水の彩(みずのいろ) 後編 5
あの日、シンはいつものごとく仕事机に座って、仕事をしていた。
昼を少し過ぎた頃だろうか、古参の侍女の一人が、来客を知らせた。仕事中だったので即座に断れと言ったが、長年仕えて主人をよく知る侍女は、控えめに赤の座の名を出した。
驚きだった。
二年前、兄を裏切り、彼の棟を辞去して以来、シンが兄とゆっくり話し合う機会は皆無だった。『―――帰ってくれ。今はお前の顔を見たくはない。いまお前の顔を見たら、自分を抑えられない』
その、兄が?
一瞬迷ったが、シンは来客用の部屋に通すよう言い、仕事を一時中断して(結局、その仕事はまだそのままだ)立ち上がった。
鏡を覗いて、見苦しくないことを確認し、シンは扉を開けた。
兄はソファに座っていたが、シンの姿に立ち上がった。
「―――久しぶりだね、シン」
以前と同じ、優しい笑みがそこにあった。
その時シンを襲った感情の渦を、どう表現すべきか。愛情と後悔と安堵と、涙がでてくるほど切ない何かと。
努めて、感情的になりそうな自分を制し、シンは微笑んだ。
「お久しぶりです。―――兄上」
赤の座とも、本名も呼ばず、そう呼んだ。
シンは、関係を修復したかったのだ。兄と、…以前のように呼び慕いたかった。
「美しく、なったな」
兄の言葉だったので、シンは微笑みを浮かべるだけにとどめた。他人、例えばキールあたりが言ってきたら、無言で一発殴るところだ。あいつが大人しく殴らせるかどうかは別として。
兄がごく自然な仕草で、頬にふれる。
シンは振り払わず、逃げないことで、それを許した。
兄はゆっくりと、言う。
「お前の美しさは、今が盛りだろうな。子供でもなく、大人でもない、今だけの瑞々しい美しさだ」
シンは、何も言わなかった。背が伸びたな、大きくなったなとかそういう意味だと思ったからだ。
だが、次の言で凍りついた。
「だから、その美しさをとどめよう」
それから数秒間、赤の座は何もしなかった。片手を弟の頬にふれさせ、その身を手をのばせば抱き込める彼我の距離に置いておきながら、何も。
しかし、シンはその数秒間を、全く無駄に空費した。
いつもの彼ならば、瞬時にその意を察し、すぐさま跳びすさるか、影に攻撃させるかしていただろう。しかし、シンは、ただ呆然と、愕然としていただけだった。
そして皇宮において、愚かな皇族に対する処遇はひとつしかない。
シンの腹部の急所に、拳が入った。恐ろしく鮮やかな当て身だった。
彼は意識を失った。
頬が冷たくなめらかな石にふれていた。除々に覚醒していく意識の中で、シンは目を開けずに己れの状態を確認する。
両手首に何かふれている。冷たく、重いもの。たぶん鉄でついでに鎖だ。上半身の、床に接している側面が、ひんやりと冷たい。服を脱がせられている……。
これで、服の結界はほとんど意味をもたない。服に仕込まれた護符は何十枚もある。それらが相互に影響しあって、あそこまでの防御力となっていたのだ。一部が欠損すれば、がくんと威力を落とす。
目蓋ごしの受光量で、室内の明るさを推測する。少し、薄暗いという程度だ。しめっぽく、かびくさく、手首には手錠。
(……拷問かな?)
皇宮内では、ほとんどの術が使用を制限される。だから、どれほど優れた術者でもこの鎖だけで自由を封じられてしまう。もっとも、シンは術者としてみそっかすだが。
(兄が…)
―――生きる理由はないけれど、死んではならない理由はある。シンは以前、キールに対してそう言った事があった。それは事実だったが、それからすぐに、シンは生きる理由を見つけたのだ。
シンが誘拐され、二日後兄に助けだされた。
弑虐趣味の変態だったが、それはどうでもいい。きっちり報復してやったので、気はすんでる。シンにとって大事なのは、その後の、兄が助けだされた自分を見たときの表情だった。崩れた泣き笑いのような顔に――心配かけてごめんなさいと思った。
そして、兄を悲しませるから、絶対死なないと、誓った。
(……うそだと思いたい)
だいたい、なんで本人の目の前であんな事を言うのだ? 警戒するに決まっているではないか。つまり、兄には何か、複雑な事情があって――そこまで考えて、何が何でも兄をかばいたい、悪く思いたくない自分に気づいた。
(……しょうがないだろ、特別なんだから)
感情を排して理論で行動すべし。情けない気分で身内にたたき込まれた鉄則に言い訳したとき、音が響いた。
「お目覚めになっているのは知っております。どうか、お起きください」
シンはゆっくりと体を起こし、それとともに床に渦を巻いていた髪も持ち上がって、頬に煤けた跡をつけた。
なまじ冴えた銀髪であり、抜けるような白い肌であるだけに、その汚れが一層白さを引き立てる。
目の前にいるのは、一人の青年だった。
頬がこけた痩せ形の男で、頭がやや薄く、髪が長い。肩ほどまでの髪を、首のところでまとめていた。成長期が終わった大人の年齢は、極めて判りにくい。だが、妙に老成した雰囲気があった。どこか、見たことのあるような顔だった。
「……シン」
「口を閉じろ」
シンは凍りつくような声音で言った。
「貴様にその名を口にする許しを与えたおぼえはない」
「―――では、青様」
シンは、人の顔と名を憶える訓練を受けている。というか皇族は全員そうなのだ。だから、この男には確かに会ったことがあると感じた。
「お許しください。私は仕事をせねばなりません」
…拷問吏か? だとしたら、見たことがあるのも、思い出せないほど薄いつながりなのも、判るのだが……。
シンは鮮やかに嘲笑する。
「安心しろ。道具にすぎぬ貴様などにわざわざ報復するほど私の矜持は低くない。お前の柄を握る主人にはそれ相応の代価を支払ってもらうがな」
その瞬間、男は意外な反応をした。
ふわりと笑ったのだ。とても優しく。
その顔に、シンは脳細胞がある記憶に一秒もかからず接続されるのを感じた。
白かった、貴重な紙ですべてが構成されていた、その人物の家族構成履歴が載っていた。
―――全シミナーの、報告書!
しまった、と目をそらそうとした時には遅かった。
ぴしり、と音がした。
背筋に悪寒が走りぬける。
精神と、肉体とのつながりを断つ音。シミナーのみができる芸当にして、シンにとってはお馴染みの(誰にか? もちろんあの腐れシミナーのせいでだ)音だ。
「…貴方がどれほど場数をふみ、どれほど腕がたとうが、体が指一本動かぬ状況では、いかんともしがたくありましょう?」
その通り。わざわざ嘲笑してみたのは、怒りで逆上してくれた方が、隙を見て殺しやすいからだ。
どれほど追い詰められても冷静に状況を見極め、判断できる、それがシンの最大の長所である。
目は見える。耳も聞こえる。触覚もある。体が、精神に与える情報は受け取れる。しかし、精神が、体に命令を下す事はできない。
(……シミナーなんてだから嫌いだ…!)
術じゃない。治療と同じく、シミナー独特の能力である。
そしてシンは、お馴染みだからこそ、この状態をどうしようもないという事が分かっていた。
何を頑張ろうがどうしようが、表情筋一つ動かせない。心臓や呼吸などの不随意筋は動いている。しかし、随意筋は全て停止していた。
「…虚ろな表情の貴方は、あまり美しくありませんね。…眼差しと、声を戻します」
指を鳴らすと、表情は自由にできるようになった。
「……一体、いくらで赤の座に雇われた?」
シミナーには買収はきかない。それは常識である。彼らは非常に欲望が薄く、世を諦観した人々である上に、望めばいくらでも贅沢ができるからだ。
「…貴方には、決して提供できぬ物ですよ」
赤の座、という言葉を否定しなかった。
しかし、否定しなかっただけに過ぎない。
人はよく言葉を省く。違っていても否定しない事は多い。例をあげれば十年と半年前の事をわざわざ十一年前、と数えていう人間は多くない。大抵四捨五入して十年前という。
―――キールの側で、揉みに揉まれたのはいい経験だったかも知れない。
シミナーへの対処法を、否応なくシンは身につけていた。シミナーと戦ったことのある者は滅多にいない。しかしシンにとっては日常茶飯事である。
いまも、顔は声のする方へ向けているが、目はしっかり閉じている。キールは精神操作をするとき、必ず視線を合わせる。そこから導きだした自衛法だった。
(私には提供できないもの……。兄には蒐集癖があったな。それに人材もいろいろと揃っていた。彼らか、それとも兄が集めた物か?)
「……青様。私は、決して貴方が嫌いではない。むしろ、非常に好意を持っている。敬意すら抱いているといっていい。特に、あなたの、図太い諦めの悪さに」
―――キールもそうだったな……。
自分のどういう所が、キールの気に入っているのかシンは知っていた。どうやらシミナーたちは、人間の嗜好が似ているらしい。
「…トルエア・サスーン。貴殿はシミナーだ。故にその身を傷つけることはしない。だが! 忘れさせはしない。貴殿の近くにいる者に気をつけることだ」
人が、一番傷つく事は、己のせいで大切な相手が傷つけられる事だ。
燃えるような声は、絶対に後悔させてやるという怒りに満ちていた。
シンは見ていなかったが、シミナーはことさら優雅に微笑んだ。時々キールが浮かべる表情と、双子のようによく似た笑顔だった。
「ええ。もちろん。青様、あなたは泣き寝入りという言葉と、一番遠くにあられる方だ。しかし、私に、愛する者など一人もいない」
そしてシミナーは指を鳴らす。
また喋れなくなったし、目を開けることもできない。
冷たい石の上は、ひんやりと冷たいが、濡れてはいなかった。指一本自力で動かせないシンには有り難い。汚水の中で呼吸するのはできれば勘弁してほしかった。
「…では」
シミナーが出ていく足音と、誰かが入ってくる音がした。
首が動かせないから、そちらが見えない。音と気配だけで判断する。
シンは諦めた。たとえ何をされようと、今の自分には何もできない。――状況判断の的確さも、長所の一つだ。
シンは、待ちの姿勢に入った。
次に目覚めたとき、シンは自分が嫌という程見覚えがある所にいるのを知った。
起きて、自分の体がもう動くことに気づく。瀟洒な寝台に手をついて起き上がろうとして、腹部に痛みが走った。
(……くっそ〜。好き勝手に人の体使ってくれやがって…)
痛む腹部に手をあてて、動く事を一旦中断し、シンは周りを見回す。
――やっぱり兄の私室の寝室だった。大きな寝台にはシンがつけた傷跡もある。
しかし、何故こんな所にいるのか?
(……実は兄に気絶させられた後、どこぞの誰かに横取りされててさっきまでそいつの所にいて、兄が取り戻してここに寝かした、とかか?)
シンが考えていると、寝台の正面にある扉が開く音がした。途端に緊張が走る。
「…やぁ、目が覚めたようだね」
入ってきたのは、兄だった。両手で盆を持ち、その上では暖かい皿が湯気をあげている。
「……兄上?」
シンは意表をつかれた。……だって、一番上の司令官が、無防備に捕虜、それも十分に攻撃力を持った捕虜に会うなんて、ありえない。作戦としては下の下にあたる。
(……本当に、さっき考えた事が正解だったとか?)
兄はすべるように歩いて、寝台の隣の小さな箪笥の上に、盆を置いた。
そして静かな水のような目で、シンを見た。
「馬鹿だ、お前は」
「……」シンは、黙って唇をかむ。
まったくだ。
「なぜ、今攻撃しなかった? 私の両手は塞がっていた。無防備だった。どれほど技倆の差があっても、さっきならば殺せていた筈だ」
人間、腕だけで勝敗は決まらない。今のような両手が塞がれた隙に攻撃されれば、格下の相手にも簡単に敗れる。
「……武器が、ありません」
「馬鹿をお言い。私も、お前も、素手で人を殺す方法は十分承知だ。それが皇族だからね。それでもと言うのなら、今武器は私が持ってきていた」
兄に飛び掛かり同時に盆の食器を手にとり、取ると同時に眼窩に突き立てるか、首筋の大動脈に突き立てる…それは、十分可能だった。
でも、……シンはそれをしたくなかったのだ。というか、思いつきもしなかった。
(ほんっとに、馬鹿だな)
「……何を餌に、シミナーを買収したんです?」
彼らがただで動く筈がない。誰のせいとは言わないが、シンにはシミナー=性格悪いという偏見があった。
非常に使い甲斐のある能力故に、シミナーを欲しがる人間は多いが、買収が不可能に近いことは周知の事実だ。
「…彼は読書家でね。特に、お前も入り浸っていた書庫に非常に興味を持っていた。その書庫の、永続使用権と、いくつかの貴重な書籍の譲渡」
……兄の書庫の、頭上の遥か上までそびえたつ棚の間にもぐりこむ感覚が好きで、シンはよく隅に座って読み耽っていた。
あの、書庫か、とシンは不思議な感慨にとらわれた。
「……兄上」
「なんだい?」
「私を辱めた男の名は?」
「知って…どうするんだい?」
「わざわざ言うようなことですか?」
薄く微笑むシンの目は、言葉よりも雄弁に語っていた。―――殺す。
「じゃ、教えられない。大体、お前も言っていただろう? 道具よりも、私に復讐をし。道具を使っていたのは、私なのだから」
雷鳴のように荒れ狂う衝撃を、シンは最大限の努力でこらえた。
…少しの希望を持ったが故に、あれが確かに兄の指図であることがたまらなかった。
「……、これは、報復ですか…?」
シンは、兄を手酷く裏切って彼の元を飛び出した。有り余る恩、一生かけても償いきれない恩――子の親に対する恩に背いたのだ。
だから、兄には報復する権利が、シンにはそれを受ける義務があった。
兄のしずかな眼差しが、自分に注がれていることを意識する。視線を敷き布の上に置き、シンは言った。
「……早く、殺してください」
もううんざりだった。真っ平だった。自分に兄は殺せない。そして、自分の性質を兄は誰よりよく知っている筈だ。自分を育てたのは、この兄なのだから。その兄を出し抜くことは、至難の技だった。
このとき、生まれて初めてシンは生きることを諦めたのだった。
「…シーン。お前は、本当に愚かだ……」
声が余韻を残し、その余韻もやがて消える。けれど、シンの心にできた波紋は、しばらく残った。
―――何故、兄はこんな事を言うのか?
その真意は何なのか。愚かだというのは、自分が何かをわかっていないからだろう。そして、兄の行為の真意はそこにあるのだ。
そして、兄が愚かというからには、シンの手元には謎解きの手がかりが全て与えられている筈なのだ…。
ぱたんと扉が閉まる音がして、シンの追憶はそこで破られた。
兄が出ていき、入れ代わりにあのシミナーが入ってきた。
シンが右手で盆から武器をつかみ、寝台のバネを味方に飛び上がってシミナーの背後へ降り立つまで一瞬。
直ぐ様背後から羽交い締めにして右手の武器を首筋に当てた。
シミナー相手の戦闘のこつ。それはひたすら早期決着、相手の目を見ずにすむ位置取り、最後に虚をつくこと、である。
部屋に入るとき、通常、人は扉の把手から床へ、そして正面へ視線が移動する。その虚をついた。
花も恥じらって姿を隠す程卓越した美貌の少年ではあるが、決してシンは弱くない。
(……やっぱりキールに感謝するべきか?)
背後から首を衿じめすると、手荒な事には慣れていなかったらしい。大事に大事にされてるシミナーでは無理もないが、あっさり落ちて、意識を無くした。
「そうあっさり精神操作させてやるほど、私は甘くないっ…」
そんなのはあのくそ馬鹿だけで充分だ。
シミナーの体を床に下ろし、シンは窓の鍵に手をかざした。呪で封じられている鍵は、シンには開かないよう設定されていただろうが、青の座であるシンには皇宮内の全ての鍵を開ける呪が付与されている。
(…兄は僕の逃走経路を読んで人員を配置しているはず。隠し通路は使えない)
シンは長年この棟で暮らしている。この部屋からどういう経路が一番抜け出しやすいか、それこそ隠し部屋の類に至るまで熟知していた。けれど、シンにそれを教えたのは、他ならぬ兄なのだ。
裏の、裏の、そのまた裏の裏。裏を読みすぎて、動けなくなる。
(けれど、僕が鍵を開けられることまでは知らないはずだ……)
シンは窓から身を乗り出し――背後から組みつかれて室内へ転げおちた。
「この……っ!」
格闘の技術だけで言うのならば、文句なしにシンに軍配があがっただろう。
けれど相手は自分よりはるかに大きな体の大人であり、シンには相手の目を見ないという制約があった。
とうとう押さえ込まれて目を見た。
その途端、意識が数秒空白になった。次に目覚めた時はひどく朦朧としていて、自分の上にいる人間を突き飛ばして、窓に足をかけたところまでは憶えている。
それから先のことは、まったく「もう一人の自分」の記憶になる。苦痛にうめいていたのが、最初だ。
たぶん、記憶が切断されたあの時、意識を失い、部屋から真っ逆様に落ちたのだ。全身がばらばらになるような痛みは落下の怪我だろう。そして無意識に、既知のここへ、飛んだ。おそらく。
何千回と往復した転移の道。無意識がそういう場所を選んだことは、以前もあった。
―――と、シンは考えていたが、キールの考えはそれとは意を異にする。
シンがかなり重大な誤解をしていて、自分がその誤解を解く鍵を持っていることをキールは知っていたが、解いてやる義理もない。放っていた。
だいたい、記憶を失った絶世の美貌の皇族が、偶然たまたま旧知の友人に発見されるなんて事があるか。
シンは他人の下心と所有欲をこの上なくくすぐる極上の獲物だろう。しかも記憶を失っているから牙もない。そんな少年を預けるのには細心の注意がいる。
それに、ナギ家以上の場所があるか?
シンの美貌に慣れているし、親しいし、シンと結ぶ線もないし、シミナーがいるから、一人ぐらい扶養家族が増えても負担じゃないし(キールはお金持ちである)。
無意識で跳躍した云々は可能性からとりのぞいた。皇宮では、ほとんどの術の使用が制限される。
よって、キールたちの行きつけの場所にシンを横たえたのは、シンの兄の仕業としか考えられないのだ。キールにはむしろそのことにシンが思い至らないほうがふしぎだった。
殺せないならば、記憶を封じて市井に落とそう。お前はそこで幸せにおなり。
―――そういう声が聞こえてくるような、心を砕いた細心の扱いであった。
が、キールはそれをシンに教えてやる気はさらさらない。
元々皇族は殺しあいをする生き物なのだ。その時期が多少早まったところで何という事もない。大体、本当に愛しているのならばどんな状況でも殺さないはずだ。
キールは嘲笑とともにそう考えていた。
見えるものと、見えないもの。
人はあるものを見て、あるものを見ない。それが延々と無数に積み重なって人の世はできている。
だから、人が人であるかぎり、自分の事すら判らないかぎり、誤解から決別する日は、決してない。もしそんな人間がいるとしたら、シミナーぐらいだ。
ならば、シミナーは幸せな人種だろうか? 誤解をすることもなく、錯覚を起こすこともない、とても遠くまで見透かす眼をもつ、一握りの幸運な人間だと?
……キールにはとてもそうは考えられない。
人には、誤解する事が必要なのだ。
錯覚することが。人に夢をもつことが。人という生き物に希望をいだくことが―――必要なのだ。
たとえそれが偽りにすぎなくとも。
人は、決して混ざりあうことなく死んでいく、孤高で孤独な生き物だ。誤解がもたらす悲劇など、この世に人が生まれ出でてから、幾千、幾万を数えたであろうか?
沈黙の掟は、ひとつの決定的な誤解を生み出していた。
水の彩、完結です。
中でも言いましたが、これの目的は「キールの自覚」でした。
家族以外はどうでもいい、という彼の本心は、最終話で明らかになります。
白霧の朝、は番外編でキールの幼少時、七歳のときに精霊と出会うお話です。
そしてその次が最終話です。やーながかったですねー。
いつもとは違い、さしてお待たせすることもなく、お見せできると思います。
「儀式」でも「白青緑」でも予告していた、「キールとシンが十七歳の日」から、ラストスパートは始まります。
2002 5/30 up