貴方の手をとり指輪をはめよう 1





 世の中は、えてして正直者に冷たいもので。
 馬鹿がつくほど正直で真面目な人間よりも、ちょっとずるくて要領のいいちゃっかり者の方がいい目をみて、世の中うまく渡っていけたりするのだ。
 それぐらいの事は知っていたが、実際に自分が馬鹿をみる目にあうと、二つの目を丸くしてさめざめと悲嘆の涙を流したくなる。

 これまで、信二はどちらかというとちゃっかり者もしくはしっかり者といわれる分類に属していて、我ながら世渡りも機転も要領も悪くないと思っていたのだ。正直者は貧乏籤をひくというが、優等生で品行方性という看板をもつ信二は世渡りが決して下手でない。
 つかみそうになった貧乏籤をちゃっかり別人のところに流し、逆に当たり籤をつかみとり、わずかなチャンスで自分を売り込み、品行方性な優等生の看板を最大限利用してこれまでやってきたのだ。
 そう、思っていたのだ。ただ一つの事項をのぞいては!

 そしてそのただ一つの事項は、今信二の前でうっとりした眼差しでひとりの男を見上げている。当然ながら一秒たつごとに信二の機嫌は急降下し、まだまだ底は見えそうにない。
 しかもこの男がいい男なのだ。
 外見は松竹梅でいうなら最上の松。

 それも芸能人系とはばっさり系統を別にしているタイプの顔貌だった。まず肌がこんがりと赤銅に焼けている。赤銅の肌が筋肉によってぴんと伸びて、なめし皮のような風情をかもしだす。では肉体労働系のむきむき男かというとそれもちがう。全体的に細身で、シルエットは優男にすらみえる。筋肉質の男につきものの筋肉の圧迫感がないのだ。
 細身でありながら中身は筋肉が詰まっているということは、ゆったりしたシャツにベルトで引き締めたズボンという姿からも、すぐに見て取れる。それなのに顔立ちはいっそ、線がほそいといっていいほど整っていた。
 なにより印象的なのは、眼。

 ミコトの背後から信二を一瞥した視線は、「力」にあふれていた。
 悪意も、殺意も、両方何の感情も含んでいない眼差しひとつで心臓がとまりそうな思いをあじわう。それほどに根本の質量がちがう瞳だった。
 歴史でならった薄倖の剣士沖田総司の話が脳裏をよぎる。
 線がほそく、顔立ちは女とみまごうほど美しく、それでいて屈強の男達に伍してその上をいった剣士。
 現代日本で、まず見ることのないタイプ―――、歴戦の古豪のような雰囲気を身にまとっている青年だった。

 信二から見ても―――その相手はどこに文句をつければいいのかわからない。
 男として、ひしひしと格の違いがわかる。
 こうして同じ空間にいるだけで、無言の存在感に気圧された。
 信二はそっと声をかけた。
「ミコト……」

「君は彼女の知り合い?」
 初めて青年が唇を開いた。
 その声に信二は唖然とする。
 普通の人間の声がまっすぐなパイプを通る空気なら、この青年の声は、百人がてんでばらばらに叩き、ある場所はつぶれ、ある場所はよれ、ある場所は穴があいた―――そんなパイプを通ってきた空気だった。
 平たく言ってしまうと、とんでもないダミ声だったのだ。
 一つの音が、何重にも重なって聞こえた。こすれ、擦れ、にごった声。

 声に驚いて少し間があいてしまい、信二はあわててうなずく。
「あ、はい」
「お姉さんにちゃんと言っておきなよ。あの公園、夜には物騒な連中の溜まり場になるんだ。二度と通っちゃいけないよ」

 そういって、青年はあっさり踵をかえす。
 引き止める間もなかった。

「信ちゃん―――」
 呼びかけられて、信二ははっとしてミコトに視線をおろす。
 怪我は―――ない。服が少し汚れているけれど、それだけだ。信二はほっとした。
「大丈夫だった?」
「うん、あの人が助けてくれたから」
 ミコトはぼうっとした表情で言う。
 その表情からミコトの考えていることを把握するのは簡単で、気圧されて忘れかけていたむかつきが再燃してきた。

 確かにミコトを助けたのはあいつだ(口惜しいことに)。
 信二はなにもできなかった(ただ助けられたミコトを引き取っただけ)。
 顔だっていいし、姿もいいし、ミコトを助けたところから見ても強くもあるんだろう。
 でも―――ムカつく。

 そのときミコトが声をあげた。
「あ! お名前聞いてない……。どうしよう。信ちゃんどうしたらいいかな? もう……追っても間に合わない、よね。あーもうやだっ、お礼もまだきちんと言ってないのに」
 ……聞いているうちにいらいらしてきて、信二は吐き捨てる。
「あんな奴……っ、オレが側にいたらちゃんとミコトを守ったよ」
「信ちゃん―――」
「そうだよ、あいつはただ単に居合わせただけじゃないかっ」
 顔に軽く衝撃を感じて、信二は立ち尽くした。
 痛みはどうってことない。―――ミコトに、なぐられたという事のほうがずっと深刻だった。
 ミコトは精一杯しかつめらしい顔をして、いう。
「信ちゃん。私は信ちゃんの口からそういうこと聞きたくない。信ちゃんがいれば、それは私のこと助けてくれたよ? 家族だもの。身内だもの。でも、見知らぬ他人が危ない目にあっているとき、それを助けようと手をのばせる人がどれだけいるの?」

「―――……っ」
 信二は頬に手をあてて、うつむいた。
 頭のなかを流れさる言葉のすべてはどれもうすっぺらで、ミコトの言葉よりも正しく、力ある言葉は一つとしてなかった。
 信二だって、そんなことはわかっている。なのに認められなかった。いらいらもむかむかも、自分の弱さの裏返し。心のなかに、虫がいる。その虫の吐く毒液の苦味を舌先に感じて、みじめだった。

「……ごめん」
 下をむき、謝る。

 あの青年がいなければ、ミコトがあっていただろう現実。
 それを思えば信二はそれこそ地面に頭をこすりつけるように感謝しなければならない。
 でもそうできない理由は、―――ミコトが青年に向けていた熱っぽい瞳。あんな顔を、これまで信二は一度も見たことがないのだった。

     § § §

 雨に濡れた土の匂い。
 暁闇を従えるように立っていた青年。
 ―――だいじょうぶ? もう、この公園を通っちゃだめだよ。



 翌朝、信二に朝のコーヒーを煎れてもらいながら、ミコトは何度も何度も繰り返し昨日の映像を思い出していた。
 同じように心にやきついた恐怖はそれを上回る衝撃によって消し去られて、思い出すのはあの無名のヒーローのことばかりだ。
「かあっこよかったなあ……」
 ぽろりとつぶやくと、コーヒーカップを持った少年の背がぴくりと震えたが回想に夢中になっているミコトは気がつかない。

 昨日、いつも残業があるのにその日だけ残業がなく、会社を出たのは夕方だった。
 まだ陽は明るかったので、朝は通るけれども夜は物騒だから通らない公園を通って帰ろうとしたのだ。
 ―――あそこで彼がたまたま来てくれなかったらどうなっていたか。
 想像して、久しぶりに蘇った恐怖に身体を震わせた。

 助けてくれて、家まで送ると言ってくれた。
 結局はその途中でミコトを探しにきた信二と行き合わせ、ミコトを信二に預けて彼は帰ったのだけれど―――。
(信ちゃんには悪いけど、もうちょっと後で来てくれればなあ……)
 そうすればもう少し一緒にいられたのに。

 太陽の匂いがする肌も、引き締まった体つきも、すべてが素敵だった。ミコトの、ほとんど至近距離といっていい近くに半そでのシャツから伸びた腕があり、その剥き出しの筋肉が作り出す線の一つ一つが胸をさざめかせた。
「信ちゃん、もしあの人に会うことがあったらお名前と住所きいといてね! お礼しに行きたいから!」

 弾んだミコトの声を聞きながら、信二は突然まずくなった料理を見下ろした。
 ―――どうしてこんな思いをしなきゃいけないんだ。
 ずーっとミコトの側にいたのは信二だ。家事一切ぜんぶだめのミコトを何年も支え続け、家事をしつづけてきたのは、信二だ。
 どうして、わきからひょいとでてきた奴なんかに……!
 唇をかみ、にじんできた血の味にあわてて歯をはなす。目に涙がにじんだ。鼻頭にぐっと力をこめて、それをこらえる。信二にも、プライドというものがあった。

 昔から、なんどもなんども自問自答してついに答えが出なかった問い。
 ―――もしもミコトが誰かを好きになってそいつと結婚するといったら、信二はそれを素直に認められるだろうか?
 ミコトが信二を好きになってくれるより、ミコトが信二でない大人の男を選ぶほうが、ずっと確率としては高いのだ。
 その現実が、いま、ひたひたと足音をしのばせてやってきている。見た目も行動も文句のつけようがない相手とともに。
 そんな相手をミコトが好きになって、相手もミコトのことが好きだと言ったら……。

 誰かを好きになるということは、痛みだ。
 どれほど好きであっても、相手に拒絶されたら、諦めなければならない。それが恋で、無理矢理上から岩で押しつぶすようにして想いを押し潰す行為を、痛みと言わずしてなんという?
 心に、荒涼とした風が吹いている。
 胸のうちを荒野にしながら、信二は結論をだした。
 ―――認めなきゃ、いけないんだろうな。

 好きで好きでどーしようもなくて、できれば自分が幸せにしてあげたくて、他人によって幸せになる姿なんてみたくなかった。―――でも、それがミコトが自分で選んだ幸せであるのなら。
 思いを押し付けても、認めまいと意地をはってだだをこねても、それは……、ミコトを不幸にするだけだ。スのつく人々になることだ。
 どんなことがあってもあきらめない。でも、ただひとつ、ミコトの拒絶だけは―――諦めなくてはならない最後の壁だった。

 信二は返事をする。
「……はーい」
 自分の息子の不承不承という単語そのものの返事にも、ミコトは気がつかなかった。
 こういう状態のときには、周囲のどんな声も聞こえないものなのだ。

 下手すれば、いや普通に考えればまず二度と会うことはないだろう相手にミコトはのぼせあがっていた。
 しかし、そのわずかに一日後。
 ミコトは信二から「見つけた」というを知らせを受け取ることになる。


     § § §


 信二が二度目の出会いを果たしたのはなんとその翌日のことで、信二は思わず足をとめ、周囲をはばからずに相手を見つめてしまった。
 その視線に青年も気づいて足を止める。ほっそりした脚の線を際立たせるぴったりとしたパンツ。その皺を伸ばすように歩いてきて、信二の前で止まった。
「本、好きなんだ?」

 ざわりと空気が蠢いた。
 周囲の人々が身を乗り出すようにして、自分たちを注視しているのがはっきりわかる。
 緋色のじゅうたん、広い空間。子ども用の低い机。
 ふたりがいる場所は、図書館だった。
 信二は自分の手の中の本に目をおとす。
「あ、いやこれは……」
 ここの自習室で、勉強しようともってきた。
 日曜日。家中に掃除機をかけ、曇り空なので洗濯は後回しにし、食器を片付けて、信二はさてと時間の使い道にこまってしまった。
 家の中に閉じこもっていると余計に体がくさって気分もくさりそうで、信二は参考書と筆記用具一式をもって図書館に勉強しにきたのだ。

 その表情と本の背表紙を読んで、わかったのだろう。ああと一つ頷くと質問してきた。
「君、いくつ?」
 声が、つまったようになり。喉から出てきてくれない。
 信二は俯き、一度空気を飲み込み、それからやっと声を吐き出す。
「こ、高二……」

 それを聞いて、青年は唇の端を持ち上げるようにしてわらった。
「ちょうどよかった」
「はい? あ、あの……名前は……」
「渡辺」
 これだけの存在感の持ち主にしては平凡な名前だった。
 別に全国の渡辺さんを差別するつもりはないが、絶世の美女が「山田」とかいう名前だったらやはりイメージ的になんというかギャップがあるではないか。
「渡辺……さん。あの、昨日はどうもミコトを助けていただいて……。住んでいらっしゃるところを教えていただけませんか? あとでミコトが、その、お礼に行きたいと……」
「んー教えてもいいけどさ」
 意外ときさくな喋り方で、髪をかきあげる。

 陽にやけて、ぱさぱさの短い髪が傷だらけの手によって宙に浮き、すぐさま無機質な音をたてて落ちる。ちらりと意味ありげな流し目。くすりとわらう。
「キミ、あの女の人の家族?」
「……ええ」
「血はつながっていなかったりする? ひょっとして」
 ダイレクトにその質問がきたことに、ぎょっとした。
 普通の会話の応酬ではまず出てこない質問だ。
 二秒ほどの間、返答もできなかった。

 その表情から答えを読み取ったのか、口元と目を細めて、笑う。
「ああ、なるほどね」
 信二は声を絞り出した。
「ミコトは……オレの母です」
「義理の母かな?」
 相手の想像しているものと実体はちがっていたが、字面はあっている。
 信二はうなずいた。
「義理の、母です」
 信二がこの世でいちばん好きな……。

「……キミ、頭いい?」
 瞬間的にむっとした。胸を張って言い返す。
「オレは学年で十位以内から落ちたことはありませんね」
 その次の、意外といえば意外すぎる答えに、信二は絶句した。
 どう見ても二十代の青年は、信二をのぞきこみ、きらりと瞳を輝かせて、こう言ったのだ。

「じゃ、僕に勉強教えてくれないかな?」




ずっと昔に掲載した読みきり「少年の成長する時間」の完結編です。
がんばります。

2003 6/7 up

オリジナルのページに戻る

トップへ行く