戦争が終わり、世界の終わりがはじまった 17


 麻衣の何よりの幸運は、彼と出会えたこと。
 麻衣の何よりの不運は、彼と出会ってしまったこと。

 不意に空を見上げ、その青の深さに突き刺されるとき、麻衣は痛感する。
 死にたかった。あそこで死んでしまえばよかった。誰一人として麻衣の為に涙を流さない場所でたったひとり孤独に死んでしまえばよかった。
 そう思っている自分がいることを、痛感する。
 あの時から、自分の中の何割かは死を希求している。彼のいない世界でどう生きればいいのか困惑し、苦痛を感じ、逃げたがっている自分。その心は叫び続ける。こんな思いをするぐらいなら、死んでいればよかったのだ。死が、道端の石ころほども軽いあの場所で。

 出会ったのが偶然に過ぎなくとも、自分が惹かれたのは必然だった。愛する歓びも苦しみもやるせなさも思い切り味わった。その後に、愛される歓びも。
 差し伸べられた腕。微笑み、言われた言葉を覚えてる。
 濃茶の上質の酒を思わせる人を酔わす声音。知性を感じさせるトーン。
 どこまでも甘く囁いて、彼は言った。
 ―――俺と、結婚しないか?

 ……わかっていることが一つある。有り余るほどの幸せを一度手に入れてしまった人間にとって、それを奪われる事は命を奪われるより余程、つらいという事だ。

 涙を流す事も出来ない激痛に耐えながら、それでも麻衣は歯を食いしばり、肌に爪を立てながらも、俯くことなく立ち上がった。
 前を向こう。
 一歩を踏み出そう。
 自分だけが不幸と思うな、自分の不幸に酔って思考停止してる人間の醜さをお前は良く知っているだろう?

 それに、麻衣の命は、あっさりここで放棄できるほど軽くはない。自分が生きる為に殺した命、生きる為に奪った命がどれほどの数に昇るか―――それを思えば、生を放棄はできない。歯を食いしばり、どれだけの苦痛を背負ってでも生き続けなければならない。それが殺した者の義務だ。
 背を伸ばそう。
 前を向こう。
 いつか、きっと、この心の間隙すらも埋めてくれる何かに出会えると信じて、生き続け探し続けよう。
 その姿勢から、きっとすべては始まる。

    ◇

 屋敷は純和風だった。最新式の警備装置をつけてるくせして。
 土間で、麻衣は靴ごと靴下を脱ぎ捨てる。板敷きの間で、靴下つきの戦闘ははなはだしく戦闘力が落ちる。
 長い廊下を先導され、ニスをぬられた木の板の、ひんやりした冷たさを足元に感じながら進む。一度来たところにまた来たりして、わざと面倒なルートを辿っているが、麻衣は一度通った場所は忘れない。最短ルートで帰ってみせる自信がある。
「こちらになります」
 示されたのは、ふすまの間。
 そっと息を吐き出し、麻衣は開けられるのを待つ。……が、一向にその気配がない。

「ふすまを開けてくれませんか?」
 にこりとする笑顔の威力は男女問わず知っている。……だが今度ばかりは不発だった。
「いいえ。我々に許されたのはここまでです」
 麻衣の前を進んでいた少年に目をやると、目に同情をこめつつも同様に頷かれる。
 両膝つくと何かあったときの対処がはなはだしく遅くなる。少々不満だったが、まあいいかとなげやりに見切りをつけて、膝をついた。
 剣道は礼にはじまり礼に終わる。剣道家の孫娘として躾られた麻衣は、儀礼からすこしも外れず礼どおりに畳や襖の起居ができる。

 開けて閉じ、床の間の前、上座を閉める相手と黒塗りの机をはさんで相対位置に、しなやかに正座した。
 麻衣は一応、長く座っていてもしびれない正座の仕方というのを心得てはいるものの、正座が苦手だった。正座なんてすることもなかった六年間と、襲い掛かられたときのカンマの違いがそうさせるのだろう。
 しかし、麻衣のそうした折り目正しい態度が屋敷の人間にとって意外なものであったことは確かだった。

 麻衣は入ってくるとき襖を閉めたので、室内にいるのは元々いた男性と、麻衣のみ。
 男性は少なく見ても五十代だろう。顔のあちこちに老人斑ができ、顔の皮膚は老いにたるんでいる。
 けれどもそれは、彼の貫禄を損ねるものでは決してなかった。いや、増している。
 撫で付けた髪は油で光り、顔は染みとしわで刻まれる。美醜でいうならまちがいなく醜い。だがその顔の凹凸は深く、落ち窪んだ瞳にやどる光は年老いた者だけが持てる重厚な威圧感があった。

「道理を知らぬ無法者と聞いたが、なかなかどうしてどこぞでしっかりしたしつけを受けたと見える」
「ああ、それは正しいですよ。僕は道理なんか知ったこっちゃない無法者です」
 相手の空気に気圧されることなく、飄々と答える。
 自分の命は地球より重いと思っていたような人間が、無法者でないはずがない。麻衣は自分が道徳者でないことなど、百も承知だった。
「それより、まず初対面の者同士が出会ったときの礼儀を守りませんか? 僕はマイ。姓はかんべんしてください、珍しい名ですから、一発で素性がばれてしまう」
「五木田(ごきた)司郎だ」
「結構。では五木田さん。まず、本題から入りましょうか? あなたがたが僕を呼んだご用件は僕を雇いたいということでした。雇用条件を確認したいですね、あと、仕事内容も」

「本気でそれを信じているのか?」
 麻衣は目を糸にして微笑む。
「さあ? でも一応はそれを信じるフリぐらいはしておきます。たとえ本当の用件が、見てはならないものを見た僕の口封じであろうとね」
 空気が一瞬で張りつめる―――ようなことはない。それはホントです、と言っているようなものだ。
 鷹揚に、ふたりして言葉をつづけた。

「そうなったらどうするかとは思わなんだか? それとも、切り抜ける自信が?」
「答えはイエスであり、ノーでもある。僕もね、五木田さん。若く見えて結構な経験しているんですよ。たかだか死体の一つ二つで、がたがた騒ぐような繊細さは持ち合わせていないんです。あの坊やから口止め料をもらうことで、僕のなかではあの件は決着しています。問題となるのはそれで決着したとは考えないあなたがたの方だ。……あなたがたが僕を殺そうとするのは自然な行動です。当然、準備はしてきていますよ。それでも自分の命を大事とするなら、のこのこついてくるべきじゃない。なのについてきたのは、多分―――僕が馬鹿だからでしょう」

「……力を見てもひるみも驚きもしなかったと聞いたが……、本当のようだな」
「そんな事、いちいち驚いていられません。驚いてる間に死んじゃうでしょう?」
 微笑んだ。
 見るからに口うるさげな老人が、はるかに年下の麻衣の軽口に怒りもしないでいる。そういう得な性格なのだ。
「本物の筋金入りの現実主義者っていうのは、非神秘主義者じゃありません。あったこと、起こったことはそのままに受け止める、そういう人種なんですよ」
「……人を、殺したことがあるな?」

 同じ質問を信二にもされたなあ、と思いつつ。
「日常でしたよ」
 と、今度は真実を返答した。

「傭兵に行っていたと聞いたが……?」
「ちょっとちがいます。人身売買されたんです。しかも除隊の自由なし。似たような人間は100人を下りませんでしたけど、生きて帰ってこれたのは、たぶん……、僕だけでしょうね」
 血みどろの世界から生きて帰ってきたのは。
 知らないだけで、他にもいるかもしれないが。それこそ知りようがない。



2005 6/10up


オリジナルのページに戻る

まえへ  トップへ行く