誰が駒鳥殺したの
時代は少し遡る。
これは、シンとキール。二人が十一歳の時のおはなし。
物語は、ここからはじまる。
血が頬に飛んだ。
何が起きたのかわからなかった―――というのは、無知な者だけの幸福だろう。
彼が事態を理解できなかったのは一瞬だけで、事態を把握するまで、一秒とはかからなかった。
そして理解するのと同時に、恐怖がきた。
目の前には、頭を割られた人間の死体が転がっている。
自分もまた、人殺しであるというのに、目の前の殺人者に、恐怖を感じずにはいられなかった。
そして、殺害を目撃してしまった自分が死に瀕していることを、理解した。
世界の果てには何があるのだろう。
この答えを、今ではだれもが知っている。
世界は丸い。よって、果てなどないのだ。
しかし、球体の地図というのは持ち運びや場所とりの利便上、非常に不便である。
だから球を平面に起こした四角い地図ができた。
その地図には世界のはてがある。世界の果ては―――深い森でできている。
精霊の領地の最たるものが世界の果ての深い森である。精霊の領地に、人が手をつける事は許されない。人には関係のない場所のため、そこを人の地図では世界の果てにしているのだ。
この星においては、精霊という存在は物語のなかの空想ではなく、公然とした勢力を持つ存在だった。そして彼らは、星全体の九割近い土地を所有している。
まず、海はすべて精霊のものである。次に陸地は、半分が精霊のものだった。
陸地の半分だけが、人間のものである。
人に約束を守らせるには、それだけの「力」がいる。その約束を守らなければ、こんな目にあう、というものが。
人間は罰がなければ守れない、どうしようもない生き物だった。
かつて一度だけ協定を破った人に、精霊は強烈な罰則を与えた。作物がほとんど育たず、地震と、連続する天災に人間はしたたか懲りたのだ。
そしていま、精霊と人間は、行儀よく住みわけている。
神話では、はるかな昔、人間は実体がない精霊にいじめられ、迫害されていたという。
それを哀れに思った神が人間と精霊から、一人ずつ代表を出させて人間側の代表に精霊をたしなめる力を与え、話し合うよう言った。
人間側は一人の人間を選んだ。初代の交渉役は不思議な力を与えられ、全権大使になって精霊との交渉にのぞんだ。それ以後、彼の血を引いた者の中から、代々交渉役が選ばれることになった。
それからこの星の二大勢力はそれぞれ交渉役を出して、何か有事のときには話し合いをすることにしたとされている。
人間側の代表者を緑の座と言い、精霊側の代表者を調停者と言う。
交渉役の一族は同時に、人間社会を取り纏める指導者一族ともなった。初代の血をひく彼らを、皇族という。
§ § §
キールはあくびをして背伸びをした。
その傍らでは幼なじみのシンが、どんよりと暗雲を背負っている。
実に対照的な二人の様子に、笑いをかみ殺しているのはキールの父のナギと、双子の弟のイールだ。
「……いつもいつもお疲れさま。キール、骨折とかさせてないだろうね」
「関節へし折ったけど癒したよ」
「……」
「……キール」
ナギがたしなめようと声をだしたが、それをシンが遮った。
「いいんですよ、ナギ。…真剣勝負なんですから当たり前です」
「俺はぜんぜん真剣じゃないけどな」
『キール!!』
ナギとイールの突っ込みが、止めを刺したキールを強打した。
その少年の本名は知らない。シノン・クーバスという名を名乗り、シンと呼んではいるものの、それが本名だとは、一家で最も純朴なイールですら思っていない。
元来ナギ家は、戸主のナギと、その双子の子供のキールとイールの三人家族である。が、今や四人家族であるような気がしていた。
ある日ひょっこり現れた、美貌の少年がシンである。軽快で親しみやすい性格と、誰の目をも引きつける愛らしい美貌。同い年のイールはすっかり馴染み、ナギも好意を持ち、頻繁に訪ねてくるのを快く迎えいれたが、キールだけは別だった。
最初の頃、あからさまな敵意にイールやナギはひやひやしたものだが、シンは見た目の荒事には向かない繊細でひ弱な印象とはうってかわって、やられたらやり返す強気の人間であった。
最初は戸惑い、好意を得ようと色々に努力していたシンも、一月もすれば毒舌には毒舌を、暴力には暴力で返すようになった。
目の前の火花散る悪意の応酬に、ナギたちは冷や冷やしながら見守ったものだが……、人間は慣れる生きものである。
どんな事でも、いずれは絶対慣れるのだ。
ナギとイールはもう、二人が喧嘩しようが皮肉の応酬しようが、ため息一つで終わらせていた。
……それに、毒舌はともかく、喧嘩ではまず確実にキールが勝つ。シンの勝率は、百回に二三回というところか。
その低率の敗率をゼロにするのは、人である限り難しい。
要するに、シンはまぐれでしか勝てなかったのである。
ナギ一家は、草の民と呼ばれる自然崇拝と自然調和を旨とする民族である。その生活形態は昔ながらの狩猟と採集、農耕で、千年前からまったく変わっていない。その民族の人数はかなりのもので、全人口のほぼ半分、土地では七割を所有し、人間内での勢力を二分していた。
もう一方の勢力は一ヶ所に集住する街の人間で、こちらには民族名はない。街の人間とか、ただ単に人々、とか呼ばれている。
シンが属しているのはこちらであった。折衝をつとめる皇族の努力もあり、二つの民族間の関係は悪くない。キール曰く、「丁重な無視」という関係である。
ナギ一家において、街の人間との関わりは訪ねてくるシンを迎え入れる受動的なものと、ときどきなめした皮や余剰の食料を売り、現金に変え、石鹸や蝋燭などを買いにいく時ぐらいであった。―――精神治療者であり、治療をやっているキールをのぞき。
今日も負けたシンは落ち込んでいた。
どんより暗く落ち込んでいた。…キールに勝てない。何十回と喧嘩しているのだが、勝てない。
シンは決して、素人ではない。護身術の教師たちに、実に実戦的な、「生きるが勝ち」を教え込まれ、実戦経験も豊富、――なのにだ。
実戦経験の差というものは、大きい。例えばイールは、格闘だけなら兄とほぼ互角の実力者である。
シンと模擬試合をやったなら、十のうち九は、イールが勝つ。
しかし、殺しあいとなれば、シンに、イールが勝てる確率は万に一つもないだろう。
――イールは、人を殺したことがない。
その差は途方も無く大きい。
一人、家族の団欒から離れて落ち込んでいるシンに、ナギが近寄って話し掛けた。
「…気にする事はないよ」
ナギの声に、秀麗な面が上げられる。レイオスの魔力のある者は例外なく髪も瞳も銀、肌も白である。魔力が強ければ強いほど美しい銀だ。そして魔力なき民はいないため、レイオス人は色素にとぼしい。全員が銀髪と白い肌、銀の瞳を持っていた。
シンはキール曰く「馬鹿力の制御不能」である。お陰さまでシンは目にも美しい白銀だが、魔力は強ければ強いほど、制御は難しい。努力家のシンは下手ではないが、上手とはとても言えなかった。
「キールは特別なんだから。…あの子は、天に、愛されてる」
「……」
「シンは天才を知っているかい? 私はこの歳になるまで知らなかった。自分の子を見て、やっと知った。天才っていうのは、いるもんなんだとね」
だから、気にする事はない。ナギはそう言いたかったのだ。
けれど、シンはかぶりを振った。
「……ナギ。僕も、僕も、よくそう言われていました」
シンは、そのあまりに完璧な容姿から、それに見合うイメージを押しつけられる。そして、涼しい顔で何もかも簡単にこなしそうな容姿の印象と違い、シンは、努力家だった。
努力家である兄の影響も大きいだろう。
だがつらい努力をしつづけたのは彼だった。他の誰でもなく、彼自身だったのだ。
その上を、キールはいく。
ナギはいたましげに、シンを見守っていた。
§ § §
周りには色とりどりの光球が浮かび、その背景は霞んだ乳白色。
現実ではあらざる空間のなかで、キールは精霊の頼みごとを受けていた。
『―――取り返してください。あれは禁忌。
あれは、世に出てはならぬものです』
キールは黙って聞いていた。
通常の枠を越え、力あるもの。平衡であるべき世界を壊してしまう可能性のあるもの。それを禁忌と言い、その危険を摘まねばならないと言うのなら、キールも充分その範疇に入るのではあるまいか。
人界に流れるのはいい。けれど、現実に危険となるのは許せない―――そういう事なのか。事実、神樹の本が人の手に渡ってから五十年後の今まで、精霊は放置していた。
ならば、キールも狩られるのだろう。危険となった日は。狩られないのだろう。危険となる日まで。
……狩られはすまい。精霊の手足として働きつづける以上は。
「…わかりました」
キールはそう答えた。
価値を知らぬ者には宝の山も屑と同じである。
皇宮の官僚によってとんでもない安値で買い上げられたそれは、一見本の形をしていた。
けれど、持てばかなりに軽く、紙ではなく薄い木板でページがつらなっていた。
表紙も紙ではなく木。くくりには糸が使われ、表紙木に精緻な細工が施された、美しい本だった。
買い取った官僚は、皇族への献上品としてその本を使用した。そしてその行為には充分な見返りが支払われた。
彼が取り入ろうとしたのは橙の座と言われる有力な皇族(彼の見るところ最も有力な)である。
橙の座はその本を一目見るなり息をとめた。
そして即座に恩賞を与え引き取って、一緒に暮らす弟にみせた。
皇宮に、美しい人間は数多いが、その中でも随一と言われているのが、橙の座が庇護する白の座と呼ばれるまだ幼い少年であった。
義兄弟という意味の弟ではない。れっきとした弟である。すなわち、その少年も皇族であった。
「…何です? これは―――」
白の座も一目見るなり息をとめ、そう口にした。
無理もない。
深い森の奥深くには神が棲む。人より遥かに長い年月を見据えた樹が棲む。その古木を樹木様といい、例え一かけらでも莫大な値で取引される。
「…信じられない。全て、これは、すべて、……樹木様だ」
これだけの樹木様が一度に市場に出たことは、かつて一度もない。
樹木様の効用は一言でいうなら「神の力を身にやどす」事につきる。
護符にするならば力は数倍に増える。また通常では使用できないいくつかの術が使用可となるのだ。
「…何が書かれているか、読めるか? シン」
シンと呼び掛けられた白の座はページをめくったが、手つきが慎重にならざるを得ない。これだけの樹木様に直に触れたことは、皇族でも経験ない。
木の板に、文字が黒々と書かれていた。わずかな擦れもゆがみもない、印刷のような字だった。
「…第三期以前の文字ですね……」
苦々しさをこめて、シンは口にした。
言葉は日々変化していく。その変化はおよそ六期に分割され、現在が七期、それ以前が古語と呼ばれる。
皇族の教養として彼は語学をかじっていたが、それは第三期まで。それ以前のものは、専門家に任せるしかない。
橙の座にも読めなかった。そしてシンも、読めなかった。皇族二人に読めないということは、一般人にはまず絶対読めないということだ。
「…これだけの樹木様に記された文字……。内容はどう考えてもとんでもないでしょう。―――学院へ運びますか?」
「ああ、そうだな」
橙の座はうなずいた。
§ § §
キールは食事をたいらげると、ふらりと外へ出た。もちろん、家族に言っていくのは忘れない。
「ごめーん、ちょっと出掛けてくる。寝るまでには戻るから。あ夜ご飯いらないよーっ」
……あの本が、皇族の元へ運ばれたのは精霊から聞いていた。顔見知りのところへ。
それは仕方がない。
樹木様の肉はとんでもない高値で取引される。滅多に市場に出ないからだ。だから樹木様を持っている者は少なく、また持っていたとしてもほんの欠けら程度なのに、本一冊分である。
「……可哀相だけど、ま、いーか」
キールはあっさりシンを切り捨てた。初代の血を引き、かつ皇族と認められているれっきとした皇族のくせに、お忍びで庶民の家にやってくる奇妙な奴であった。
皇族内での地位は年からして当然の最下位。死んだところで社会に何の変化もない。これが、調停者たるキールと同格の緑の座に捧げられていたならば、話はいささかややこしくなるのだが。
関心を抱いている。他の誰にもない特別な関心をシンに抱いている。それを否定する気はない。
……けれど、それでキールが己れのやるべきことをやらないというのは、有り得ない話だった。
出迎えに来た人間の顔に、称賛とそれに勝る深い感動の色が広がっていくのを見て、シンは一気に不機嫌になった。
彼らは驚愕から立直ると、たちまちの内に称賛の言葉を数十も並べ立てる。
誉められて、嫌な気分になる人間は滅多にいない。けれど、シンはその滅多にない人間の一人だった。
美しい容姿は、得だ。人間顔じゃないとはよく言うが、それでも影響される事を、誰も否定できない。
けれど、あまりに美しすぎる容姿は損なのだ。
「案内を」
冷ややかに見下して告げると、学院の研究員ははっとしたように動きだした。
学院の結界は、極めて強固なことで知られている。学院とは術の研究所。つまり優秀な術者がごろごろしているからだ。
慣用句で、学院に出入りできるほど、という言葉がある。それだけ優れた術者ということを表し、学院に忍び込めるほど、という言葉はとんでもなく優秀な術者を言い表わすときに使うものだ。
確かに、難攻不落の結界といっていい。
キールは結界に手をあてて、どの術を使ったらいいか、考えた。一つ完全に結界を無効とするものがあるが、それは使えない。あれを使ったら、自分の魔力は空っぽに近くなる。シンに会いに皇宮の結界を抜けるときのような非暴力主義の時はいいが、今回はれっきとした、不穏な目的を持っていた。
精霊がキールに依頼したのはふたつ。
一つは神樹の本の奪還、もしくは抹消。
もう一つは、その内容を読み知った者全ての抹殺だった。
キールは目をとじ、大きく息を吸い込んだ。 瞳に力を集める。
キールのシミナーの能力は、主に、目を通して発現される。人の心は目に見えるし、目と目を合わせれば大抵の人間の内面を読み取れるほか、如何様にも精神操作を加えることが可能だ。
目を見開いて、結界を見つめる。その銀の瞳が、一瞬青みを帯びた。
シンは何かを感じて、振り返った。
しかし振り返ってもそこにいるのは怪訝な顔の随従のみで、最大限に感覚に広げ、研ぎ澄ましても引っ掛かる物は何もない。
何より、未熟な自分に判るような異変ならば、他の者が(結界を司ったり、支配している者が)とうに急を報せているだろう。
そう論理的に判断して、シンは向き直り、案内の者に一室へ招き入れられた。
「こちらです」
しかし、本の返却がなされる筈なのに、そこには何もない。
下がろうとする案内人を呼び止めた。
「本はいずこに?」
「あれは……」
「あの本はあくまで調査を依頼したもの。寄贈したわけでも、売却した物でもない。調査が終わったとあらば、迅く返却を願いたい」
「…失礼ですが、あなた方があの本をどう活用できると言われます? 調査は済んでおります。ですが」
「貴様ごときの斟酌する事ではないわ」
シンは冷ややかに言い放った。なまじ美貌なだけに威力は絶大で、相手は口をつぐむ。
「本をここへ。再度は言わぬ。皇家に歯向かう気ならば、無視するがいいよ。ただし結果がどうなるか、私は知らぬがな」
流し目の、本人の意図しない妖艶さに相手は息をのむ。
すっかり大人しくなって引き下がり、やかで本を片手に現れた。ぱたんと扉が閉まり、小部屋に二人きりになる。
「…こちらでございます」
本を受け取り、シンは尋ねた。
「調査を終了したと言ったな? 何が書かれていた?」
「はい、実は―――」
彼がその先を言うことは、永遠にできなくなった。
ざしゅ、という音とともに相手の喉に鋭い金属の先端が「生えた」。
「――…!」
喉を横に切り裂くように剣を抜き、血が吹き上がる体がその動きで床に叩きつけられる。
殺人者は、更に頭を砕いてとどめとした。
頭の中身が赤黒い色に染まって、床に広がる。
一瞬の出来事。
「……」
冷静に、沈着に、人一人完璧に殺してみせたのは、まだほんの子どものように幼い、少年だった。
シンは彼を知っていた。彼の名前も、家族も、よく知っていたのだ。
「…キール……」
少年の表情に、動揺はまるで見えない。いつも通りの平静な、瞳。
たったいま、使用したばかりの剣を、シンに向けてキールは言う。
「俺は、お前がその本の内容を知っていたら、殺さなきゃいけない」
どくんと、心臓が一つ鳴った。
心搏数が上がってきてるのが判る。自分の呼吸を意識し、一時の空白状態から、自分が落ち着いてきているのを感じた。
「お前は、知っているか?」
……知らない。あと数秒遅ければ、キールは自分に襲いかかっていただろうが。
真実か、嘘か。シンがどう答えるべきか迷う刹那の間に、キールは剣を引いた。
―――え!?
しかしすぐに気がついた。キールは自分の感情を読んだのだ。皇族の思考はシミナーでも読めない。だが、感情ならば……!
目の前で人一人、まるで蚊でも叩きつぶすように殺されて、殺すという脅しを無視できる奴などいはしない。キールは、そういう布石を打った上で、シンにああ問い掛けたのだ。
あれで、恐怖を感じれば「当たり」。
そうでなければ、それは外れだ。
始めから、言葉による答えを得るつもりはなかったのだこいつは。嘘のつける言葉ではなく、感情で―――!
自分の能力を完全に把握した上で、キールはもっともそれを生かす使い方をしてみせた。
「…シン。本を」
さしのべられた、手。
シンは自分の力でキールに太刀打ちできるか考えた。―――無理だ。
自分がキールと戦って、勝てるのは百にひとつ。百分の一の可能性に賭けることを、シンの冷静さは拒否した。
ならば、今自分ができることは?
警備の者が来るまでの、時間稼ぎしかない。
「……こんな…事をして、ただで済むと思っているのか?」
学院内の殺人だ。学院は、名誉にかけて、草の根分けてでも捜し出すだろう。
少年は、初めて気づいたように眉をあげ、悠然とわらった。
「…思っているさ。俺は、シミナーだ」
「……!」
「シミナーの法適用の原則、知らないわけじゃないだろう?」
悔しさに歯噛みする思いだった。
……シミナーは、多種多様の特権を持つ。 シミナーの犯罪は、れっきとした証拠のある重犯罪しか、取り扱われないのだ。それは、瘴気(れっきとした証拠)がつく殺人罪しか裁かれないという事。
そして、キールは、瘴気浄化能力者でもある。現に、たった今殺したばかりの死人の瘴気は、キールについてない。
全ての民が魔力をもつレイオスにおいては、人を殺せばその相手の恨みの念が身体にからみつく。人が、最も精神力を高めるのは、死に際だからだ。これを瘴気といい、犯人の寿命と気力を削り取っていく猛毒であり、まごうことなき殺人者の目印ともなる。
しかし、キールは、瘴気浄化能力者だ。
ついでに言えば、シミナーが罰を受けた前例は、かつて一度もないのだ。
シミナーは百人足らずの小集団で。これまでに、殺人罪をおかしたシミナーは、いなかったから。
「……だからと言って、僕が見ている…! お前が瘴気浄化能力者だって事は、誰もが知っている……!」
それに、警備の者が来るまで時間を稼ぎ、そして取り押さえれば、いかにシミナーの身分でも、かばいきれまい。
「…ああ、シン。お前がそうやって時間を稼ぐ意味、わかるよ」
キールは笑った。
「でも、無駄だよ。……この建物の中に、生きて活動している人間なんて、俺とお前以外、一人もいないんだから」
シンは愕然として、キールを見返した。
頭が真っ白になって、そのとき、ようやく、…ようやく、キールを甘く見ていた自分に気づいた。
いくら腕がたっても、所詮は子供。
ナギの言葉にも、いくら天才でも、所詮は子供だという認識が、シンの目を決定的に曇らせていたのだ。
……ちがう。
これは、ちがう。
大人にだっているものか。たとえ瘴気がつかなくとも。浄化できるといっても。
たとえそれが最善であり、可能だとしても。―――情け容赦なく皆殺しを実行できる人間が、どれだけいる?
何だかんだ言ってもキールをなめていた自分に、唾をはきかけたい気分だった。
キールは天才だ。たしかに。
学院に人知れず侵入し、騒ぎ一つ起こさずに内部の人間全員殺し尽くせる、そんな桁外れの術者、大人にだっていない。兄にも、熟練の術師である教師にもできない。
わかった。ようやく、わかった。ナギの言葉の意味がわかった。
キールは石を投げれば当たるような、「天才児」じゃない。天から有り余る才能を与えられ、それを磨きぬいた、これが……
これが、天才だ。
天才っていう人種の、その圧倒的な力だ。
けれどそれ以上に恐ろしいのは、その精神だ。
迷いも、慈悲の一つも持たない心と、非情な行為を躊躇なく行う精神。
シンはこれまで、自分と同い年……いや、一世代の相手でさえ脅威に感じたことはない。なのに、同い年のこの少年を、初めて恐ろしいと思った。
大きくうわずる胸を持て余して、シンはキールを見る。
「シン、神樹の本を、こちらへ。そうすれば殺さない」
「……そんな保証がどこにある…? お前の凶行の、唯一の証人だ」
キールは、すこし、笑ったようだった。
「……生かしておいても、害はないから。俺はシミナーだよ、シン。百人しかいない、貴重な貴重な、精神治療者。シミナーの生まれる確率は百年に一度。今世紀は俺が生まれたから、今後百年はおそらくシミナーは生まれない。付け加えるならば、俺は治療を無料で行なっている唯一のシミナーだ。その存在価値は、一万人に比べてもなお余る。
……皇族ともあろう者が、それを殺す手伝いができる?」
「……っ」
図星を指されて、シンは唇を噛んだ。できない。生ける宝石、人間国宝を殺すような手伝いは、義務と責任を自覚する皇族として優秀であればあるほど、できなかった。
「逃げても無駄。俺の方が足が早い。転移も無駄…。俺は追いつく。さあ。本を、こちらへ」
「……この、人殺し…!」
キールは本を受け取りながら、いとも優雅に笑った。
「どうも」
そしてしばし本をめくり、内容を確認すると、鮮やかな緋の色が立ち昇った。
「な…っ!」
樹木様といえど、木は木だ。
あっという間に燃えつきて、白い灰が床にこぼれ落ちた。
ぱんぱん。キールは手のひらの灰を叩き落として、シンに言う。
「じゃな。後片付け、がんばって」
§ § §
シンはひとり皇宮にもどり、後片付けに頭を悩ませていた。
いくらなんでも、施設一個まるごと皆殺しは大事すぎる。
言いたい。真実を言いたい。だが、言うわけにはいかなかった。理由は簡単、信じて貰えるはずがないからだ。
シンがキールをなめていたのと同じ、「子供」という理由で、大人でも出来ないものを子供ができる筈がないと、そう言うだろう。
その気持ちはわかる。
シンだとてキールが平気で人の頭をぶち割るところを見ていなければ、信じなかっただろう。皆殺しは、技術だけではなく相当の覚悟と非情さが必要な鬼畜の業だった。
あの場面を見ていたからこそ、皆殺しにしたというキールの台詞をすんなり信じたのだ。
首を貫き通しただけじゃ確実じゃない。首をちょんぎられた直後にくっつけて、蘇生した人間すらいる。でも脳味噌ぶちまけられれば確実に死ぬ。
それを情け容赦もなく実行し、更にそのことに一抹の後悔も感想すら抱いてないような、いつも通りの顔はひたすら恐ろしく、認識の変更を余儀なくされたのだった。
―――恐怖していた事を、認めない訳にはいかない。
まるで冗談のようだった。脈絡もなく、顔見知りの少年が現れて、人を刺殺した。
非現実的な、けれどれっきとした現実。
「……頭痛がする…」
どう処理すればいいものか、吐き気がした。