水の彩 上 2

 

 

目の前には湖が広がっている。

 果てが見えない。それほど広々とした水の集まりだった。
 キールは質問される前にさっさとシンを抱きかかえて、その水の中に飛び込んだ。
 一気に頭の上まで水に浸食される。
「◎◆☆△〜っ!」
 生き物の本能としてシンはもがいて水面に浮き上がろうとした。
「こら暴れるな。息できるから」
 水中にもかかわらず、その声は明瞭に聞こえた。

「吸って、吐いて。よし。息できるな?」
 こくん。シンは頷く。その長い髪の束は、背中でふわふわ浮いていた。

 キールはシンを拘束していた手を離し、シンを一人で立たせて(浮かせて)今度はその手をとる。
「ここの下には光の女王のお城がある。了解?」
 了解。
「んじゃ会いに行くか」
 キールは手を引いて、ゆっくり泳ぎだした。
 浮力がない。
 
 じっとしていると浮かんでしまう水ではなく、そこはじっとしていると沈んでしまう水でできていた。
 キールは手をつないだまま、一気に切りさくように泳いでいく。シンはそれに引きずられるようにくっ付いていった。
 薄青い空間。
 
光がとどかない筈の深みにまで潜っても、辺りの色は一定で、ゆらめいていた。
「……ぃっ」
 キールが止まり、くるりと前転して立ち姿勢になる。シンは短い声にならない悲鳴をあげた。

 そこにいるのは巨大な生き物だった。青黒い硬質な肌をし、頭には毛がなく異様に細長い。口は一飲みでキールを飲み込めそうだった。その生き物は、キールならば巨大なだけのただの亀と言うだろう。
「女王に会いたい」
 キールとは知りあいらしかった。
「承っております」
 亀は、喋った。
  以前のシンならば驚いただろうが、生憎と『動物は喋らない』という常識も今のシンから抜けていた。

「話が早いな」と、キールは感心しかけた。
「あなた様とお連れを通さぬようにと、承っております」
 空気が凍りついた。

 キールは掌を亀の前に突き出す。
「…お前の権限は、俺のそれを超えるものではない」
 優雅ですらある微笑。
 絶対的な階級が、そこにはあるようだった。
「俺の言葉を女王に伝えろ。それがお前の役目だ」

 シンとキールは、亀が戻ってくるまでしばらく待った。が、結局亀が持ってきた返答は、―――否。
 女王はキール一人ならば受け入れるが客とは会わない、という返答を突きつけた。…ここで少し、やりとりがあった。
 シンがキールの服を引き、物言いたげな目で見たのだ。翻訳すると、待っているから行ってきていいよ。

 それへのキールの返答は。
「やだよ。お前一人残して行ったら何されるか目に浮かぶね。…ふーっ。女王はご機嫌ナナメか。しかたない、帰ろ」
 キールは女王の返答を意外にも素直に受け入れて、シンの手をとりさっさと背を向けた。

 水から上がって、シンはきょとんと立ち尽くした。濡れていないのだ。
「……えーっと。この水の中は別の世界。あの世界の水は俺たちの知っている水とは別のみず。そしてその水は濡れない水。了解?」
 了解。

「さっきの事は、ナギにもイールにも内緒な?」
 キールは指を唇にあてて、いたずらっぽく笑った。そういう表情をしたキールは抜群に魅力的で、シンはこっくり頷いた。

 普通の人間には絶対知りようのない所へシンをつれていくのに、キールにさしたる抵抗はなかった。シンの口の固さは折り紙付きだからだ。
 キールは空を仰いだ。まだ日は高い。
「どっか行きたいところ、あるか? ……わかった、花畑行こう」
 シンが言葉をなかなか憶えないのは、自分のせいもあると、キールは自覚していた。
言葉にする前に読んでしまうのだ。だから余計に憶えない。

 キールは人の心はそう見ない。まあ、特別な場合は別だが、それ以外の時は礼儀正しく自制している。不可抗力で見えてしまう時もあるが。

 心というのはキールからすると、パイに似ている。何層にも重なって、一番表層の意識が一番読みやすく一番ころころと変わり、一番、重要でない事柄がしまわれる。
 キールはその表層を読んで、会話を成立させていた。
「―――シン、もっと警戒しろよ。以前のお前ならさておき、今のお前に仕掛けるぐらい、息するより簡単なんだぜ?」


 何度かキールの精神操作に痛い目にあっていたシンは、いつも警戒していた。
 用心深く、つけこまれる隙など与えぬように。決して、油断などしないように。

 しかしキールは現在の無防備なシンに、まだ何もしていなかった。襲いかかってくる犬なら叩き殺せるが、すりよってくる子犬は殺せないというやつである。  人間の心理はそう単純にはできていない。

 

 ナギはできたてのご飯が冷めていくのを見つつ、時計の針が動いていくのを感じていた。
 ―――遅い。
 ナギとイールは既に食卓についている。しかしキールとシンがまだ来ていない。
 ナギ家では食事に遅れる際は、絶対何があろうと連絡というのが不動の掟である。家族全員一緒の食事が原則のためだ。

 誘拐、事故、拉致監禁……頭に浮かぶ不吉きわまる可能性を、ナギは強引に黙らせ、二人を待っていた。
 いーかげんしびれを切らして探しに行こうかと思ったその時、キールがシンをつれて家に飛び込んできた。
「ごめんっ、遅れたっ!」 「遅いっ!」「何してたんだよっ!」
 心配の裏返しの罵倒に、キールは平謝りで謝った。

「ごめんなさいっ、すみませんっ」
 キールがこの世で唯一、無条件降伏している二人に責められては、キールも小さくなっているしかない。どんな人間にも弱点はあるのだった。
「―――で、どうしたんだい?」

「昼寝して…その…すっかり…」
「食事の時間を忘れていたと! こういうことだね。私はまた、てっきりお前が事故にあったとか、誘拐されたとか、はたまた何かで大怪我しているんじゃないかと―――本当に心配したんだがね。誘拐される心当たりはいくらでもあることだし? 絶世の美貌の少年を連れたシミナーのキールくん?」
「………………はい」

 さすがにキールが哀れになって、イールが仲裁に入った。
「まーまー。もういいじゃん、ナギ。こうして無事だったんだから」

 ナギは大きく、「ふんっ」とやることで苛立ちにケリをつけ、にっこりと笑顔を見せた。
「じゃ、早く席につきなさい。ご飯だよ」
 シンはイールの隣。キールはナギの隣に座り、食前の祈りの後、昼ご飯は始まった。
 玉蜀黍と豚肉と牛の乳の入った暖かいスープに、町から買ってきたばかりのパン。大皿には新鮮な生野菜がたっぷり盛られ、その隣には蜂蜜の大壜が並んでいた。

 食事には雑談しながらで、たっぷり時間をかけるのが彼らの流儀である。で、雰囲気も和んだところでナギが爆弾発言をかました。
「私の子供にならない? シン」

 いずれ似たりよったりの事を言い出すだろうと予測していたキールは驚かなかったし、イールもぽんと手を打った。ナギは繰り返す。
「私の養子にならないか? シン。私たちの家族に」

 悪い申し出では、ない。キールは公平にそう判断する。ナギは、…キールの見るところ親としては最上質に近い相手だったし、家族の中にも反対する者はない。後はシンが頷けばいいだけの話である。

 が、当の本人はきょとんとしていた。判らなかったらしい。
 ナギも苦笑して、「この話はまた後にしよう」と話を打ち切った。
 その晩、キールは興奮した弟の聞き役を務める羽目になった。話題は兄弟になるかもしれないシンについてだ。

 子供三人は同じ部屋で眠る。双子の兄弟が話している間、最後の一人は、ナギとお茶をしていた。
 ナギはシンがお茶を口にふくむのを待って、やんわりと切り出した。
「聞いていいかな? ―――きみは、何故、喋れないふりをしてるんだ?」
 人々はそれぞれ物事の別の面を見、知る。それは決してぴったり重なることはない。
 キールはシンが発見された時の様子を知っているがナギの見た物は知らない。イールはシンが発見された時の様子を知らないが、洗い上がりのシンを見た時のキールの表情を知っている。そしてナギは、浴室でシンが自分に語りかけたことを、知っていた。

 シンは、言語野まで記憶が抜けた訳ではない。シンは、―――喋れるのだ。


ビブリオでの連載時、初の続き物、ということで、一番考えたのが、印象的で続きが読みたくなる様な「引き」でした。

 なにせ、会誌は年に三回しか出ず、これの続きは四ヵ月後なのです。それまでの間にたいていの人は話を忘れて興味を持てなくなってしまうでしょう。
 タイトルは忘れましたが、外国文学のファンタジー作品がその良い例となってくれました。全三巻でもの凄く分厚かったのですが、毎度毎度のラストが良く、続きをぜひとも読みたくなって、あっという間に読んでしまいました。
 続き物は「引き」がよくなければならない。それを私に教えてくれた作品でもあります。

 幸いにして、この引きは皆様に好評でした。

 しかし計算違いが一つ。
 ……シン、が、……なぁ?
 このシンは、なんというか、まあ、普段のとげがなくって、かわいらしくなっているのですが、「こっちの方がいいです」という感想多数。書いてて不気味で仕方がなかった作者は轟沈しました。

 今はよわっちくて、歯をくいしばって頑張っているけなげな子ですが、年齢からいけば当然でしょう? キールが異常なんです。どうか、見捨てずにいてくださいね。

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