水  の  彩 前編

 

 

 瀕死の人間を前に、助けても害がないかどうかを考えなければならない場面というのは、そうそう滅多にあるもんではない。

 ヒト一人の大きさに草が潰れていて、その上にずたぼろの怪我人が倒れていた。
 しばらく考えた後、キールはその人間に手を伸ばした。



「…ナギ。シンお願い。服着替えさせて、風呂に入れてやって」
 確かに誰が見てもその必要があったが。
 ナギは息子の友人をキールから受け取ったとき、つい、あらぬ誤解をしてしまった。
「…キール、まさかお前がやったんじゃないだろうね」

 人当たりがよく、落ち着いている自慢の息子は、こと、長年の喧嘩相手の事になると見境がなくなる。それゆえ親の信頼度も、シンが関わる事柄には少々低くなるのだった。

「俺がやったなら今頃こいつの骨は全部砕けてるよ」
 成程とそこで納得するあたり、ナギもキールの親を長年やっているだけの事はあった。
 シンの美しい銀髪は泥(これは草原でついたもの)と血に固まり、体も血泥だらけになってていた。
 一瞥したところ、怪我はない。が、服の下はどうだかわかったものではなかった。
 ナギはシンを浴室に連れていこうとしたところで、キールに呼び止められた。
「悪い、ちょっと待って」

 シンに近づき、キールはいくつか指で紋印を描いたあと、シンの服に手をかけ、一気に引き裂いた。

 真珠のような肌がこぼれ落ちる。
「怪我は治癒しておいたから。あと、よろしく」
 ナギは呆れたような息をもらし、シンを浴室へ連れていった。
 シンは温かい湯をかけられ目がさめたが、ぼんやりした顔でナギと周囲を見回した。
「…ここ、どこ?」

「私の家だよ、シン」
 そしてナギの方をむき、しばらくその顔を見て、爆弾発言をした。
「あなた、だれ?」



 ―――取りあえずナギはシンを綺麗に洗い上げ、腰まである白銀の髪に真珠の肌。形よく弧を描く眉の下、臈たけた白い面に長い睫毛が影を落とす。夢見るように美しい少年に戻して服を着させ、居間に連れてきた。

「……物忘れの病…?」
「……みたいだ」

「………シンが?」
「……うん」
「で、一体なんで、キールになつくわけ?」
 イールが、その場の全員の気持ちを代弁した。シンはにっこり無邪気に笑って、キールの服の裾を握り締めている。

 夢のような風景だったが、常日頃のシンとキールの仲の悪さを知っている人間、シンの性格を知っている人間にとっては、悪夢のような光景だった。
 キールとシンはいわば天敵で、頻繁に喧嘩をしていた。暴力ででも、口ででも。
 キールはもちろんのこと、ナギもイールもとてもシンを正視できない。

「……」
 しばらく押し黙り、「とにかく」とナギが強引に話を変えた。
「キール、シンを頼むよ」
「なんで俺が!?」

 無言でシンを見るナギとイール。
「……わかったよ、もお…」
 視線の圧力に耐えきれず、キールはがっくり肩を落とした。



「ナギ」
 キールがシンを寝かしつけて(怖気がすることに、シンは実に無垢で無邪気に笑ってキールを追い掛けるのである。ぞぞぞ)、食堂に来ると、ナギが食卓で残りをつまみ食いしていた。
「ナギ、俺にもちょーだい」
 夕食の残りをつまんでキールは頭を抱えた。
「……あーっ、サイアク…」

「―――まぁ。イールとキールをきっちり見分けるんだからねぇ。記憶があった頃はできなかったのに。だからイールにバトンタッチもできないし…いいじゃないか、目の保養になって」
「……ナギ。じょうっだんじゃない! あれのどこが目の保養!? 吐き気と怖気と悪寒がする〜っ!」
「慣れれば、平気だよ。いやー、あのシンは可愛いなぁ」
 と、一人先に慣れた父親は呑気に言う。
「………ナギ」
「――で、キール。どうだった?」
 いきなり真顔になり、ナギが聞く。キールも合わせて真面目に答えた。

「…腕は骨折してました。他にも体中の細い骨、鎖骨や何かが折れたり砕けたりヒビが入ったり…。ほぼ全身が痛むような状態でした。――暴行されたのは間違いないと思います」
 初め、キールがシンを助けるのを躊躇ったのも、それが原因だった。普通の人間でも、凌辱された事など他人に知られたがらない。ましてやあの、誇り高さは天下一品の幼なじみだ。口封じに殺されることになっても不思議はないとキールは考えた。
 ナギが重いため息を落とした。
「…難儀だねぇ。あれだけ美人なのも」
「はい」

 シンのずば抜けた容姿からして、最もありえる災難である。ナギは一目見たときから、その可能性を考えていた。
「…でも、それだけの事で、シンが記憶を失わなきゃいけないほど追い詰められるかな?」
「さあ……。人の心は複雑怪奇ですから。外からは強いように見えていても、実は誰より繊細な心の持ち主だった、というのはよくある事ですし」
 ぬけぬけとキールは言いきった。シンなどは、厚顔無恥の代名詞とキールを言う。
 しかし、正論ではある。誰が見ても強靭な精神を持つと思われていた人間だからこそ、実は意外に繊細なのかも知れない。少なくともナギにそう考えさせるのには成功した。

「外側から見て判らなくても、キールには判るだろう?」
 精神治療医のキールは、ちょっと意外そうな顔で、ナギを振り返った。
「あいつの心に接触しろと? ―――ナギ。
シンが記憶を取り戻した後、それを知ったらどうすると思います?」

「…うーん」
「全身全霊、何があっても絶対に俺を殺そうとするでしょうよ。賭けてもいいぐらいです」
 まったく、賭けてもいいぐらいだ。
「シンに限らず、人なら誰でも身近にいる人間に己のすべてを知られているという事に耐えられません。だから、シミナーは親しい知人の治療を引き受けたがらないんです」
 ナギは、己の全てを知られている…という事を想像してみた。いわゆる、恥部も罪悪も。誰にも知られたくないという事さえ。
 ―――確かに耐えられない。

 そのとき、ナギとキール、二人は同時に振り向いた。二人の感覚に何かが接触したのだ。
 キールが、いま、一番会いたくない人物がそこに立っていた。
「シン…」
 シンがキールを認めてにっぱぁ、と明け透けな笑みを浮かべる。逆にキールは背筋に冷水をかけられたような顔になった。
「……ぷ」
 二人の顔の好対照に、ナギは吹き出した。

「―――ナギ。子供に子供のお守りをさせないでください。あとよろしくっ」
 ぽんと肩を叩いて、キールは逃げていった。すぐさまシンがそれを追い掛ける。
 ナギは止める間もなくそれを見送った。
「……うーん、これじゃ私の出番はないな。…にしても信っじられん」
 あの、シンが、あの、キールになつくとは。
 ナギは首をひねる。
「……すり込みかな? あるいは深層心理で実はキールが好きだったとか…」




 キールの足は早い。しかし、ナギに押しつけて一時的に姿を消すだけのつもりだったため、どこかのんびりと草原を駆けていた。
 しかし、足音が聞こえて、キールは恐る恐る振り返り――絶対に認めたくないものを認めた。
 いっぺんに髪の毛が逆立って、本気で走りだす。
 シンの足も結構早い。しかし差は見る見る開いていき――とうとう、こけた。
「わっ!」
 声と、倒れる音。無意識に頭が別の音を期待するが、何も聞こえない。もしや何か大怪我をしたのかと気になって、しばらく走った後、キールはとうとう引き返した。

「キール」
 キールの姿を認め、ぱあっとシンの顔が明るくなる。
「……怪我、どこだ怪我」
 膝にちょっと擦り傷ができていた。かすり傷だが、来てしまったからにはしかたがない。一応、治す。
 立ち上がろうとして、がしっと何かがそれを阻んだ。げんなりしつつ見下ろすと、シンがしっかりキールの服の裾を握っていた。
 見上げる瞳は決死の光。
「……お前、喋れないの?」
 言語領域まで記憶が喪失すれば、当然、言葉は不自由になる。でも、物忘れの病でそこまで記憶が失われるのは珍しいのだが。
「キール」
「キールはわかったって」
 シンは無邪気に笑う。キールはそれを忌々しい思いで見つめた。キールの記憶が、このシンを受け入れるのに苦労させる。シンは絶対に、何があってもだ。こんな顔はしないと知ってる。知ってるなんてもんじゃない。判っている、んだ。

「キール」
 ひどく、幸せそうに、シンはその名を口にする。―――幸せ? 俺は、こいつのそんな顔を見たこと、あったっけ…?
「キールはわかったって、他の言葉は?」
「…キール」
 うかぶ微笑み。
 一点の曇りもない、心からの幸せ―――
 顔をしかめて、ため息をついて、キールは降参した。
 まいった。逆らうことなんてできなかった。
 ――これはシンじゃない。シンの顔をした別人だ。だから、シンへの悪意を持ち越す理由は、ないんだ。
 キールはそう自分を整理した。そしてそれはキールに口実をくれた。
 キールは腕を伸ばして、シンを抱き締めた。無垢な顔で自分の名を呼ぶシンを、愛しいと思わずにいるのは不可能だった。
「…どっか、痛いところないか? 全身癒したはずだけど、見落としたところとか、今ので痛めたところとか…」
 抱き締めたまま問うキールには見えなかったが、シンは瞬間ひどく驚いた顔をして、次いで幸せそうに笑った。

邪険にされているとか、冷たくされているとか、そういう事がわからないほど馬鹿じゃないのだ、子供は。
 そして、優しくされれば嬉しいものなのだ。
「キール」
 ひどく大切なもののように、シンはその名を口にする。
 切ない気持ちが胸に満ちて、キールはシンを抱き締めていた手を離す。悲しくないのに、何故か涙がでそうだった。
「…帰ろう。ナギが、心配してるから」
 手を引いて、一緒に帰る途中で、キールは聞いた。

「…記憶のある頃よりも、今のほうが、ずっと幸せそうに見えるよ、お前。俺はお前の記憶を取り戻すことができるけど――そう、したいか?」
 シンを見やれば、聞いていない。
 判らなかったのかな、と思う。
 …問題は、シンの服が破れていたという事と、いつもの服を着ていた、という事だった。 皇族の服はちょっとした要塞並みの耐久力と、各種術への防御を持っている。
 その服を破けるのは、限られている。
具体的に言うならば、皇族か、影か(彼らはおなじ服を着ている。となると、結界は中和、相殺する)、あるいは多重の結界を解除できる程の卓越した術者か、だ。

 ちなみにキールにもできるが、やろうとは思わない。むちゃくちゃ疲れるし、魔力がほとんど空に近くなるからだ。(浴室へ行くとき簡単に破けたのは既に一部に欠損が出ていたからである)。
 シンが記憶を無くしたのに、皇族が関与しているのは間違いなかった。
 以前のシンは権高く、誇り高く、その誇りに見合う自分を保とうと、いつもぎりぎりの顔をしていた。息がつまる豪奢な服(誇り)を着て、でも決して脱ごうとはしなかった。それは、確かにシンをこの上なく魅力的にみせたけれど、幸せそうには見えなかった。

 ―――その頃とはまるで違う無邪気な顔の幼なじみを見ていると、いつもは決して言えない言葉も言える。
「……好きだよ、シン」


      § § §


「シン。おいで」
 キールは極上の笑顔で、シンを先導していた。草原を抜け、森をくぐる。
 やがて目指す場所に辿り着き、キールはそれをシンに見せた。
 シンの表情がぱあっと変わる。
 花畑。
 見渡す限りの花畑。右も左も花畑。東西南北、はなばたけ。
 ……花で地平線ができていた。もちろんそんな場所が人間の土地に現実にある筈がない。見渡すかぎりの花畑、などという場所は、本当はない。ここは、人間ではごく限られた相手しか知らない、秘密の場所だった。

「風の精霊!」
 キールが一声かけると、キールと、シンの体がふわりと浮き上がった。怯えるシンをなだめ、説明する。
「花を踏み潰したりしないように、薄皮一枚だけ、浮いてる。寝っ転がっても何してても落ちないから。靴履いてると思えばいいよ」
 シンはしばらく歩いたり座り込んでみたりしていたが、そうしている内に、慣れたらしい。
「おいで」
 シンを手招きし、キールは起き上がって座り込み、花を千切って冠を作りはじめた。

 手際よく、器用に踊る指先はシンの目を釘づけにし、キールは作り終えた花冠をシンの頭にのせた。
「内緒だよ、ここの事は。ナギにもイールにも、秘密」
 こくん。
 続いて首飾りを作った後は、シンの髪を手で梳いて、二本にして花を編みこみ始めた。
「お前の髪、好きだな。綺麗で長くてよく似合ってる。俺はお前の髪の毛いじるの、好き」
 キールが下を見ると、さっき摘んだばかりの花の跡などどこにもないが、キールは気にもしなかった。
 ここは、そういう、場所なのだ。
 シンに花冠と首飾りと花の編みこみをやった後、キールは前に回りこんで観賞し、吹き出してしまった。
「…悪い悪い。なんか、異様に花畑に囲まれてメルヘンやってるのが似合う…っ」
 シンはきょとんとしていたが、自分の首にかかる花飾りを手でもてあそび、地面をまさぐりはじめた。
「ん? ああ、首飾りつくりたい?」
 キールはシンの手をとって指導する。
 平和だ。キールはしみじみ感じていた。
 シンが首飾りを作っている間、キールは大の字でころがって、草を唇にあてた。

 空が青く、綺麗だった。

 そこに音符が重なる。草笛を吹きながら、キールは、自分はなんで、ここにシンを連れてきたのだろうと思った。
 けれどその疑問も何もかも、満ち足りた満足感の中に消えていく。
「あーあ……シン、お前、もうそろそろ大人だな」

 シンは作成途中の首飾りを持ったまま、きょとんとした顔になる。
「そこまで知識が抜けたのか。えーと、十五の誕生日に、男か女か選択するの。お前はまだ未選択の未成熟な体だった。でもって、お前は俺より数か月年上で、十四で、だからたぶん、もうすぐ性分化して大人の体になるの。どっちになる? 男? 女?」
 シンは困惑した顔である。

「そうだよな、そんなに早く決められないか。じゃ……男になれよ。以前のお前はそう言ってた。わりと、切実な理由があったし」
 見えすぎる眼というのも厄介なものだ。言っちゃ悪いが、シンは皇族らしくやたらめったら秘密を抱えていたが、キールもそれに張るぐらいには秘密を抱えている。
 キールは男になる予定だった。理由は特にない。考えるのが面倒だったからだ。キールはそんな風に、いい加減なところではとことんいい加減だった。

 シンの姿が眼に入り、苦笑する。
「……以前のお前なら、そんな花で飾り立てられた人形扱いされたら黙らせるのに苦労しただろうなぁ」
 まず、花をつけさせるところから取引しなければならず、次にじっとしている事を取引して、更に罵詈雑言の嵐の口を閉じさせるのにも取引を必要としただろう。
 確かに、あれは人形じゃなかった。美しいが物騒な、研ぎ澄まされた怜悧な刃だった。しかも、みてくれだけの鑑賞物じゃない。実用一辺倒の、稼働品だった。
「…ここは精霊の住みか。人間の住む領域とは少し違う原則で動く世界。ここの土地は精霊のものだから、ほとんどの人間は、入ることができない。そしてここは精霊の土地のなかでも光の女王の領域。
 俺は闇の女王には嫌われているから、闇の領域に行こうとしたら、相当の覚悟が必要なんだ…」
 キールはぽつりぽつりとそんな事を話した。
 何となくそういう気分だったので。
 シンが何も聞かないので話したくなったのか、あるいは平穏で幸せな空気に口が緩んだのか。

「闇の女王は美しい姿をしている。一回しか会ったことないけど、漆黒の石のようで、全ての精霊の中でいちばん美しいと思った」
「光の女王は清水の体を持っている。あくまでそう見えるってだけな。水は光を通し、青ではなく白金に輝いている」
「精霊の女王は実はもう一人いる。俺と一番親しい。死を司る女王。最強の、女王……。シン、ひざまくら」
 もぞもぞとキールは動いて、シンの膝の上に頭をのせる。
「…んー、俺、お前のこと、好きだな」

 ぽつりと言って、キールは眼を閉じた。
 キールには解っている。シンが記憶を閉じたんじゃない。記憶を、閉ざされた、のだ。
 自分の仲間、同じく人の精神を操れる、シミナーによって。

 自分は以前のシンに戻したいのだろうか、もしくはこのままでいいと思っているのか。
 判らなかったので、考えないことにした。
「……うん。いつか、光の女王に会わせてやるよ。会わせてみたい」
 そうして、話をするので中断した草笛を、キールは再び吹きはじめた。

 

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