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戦争が終わり、世界の終わりがはじまった 13
目にして数秒以上、それが誰なのか、いや、「何」なのか、わからなかった。
暗闇に目が慣れていなかったのがひとつ。その物体が周囲に混在するゴミと同化していたのがひとつ。最後に、人間とは到底思わなかったのがひとつ。
その正体を割り出そうと、凝然として見つめる信二より前に、その人物の方が先に声をかけてきた。
「……まったく、君は……どうしていつもいつも……。無関係だって言うのに……」
「―――渡辺さん!?」
物体か、ヒトかもわからなかった黒く、ずんぐりとした塊は、身じろぎして声をあげたことで瞬く間にベールをはがしていく。
あれが頭、あれが胴体、人間だ!
「どうしたんですか!?」
「近寄るな」
駆け寄ろうとした信二の足を止めてしまうほど冷ややかな、鞭の様な響きだった。
「僕は、怪我をしている。血を、流している。―――僕はHIVウイルス感染者だ。感染するぞ、近寄るな」
HIV―――エイズ!
信二の体が震えた。愚かな事に、これまで麻衣の血を触った事があっただろうかとそんなことばかり考えてしまう自分が、心底情けない。
「じゃ、じゃあ救急車を……」
「呼ばないでくれ、頼むから。―――信二くん、このまま回れ右をして、帰るんだ。君は何も見なかった、何も知らなかった。そうして毎日を過ごしなさい。いいね? こちらの世界に関わるな。君は、まっとうに生まれて、まっとうに育った。まっとうに、幸せに生きていける人間なんだから」
……信二だって、馬鹿じゃない。
麻衣をみて、知り合って、彼女がどうしようもなく平和な世の中からはみ出した人間だと、わからないほうがおかしい。
『異邦人』の空気。
それをことさら強調して、麻衣は釘をさした。
信二は、普通のまともな世界から抜け出せない―――逆に言えば、そこで暮らしていける人間だ。平和と安穏に倦んでいたたまれない麻衣とは違い。
別れの前の出来事を思い出すまでもない。麻衣は自ら望んで厄介事に首をつっこむ。つっこまずにはいられないからだ。そして、麻衣は傷ついてここにいる。危険に首を突っ込んだ代価―――したたかなしっぺ返しをくらったのだろう。
「ここで僕に手を貸せば、君まで巻き込まれる。―――巻き込みたくない」
冷ややかな言い方をすれば、麻衣は、自分で望んで厄介事にかかわり、こうなった。いわば自業自得となる。しかし、信二はちがうのだ。
平凡で、ささやかな幸せを祈る、小市民だ。
人を救う為に自分の身を棄てて大それたことをやろうと思ったこともなければ、ニュースになるような悪事をしたいと思ったこともない。
「だから、忘れなさい。君は今日、僕なんて見なかった、知らなかった。―――それで通すんだ。いいね?」
麻衣の言っている事は道理で、信二はただ頷いて、踵を返せばいい。
そうすれば信二の世界は破壊されない。平穏なまま保たれ続ける。
麻衣自身がそれを薦めているのだから、良心の咎めを持つ必要もない。
そうするのが、一番いいことだ。
「君は、自分の軽率な行動で、ミコトさんまで巻き添えにしたくないだろう? 僕も、君を巻き添えにしたくない」
そのとおりだ。そうすべきだ。
麻衣がどんな火鉢に首をつっこんだか知らないが、麻衣の行動だ。麻衣が責任を負うのは当然の事だが、どうしてそれに信二まで巻き込まれなくてはならない? とばっちりがくるのは御免だった。
麻衣が鋭い声をあげる。
「行って! はやく」
「……僕は、ミコトが大事ですよ。世界でいちばん、大事です」
でも。―――ああでも!
ここで立ち去るな背を向けるな無かったことにするなと言う心はいったいどこからやってくるのか。
頭でわかりきってる選択を、どうしてこの体はできないのか。
「でも……死に掛けてる人を見捨ててこのまま踵を返せないんです!」
麻衣の世界には踏み込めない。どうしたって世界が違う、自分は平和な世界でしか生きられない、そういう人間だ。
お互い違う世界に生きる者同士、ほんのすこし関わって、知り合って、お互いの人生にとって大した重みも無く別れる。そういう関係だ。
信二は駆け寄りながら財布をつかみだすと、中身の札をすべて麻衣に差し出した。
真顔で凝視している麻衣の前で早口に言い捨てる。
「これは、僕の、自己満足です! 自己満足のために犠牲になるあなたには気の毒ですが、どうか受け取ってください。あ―――包帯、ほしいですか? なにか欲しいものあるなら買ってきます」
「……いや、いいよ。充分すぎるくらいだ」
だまって、麻衣はかぶりをふる。
どうして最初、彼女と風景が同化しているように見えたのか。一旦認識してしまえば、信二の家の近く、暗い路地裏であっても、もう彼女にしか見えない。
「―――」
そのとき彼女が呟いた言葉を、信二は理解できなかった。
外国語の響きだったからだ。
「……なんて?」
「乾いたときにうけた一杯の水は、生涯かかっても返しきれぬ大恩である、という意味。―――信二くん」
はっとするほど強い力で、手首をつかまれた。
これまで生きていて、一度も見たことのないほど真剣な瞳がそこにあった。
「ありがとう。この恩は忘れない。―――でも君は、今日僕に会った事は、忘れるんだ。いいね?」
信二は麻衣を見返したが……気迫で負けた。
ゆるやかに、目が落ちる。平和な世界でぬるま湯にひたってきた信二とは、気迫の質量が違いすぎた。
「……はい」
大人しく、今度こそ、頷いた。
2005 4/8up
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