戦争が終わり、世界の終わりがはじまった 24


 丁寧で、情熱的なキスだった。
 麻衣が寝た男の数は合意非合意あわせて三桁にのぼっていたが、その誰としたセックスよりその口づけの方に動揺した。それが恋というものだろう。
 彼女はもう長いこと、彼に恋をしていた。

 恋が叶ったとき、麻衣の胸にこみ上げてきたのは喜びでもなく困惑だった。もうずっと長い間片思いをしつづけてきて、片恋の状態に慣れすぎてしまっていた。自分の恋が叶う瞬間を夢見て、でも常にそれは空想だった。実際に叶うこともありえることなのだとは到底思わないほどの、遠すぎるものだったのだ。
 長い間側にいたので、みっともないところもずいぶん見せていた。遡れば、別の男と同衾している場面すら見られたことがあるし、いびきだのよだれだとかのそういう誰もがするけれど誰もが繕う場面にいたっては数えるのもあほらしい。

 反面、相棒のみっともないところというのはほとんど見たことがない。滅多に風呂に入れない生活から、麻衣の体臭は自分でも時々閉口するほど匂ったが、彼の体臭は植物的だった。軽い汗の匂い程度しか、憶えていない。口臭や口の中のねばつきにいたっては自分がどれほど匂ったか彼にどれほどの悪臭を浴びせていたか、考えたくもない。同じ不潔な生活をしているというのに不公平だとからんだ事もあった。
 あばたもえくぼとは言うが、彼にとっての麻衣はとっくにその限度を超えてみっともない存在だったのではないかと―――そう思う。そしてそれほどまでに、近い存在だったのだ、彼は。麻衣にとって。

 優しくお人よしでついでにあれほど女性に対して身持ちが固い男は見たことがない。一緒に水浴びするなんてことも日常茶飯事だったのでそのたびに誘ったしついでに同じ寝台で眠ったこともたびたびあるが、誠実に一線を守りとおした。呆れたようにため息をつきながら。困ったように苦笑しながら。
 同様に、遊びで誰かに手を出すところも見たことがない。娼婦の誘いも無料の慰安婦の誘いも婦女暴行の誘いも断っていた。ポーズではありえない。長い付き合いでしかも近い距離だから、そんな「ええかっこしい」はとりつづけていられない。とにかく、心底、考え方が古くて固くて自制心が強くて自律がいきとどいた人間だったのだ―――生きるために誰もが自分の中のそうした良心を踏みにじりそうすることでしか生き延びることのできなかったあの総狂気のなか、彼だけが自分を保っていた。

 自分が彼に恋をしたのは必然だったが、どうして彼が自分を愛してくれたのかはさっぱりわからない。彼に惹かれた理由は海岸の砂粒ほどにも無数にあるが、その逆といえば、よくわからない。容姿は整ったほうであるが男にしか見えないし、女性としてみた場合鍛え上げられた固い筋肉は抱き心地が悪いだろう。性格にいたってはがさつで野蛮だと、自分でも自覚しているだけまだ救いようがあるというべきか、いやもう開き直っているから破滅しているというべきか。
 暴力沙汰が大好きで流血にわくわくするような女など、自分が男なら願い下げだ。
 貞節であるとはまかり間違っても言いがたいし、あちらもそうは思っていなかったろう。大体男と寝た直後に顔合わせたことが一再ではないのだ、「そういう」タイプだと知られるには充分な言動だった。
 だが―――それらすべてをひっくるめて、受け入れてくれた。麻衣の弱さも怯えも強がりもすべて理解したうえで、彼は言ったのだ。愛していると。

 不安と喜びが入り混じった数ヶ月は、それまでの日々とはまるでちがっていた。平常心を日常的に乱されっぱなしで、とても疲れる毎日だった。他の誰に何をされても気にならないが、彼がする言動は一つ一つに飛び上がってしまう。思い入れの差が、その差をつくる。誰に強姦されても麻衣は気にもしないでいることができるが、彼に手でも握られたら逃げ出してしまう。どうとも思っていない相手についてはいくらでも切り捨てられるが、相棒にだけはそれができない。
 それまで平気でこなしていた単なる接触にも過剰に反応する麻衣に、彼はいいかげん痺れを―――まるで切らさなかった。とっくにそんな事は知ってるよとどこ吹く風と受け流した。

 要するに、彼は大人であったのだ、長い共同生活で麻衣の人格をすっかり見抜いていて、反応も予想していて、自分の感情を制御して苛立ちすら表に見せないでいることができるほどの。
 麻衣が自分で回想してもよくまあ我慢してくれたなあと思うことしきりの無礼千万の態度だった。
 何度か、故郷の話もしてくれた。行きがかり上なんとなく話の流れで彼の昔の恋人についての話になったこともある。仰天したのは、その恋人は顔も頭も性格もいい上お金持ち、どうきびしめに見ても最上クラスの「いい男」である彼をつれなく袖にして、それを口説いて拝み倒して同情で付き合ってもらっていたということ。
 当然、両思いと言うには難がある。結局その人は彼をふって、破局となった。
 だから麻衣が自分を受け入れてくれて嬉しい、と彼はつづけた。
 俺が好きになる相手はいつも俺じゃない人を見ていた。麻衣が俺を好きでいてくれて嬉しい、生まれて初めての両思いだ、と。
 いい年した大人が、「生まれて初めての両思い」なんて言葉を穏やかに嬉しそうにいう。それは奇妙に気恥ずかしく、またなぜか逃げ出したい凶暴な衝動にかられた。

 これが水準以下の人間ならわかるのだが、相棒はどう見ても誰が見ても「いい男」だった。実際、もてた。もてまくった。麻衣も壮絶にもてたが、相棒もそれに張るぐらいにはもてた。人目をひく華やかさというやつを、彼は十全に持っていた。
 だからその気になれば彼を真摯に愛してくれる女性の百人ぐらいはいるだろうと思うのだが、あいにくと、その場合は「彼の方が愛していない」。
 彼は相手に何を求めているわけでもなかった。何かを求めているのなら何も持たない麻衣を選ぶはずもない。彼が求めているのはただ、彼の心を動かすことなのだ。

 彼に恋をさせる人ならば、容姿も家柄も財産も関係ない。面倒ごとの十や二十が付属していようがいくらでも引き受けるだろう、実際麻衣に付属する厄介事はリストにすれば百や二百はあっただろうがまるで意に介した様子もなかったのだから。
 彼は、麻衣を選んだことで起きるすべての厄介事はなにもかも自分の力で片付ける自信があったのだ。そしてそれだけの能力を彼は持っていて、麻衣も、それができると疑っていなかった。

 麻衣が彼と過ごした時間は、六年のうちの半分以上に昇る。そしてその更に半分は、血の匂いのなかでともに過ごした。あの場所で理性を放棄して野獣にならなければ人は耐えられないのに、彼は淡々と人の持つ獣の一面をむき出しにした行為に走る同胞たちを冷めた目で見ていた。
 麻衣は女性なので男の性衝動については理解できないが、嫌というほど見てきたし、犠牲にもなったので正直不思議だった。どんな善良な男でも、戦場では女性を襲う。歯を食いしばり目を背け全身を緊張させて輪姦の誘いに必死で耐えていても、崩れればもろい。仲間うちの誘いは悪魔のように執拗で魅力的で。

 麻衣がそれにのらずに離れたところで見ていたのは当然としても、彼も麻衣の傍らに立っていたのは、奇妙という以上に、これは本当に天変地異なみに珍しい。男が好きというわけでもないのに、彼の自制は本当に行き届いていた。
 自制だとか自律だとか、もはやすたれた言葉を体現している青年だった。自分の感情を制御して、欲望をおさえて、行動を自制して。あそこまで見事にできるようになるまで、よほど酷い経験をしてきたのだろうと思うが、冗談めかしてしか話してくれなかったからわからない。麻衣も興味がないといえば嘘になるが、それでも無理に聞こうとは思わなかった。

 「彼を彼にした出来事」を知らなくとも、充分に満足していたから。
 彼の肩にもたれて眠るのが好きだった。夜中に目覚めて見張りを交代するときの、一瞬の微笑を愛していた。
 ……愛していたのだ。
 ―――二度と会えないとわかっているのに息をするたび思い出す。
 もう一度会いたいという願いは、叶わないとわかっているからこそ、強い。





遅くなってごめんなさい!
これからがんがん更新しますから見捨てないでください……。




2005 10/21up

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