水の彩中 3
レイオスに住む者にとって、術は、誰もが使用している道具のようなものだ。
そして同じ道具を使っても、職人と素人とでは歴然とした差が出るように、道具の使い方の上手い者と下手な者はどうしても出る。
個人差は大きいが、年齢による差はそれ以上に大きい。そのため術の分野では、〜歳にしては優秀という言葉がよく使われる。
しかしキールは個人差という言葉の最たるもので、極上の才能を花開かせて、十歳の頃には大人の中ですら、並ぶ者はいるが勝る者はないという術者になっていた。
ただし、喧伝ではなく隠蔽に力を費やしたキールの努力の甲斐あって、それを知る人間は死者と家族と幼馴染みのみだったが。
魔力は糸に例えられる。
糸をつむいで織物にする。用途に応じて必要とされる布の種類は変わり、織り方も当然変わる。
高度な術ほどその構成は長く、中級技ですらまともに編めば、半刻もかかる。
だから中級技を半分習得する頃、人は省略の技術を学び始める。
省略の方法は二つ。
一つは、呪文。
もう一つは指で空中に印を描く。これを紋印という。キールが選んだのは、こちらだった。
キールはまばらな雑草のちらばる草原の上に仰向けに転がって、目を閉じていた。
目蓋ごしにも目を射る太陽の力強さに辟易して、目の前に手をかざす。
「ぜったいに、か…」
キールはナギに断言した言葉を思い出し、自嘲に口元を歪ませる。
絶対など存在しない。
キールの信念の最たるものがそれだった。
キールはそれを何度見ただろう。永遠を誓った愛情も、信頼も友情も、全てが時の力の暴虐に耐えきれず、破綻する。
――――それがこの世の理である。
そして、キール自身も例外ではなく…彼は自分のなかで永遠を誓った愛情が、もろく錆つき、ぼろぼろに腐食していくのを感じていた。
「人は、絶対を持てるほど強くない…」
キールも弱かった。それだけだ。
たくさんの諦めと、ほんのわずかの期待。それがキールに巣食っていた。
キールは体を転がして俯せにし、腕に頭をのせた。眼を閉じる。
草原の日差しは暖かく柔らかい。冷気を帯びない風が頬や髪を撫でていく。
草原といっても画一的に手入れされていない野原は、ところどろに土の素肌が見えていて、雑草のはこびる荒野にも見えた。
日差しも、草も、動物も、人も、全ての者は生かされている。
生命の誕生は間違いなく奇跡の名に値する偉大なる産物だった。神の存在を人が信じるのに、十分な。
キールもまた、……信じていた。
キールには、シンが記憶を失った理由も含め大抵のことが読めている。
キールが精神治療者の能力でシンの記憶を戻すことができると同じく、シミナーは記憶を封じることもできる。シンの記憶は、キールと同じシミナーの能力で封じられた物だ。
封印の仕方は、間違っても上手とは言えないが。丸ごとごっそり記憶を封じる方が難しいと思われがちだが、実際は逆である。短期間の記憶の封印ほど、技術を要する難しいものなのだ。
人は記憶によって事実を認識する。例えば誰かががシンを凌辱したとしよう。その部分だけ、封印できれば、もちろんシン自身が記憶喪失になったなどと思うこともなく(きっかけなく記憶喪失になったのかと思う人間はいない)、完璧な事実の隠蔽ができる。
しかし、そんな器用な高等技術、誰もできない。キールもできない。
……で、問題がひとつ。
シミナーをそんな仕事に従事させられる奴がどこにいる?
シミナーの人権やら財産やら身分やらは、たいへん、尊重されている。命を盾に脅しても嫌なものはやらない。なんせ、シミナー全員が、別に自分の命なんてどうなってもいいと考えているのだ。
となると、キールに浮かぶ推論は一つだけだ。
「…俺には何も言ってきてないな」
シミナーには、二つの監査機関がある。
一つは政府のシミナー保護管理局。もう一つが、シミナーたちが集まって作った組織である。
前者は、ほとんどのシミナーは問題にもしていない。問題は、仲間が寄り集まって作った後者の方である。
そして、そこでもキールは浮いていた。
「…あのくそ野郎ども……」
シミナーの例に漏れず、キールは仲間の事が好きではない。
だいたい、シミナーは同胞を嫌っている。何故と問われれば当の本人にも口をつぐむしかない種類のこと――要するに、虫がすかないという…同族嫌悪である。
嫌いでもないが、好きでもない。できる事なら一生会いたくない。
そんなシミナー同士が組織を作る目的はいくつかある。
たとえば、親しい知人が治療を依頼してきたら他のシミナーに仕事をまわす、患者の相互交換協定だとか、政府が何か不当な要求してきた時のためとか。
……諦めなさいな。我ら以外の者は外見でしか物事を判断できないもの。そして、あなたはまだ子供。子供の外見である内は、誰もあなたの言葉になど耳を傾けはしないわ。
……キールがシミナーを嫌いな理由は、鏡を見るように似ているからだ。
「慣れた」人々。
シミナーとして生まれ、成人し、運命を受け入れた人間たち。
……キールの未来。
―――世の中には、慣れまいと全身で抗い続ける者もいるというのに。
ずっと前。
キールが初めてシンに会った時、第一印象は最悪だった。
別にシンが何をしたという訳ではない。ただ、キールは耐えられなかったのだ。その存在そのものに。
殺してしまえればいいのに。
キールは何度そう思ったか知れない。
実際、何回かは実行した。
キールには彼なりの明確な倫理観というものがあり(家族を傷つけた者、自分に危害を加えた者、仕事のとき以外殺さない)それが彼と快楽殺人者を区切る大きな壁としてそびえていて、そしてそのことをキール自身よくわかっていた。
一度その壁を踏み越えてしまったら、ただ堕ちていくだけだ。
だから、殺す理由がないシンを自ら進んで殺すことはできない。それは壁を崩してしまう行為だからだ。
が。
助けられる状況で、見捨てるということはよくした。
崖っぷちに右手一本で吊り下がっていて、どう考えてもその手を踏みにじったら死ぬというような状況で、キールは平然と踏みにじる性格であり、人物だった。
しかしあの、外見に似合わず実にしぶとく生命力が強く、生きぎたない人間は、その度に生き残って、逆にキールを半殺しにすること数回。
―――もう一度同じことをやってみろ、殺してやる!
キールをずたぼろにしたあとの、それがシンの口癖であり、しかしキールは何度も同じ事を繰り返した。
それでいて、シンはいつもキールにはとどめは刺さなかったのだ。
キールの生爪、生皮、生内臓は剥がしたり潰したりするものの、殺す事だけは、ぜったいに。
いつのまにか、シンとの記憶を回想している自分に気づいて、キールは顔をしかめた。
―――自分は寂しがっているのだろうか?
あの突き刺すような眼差しの幼馴染みを失ったことを。
そうかもしれない、キールは正直に認めた。
キールのシンへの印象は、大抵の人間と同じく鮮烈な刃の銀。
ただし、他の人間と違うのは、その剣は装飾品ではなく実用品で、刀身には真っ赤な血がついているという事だ。
―――文句あるか?
たった今手に掛けたばかりの死体を足元に転がしたまま、シンはそう言った。
頬と服に散った鮮やかな赤、反面の肌の白。銀髪との対比。
赤と白と銀。
それがキールのシンへの印象である。
シンは殺人をためらわない。
けれどシンの本質は、誠実で、むしろ優しいといっていい人間だった。
キールに対して、正々堂々と対応するくらいには。
キールにぼろ負けした人間の多くは、キールは特別だと考えることで自分の誇りを守る。
かの皇族の不幸は、そうするには、あまりにも潔く、誇り高かったところにあるだろう。
矜持が服着て歩いているようなものだと、キールは皇族全般をそう評価していた。
殺人を躊躇わないが、心に正義がないのではない。人として、守らなければならない倫理はナギにも劣らずきちんと在った。
ただし、シンは皇族である。その心の中には支配者の正義もまた存在していた。
支配者としての正義と、ただの一人の個人としての正義はほとんど正反対に作用する。人を殺すな。それが人が規定する倫理の極みである。しかし、人を殺せ。それが支配者の正義なのだ。そして、その二つが対立したとき、シンは一筋の迷いもなく支配者としての正義を優先させた。
……昔のシンは。
やはり、違うのだ。
顔が同じでも仕草が違う、反応がちがう、性格が違う。
キールにとってのシンは、素直で従順な、人形のように可愛らしい子どもではなく、長年の喧嘩相手で誇り高く鮮烈な輝きを放つ、皇族の若君だった。
会いたいと思う。……そんな事、誰に対しても思わなかったのに。
キールは顔をしかめた。
「やばい。俺、本気かも……」
厄介で始末に悪い己の性癖を知るだけに、頭が痛かった。
2001 12/23 up