水の彩 中 1 

 

 

『人の命は一瞬か永遠か、どちらだと思う?』

 時にキールは、観念的な問いかけをすることがある。不思議な顔をしつつも、シンは真面目に答えた。
『どちらでもないな。一瞬は短すぎるし、永遠は長すぎる』
『……だから、お前は駄目なんだよシーン』
 くつくつと笑って、キールは話を変えた。

『お前は見事に現実的だよな。現実に即して、事態を考える。お前のそういうとこ気に入ってるし、政治家が夢想家じゃ話にならん。だからお前はそれでいいと思うけど…この場合の正解、心理学的な答えは、どちらでもある、だ。……何でだと思う?』
 第二の謎掛けには正解した。

『…判断する主体の、価値基準の違いだろう』
『アタリ。…星にとって一万年は、ほんの一瞬だ。だけど、おれ達ちっぽけな人間にとっては、永遠にも等しい時間だ。同じようにおれ達の三百年の命は、一日の寿命しか持たないこの星の大部分の生命(作注―細菌のこと。個体数でいえば、星の生命体総数のほとんどが細菌なので、こういう)にとっては、永遠に等しい』
 キールはそこで、にっこりと笑って続けた。

『お前が賢くて、嬉しいよ。すんなりその答えに辿り着けた人間は少ない。なぜならほとんどの人間は、己の価値基準に捕われているからだ。狭いも広いも小さいも大きいも長いも細いも、すべてはそれを判断する主体の、基準からなる。―――すなわち、主体が変われば判断も変わる』
 淡々と、キールは言葉をつむいだ。瞳には知性と、揶揄する色が浮かんでいる。

『人によって一つのものが全く別の物に見える。まさか、と思っているだろ。多少ちがっても、そんなにって。人は他人の感覚を共有することはできないから、違いを実感する事もないからな。でも、俺はそれを見てる。
―――人が共有している情報なんて、全体のごく一部にすぎない』

       § § §

「君の家を、私は知っている。でも、連絡はしていない。……私は、君の家がどれほど非道か、多少は知っている。下手に連絡などしようものなら、身柄引受人の前に、暗殺者が飛んでくるような、家だ。キールもしていないだろう。 ……なぜ、喋れないふりを?」

 食堂で、ナギに見つめられ、シンはその視線を自然に受けとめた。
「私は―――」
 シンは言葉を発した。
 しゃべった。
 以前とは、発音が少々違うが。
 昔の彼は、音楽的な響きのある素晴らしい旋律で、言葉を操ったものだった。
「……別に、隠していた訳では、ありません。私の、記憶は苦痛から始まりました」

 痛い。いたい。いたい。いたい。
 体中が痛かった。あまりの苦痛にのたうちまわる事もできなくて、指先を動かしただけでも痛くて、だから置物のように転がって、ただ息を繰り返していた。
 あの時、自分は、それだけの生き物だった。

 だれか。誰でもいいから、助けて。
 何度それを呼び掛けたことだろう。けれど誰も来てはくれなかった。その内に、感覚が無くなってきた。時間の感覚も寒さも傷の熱さも、本当に痛いのかすら、判らなくなってくる。
 半分、もう諦めていた。このまま誰にも認められず、自分は死んでいくのだと思った。
 ―――でも、救い主は現れたのだ。

 不意に傷の痛みが消えた。
 暖かい何かが体に入ってきて、痛みを焼き払い、追い払ってくれるのがわかった。
 重く、動かなかった体が、お馴染みになった草と泥の寝床から、抱き上げられる感じがした。しっかりした腕の感触。
 助かったんだ……それだけ考えて、ふうっと、意識が、消えた。

 長い間自分を拘束していた痛みから解放されて、初めて、自分がどれほど緊張していたのかを知ったのだ。
「次に、私が、目覚めたのは、あなたの前ででした。そこら辺はあなたも知る通りです。ただ、私は一糸まとわぬ姿でしたし、何故か、あなたは、私を助けてくれた人ではないと、確信できました。…それに、私の問いにも答えてくれませんでしたし。私が、あなたを、警戒する理由は揃っていました」

 ナギは頭をかいた。ナギ自身あの時は「あなたは誰?」などと聞かれて動揺していたからなのだが、時としてそういう細かい事が深い溝を作り出すのである。

 記憶を失った人間にとって、一番大事なこと、それは誰が味方か敵かを見極める事だ。この時点で、シンが味方と確信できる相手はただ一人。あの苦痛から自分を救ってくれた、キールのみである。
 ナギに連れられ、そのキールと対面したシンは、唯一の味方にすがりつく。しかし。

「キールは、何故か、私があまり好きではないようでした。何故俺になつくんだ、と問われ、私はとっさに答えられませんでした。けれど答えないという選択をとることで、私は、キールの側にいることができました……」
 それは、頭の回転がすこぶる早くて、ついでに舌の回転も早かったシンの記憶があるためである。「とっさに答えられなかった」のではなく、「喋れない」と勝手に誤解した。

 またシンの方は、どうやら自分は喋れないという事にした方が好意的に解釈されること、都合のいい事を了解した。
「……特に、キールに、その傾向は強かったです。彼は、どうも、以前の私に複雑な感情を抱いていたらしかったですから…。また、かと思えば以前と違う私に苛立っているような、そんな所もあって……」

 ナギは頭を抱えた。息子の不始末は自分の不始末である。シンはどう振る舞えばいいのか、さぞ、心細かったことだろう。
 そして今の話を聞いている内に解ったことがある。―――今のシンは、以前のシンとは違う人格を形成している。
 人は記憶によって人格を形成する。衝撃的な事件は思考形式に変更を加え、人格に影響を及ぼす。人間とはそういう事件の積み重ねで、人格を形成するものだ。
 ――ならば、その記憶が白紙になったら?
 人は一から記憶をまた積み重ねる。そして、全く同じ人格の者がいないのは、全く同じ状況で育った者がないから。つまり、絶対に以前のシンとは違う人格の人間となる。

 ナギは深々とため息をついた。
「……シン。早く戻ってこないと体だけ同じで精神は違う生き物になっちゃうぞ…?」
 小声でぼやいたのだが、シンには聞こえたらしい。しゅんと肩を落とし、呟いた。
「……あの、以前の私の方がよろしいのでしょうか…?」

 ナギもキールに負けず劣らずうかつである。以前のシンを熱望することは、この、シンの否定につながる。
「…あ、いや、そのっ」

 一回ため息をついて、ナギは正直に本音で話すことにした。
「……シン。私たちは以前のきみと、十年近くも付き合ってきたんだ。すぐさま切り替えろと言われても無理だ。ただ単に、それだけの事なんだよ。以前のきみは……何と言うべきか、強烈な人格だったからね」
「どんな?」
 すぐさま切り返され、ナギは目を見張って、できるだけ客観的に、公平に答えようと努力しつつ言った。

「基本的には、すごくいい子だと思うよ。人を労わること、人が傷つく痛みを知っている優しい子だと思った。私たちに対しては、そうだったよ。
……ただねぇ。育った環境が最悪に近いほど悪かった。……君は、実はとても高貴な生まれでね。それに鏡を見れば判るように、君はたいへんな美人だ。誰もが見たことないってなくらいのね。だから、必然的に君だの利益だの目当ての人間に囲まれて、それをあしらう方法を憶えた。誇り高く、現実主義者で夢は見ず、敵には容赦なく、ついでに利用できるものは自分の容姿であれ何であれ徹底的に利用する。そういう子だったよ…あ。あとキールとは宿命の敵ってなぐらいに仲が悪かったな」

「……あの、私は、そうなった方が良い…んですか?」
「……イヤ。それだけは。なってほしくないと言うか、なったら不幸だというべきか。…んー。幸せそうには見えなかった、かな」
 シンは、大切な宝物のように、キールの言葉の一つ一つを抱えている。
「『俺は記憶を戻せるけれど、以前より今の方が幸せそうに見える。記憶を戻したいか?』 …そう、聞かれました」

 シンはその時、答えられなかった。

 何故ならば「幸せそうでない」などと言われても憶えてないからだ。
「……同じ事を、聞いてもいいかな? 君は、記憶を戻したい?」
 シンは、ゆっくり、かぶりを振った。
「怖いです。……その人は、私じゃない。顔だけ同じ、体を共有しているだけの別人だ。そして入れ代わりに、私は、…たぶん私は、消えてしまう」

「なら、私の養子にならないか? 悪い話じゃないと思うよ。キールもイールも君を歓迎してるし、何よりうちは君に慣れている。普通の人間が君を見てごらん。大抵の人は、びっくりして目をまわすから」
 もうされた。
 今日の昼、花畑で遊んでいたら、キールの友人らしい人間が近づいてきて、シンを見るなり突発性失語症に陥ったのだ。
「……あの…、私はそんなに、変…ですか?」
 ……ナギは、冷汗を垂らして返答に困った。

 

 

2001 12/18 up

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