そうにも、スタンガンで気絶させたあとの体をどうやって誰が運ぶかを考えると面倒だったんです。私が学校行ってる間に出て行けといっておいたんですが、やっぱり出てってませんでしたね」
少年は何とかカノンの拘束から逃れようとあばれるが、カノンの手は鉄の枷のようにびくともしない堅牢さだった。
その少年を子鼠でも見るような目線でカノンは見て、ひよのに戻す。思わず嘆息した。
「……君は、どうしてそう自ら進んで袋小路にいくのかな?」
どうも、ひよのの印象が一定しない。徹底したエゴイストで、自分の命を何にもまして大切にするかと思いきや、ときおり、まるで、自ら袋小路に入ろうとしているかのように破滅的な道を選ぶ。
考えてみて、わりとたやすくその結論に思い至った。
―――誰も側に寄せたくない、のか?
少年とはいえ人間一人を抱えてカノンは普段と変わらぬ足取りで玄関まで歩き、外へでて、敷地の外に放り投げた。
そしてひよのの前に戻る。
ひよのは変わらぬ風情で、お茶を飲んでいた。戻ってきたカノンに微笑み、礼を言う。
「ありがとうございます」
その、笑顔に。
舌打ちしたくなる。
「……どうして君はそう嫌われたがるんだ?」
「心外ですねー」
「いいや、事実だよ」
カノンはテーブルをはさんでひよのの前に立ち、まっすぐ見下ろして言い切った。
「……どうして君は自分を孤独に追いやろうとする?」
「私が? とんでもない。私は側にいてほしいと望んだ人に対して進んで嫌われるような行動しませんよ。どうでしたか? 私は、鳴海歩に対してどうでしたか? 自分の身を二の次にした無私の態度で、彼の好意を得ようと、露骨すぎるほどに露骨に振舞っていたでしょう?」
それはその通りで、カノンは返す言葉に迷う。
しかしそれは一瞬にすぎない。
すぐにかぶりを振って、やるせなく呟いた。
「……君が側に望んだのは、鳴海歩ひとりだけということなんだろう?」
返答はない。
そのかわりのように、ひよのの面に浮かぶのは完璧な微笑。
「自分の、親なんだろう? 少しぐらい譲歩するべきじゃないか?」
カノンはこの家の広さが気になっていた。
この家はひよのが買ったという。ここに、ひよのしか住んでいないという。……あまりにもそれは、孤独が身に染み入る。
「あなたは、私の両親を知らないからそういうんですよ。世の中にはほんとに、どうしようもない人っていうのがいまして。少し考えればわかるでしょう? 自分の子供の財産目当てに子供の殺害を計画するような人たちですよ? あんな人にお金をやるだけ無駄、ドブにすてるようなものです。責任感もなにもない、自分がよければ良いって人なんですから」
カノンはひよのを見つめ、ぽつりと。
「……でも、貧しい」
あの少年の服は、みすぼらしかった。体も、いまどきの子供とは思えないほど、痩せていた。
貧しい両親は、豊かな生活をしているひよのを見て、子供に夜ごと恨み言を吹き込んだのだろう。自分たちがこんな生活をしているのはひよののせい、ひよのが恩知らずで、援助してくれないせい……と。
「そうです。こんな立派な家は、一生もてません。トタン板の、あばら家です。お金がほしいなら他人をひがむ前に働けばいいものを、他人をうらやみ、他人の陰口をいい、自分たちのところにまで追い落とすことしかしない人たちです」
カノンはひよのを静かに見つめる。カノンも修羅場をくぐってきた人間だ。時としてどうしようもない屑みたいな人間がいることも知っているし、彼女の両親のひととなりも想像がつく。
それでも、カノンは言った。
「……でも、君の親だろう?」
「―――カノンさん、言いすぎですよ」
「君は両親に愛されなかったかもしれない、厄介者扱いされたかもしれない、でも、それでも、君は、許すべきだ」
「……親が子供を愛さなくても、子供は親を愛する義務があるなんて誰が聞いても道理の通らない話ですけど?」
「僕は君の味方だよ。何があっても君の味方だ。君が本当に両親をなんとも思っていないなら、こんなことは言わない。……君は、期待しているんだ。両親が謝りに来るのを。すまなかったと言って、頭を下げてくるのを。―――そして、君自身、許したいと思ってる」
ばん!
ひよのがテーブルを叩いた音が響いた。
「判ったようなことを言わないでください! 私があの両親の元でどんな―――!」
そこで深呼吸。
ひよのはそれだけで、顔と、声を通常通りの温度にする。
「……私は、あの人たちのことなんて何とも思ってません。許すも許さないも、関係ないんです。私はあんな人たちに何の感情も抱いてませんから」
彼女の不幸は―――その可憐な容姿にまるでつりあわぬ、怜悧すぎるほどの知性かもしれない。
その怜悧な刃の唯一の曇りが、両親であり、傷だ。
カノンは更に一歩踏み込む。
「……じゃあ、何で、君は弟を家に入れた?」
「……学校帰りに付きまとわれて、家に入ろうとした隙に一緒に入られたんです」
「どうしてこんな君に分不相応の広い家にしたんだ?」
「こっちの都合です」
「誤解しないでほしいけど……」
カノンは穏やかにいう。
「僕がこんなことを言うのは、顔も知らない君の両親のためじゃなく、君のためだよ。君は許したがっているから」
ひよのはきっと顔をあげ、カノンに言葉をたたきつけた。
「……私を殺そうとしている人たちに、今更何を言えっていうんですか!」
「うん。見下げた奴だとせせら笑ってやればいい。浅ましい自分の両親を見下して、天上から許してやればいいんだ。施しだと思えばいい、かわいそうな奴だと哀れんでくれてやればいい。そうすれば君は楽になる。少なくとも、今よりずっと」
「……おせっかいも、いいところですよ、カノンさん」
「君以外にこんなおせっかいはしないさ」
ひよのの目線の中で、軽く肩をすくめてみせた。
ひよのの中で、カノンの言葉が響いているのだろう。ひよのは目を閉じ、深く考え込んでいた。
「……許してやれば、ですか……」
やがて息を吐き出し、ひよのは鞄から携帯を取り出す。
「あ、橋本さんですか? ええ、ええ、実は……」
会話の内容からして、電話をかけているのは、彼女の財産の管財人だろう、税理士か、弁護士か。
その人間に、実家への援助を命じて、ひよのは電話を切る。
「満足ですか?」
その程度の皮肉にたじろぐようなカノンではない。花のような微笑でやり過ごした。
「ああ、とても」
「そうですか。私はとても不愉快です! お茶新しいものを淹れてあげますから、それ飲んだら帰ってください!」
「いや、お茶はいらない。もう帰るよ」
カノンは鞄を拾い上げ、立ち去りかけて……ふと。手を止めた。
「君は、両親に抱きしめられた記憶がある?」
ひよのの瞳に一瞬走った傷ついた光に、カノンは内心吐息をつく。
出口に向いていた体を回転させ、片手で制服の上着のボタンを外しながらひよのに近づく。
退こうとしたひよのの体に、ふわりとかけて、やわく抱いた。
「……触らないでください」
「触ってない。僕がさわっているのは制服であって君じゃない。君に無断で触れないっていう誓いは破ってないよ」
「そういうの、詭弁ていうんですよ……」
カノンは力を込めてない。抗おうとすれば抗える、押しのけようとすればそれも簡単。そんな力加減で、ひよのを抱いていた。
ひよのはあらがわない。黙って、カノンの腕に身をゆだねている。
カノンは制服の上から、ひよのの頭を撫でる。
「僕は君が好きだよ。君がいてくれて、とても嬉しいよ。君に会えて、君を好きになれた。それだけで充分だと、心から思うよ……」
どうか伝わるといい、この孤独な少女に。
想いに温度があるのなら、自分の想いが彼女に伝わり、凍えきった心を少しでも暖めてくれればいいのに。
愛する喜びを知っていても、自分以外の誰かが自分を愛してくれる喜びを、知らない彼女に。
§ § §
カノンは良かれと思って助言したのだが、結果として、それは完全に裏目にでた。
オリンピック級の恥知らずのひよのの両親が、ひよのが援助した金で弁護士を雇い、彼女の財産の管理権を取り戻そうと、彼女と彼女の財産の管理者を呼び出したのだ。
「―――というわけなので、次の日曜日、私の護衛としてついてきてくれませんか?」
そう切り出されたとき、カノンはひよのを観察したが、彼女の表情は平静だった。
みじんの感情の揺らぎも感じられない、普段どおりの顔。こんなとき、ひよののそのポーカーフェイスが憎くなる。
せめて責めたりしてくれればいいものを、彼女は事務的に護衛を依頼しただけだ。
「……すまなかった」
「どうしてカノンさんが謝るんです? あなたは、護衛として最上のことをしてくれてますよ?」
「君は、いつもそれだ」
カノンは苦笑する。
「君は他人に期待しない。約定以上のものを要求しない。僕と君が交わしている約束は護衛についてだけだ。だから君が僕に求めるのも、護衛としての職責を果たすことだけで、君の行動については、自分の頭と体で決定したことだけが真実。だから、両親を援助するという自分の決定について、他人を責めない。僕では力不足かもしれないけど、時には他人に寄りかかるのも悪くないよ?」
ひよのは首をかしげた。やがて何かを思いついたのか頷いて、唇をひらく。
「しばらく言葉遊びをしましょうか。―――人に頼ることを知っている。そこが、同じように幼少期を戦いですごしながらも仲間のいたあなたと、私のちがいでしょうね」
「まあね、それに異論はないよ。君はひとりだった、僕には仲間がいた」
「続きをどうぞ?」
カノンは嫌な顔になった。特別な感情をもつ少女に対して、言いたい結論ではない。
「……だから君は頼ることを憶えず、僕は頼ることを知っている」
ひよのは花の様に微笑む。
「幼少期の人格形成の悪影響のモデルケースとでも言いましょうか? 私の人格はかなり判りやすく過去の経験に沿って美しく形成されていて、分析が非常にたやすいです。私は苦しいとき、誰かに助けられた経験を持てませんでした。だから、他人に頼るクセはついていません。自分の行動への責任を自分以外の何者にも帰さないその姿勢は美しくもありますが、あなたの言葉も真実です。私は自分を自分としか見なせない。……人はひとりでは生きていけないのに、私は人を側におけない。耐え難いとすら、感じてしまうんですよ。鳴海歩以外は」
「……歩くんが大丈夫なら、他人も大丈夫かもしれないと、考えたことは?」
「私は、ずっと一人でした」
カノンの眼に、月臣学園の臙脂の制服に包まれた華奢な全身が浮かび上がる。細身の均整のとれた体は、適度な筋肉もついた理想的な体だった。
「助けはどこからも来ず、差し伸べられず、いざ事態が明らかになると自分の罪隠しの嘘を塗り固めて自分の非を覆い隠そうとする人々ばかり―――そんな人々のなかで、私は私を確立するため、強くなった。心許せる誰一人としてなく、教師からも罵られ、嘲られる生活から、私は自分だけの力で、ここまで昇ったんです」
カノンにも、ひよのの境遇について想像はつく。
日本という国は、養子を差別することに関しては世界一だ。みなしご、もらわれっこと、彼女が揶揄の対象になったことは充分に想像がつくし、両親の愛に遠かったことも、理解できる。
ふと気がつくと、ひよのは不思議な深い目の色をたたえて、カノンを見ていた。
「あなたが羨ましいです、カノンさん。アイズさん―――あなたを愛し、信頼してくれる相手のいる、あなたが。アイズさんを信頼できる、あなたが」
「……そうだね」
うかつな謙遜は逆効果とみて、カノンは黙って肯定した。
心通じ合える親友を持っている自分は幸せだろう。一人で戦ってきた彼女に比べれば。
「あなたの言葉、たいてい当たってます。私は鳴海さん以外を側に望んでません。いえ……、だれかを望むということを、教えてくれたのが鳴海さんだったんです」
ひよのは瞑目し……、目を開けたとき、瞳には影が映っていた。
「……私はあなたのこと、好きじゃないですよ」
ひよのの言葉の真意がわからないほど、カノンは愚かではない。
ひよのはこういっているのだ。見捨てろと。
自分は、あなたの好意に何も返せないから、と。
そんなこと、カノンは最初から知っている。知って、それでなお、カノンはひよのを愛しく思う。
その誇り高さと、気高さに。
―――愛は、見返りを求めないものですよ。
彼女自身が流す血の中で、微笑んだ彼女。
ひよのはそこまで愛した鳴海歩を、それでも手ばなした。「愛は、見返りをもとめない」ものだから。鳴海歩自身が彼女を拒絶するのなら、黙ってそれを受け入れるのが、彼女にできる唯一のことだから。
ひよのはあがこうと思えばあがけたはずだ。歩がひよのにどれほどの貸しがあるのか、カノンですら知っている。
でもしなかった。しないことを選択した。
理緒に嫌がらせをしたり、貸しを盾に迫るには、ほんの少しばかり彼女は賢すぎ、大人すぎたのだ。
「言わなかったかな? 君が歩くんを好きなことは知っていると」
ひよのは軽く頷いて、話を事務的必要事項に変えた。
「日曜日に来るのは、私の父と、母と、その弁護士です。話し合いの場所は、レストランにしました。こちらは私と、あなたと、それと橋本さんという私の財産管理者が来ます。私は未成年ですので、私の親権をその橋本さんが握っています」
握っている。つい呟いた。
「……嫌な言葉だね」
ひよのはカノンの言葉の意味を、瞬時に正しく理解、微笑む。
「日本では子供の人権なんてないんですよ。親の権利、で親権ですからね。親権には二つの権利が含まれます。財産管理権と、養育する権利……監護権です。橋本さんが私の財産管理権をもち、両親が監護権を持っている……というのがまあタテマエなわけです。実情はあなたもご存知のとおり、私が両方握ってますけど」
彼女は誰よりしぶとくて強かだ。未成年ではあるが、彼女に庇護など必要ない。
カノンはふとひらめいて、聞いてみた。
「……ひょっとしなくても、両親の弁護士に、すでにもう接触してるだろう?」
「もちろんですよ」
綾錦もかくや―――という絢爛な笑顔。
おそらく、その弁護士の弱みを既に握っているに違いない。
「私の両親は賢い人ではないのでいろいろ不愉快な思いもされるでしょうが、出来レースです。我慢してください」
―――事実、彼女の家族会は、不愉快なものだった。
いや、不愉快さもこうまでくると滑稽に変わる。
事前に顔を教えられていたので、店内に入ってきた誰がそうなのか、カノンはすぐにわかった。
乏しい頭髪、くすんだ肌にまばらに顎鬚が伸びた顔は、胡麻を散らしたようで、視線はきょときょとしておぼつかない印象を与える。あれがひよのの養父だ。
ひよのの父は、レストラン入り口でテーブルについているカノンとひよのを視認するなり席へ接近。
止めようとするボーイを無視して突進すると、カノンの襟首をつかんで立たせ、殴ろうとしたのだ。
「お客様!」
生憎、こんな素人に殴られるほどカノンは抜けてない。攻撃の予備動作を見てからでも充分な反応がとれるだけの反射速度がある。
首をそらしてかわし、逆に手をつかんで逆にねじりあげ関節を極める。一瞬、ちらりと、このまま折ろうかと思ったが何とか自制した。
「お客様、大丈夫ですか?」
ボーイの声はもちろん、カノンへのものだ。席に案内されるのも待たずに乱入し、客を殴ろうとするような人間は、客ではない。
カノンはひよのに目を送る。
「どうする、ひよのさん?」
「いきなり乱暴するような父ですみません、カノンさん」
「乱暴されているのはどう見ても私のほうだろうが!」
カノンに取り押さえられているひよのの父が叫ぶ。
「そもそもっ、お前がこんな奴をここへ連れてきたのが原因で…!」
カノンは呆れた。
カノンはひよのの護衛だ。だからここにいる。そういう事情も聞かずにいきなり暴力をふるおうとし、その結果取り押さえられると自分は悪くないとわめきたてる。
まるで自己の客観視ができていないとしか思えない。
外見からして四十代にはなっているはずなのに。
対照的な、ゆったりと落ち着いた節度ある声が響いた。知性と優雅さを感じさせる、なめらかな声。
「戸籍上のお父上。本当に、ちっとも変わらないようですね。自分は悪くない、自分はちっとも悪くない、悪いのは全部他人。なるほど、そう考えるのはさぞ楽しいでしょう。少しの成長もないのも当然ですね、あなたの論法では、自分に都合の悪いことはすべて他人が悪いのであって、自分が悪いのではないんですから」
カノンは眉をひそめる。
―――責任転嫁型人間か。
いる。よくいるタイプだ。自分の失敗はすべて他人のせい。そう考える人間は、いる。
よくまあ、この親に育てられて、ひよののような、すべての行動の責を自分へ帰す人間ができたものだ。いや、だからこそ、か。こうはなるまいと考えたのだろう。
そのとき別の声があがった。
「ひよの! お父さんに何してるの!」
入り口で上がった声に、カノンは薄々予測しつつもそちらを向く。
髪を後頭部でまとめてネットに包み、切れ上がったまなじりに特徴がある。化粧をしていてもその皺の深さがうかがい知れた。一張羅らしいスーツを身にまとい、憤然と歩いてくるのは、ひよのの母。
彼女に向けて、カノンは男を軽く突き飛ばす。
よろめいた男をひよのの母が受け止め、両者が振り向いた瞬間、カノンは言った。
「僕は結崎ひよのさんに雇われた護衛です。あなた方に名を覚えていただく必要はないので名乗りません。彼女への危害は許しませんので短い間ですが、お見知りおきください」
手を広げ、優雅に一礼する。
ピアノ界の寵児としてさまざまなパーティに出席するアイズの影響で、カノンの礼は堂にいったものだった。
カノンは顔を上げると、ひよのの隣に立つ。
苦々しげな顔の両親がなにかを言おうとした瞬間、残りのメンバーも到着し、そろって話し合いとなった。
「あるべきものをある場所にもどせ、といっているんだ、私たちは!」
ひよのの父の、そんな一声から家族会議は始まった。
そしてそこに、温和そうな声が重なる。橋本―――ひよのの親権者の声だ。
「あるべきもの?」
「その子の親権よ! あなたがいいようにしている親権なんてものは、本来私たちが持つべきものなのに、横からさらっていって……!」
「おや? それはおかしい。彼女の親権をいただきたいといったとき、あなたがたの返答はたしか、いくらでも好きに持っていけ、だったと思いましたが?」
「その直後に何が起こるか知ってたら、わたしゃあしなかったわよ! よくまあぬけぬけと……!」
「ふむ、何が起こったのですかな?」
「その子の何が役にたつんだかさっぱりわからない研究が、なに? 特許? 使用料として毎年大変なお金が入ってくるっていうじゃないか! 最初っからそれが目当てだったんだろ?」
「それはそちらに言いたいですな。彼女だけなら親権をなげだし、彼女の特許が明らかになると騙したな、親権を返せと言う……あなた方は彼女自身ではなく、彼女の財産を欲しているとしか思えませんな」
「もちろん、ひよの自身も可愛がるさ!」
「そうですか? 彼女の話によると、あなた方は彼女を虐待していたということですが?」
「血もつながってないのにおまんまくわせてもらってるんだ。少しぐらい働くのが当然だろう」
―――凍えそうな寒さのなかで、親切なひとにもらった毛布はとりあげられ、毎晩震えながら眠りにつきました。粗末な食事、罵倒と鞭で追われる日々。どんな些細なことでも殴られ、食事をとりあげられました。私はとにかく一分でも惜しんで勉強し、本を読み、やがて考えるようになりました。どうすればこの生活から抜け出せるかを。
以前聞いた彼女の言葉が蘇る。
「彼女の意見を聞きたいものですね。彼女の意見はちがうものでしたが?」
「ふん! あんたに遠慮してそういってるに決まってるだろ、馬鹿だね! 私らのほうを選ぶに決まってるだろ、この子は私たちが育てたんだから!」
そこで、ひよのの声が響いた。
「嫌です」
一瞬白くなったのはカノンとひよの以外の全員。そして最も早く復帰したのは、ひよのの両親だった。
「育ててやった恩も忘れて―――」
「拾ってやったのが誰だと思っているの? ひとりで大きくなったような顔をしてるけどね、私たちがいなければどうなっていたと思うの」
カノンはつい、失笑しそうになった。
ひよのがこの両親に拾われなかったら? ―――少なくとも今よりましだ。
ひよのは国の施設に預けられただろう。だがそこで愛情に飢えて育てられたとしても、今よりはましだろう。
こんな家族会議を開いたひよのの意図に、カノンは薄々気づいていた。
そしてその意図はもう果たされている。
目でひよのを窺うと、返ってきたのは同意の意。
カノンは声をあげる。
「失礼、ご両人」
ずっと影のように沈黙していたカノンの一声に、目線が集まる。
その視線を意識しながら、カノンはにこりと笑って礼をした。
「あなた方の希望が叶えられる日は、一生来ないでしょう。なぜならあなた方は、取り返しのつかないミスをしたからです」
「……え?」
「子供の親権は、原則親のもの。確かにそのとおりです。ですが、例外もある。親が子供本人の愛情のためでなく、金目当てと断定できる場合。そして、子供本人の意思が拒絶している場合、そして、子供を両親が虐待する場合、です。あなた方は、見事にこれらを肯定なさいました」
両親の干渉を、ここで断つのがひよのの目的。
ひよのはもっと時間をかけてたくみにそういう発言を引き出すつもりだったのだろうが、その必要もなく、あっさりと吐いてくれた低能ぶりにはありがたくて涙がでる。
ひよのはもちろん、その録音をしているだろう。
カノンの言葉の後を、ひよのが継いだ。
「あなたがたの今までの発言、しっかりと録音させていただきました。―――私はあなたがたの金儲けの道具になるつもりはありません」
青ざめる両親に、ひよのはにっこりと笑う。
「お父さん、お母さん。私になにかあったら、遺言状が効力を持ちます。お父さんが彼にいきなり殴りかかったのは、彼に個人的恨みがあるせいですね?」
……ひよのに危害を加えようとして、カノンに排除された人間の中に、入っていたらしい。
ひよのが立ち上がる。
「その恨みがどういったものか、私はここでは言いません。ただ、私が死んでも、決してあなたたちの得にはなりませんとだけ、言っておきます」
「……あんたなんて、拾わなけりゃよかったわ」
毒々しい捨て言葉。
さすがに聞き捨てならずに、カノンはそちらを振り向いた。
―――今、彼女の援助を受けているのはどこの誰だ。
そんな基本も理解しようとはせず悪罵ばかりを投げつけてくるひよのの親に最初から腹は立っていたが、その一言で底が抜けた。
カノンの手に、ひよのが触れた。思わず振り返る。
(どうしてとめる!?)
(駄目です)
目と目で会話。制止の意志は雄弁に。
……短いにらみ合いの末、カノンは息を吐き出し力を抜いた。
帰り道、僭越だと思いつつも、カノンは聞かずにはいられなかった。
「よく、君は愛を求めず愛せるね」
溺れるような愛を受けて育った人間は、人を無償で愛せるけれどもその逆はないとばかり思っていた。
両親に愛されずに育てられながら、ひよのの魂は高潔だった。
また睨まれるかと思いきや、ひよのはすなおに答えた。
「愛されたことがないから、ただ愛せるんです。誰かに愛された経験がないから、自分が誰かに愛されるに足りる人間とは思えないから、愛を求めず愛せるんです。自分が人を愛せる人間だという認識だけで、私は満たされました。鳴海さんは、私が誰かを愛せる人間なのだと教えてくれた。……私があの恋を後悔しないでいるには、それだけで充分です。―――愛される喜びは、愛する喜びには勝てないんですよ」
カノンはわざと軽く、しかし本心から言う。
「僕は君を愛しているけど?」
「……最高に悪趣味だとおもいます」
「そうでもないよ。―――君はいろんなことを知っているけれど、君が愛されるに足る人間だということだけは知らない」
柔らかく微笑むカノンの表情に、ひよのは数秒見入った後、わざとらしい嘆息とともに、目線を外した。
呆れてものも言えない、という態度。
それが、演技であることを、カノンは知っている。
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