水の彩中 6
戦線離脱したイールと違い、キールの戦いはそれで終わりではなかった。
焦燥とともにある選択をすべきか、否か、考えていた。
この世にある全ての毒に解毒の術は存在する。そしてキールはその全てを憶えている。この内のどれかは、シンの体内の毒を薄めることができるだろう。……当たれば。
そして、全ての術は体力を消耗する。
このまま生気を与え続け、ジリ貧で時間を稼ぎ、ナギの帰りを待つか、あるいは何十分の一の確率に賭けるか。
「…くそっ」
ほとんどの毒物に耐性のあるシンでこれならば、まず速効性の毒…ひょっとして、即死の毒かも知れない。
ここまで保っている事が、シンの、見かけによらないとんでもない頑丈さを示していた。
「……死ぬなよ。死なないでよ。ナギ…ナギ! 早く帰ってきてよ! だ…」
キールは唐突に口を閉ざす。
今、とんでもない事を言おうとしていた。
だれか、助けて。
それは、理性では押し止められない衝動だ。どうしようもならない状況において、人の心が放つ不可避のさけび。
だれか大いなる力を持つ慈悲あるものよ、助けてくれ!
それが、人に神が必要な理由だ。でもキールに神は必要ない。
「……俺は、強い。誰にも助けられる必要なんてない! 俺は強いんだ!」
冷静になれ……冷静になれ。冷静になれ。
誰か助けて、それは愚かな者が言う事だ。でも、自分に助けは今必要だ。誰なら助けてくれる? そう考えないと。
「…患者…」駄目だ。動揺しきってる。住所が思い出せない。翔べない。
「…家族…」患者の家族も同じく、駄目。
「…シンの部下…」居場所を知らない。第一事態を納得させるまでに時間がかかるだろう。
「……シンの、家族」
シンの、兄。あいつならば……!
ああ駄目だっ。皇宮は翔べない。皇族に会うまでとんでもなく時間がかかる。皇宮の中に忍び込んだら、自分の今の体力じゃ、多分死ぬ。
後は、後は。
「……精霊…」
……最後の最後の最後になったらやろう。そう決め、保留する。
友人の、死の女王の事が頭に浮かんだ。
「…お願いだよ、リルレーン…。シンをつれていかないで……!」
叫び、キールはシンの胸に顔をうずめた。
まだ、心音はある。まだ。
キールはしばらくそのままの体勢で、じっとしていた。
ぱたんと玄関の扉の音がしたのは、しばらく経ってからだった。
「ナギ!?」
飛び起きた。
勇んで走っていったキールは、本当に動転していた。待ちわびた音だということが、彼に警戒を忘れさせたのだ。
落ち着いていれば、キールはそれがナギでない事に気づいただろう。キールは確かに誰より強い。しかし、キールが今までその座にいたのは、強さよりも、油断も焦りもしない心によるものが大きかったのだ。
キールは常に冷静だった。……今までは。
それを見た瞬間、キールは立ち尽くした。
「…影」
皇族の私兵。精神を持たない、道具。
「我が主人の命により、参上いたしました。これを」
と、差し出したのは、小さな薬瓶と、注射器。使用説明書。
「そして、足りぬ様であれば、私どもをお使いくださいとのことです」
…待ち望んでいた、解毒剤…?
キールは瞳に残り少ない力を集中させた。それだけの価値が、これから得る情報にはあった。
キールが意図的に人と目を合わせるとき、人の内面は丸裸になる。
「……お前の現在の主人の名は?」
シンの兄の名を、影は答えた。嘘はない。つけない。
と、言うことは、これは本物だ…!
キールは全身の力が抜ける思いだった。
自分なら、この状況で味方を装い、解毒剤だと言って毒を渡す。しかし送り主は確かだ。ならば、一刻も早く…!
キールは説明書を読み、慎重に量を計って注射した。
シンの兄には感謝せねばなるまい。
彼の部下が、キールたちを観察している事には気づいていた。シンが心配だったのだろう。だいたい、今回の事件自体、少し考えれば判るぐらいおかしかった。
キールは、シンの兄にいい感情を持っていなかった。なぜなら彼は、キールに似ているからだ。
本人も、周囲もそう思っていないが(なんせ彼ら二人が顔を合わせたのは、キールが五歳の幼児のみぎりの一回だけだ)、シミナーの評価と一般人の評価、どちらに信憑性があるだろうか。
シンから少しずつ熱が引き、苦しげな息がやんでいき、汗が止まっていくのを見る数時間は、至福の時だった。
しかし……毒というものは、毒だ、解毒剤だ、消えた、では終わらない。
こう考えれば判りやすい。
毒は体の機能を壊しながら全身に広がる。解毒剤は遅れてやってきて、全身に広がっていき、行く先々で毒を中和していく。
で、毒によって壊れた機能は元にもどるのか、というと、…否、なのだ。また、末端の毒を中和しきれず、麻痺などが残る事も多い。
解毒剤はあくまで、その毒の対になって成分を中和する薬物である。
そして、解毒剤をそのまま健康な人間が飲んだとしよう。まず、毒になる。解毒剤とは毒の反対の属性を持つものではなく、毒の成分を中和できる薬物なのだ。
あれだけ強烈な毒だ。後遺症は、たぶん、残る。一生寝たきりになる可能性も…。
しかしキールはかぶりを振って打ち消した。
―――そんなこと、いまここでシンが息をしているこの現実の前ではどうでもいいと感じた。
「……いいよ。下半身麻痺が残っても動けなくなっても、いいよ。俺はシミナーなんだから、ほんとはとんでもない金持ちなんだから、お前一人ぐらい養ってやる。
―――生きていてくれれば、それだけで、いい……!」
そして、キールは、異常に気づいた。
……呼吸が、穏やかだって?
―――性変化の真っ最中なのに?
ばっ。
キールはシンの毛布を剥いだ。
しまった!
どっちにも変わりきれてない。性変化の終盤、大抵の人間は意識を失う。けれど、終盤だから、問題ないのだ。
どっちに変わるかを決めてない序盤で意識を失えば……?
「シン…シン! 起きろよ頼むからっ!」
起きない。
キールはくるりと後ろを向いて、まだいる影たちを見た。キールはこの、精神を持たない人形が大嫌いだが、役に立つことは認めねばなるまい。
「俺はお前から生気が欲しい。どれぐらいなら取っていいか?」
生気を取る前、承諾を得ておかないと中々大変なのである。
「ご存分に」死んでもいいと、人形はいう。
キールは唇を重ねあわせ、死ぬ寸前まで吸い取った。殆どの場合、生気は口移しで譲られる。性交か接吻が最も無駄なく譲渡できる方法であり、大抵は接吻を選ぶからだ。
シンに、半分。自分に半分。
その半分で、ほとんどうろ覚えの覚醒の術を構成する。なぜうろ覚えかと言えば簡単だ。一発殴り飛ばす方がずっと早くて手軽ではないか。
構成はあっていたらしい。シンが薄目をあける。
「おい。男になれって念じろ。強く!」
しかし、とろとろとまた眠りにおちていこうとする。キールは張り飛ばした。
「……今だけでいいから、起きろよ!」
声はほとんど泣きそうだった。眠りたいのも判る。でも、眠らせる訳にはいかないのだ。
その一方で、冷静な声がした。
―――なんでこんなに必死にならなきゃいけないんだ? 性別得られなくて、後悔するのも、苦労するのもこいつ。長年追ってきた、そのために色んな物を捨ててきた、目的。それを追えなくなって絶望するのもこいつだ。俺が被害受けることも、家族が被害受けることもないじゃないか…!
回想するまでもなく、キールはさっきからそうだった。ずっと、そうだった。
シンが死ねば、ナギもイールも悲しむだろう。でも、だからってキールが冷静さを失うことはない。ナギが死にかけてても、冷静でいることができると断言する。
自分には関係ないのに。家族でもないのに。ただ、ちょっとばかり長い時間を一緒に過ごしたというだけなのに。貸しはあっても、恩など、ない、相手…なのに。
……これが、たぶん、好きという事なのだ。
自分には関係ない。家族でもない。
だから、何も感じない。そうじゃないのだ。
自分には関係ないけど、家族でもないけど、でも、それでも、大事で大切で死んでほしくなくて、身が絞られるほど何が何でも死んで欲しくなくて……。
―――それが好きだという事で、大事だということの本質なのだ。
キールはシンの頬を張り飛ばし、覆いかぶさるように至近距離に顔を近づけた。
「―――シン! 起きろ!」
畜生。
キールは所詮、性分化を知識としてしか知らない。実際にやったことのあるナギはまだ戻らないし、更に言えば、毒でこんがらがった(たぶん)この状況、ナギでもわかるかどうか。
「……キール…眠い」
「判るから、頼むから我慢しろ! お前の一生が無駄になるかならないかが今決まるんだ。男になるって念じろ。強く、強く、それ以外考えられない位に強く!」
―――男になるよ。仕事がきつくてね、男の体力欲しいんだ。
キール達三人にはそう言っていたシンの、本当の理由までキールは見えていた。
その事を知っている事をシンに知られたら、キールは殺されるだろう。
シンは、男になりたかった、んじゃない。女になるのが、怖かったのだ。
自然受胎率は1%を割り、一年に自然児が生まれる確率は数人。ほとんどの子供が人工受精で生まれる(キールたちのような例外をのぞく)現在、妊娠の恐怖など、空から隕石が直撃して死ぬ確率とほぼ同じように受けとめられている。
だが、当事者にとっては、決して、絵空事で片づけられるものではなかった。
シンは、双子という自然児が身近にいる。
そして――シン自身が、自然児なのだ。
状況が変われば、判断も変わる。判断は、周囲に転がる要因を考慮にいれて行なわれるものだ。
たとえそれがどれほど荒唐無稽に見えても、本人にとって、それは、決して笑い飛ばせることではなかった。
シンの母は凌辱されて妊娠し、出産した。
―――かつて、シンはこの台詞を口にした。
私が母の望まぬ出産であったとは
出産。この言葉はほとんど使われることがない。人工子宮からならば誕生といい、キールたちのように自然児で妊娠途中に人工子宮に入れられたならば妊娠、もしくは子供というだろう。
シンは、全く施設の手を経ないで誕生した。キールたちのように途中で人工子宮に保護されたのではない。母の母体から、直接誕生した。…よくも無事に生まれたものだ。
そして、その話を聞いた後で…可能性を笑い飛ばせるか?
―――――無理に決まってる。
シンにとって妊娠は、絵空事ではなく現実の恐怖だった。
誕生日を聞くたびはぐらかしていたのも、今日この日のため。何故ならば、普通人が十五の誕生日に性分化が起きるのは、受精日のきっかり十六年後が性分化の日であり、授精日の一年後が人工子宮から出る誕生日となるからだ。
しかし、自然児の場合、自分の受精日など知る由もない。…キールたちもそうだ。
つまり、性分化の日も知りようがない。もしそれが誕生日と大幅にズレていたら?
……人が得られる情報など、所詮事実の表層を引っ掻いているに過ぎない。
シンの、男になりたい理由。切実で、よくある理由。仕事がきついから、男の体力がほしいから。
それだけ信じていられる他の二人(今も、そして将来に渡ってずっと、そう信じていくのだろう。キールに告げ口癖はない)は、とても幸せだ。
シミナーは、その隠したい心の裏側まで透かし見る。
「……このまま寝たら、お前は、性分化できない…っ! お前のなりたい緑の座にもなれない…!」
シンが、その遠い遥かな目標のためにどれほど多くのものを犠牲にしてきたか、正確に知っている人間はいない。
でも、一番近く知っているのは、キールだった。喜びも悲しみも絶望も怒りも憎しみも焦燥も、……拭いがたい疲れも。ずっと身近に見てきた。
けれど、皇族の最高位の緑の座は、不具者 (体の一部に障害のある者)にはなれないのだ、ぜったいに!
「シン――シン! 今だけでいい、起きろっ!
一生後悔の中で生きるお前なんて見たくないっ!!」
十五の時の選択は、「絶対」。
取り消しも、変更も、やり直しもきかない。
「―――男に、ならなきゃ、私は一生後悔する…?」
キールははっとした。
「そうだ! 後悔する。後悔して後悔して後悔して……俺にはその結末まで読める。
お前は後悔しつづけて生きることに耐えられない。他の皇族の玩具として生きることにも。手首を切って、終わりだ」
淡々とした口調なだけに、それには真実味があった。しかしその瞬間、シンが思った事に、キールは気づかなかった。
喜びと、悲しみ。
「……わかった。男になる。男になる。男に、なる…!」
シンが一心に、集中を高めていくのが判った。と同時に、打てば響くように変わりはじめる、肉体。
キールは慌てて毛布をかけた。
安心すると同時にどっと眠気が襲ってくる。無理もない、心労の連続である。しかし、まだやるべき事があった。
もう一人、無事な方の影から生気を吸い取り、イールにそっくりそのまま渡す。
イールを抱き上げて寝台に下ろすと、キールは、深い深い息をはきだした。
ため息と、あくびが混じっていた。
「影。お前は、そこの仲間をつれて、帰れ」
「承りました」
影が消える。
キールは一つ決心していた。いや、判ったというべきだろうか。
可愛がっても、物足りなさと空虚さが胸に満ちる。表情や反応が違う。違和感が積み重なって、無視できないほど巨大になる。これはシンじゃない。その確信ばかりが深まっていく。
……これは、シンじゃない。
人に対する執着を認めるのは苦しかった。
失うのが耐えられないほど、誰かに心を預けるのは、恐怖以外のなにものでもない。
「……最悪…」
今すぐ全て認められるほど、キールは素直でもなければ勇者でもなかったが、一つだけは決めていた。
シンの記憶を戻す。
まだナギは戻ってきてないが、眠気は限界に達しつつあった。
ちょっと考え、キールは毛布を一枚剥いで、廊下で寝ることにした。
「……おやすみにゃさい…」
口のなかで紡いだのは、ナギのしつけによる、誰に聞かせる訳でもない言葉。
全ては目がさめた後に回して、キールは眠りについた。
水の彩(みずのいろ)の意図は、「キールがシンに対する気持ちを自覚する」というものでした。
いかがでしたでしょうか。お気に召していただけると嬉しいです。
そして、水の彩の下の次が、最終話です。
ほんっとーに、それで終わりです。
最終話が延々つづく、なんて事もありません。
最終話がひとつ。それで終わりです。
下のアップは、……五月ごろかな?
水の彩下に行く
2001 12/26 up