水の彩(みずのいろ) 後編 3
シンが突発性(必然的と言うべきか?)癇癪を鎮めて出てくるのには、夜までかかった。
そしてその頃には、一家は別の問題に取り囲まれていた。――ナギが帰ってこないのである。
ナギは二日前、解毒剤を求めに、シミナー管理局へ出掛けて、それから帰らない。
双子が食卓で話し合っていると、シンはようやく部屋から出てきた。
「……ナギが、どうしたって?」
シンが声をかけると、双子は振り返った。
全く同じ顔の少年二人がシンを見つめている。……記憶が無かった頃には見分けられていたのだが……もう、判らない。
「あ、シン…もう、大丈夫?」
優しく聞いてくるイールはいいとして、シンはキールをきつい目で睨んだ。
「―――キール。頼むから、言っておくぞ。この半月にあった事を口に出すな。いつもみたいに受け流せる余裕は、僕にはない」
「……つまり、無かった事にしろと」
「そう言うことだ」
嫌悪に全身が震えた。自分でない人間が、自分の体を使っていたのだ。これでぞっとしない人間がどこにいるだろう?
それも自分などと言われても、到底認められない。キールだってナギだってもう一人の彼だとて、言っていたではないか。
あれは、今現在この体を支配している皇族、青の座の者では有りえない。
自分ならとるだろう行動をとらず、自分ならしない判断をし、全く別の思考原理で動く、その時点でそれは別人だ。
「へー。残念。前のお前って、わりと素直で好きだったのにな」
イールが天を仰いだ瞬間、シンの容赦なしの一撃がキールの足を床に縫いつけていた。
シンが右手に剣を半瞬で呼び出し、渾身の力で突き立てたのだ。
「……言ったはずだ。二度と言うな!」
シンが離れ、キールが流石に顔をしかめながら剣を抜きうずくまって癒しを足にかける。
「……いっつー…」
その間に、イールがシンに事情を説明した。同じ室内で重傷を負い、うめいているキールがいないもののように平然と振舞うあたり、イールも二人の間の刃傷沙汰には慣れている。
「ナギが戻ってこないんだ。解毒剤取りに管理局に行ってから」
「……あれから何日経ってるの?」
双子は上下で顔を見合わせる。二人とも、昏倒していた。シンも含めれば三人とも。
「…最低二日、かな」
キールが立ち上がった。
「俺が、管理局に行ってくるから。イール、留守番頼む」
キールがショールを巻きながら言い、シンもそれには賛成だった。管理局とは、要するに、「シミナー様のご下僕です」の集まりだ。シミナーのキールが行くのが一番いい。
以前、シンはそのからくりをキールから聞かされた事があり、このド外道が! と思ったものだが――キール曰く、精神操作は好意と犠牲的精神。この二つの組合せが一番よく効くんだよな、勝手に貴方のためなら火の中水の中ってなってくれる。との事である。
管理局とは、代々シミナーに精神操作された可哀相な人々の集まりなのだ。
扉を閉ざす前、キールは少し振り返った。
「…シン」
また何か言う気かと、二人とも身構えたが、
「ごめんな」
それだけだった。
その日の夜、ナギは憔悴した様子で帰宅した。
どこで何をしていたのか。
さっさと寝台についた父親をまさか叩き起こして尋ねるわけにもいかず、イールは自然ともう一人の事情を知っている人間―――兄に質問をぶつけようとして、またもたたらを踏んだ。
イールは子供部屋ですーすーと寝息をたてる兄を二十秒ほどもながめ、その隣に目をうつす。
子供部屋には寝台が三つ。左からキール、イール、シンの順でならんでいる。照明を落とした闇夜のなかでその美貌は灯のようだった。
「シン。ナギが……どうしてどうなっていたのか、知ってる?」
シンはかぶりを振る。
「僕も聞いてない。想像は、つくけど」
「何が起こったの?」
「何がってそりゃ……、事実は論理的な推理にもとづく帰結と近似値にあるものだよ。ナギはシミナーの、キールの親だろう?」
イールは頷く。
「その人間がいきなりナイフを持って、毒でキールが傷つけられた、だから鑑定してくれ―――と言ったら、どう思うと思う?」
「……大変だ、早く鑑定しなくては」
シンは髪を揺らしてわらった。
「その通り。でもね、普通、毒物の鑑定をする一方で、医者を派遣しようとするんじゃないかな?」
イールは思わず声をあげた。
「あ、そうか!」
「そして、もちろんナギの側には医者に来てもらってはまずい事情があった。―――なんせ、臥しているのは僕だからね。それに、そうでなくとも、僕が人目につくのはまずい」
シンは、三年前、ナギに自分の本名と身分を明かしてあった。
とはいえそれをイールには言えないので、
「まずい? なんで?」
という質問には肩をすくめ、嘘と真実をまぜて焼き上げた虚偽という名の菓子を差し出してみせる。
「まずいさ。僕は、お忍び、でここに来ているんだよ? シミナー管理局の人間なら、もしかしたら僕の顔を知っている人間がいるかもしれない。そうでなくとも僕は目立つ上に憶えられやすいんだ。もしも僕のお忍びがバレたら、下手したら二度とここへは来れない」
「ああ……そうか……」
「はいここで質問。ナギはどうすると思う?」
「…………止める」
「はい正解。じゃ、再び質問。ナギのその態度を、シミナー管理局の人間は不思議がらずにいられると思う?」
「…………思わない」
「そういうコト」
シンが話しているのは推理ではない。れっきとした、自分の耳で聞いた事実だ。
一度皇宮に戻り、シミナー管理局の人間から話を聞いてきた。
なんとこの二日間、彼らはナギを尋問していたのである。尋問!
キールの「俺の家にナギの許可なく立ち入るな!」という命令がなければ、とっくに押しかけてきていただろう。
「つまり……拷問、されてたって、こと?」
「まっさきに、キールの殺傷を思い浮かべたんじゃないかな。ナギはキールの親だからね……。それでも尋問程度だったと思うけど? なんせキールの怒りは無能な管理局の人間にも容易に想像できただろうし。……無事でよかったよね」
そう言葉を区切り、シンはイールに向けて微笑んだ。
それは演技も入っていたけれど、それでも半分は本気の、優しい笑顔だった。
イールもうん、と頷いた。
イールはこの綺麗で聡明で優しくかつ、外見とはまったく違って灼熱のように誇り高い幼なじみが好きだった。兄の次ぐらいに。
―――そしてだからこそ、彼が憔悴していくのを見るのは、つらかった。
記憶がもどって、丸一日がたつ。なのに、シンは、まだいた。イールの知る限り、記憶が戻ってから、家に一度も帰ってない。
「…あの、シン、大丈夫? なんか、ものすごく、元気ないけど……」
「……ごめん、イール。今は落ち込ませてよ」
「うん…」
とその場は引き下がったイールだが、いい事を思いついた。シミナーである兄は、当然の事ながら人の心理に非常に精通していて、いつも的確な助言をしてくれる。そして、兄は家族に甘い。
ならば、キールにシンを助けてと頼めばいいのではないか。
一方翌朝イールの依頼を受けたキールはしばらくごね続けた。
「やだっ、勝手に落ち込ませておけばその内浮上するって」「あいつが俺の言うことなんて聞くはずないだろ」「だーかーら。大嫌いな奴の治療なんてしたくないっ」
そのキールが遂に折れたのは、説得から五日目。日々シンが憔悴していき、頬がやつれ、瞳にもいつもの強い光がないのを見ていたからだった。
キールは家族二人に事情を含めて家から放り出すと、自身は寝室に蹴こんだ。
ぼうっと幽鬼のように寝台に腰掛けていたシンは、派手な音を立てて乗り込んできたキールの方を向く。
「…何の用だ」
「イールが心配している」
キールは一言で自分がここにいる理由、何をしようとしているのかを説明した。
「……治療をする気なら受けるつもりはない」
「シミナーの治療はしない。普通の相談だけだ。ほれ症状言え。安心しろ、今の俺はシミナーとしての俺だ。患者の言うことには守秘義務がある」
「…………」
シンは考えた。シミナーとしてのキールの口の固さや信頼度はシンも知っている。
仕事となれば、キールは悪ふざけはしない。
一人で悩んでいるよりも、信頼できる相談者に聞いてみた方が、良いかもしれない……。
「夢を、見るんだ」
「どんな?」鋭い質問がすぐさま飛ぶ。
「……僕の顔をしたあいつが現れる夢だ」
「もう少し、詳しく」
「巨人が追ってくる。僕はそれから逃げる。踏み潰されないように逃げる。捕まったら殺される。それだけ知ってる。だから、ひたすら逃げて、逃げて、そして目が覚める」
「捕まる瞬間、目が覚めるのか?」
「いや、逃げつづけて、朝がきて、隣のお前たちが起きる気配で目が覚める。夢を見ている間、ずっと逃げている」
「うん、…っと。シン、目合わせるぞ」
キールは断ってからシンの顎をつかみ、目を合わせる。
しばらく経った。
「……術は完全に消えてる。となると…外因じゃないな。内因だ」
「一つ聞きたいんだが、……僕が今記憶を封印されたら、あいつになるのか?」
「ならない」
キールは断言した。
「あいつの記憶は痛みと苦しみから始まった。死を望み、苦痛から解放を願った長い長い時間が、あいつの最初にして巨大な精神的外傷となった。それから救ってくれた俺を絶対とし、臆病で、……けれど記憶がない分非常に素直で、物事をありのまま受けとめる。たとえば動物が喋っても、不思議だと思う常識がないからそれをそのまま受け入れる。それがあいつの性格。今真っ白になったら、あいつのように痛みや苦しみの長い時間がないから、育て方を注意すれば、それこそ天使のような、人間ができるだろうな。でも、あいつじゃない」
「……なるほどね」
判りやすい説明は、すんなり腑に落ちた。
「お前は記憶を持っている。その時何と思ったのか、それすら知っている。でも、知っている、だけだ。共感はしない」
「自分でも同じ選択をするだろう、と思う所は、共感するぞ。一二回しかないけど」
「そりゃな。全く接点のない人格なんてない。
要するに、お前はあいつの記憶を持っている。けれどそれは小説を読んだように、自分自身の物だとはかけらも思えない記憶だ」
キールは背を伸ばし、話を変えた。
「シンお前さ、死者の姿って見たことある?」
キールは時々話が異様にふっとぶ。シンは?という顔になった。
「ない」
「俺もない。何故なら俺たちは幽霊なんてものより、生きている人間の方が余程恐ろしいと知っているからだ。世に言う幽霊とかいうのは、ほとんどが、幽霊が怖くて、出ないで出ないでと思っている人間が風だの木だの、精霊のいたずらだのを見て想像力で作り出した幻だよ。……まー俺も全知じゃないから、この界のどっかに、ひょっとしたら一二体ぐらい本物がいるかも知んないけど」
「……要するに」
「その夢の正体はお前の恐怖心。幽霊が怖いから、何を見ても幽霊に見える。それと同じで、怖いから、見る。お前はあいつについて、誰より詳しく知っている。だから、そのどこかに、お前が恐怖を抱く理由があったんじゃないか」
「……体を勝手に使われる事は、確かに怖い」
「それはない。有り得ないね、絶対に」
キールはシンの瞳をのぞきこんだ。
「いいか、シミナーの、誰より人の精神に精通している俺が断言する。あいつは消えた。二度とお前の体を使うことはない」
その言葉はすとんとシンの中に落ち着いた。納得したのだ。もしシンの恐怖がキールの言ったものならば、もう夢は見ない。
しかし、もし別の事に恐怖していたのなら、……夢を見る。
「何なら安眠の術かけてやろーか?」
「いい。…僕の、恐怖心か……。本当に確かか?」
「知るかよそんなもの」
正直と言うべきか、キールはにべもなくそう言った。
「シミナーとして、お前の精神に接触して行なう治療じゃない。外側から、言葉から中身を類推してやる誰でもできる相談だ。絶対なんて保障できるか」
キールははっきりと言い切り、言い切ることで突き放した。
なるほど。正直であるということと、誠実であるということは違うものだ。
キールの言葉はこの場合嘘偽りのない事実ではあるのだろう。だが、事実をいうことがイコール誠実であるとは限らない。
キールは平静な眼差しで、シンの方に視線を向ける。
「……かと言ってお前、俺に治療なんてやられたくないだろ?」
「……お前がいやなんじゃない」
他人に、個人情報を読み取られること、それが嫌なのだ。
「うん、わかる。俺も嫌。だから、お前に治療を受けろなんて言わないし、やってくれと言われたとしても、たぶんやらない」
それが、患者の互換協定の存在理由。
二度と会うことのない他人に知られている事は、気にしなければ済むが、毎日顔を合わせている知り合いは、顔を見るたびその事を意識してしまう。
キールはシンの額を撫であげた。前髪を引かれて、シンはキールを見上げる顔になる。
「今日はちゃんと食べるか?」
「…わかった」
「貸し一つな」
「……お前の言うことが、当たってたらなっ」
キールが出ていき、シンは短く毒づいた。
シンは一旦家に戻り、皇族の服を持ち出していた。キールは人と視線を合わすことで、精神操作を仕掛ける。皇族の護符仕込みの服は、それを防ぐのだ。だから、この一月なにをされたか不安で仕方がない。
何か精神操作をされても、受けた側には全く自覚がない――というのは、キールと付き合った苦い経験で、学んだ事実だった。
2002 5/21 up