水の彩中 4
「キールっ」
草の上で転がっているキールを、弟が呼びにきた。キールは手をずらし、目をあける。
「あのね、ナギが呼んでるよ」
「ナギが?」
キールは体を起こした。
キールは父の事は素直に尊敬している。何しろ、得体の知れないシミナーの子供を育てる気になった上に、育てるのを投げ出さずに、更に辛抱強く、誠実に、がんばって育てているのである。
シミナーに、「あなたが親でよかった」と言わせられればそれは親として極上品だと言っていい。その能力ゆえに、親に忌み嫌われているシミナーも、多いのだ。
だからそのナギに呼びつけられ、諭されるとき、キールはいつも実に素直だ。
家に戻ってシンがイールと一緒にいるのを確認し、キールは、ナギの前に神妙に顔を出した。「いいかい、キール。シンはどうすればいいのか判らなくなっているんだ。自分のままでいいのか、それとも以前の自分の方がいいのか。でもって今の、あの子の判断基準は一個。お前に、喜んでもらえるか、だ。で、その当のお前がどっちつかずの態度でいるんじゃない。今が好きなら好き、以前の方がよかったならよかったと態度を決めるように」
しかし、これは難題である。
「でも、どうすればいいのか、わからないよ。……ううん、あいつの幸せのためには、今のままでいるべきなんだろうな。だから、うん、わかった。今のままでいろって言う。以前のあいつの方が良かったとか、そういう事は、態度でも何でももう言わない」
「……聞き分けのいい息子でとてもうれしいよ。で、お前が幸せでないと断言するからには、当然理由もあるだろうね。私には話してくれるだろう?」
キールは言葉に詰まった。
何故ならば「シミナーは、人の心の秘密について他言してはいけない」のが絶対の掟だからだ。それは人間としての最低限の良識、ルールだった。
しかしまた、キールの優先順位の第一は家族である。が。
――――が……。
「ごめん、ナギ。それは……言えない…」
「………それでいいんだよ。正直言って、キールがぺらぺら喋りだしたらどうしようかと思った」
………。
「ナギぃ〜?」
「まあまあ。……大好きな私の命令でも、はね除けられる様なら、完璧だなって…いや、私が言ったんじゃないよ?」
「…管理局の連中だね。ったく。で、ナギは……どうしたいの?」
自分の子供に問い掛けられ、ナギは即座に答えられない自分に気づいた。
まだほんの子供なのに、ナギがシンを思い出すとき、少年はいつも大人の顔をしていた。
自嘲げな顔で、あざわらうように、そして、どこか嬉しげに、彼は言った。
『…ナギ、キールって、僕の顔殴るんですよ、容赦なく。護身術の教師も、顔だけは絶対殴らなかったのに。殴れなかったんでしょうね。兄ですら、僕の顔を跡がのこるほど強く打った事はない。
―――なのに、キールは、殴るんです。……知ってました? 僕は、意外と、キールの事を愛しているんですよ』
窺える知性と、複雑に屈折した精神。大人になることを強制された可哀相な皇族に、ナギは深い愛情を感じていた。
「……正直言って、以前のシンが懐かしいよ。でも、誇り高いあの子が記憶を取り戻したら……。とても傷つくだろう」
キールは変な顔になった。
「…あのー、ナギ? もしもし? それ、ない。それだけはないね。あいつが暴行されたくらいで世を儚むなんて、絶対ありえない」
「……そこまで断言する理由は?」
「単純明快。普通の誇り高い人間は、暴行されたら最大の屈辱だ。ところがシンには、暴行されて自分が傷つくと感じることが、屈辱なんだってば」
なぜだろうか。
キールは、翳を含ませた苦笑をした。
「……あそこまで行くと、も、感心するしかないね。あんな下種のやることで、この自分が傷つくはずがない。傷つくと感じることが、許せない。そう考えてる。
あいつは、誇り高すぎて…傷つくことを自分に許してやれないんだ。……シンは、自分に厳しすぎる」
それを聞き、ナギは真顔になった。
「……あの子は幸せでなかったんだな…」
「ま…あれを幸せというのは、独創的な感性の持ち主だろうね」
「昔のあの子が懐かしい。でも、あの子にとって今のままが幸せであると言うのなら……、元にもどってほしいというのは、私の我がままだ」
それは、家族中の意見だっただろう。
「……うん…」
でも、やっぱり、少し、寂しかった。
2001 12/24 up