水の彩(みずのいろ) 後編 4

 

 

 論理的に思考しよう。
 それは皇族として生まれ落ちて、二番目に学んだこと。

 常に自分を見つめる客観的な視点を手に入れよう。
 それも、皇族として学んだこと。

 人間である以上、シンだって恐怖心がある。例をあげれば身近なシミナーに、恐怖を抱いている。
 巨人を目の前にして、シンは逃げるのをやめた。向き直ると、巨人もぴたりと止まった。
「これがここにあると言う事は、僕は別のものに恐怖を抱いているということか…。じゃあ、僕は、お前の何が怖いんだ?」

 能力は却下。今のシンの方があらゆる面で、格段に上である。
 巨人の肩の上に、シンの顔がついている。真下のこの位置から首が痛くなるほど見上げても、巨人の胸の厚みで顔は隠れていた。

「お前が僕の恐怖心だというのなら、僕は、内心では判っているのだろうな。……そう、お前が僕に抱いた感情を、僕は知っているよ。キールが看病をしていてふと洩らした言葉で、お前は、キールがお前より僕を選んだことを悟ったんだ。そして、お前を消そうとしていることも。―――嫉妬と、殺意だ」
 巨人は、縮んだ。

「じつに素直ないい反応だ。……記憶が戻ってすぐ、お前の記憶を一から全部辿った。恥かしさに布団をたたくわ、枕にかみつくわ、のたうち回りっぱなしだったけどな。そのとき一番に思ったのは、もちろん、……なんでキールはお前に優しいんだろう、だった」
 自分には、頭痛がするほど嫌味だった。
 どころか、殺されかけた事も、一生許せないような事まで何度もやられた。…でも、同じぐらい助けられもしたが。

「精霊が、殺そうとした、って言ったよな。僕はそれがどれのことか、薄々わかる」
 奇妙な――事件だった。精霊が関与しているか、あるいは精霊と親交のあるどっかの誰かが関与しているとしか思えず、当時の自分には精霊に喧嘩を売られる憶えがなかったから、キールの悪業リストの中に入れておいたのだ。記憶を失うまで。

「止めたのはたぶん、…いやほぼ確実にキールだ。人を殺しかけておいてのこのこと現れるもんだから、ぶん殴った憶えがある。あれは、恩を仇で返したの実例だよな。日頃の行い及び過去の殺害経験につい……」
 人間、日頃の行いが大事である。

「でもキールは、お前には優しかった。流石に最初はのたうちまわってたけどな。僕は、……お前が、羨ましかった。でも、羨んでいる自分を認めるのが怖かった。嫌だったんだ」
 巨人が、自分と同じ大きさまで縮んだ。
鏡のように対称的な自分がそこにいて、手をのばしてきた。
『さぁ。シン、僕と同化して』
 それで全ては万事解決、なのだが。
「……なんで僕がお前と同化しなきゃいけない?」
 シンはどこまでいってもシンであった。

 相手は、戸惑ったようだった。
『僕になりたいって、思ったんでしょう?』
「ああいう風になりたいと思う瞬間は誰でもあるさ。でも、あくまで心に思うだけであって、現実になる事を考えたらげっそりする、なんて事は少なくない。あくまで夢想は夢想、現実は現実だ。イールのようになりたかったと思っても、実際にそうなりたいと努力はしない。なにより、お前なんかを僕の中に入れたくないし、入れた後の変化がどうなるか判らないもの、試すのもごめんだ。
き、え、ろ」

 シンはいらない。
 こいつのような弱さも、素直さも、いらない。シンが生きていく世界は、修羅の世界だ。そこで生きていくことを決めた時から、自分は自分ひとりの力で生き抜くことを決心した。
「お前は甘ったれてるだけだ。僕はお前のそんな甘えなど許されない世界にいる。僕はその世界でどんな事をしてでも生き抜くと決めた。何があっても頂上まで行くと決めた。だから、いらない」
 眼差しにあらわれる、烈しい、意志。
「だから、消えろ」
 睨みつけて一字一字はっきり言うと、鏡のようだった相手は消えた。
 …もう、夢は見ないだろう。

       § § §

 兄妹だから、大切だ。シンはその考え方がどうしても理解できない。

 たとえば、育ててくれた兄上のことは大事だし好きだ。でもそれは、彼が自分のことを大事にして愛してくれたからで、兄妹だから、なんて理由じゃない。
 大事にしてくれて、愛してくれたから、大事にしたいと思う。それは理解できるのだ。
 しかし兄妹だから大事だという考えが、シンは理解したくないし理解する気もない。

 シンは三面鏡の前で、椅子についていた。
 周りではちゃきちゃきと鋏が鳴る音が響いている。
 記憶喪失の間、手入れを怠ったおかげで不揃いになってしまった髪を切り揃えているのだ。キールは手先が器用で、シンの髪を昔からよくおもちゃにしていた。

「お前……仕事は?」キールが言う。
 皇族内でも高い地位にあるシンはもちろん、沢山の仕事を抱えている。
「……皇宮に帰れば、兄と会うだろう? 僕は、どういう顔をすればいいのかさっぱり判らないんだ」
 シンは目を伏せた。
 シンはこれまでに四人の兄姉を殺しているが、罪悪感などほとんどない。
 敗れれば自分が負けている。ついでに、兄姉ではあるが愛情も何も感じてない。その現実の前には、罪悪感など入りこむ余地はなかった。

 けれども、兄に関しては、躊躇うし迷う。
 実利で考えれば、殺してしまうのが最善だ。なのに、それを実行に移せないでいる。
 キールの冷静な声が響く。
「大きく分けて二つだろ」
「…報復するか、しないか、か?」
「そう」
 キールが手を動かしつつ頷く。シンは尋ねた。

「ところで――この一月、ほんっとに、何も、無かったのか? 僕が知らないところでお前が刺客片づけたりとか、してないか?」
「してない。変な誘いはあったけど」
「……想像つくけど、言ってみろ」

「いくらだ?ってさ。シミナーを買収しようとは無謀なやつめ」
 キールはシンが烈火のごとく怒るかと思ったが、普通に返した。
「お前は一見びんぼーそうに見えるからな。無報酬で治療やってるし」
「……怒らないんだな?」
 キールは意外そうに聞いた。シンは肩をすくめて、
「慣れてる」
 と答えた。

「大体、きっちり筋を通して交渉してくるぶん、まだしも良心的だろうと思ってる。いきなり暗闇にひきずりこんだり、料理や酒に怪しげな薬落とす連中よりは。……兄にもよくそういう話が来てたよ。僕が欲しいから、大金払うし権益を保障するし、事業の投資を協力するからと実にいい条件を挙げるんだ。だから、譲って欲しいと。……なんであそこで断るんだかなー。わからん」
 キールはため息を落として、手を止めた。

「……お前なぁ。自分の事だろうが」
「僕なら間違いなく売り飛ばすぞ、あんな条件並べ立てられたら。しかも、育ててて何かいい事あるかと言うと、何にもないんだ。子は親には従わず。結局恩を仇で返して裏切ったしな。しかも、なんで僕がその話を知っていると思う? これこれこういう話を持ち掛けられたから、その人物には注意するようにと言われたんだ」
 ……兄はいつも人目を引くように生まれた自分に配慮していてくれた。
 影も半分も裂いてつけていてくれてた(そのお陰で兄の方が危険になったのに)。
 にも関わらずこんなのに育ってしまったが、それはあくまで自分と、兄を除く周囲のせいであって、兄の責任ではない。

「…まったく、兄が僕を育てたというのは非論理的なんだ。僕を育ててこの容姿を武器にするわけでもなし、育てることで何か得がある訳でもなし、無害ならまだしも、とびきり有害だったのに」
 キールはいったん手をとめて、髪留めを手にとる。
「…で、その事に大層、恩を感じている訳だ、お前は」
「そう。ついでに愛情も大層感じている」

 シンはちょっと考え、言葉を付け足した。
「僕は非論理的な事を考えるとき、愛とかいう認識不可能な言葉を方程式にぶちこむ事にしてる。論理的にありえないことは全部愛のせいだと考えるんだ。そうすると、案外すんなり納得がいく」
 今では自分の行動にもぶち込んでいる。兄を殺せないのはなぜか? 殺す理由もあるし、どう考えても殺した方がいいのに。答え、愛しているから。

「で、その反面、穴にもはまりやすい、と」
「……その通りだ。兄がああいう目的で僕を育てていたなんて思ってもみなかったからな。てっきり、その方程式のせいだと思ってた。僕を愛しているからだと」
「ほー。どういう目的だったんだ?」

「一番美しい時期まで育てて、まぁそれは兄いわく、今なんだそうだが、後は剥製にするもよし、生き人形にするもよし、はたまた凍結させるもよし…どれだと思う?」
「やっぱ凍結かな。生き人形は体を楽しめるけど、加齢するから。一番美しい時に殺す、意味とそぐわない」

 ブラックな問いにそれ以上にブラックに、平然と返されて、シンは少々沈黙した。
「……死んだ後の体がどうなったっていいけどな。兄に死姦の趣味はないと思うぞ」
 レイオスでは精神が基本だ。肉体が生きていても心が死んでいれば死と見なされる。以前キールが記憶喪失中のシンを「死亡中」と考えたのは、彼らの流儀では当然だった。

「えー、お前の容姿なら新たな嗜好に目覚めるって可能性も高いと思うけど?」
 ……想像したくない。
「お前な、兄貴を別格化しすぎ。お前の兄も、皇族だってこと忘れてるのか? お前には優しかっただろうけど、きっと別人には鬼みたいに冷ややかで、ついでに人殺しでもあるぞ。今生き残ってる皇族って全員そーだろ」
 図星をつかれた。

 シンの兄の印象というと、立派で高潔で優しく思いやりがあり…等々の欠点なしの人間離れした人物になる。その兄もまた、自分と同じく皇族(それも有力な)であることを、ころりと忘れていたのだ。

「ついでに言えばだ。兄貴に色々とされたんだろ? よくまぁ、変わらずにいられるな」
「……笑いたきゃ笑え。僕は、兄を切り捨てられない。いくら酷い事をされても、それでもあの人が僕の……親なんだ」
 愛情というものの肌触りも匂いも、あの人が教えてくれた。普通なら当然のこと。けれど皇宮では、異常の極致。

「理性はお前と同じく、殺せと言っている。でも感情が、どうしてもそれを承認しない!」
 感情の制御には慣れている筈だった。どんな感情も、少し時間があれば整えて理性的に下せる自信があった。
 恐慌も、動揺も、…焦りすら。

 それができない皇族は、死ぬしかない。
 それができない皇族は、とうに死んだ。
 キールが目の前で人を殺してみせたとき、シンは動揺も恐慌もわずかな時間でおさめた。あのとき恐慌状態のまま背中を見せて逃げていたら、シンはここにはいまい。冷静に対処したからこそ、キールは「この相手ならば取引できる」と判断したのだろうから。
 そして実際に、キールを捕まえる得と損、シンは冷静に考慮して、事件を闇に葬った。

 目が見えなくなったとき、動揺も焦りも短時間だったのは、動揺しても何の解決にもならないことは分かり切っていたからだ。更にはその結果、他の皇族に情報が漏れでもしたら、たまらない。動揺している暇があれば、もっと有意義なことに使うべきだ。

 実際はそう思っても行動できないものだが、その徹底した合理性が皇族の特徴であり、皇族が生き残るための最低条件でもある。
 なのに――シンは、この件に関しての主導権争いでは、感情に競り負けた。ことこの件に関しては、理性よりも感情が勝った。
 どれほどひどい事をされても、嫌えない。
 憎むことすらできない。心はただひたむきに、思慕する。髪をなでる手の感触。耳に心地よい竪琴の音。頬や目蓋や唇にふれる、優しい口付け。低く穏やかな声の響き、兄の匂い。
 記憶は五感すべてで構成されている。その記憶すべてが、氾濫する。
「……愛しているんだ。傷つけられない」

 拭えぬ愛情に苦悩し、悶え苦しみつつも、シンはそう決断した。
 そしてその感情はまた、何年か前に赤の座が経験したものと全く同じであることを、シンが知る術はなかった。
 自分でも、呆れる。あれだけの事をされて、まだ、心が慕っている。

 ではさぞかしキールは呆れているだろうと窺うと、意外や意外、実に柔らかい顔を浮かべていた。苦みもある、優しい共感。
「わかるよ」
 返された言葉に、シンは驚いた。
「嫌いになるべき事をされたのに心はそう簡単には変わらなくて、その頑固さに、自分でも情けなくなる。気持ちの切り替えが、そう簡単にはできないんだ…」
 海を渡る風のような声だった。シンは呆然とし、キールはそんな幼馴染みを笑みを含んだ眼差しで見つめて、唇を開いた。

「……お前を、尊敬する」
「はあ? キール、頭どうかしたか?」
「素直に受け取れよ。俺が人に敬意を払うなんて滅多にないんだから。お前って見てて飽きないね」
 不意に、シンは掌を握った。意図して言ったのか(キールの場合、この可能性が否定できない)偶然か、その言葉は心の琴線をかき乱すものだった。

 

 

2002 5/26 up

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