水の彩中 5
水の色は何色だろうか。
ある角度から見れば、水は透明にもなり、青くも見え、また鏡にもなる。
水は水。けれど、水の色は見る人間によって、さまざまだ。
同じ出来事でも、それぞれに注目している部分は違う。
ましてや日常で暮らしていく上で、同じ視点を持ち続けている事はありえない。
以前のシンは外出する際、常に用心を忘れなかった。イールと外で遊ぶとき、一人で散策するとき、キールと並んで歩くとき、ナギと打ち合うとき、彼は常に気をつけ、周囲に注意と人払いの手配をしていた。
常に用心しつづける事は、非常に難しい事だ。人間というものは、慣れる生き物だからだ。精神の構造が、生きていく障害を受け入れるために柔軟になっていると言ってもいい。そして、慣れて、油断する。今まで大丈夫だったのだから、これからも大丈夫、と。
しかしシンはやり続けた。当然の、義務であると思っていたからだ。
シンはそれを、ナギたちに告げていない。やる事なす事いちいち報告していたら気が狂うし、告げる必要性も感じなかった為である。
自分が、自分のためにやっている事だ。己がわきまえていればいい。シンは潔くそう考えていた。実際、こんな事態が起こらなければ、その通りだったろう。
シンがどれほど努力して、その用心を払い続けてきたか知るものはない。
…シミナーのキールをのぞいては。
そして、キールにとって、それは取り立て家族に告げ口するような類の事とも思えず、キールはおしゃべりな性格ではなかった。
だから、家族はシンが払いつづけてきた用心を知らなかった。
だから、それは、時間の問題だったのだ。
ダムーンに目撃されたように、一度見たら忘れえぬ美貌の少年が、見つかることは。
§ § §
シミナーの住居というものは、決して公開される事はない。それはれっきとした法だ。
そんな事になれば、患者が治療を求めて殺到してくるからだ。人は、決して、冷たい論理だけで動いている訳ではない。
情…感情がある。それを無視して論理だけでは生きていけない。そういう生き物なのだ。土下座され、家の前で座り込みを何日もやられて、動揺しないでいるのは難しい。その情に訴え、治療してもらおうと来る。
だから、シミナーの住居は公開されない。
しかし、その中でキールの住居だけは別だった。まず最初、自然児の子供ができたという事で有名になり、人々は祝いに駆けつけ…その子供が実はシミナーだったのだ。
シミナー管理局は、次善の策として患者の家族がキールの家を訪ねる事を禁止した。
キールの患者の診方というのは一風変わっていて、別の場所に登記板があり、治療を希望する者はそこに書く。すると何年か待たされるかわり、代価なしで治療が受けられるのだ。無料で治療をしているシミナーは他にない。
これによって、かなり家に押し掛けてくる患者達も少なくなったが、やはりそれでも時々くる。
「順番を繰り上げてくれ」というのが。
あるいは「雇用したい」だの「誘拐したい」だのという人々も来る。
シミナーなどを家族に持ってしまったお陰で、ナギもイールも、すっかりそういう人々の対処には習熟していた。
要するに、ナギ家を訪ねてくる人々は普通の草の民に比べれば、何倍も多かったのである。
そうした訪問者の一人がシンを発見した。
キールがダムーンを約束させるだけで帰したのは、彼を信頼しているからである。
シミナーの目から見ると、精霊の姿が見える人間というのは、すべからく優しく誠実なのだ。
優しいと言っても、厳しかったり甘かったり、根本にある優しさ、の発現の仕方は違うので、それぞれ異なった性格だが。
だから、約束させるだけでいい。
しかし、普通の人間はシンほど美しい人間を見れば、キールが前述した反応をとる。…誰かに言いたくなるのだ。そしてその誰かはどういう行動をとるのかと言えばこれまたキールの言うとおりであって……。
不幸にか、はたまた幸いか、二人程を経由しただけで、シンと敵対している兄姉、皇族の一人に噂が流れた。
皇宮において、青の座(シン)の失踪は口の端にのぼるまでになっている。
この世のものとも思えない美しさだった、などと言われて、少年を知る人々の中で彼を思い起さない者は皆無に近い。
当然、確認に人を飛ばし、確認をとり、噂話に口止めをし…彼女がシンに刺客を差し向けたのは、無防備に、地で暮らしている皇族に対してとる、必然だった。
そしてシンは、その事態を憂慮し、己のためと、己の巻き添えになるかも知れない家族を思ったからこそ、用心していたのだ。
自衛の手段を持たない現在のシンにとっても、同伴していたイールにとっても幸運だったのは、その時その場にキールがいた、という事だろう。
草原でいきなり飛来した矢をはたき落とし、影に潜ませた第二の矢を斬り落とし、火球を腕で受けとめ消滅させ、突如現れた人影の首と腹に一発ずつ入れて地面にのした。
キールは最初の奇襲をなんとか潰し――が、これで終わりだとは思えず、辺りを油断なく見張る。背後のイールの緊張が伝わってきた。
「シン、俺が結界編むまで…」
シンの方を見て、思い出す。
かつて百戦錬磨の強者だった美貌の少年は、怯えた顔をしてイールの腕にしがみついていた。
シンが以前のままであれば、何も言わずとも自分からさっさと行動に出るだろう。
守る必要など、そもそもない。 そういう相手だった。
が、それを今言っても仕方がない。
実戦経験のない二人の足手まといを守りつつ切り抜けないといけないのは、さすがに骨だ。
昔のシンは楽だったとつくづく思う。旺盛な生命力と生に対する執着。キールはシンのどんな状況でも生き残るしぶとさを、高く評価していた。
あれとなら、安心して組めたのだけれど。
今のシンは足手まといにしかならない。
キールは指を何度も空中で動かし、紋印をいくつも描いていく。刺客の攻撃に耐えうる頑丈な防護膜を作るのは時間がかかる。
「イール! 防御しろっ!」
声とほぼ同時に、シンめがけて飛来した小柄をイールが剣を抜いて弾く。しかしもう一本の冷たい刃はシンの肩に突きたった。
「シンっ!」
「落ち着け! 命に関わる傷じゃないっ!」
その時ようやく結界の構成が終わる。
しかし影は姿を消した。
―――――まさか。
背後を振り返ると、青ざめたシンがイールに支えられていた。
しまった!
毒物。
刺客の刃に塗られていなければその方がおかしい。
急いで結界をとき、シンを抱き上げて家の中まで転移し、寝台にそっと横たえた。
さっきからかけている解毒の術は、毒の種類と噛み合ってないらしく、まるで手応えがない。
キールの判断は早かった。
背後のナギを振り返る。
「ナギ。シンの血と小柄持って管理局に持っていって! 俺がその毒で倒れているからって毒の種類の検査と解毒剤持ってきて!」
泣いてるみたいだ。
喧騒をよそに、イールは、ふと思った。
心がはやってはやって落ち着かなくて、冷静になろうと懸命に努力している。
そんな兄の姿を、イールは、今、生まれて初めて見ていた。
そしてまるで事態を他人事のように感じていた自分に気づいてイールは一瞬盛大な自己罵倒に身をひたし、両手で頬をぴしゃりとやった。
「キール。水と清潔な布持ってくる!」
「布と湯冷ましにして」
了解。水を汲むと同時にやかんを火にかけ、イールはまず水を持っていった。
「これ水。湯冷ましはいま火にかけてる」
キールは盛大な舌打ちをした。
「やかん持ってきて」
冷たい声。イールは心がひるむのを感じる。普段のキールならば間違ってもこういう風にはしない。
それだけ焦っているのだと自分を慰め、キールにやかんを手渡す。キールが指で紋印を描くと水は一瞬にして沸騰した。…イールにはまだできない芸当だ。
次にキールが別の紋印を描くと、あっという間に常温に戻る。布にその水を含ませ、シンの口元によせた。
―――キールは、自分が死にかけていても同じくらい心配してくれるだろうか……。
不穏な想像がイールの脳裏をよぎり、慌てて消す。それは、父に「僕らのどっちが好き?」と聞くのと同じような愚かな質問だった。
「イール、ちょっとあっち向いてろ」
何をするのかと見ていると、キールはシンの襟元に手を差し込む。そして、下まで一気に切り裂いた。布を取り払い、素裸にする。
キールは手で刃物以上の切れ味をだす。ちなみに草の民なら誰でもできる。
キールが顔をひきつらせた。
「げ…っ」
イールも同感だった。
性分化が――始まっている。
毒で変化が早まったのか、あるいは今日がたまたま十五の誕生日だったのか。
イールもキールも、まだ性別というものがない。彼らはシンより半年ほど年下で、十四歳だからだ。それまでは両性。両方の生殖器が備わっているが、どちらも使用できない。妊娠もしなければ(自然受胎率はただでさえ低いが)精通もない。
十五の誕生日に性別を選ぶと片方の特徴が欠落し、もう片方の性が熟す。
キールはシンの額にかかる髪を拭い、顔がつくほど近くで言った。
「シン…シン! 男になるって思え! 強く念じろ、男になるって!」
―――わたしたちは、精神と有機物からできている。
ナギは二人の子供に性分化について教えるとき、こう言った。
―――術を使ったりして使用する精神の方が、肉体よりも優位にある。だから精神の決めたことに、肉体も従う。ただし、性分化の機会は一回だけだ。変更はきかない。あまり大きな変化は、肉体の方も足並み揃えて協力してくれる時にしか、達成できないからだ。だから、今からよく考えてどっちの性にするか決めておくように。いいね?
性分化は、非常に短時間…たったの一両日で終わる。たったの丸一日で終わるのだ。
しかしそれは、体を作り変える苦しみが丸一日も続くという事でもあった。
何度呼び掛けてもシンの反応はない。
「…毒が先だっ」
心定め、キールはシンを癒しつづけた。解毒はできない。種類が判らない。となれば方法はあと一つ。
毒によって失われる体力を、外から送り込む生気によって補充する。
何度も、何度もキールは唇を重ねては生気を送り込む。
「……くそ…っ。現状維持もできないっ。イール、どれくらいなら俺にくれる?」
「…えーと、…死なない程度、なら」
「ごめん、本気で死ぬ寸前までもらう」
言葉と同時にひし、と唇が塞がれた。
凄まじい勢いで、イールの体から生気が抜かれていく。
ある線を過ぎたとき、突然眩暈がイールを襲った。一秒後、足の自由がきかなくなって膝が床につく。そしてすぐさまその神経が切れたような脱力感は体全身を覆い、イールの体を支えていた唯一のもの、キールの手が離されると、イールは床に昏倒した。
2001 12/25 up