戦争が終わり、世界の終わりがはじまった 5

 麻衣は、こう見えても自分が結構目端のきく、頭は悪くない方だと思っている。
 そして、世の中というのはそういうそこそこ小器用な人間には渡りにくい。
 なんせ、ごくごく冷静に客観的に、「日本という国に自分は合っているか」を考えたとき、でてくるのは「合わない」という答えだけだからだ。
 「己」と外を完璧に遮断して考えられる客観性。
 冷徹なまでに自分を一個の器物としてみる目は、祖父との生まれ育った長い時間のなかで、培われたものだ。

 たとえば。
 今から麻衣は死体を引き上げにいくわけだが―――彼女はそれが死体であるとすでに確信している―――警察に通報する、という選択肢は頭にない。
 だから、信二を連れてきたのだ。
 彼は麻衣とちがって、正常で健全な人間の判断を息するようにすることができる。
 彼が警察というのなら警察で問題ないだろう。
 ちなみに死体があるらしい、と気づいたとき彼女がいの一番に考えたことはコレである。
 ―――死体製造者を見つけて金おどしとろう。

 こんな人間にまともな判断を求める方が馬鹿である。

    ◇

 池には、先客がいた。
 麻衣はすばやく察すると即座に信二の口を手でふさいで木陰に身をひそめる。
 なんせ夜のことである。物音さえ立てず、物陰に潜んでいれば、まず見つからない。
 物音を立てまいとしているこちらとはちがい、先客はそういう意味でずいぶん傍若無人に振舞っていた。夜なのでほとんど見えないが、水音が連続している。そして、人の声とおぼしき「くっ」だの「うっ」だのいう音がかすかに流れてきた。
 夜の闇は想像力を豊かにさせる。
 何が起こっているのか、薄々感づいたらしい信二が押し殺した小声でささやいた。
「……渡辺さん……」

「静かに」
 麻衣は信二よりはるかに夜目がきく。まして、彼女たちの背後には街灯という照明がある。何が起こっているのか、大体はわかった。
 信二にささやく。
「誰かが死体を引き上げようとしている」
 もちろんどこかの誰かが廃棄物だらけの池に憐れの涙を催し、清掃しようとしている可能性もないはない。
 この夜の夜中に、奇特なことだが。
 その善人は人目をしのんでこそこそと、この暗闇を懐中電灯もつけずに引き上げ作業を行っているらしい。
「勤勉だねぇ……」
「人間誰しも自分の破滅がかかっているとなれば勤勉になりますよ」
 信二の小声の答えは抗議の色合いを帯びていた。
 ぬべなるかな。麻衣の感想はどこかずれている。勤勉はないだろう、勤勉は。

「警察に……」
「どういう?」
「それは……」
「夜中にとても親切な人が池からゴミをひきあげて掃除にはげんでいます、とでも?」
「ええ」
 信二は大まじめにうなずいた。
「夜中に池から何かを引き上げようとしている人がいれば、それは親切というんじゃなく、怪しいと言うんです。警察に通報するには十分です」
「一理ある」
 こっくりうなずいて、
「携帯持ってる?」
「……忘れました」
「じゃ、交番までいってらっしゃい。さ、ダーッシュ!」

 信二を首尾よく追い払い、麻衣はさてと一歩足を踏み出すと同時に、信二から手渡された懐中電灯をつけた。
 驚愕に振り返り、光線にまともに晒された二つの顔をすばやく脳裏に叩き込み、麻衣は笑う。
「そこにいらっしゃる紳士淑女のご歴々──」
「何をやっているのか、という質問か?」
 逆に聞き返されて、麻衣は目を見張った。この状況だと、犯人はコーチョク心臓ばくばく脳内は慌てふためいているというのが常道なのだけれども。
 犯人は二人一組で引き上げをしていた。池のなかにつかり、頭と肩の一部だけ出している濡れた頭髪の人間と、池の淵にひざを下ろしている爬虫類じみた容貌の男。

「話がはやくて、まことに結構。何をしていらっしゃるのか、お尋ねしても?」
「君には昼間あった」
 図書館でだろう。このタイミングでいたのも納得。彼らは、麻衣と信二の話を聞いていたのだ。麻衣としても別に声を小さくしてはいなかった。ひょっとしたらもし。この話を聞いて、「この話が事実だとわかる人間」がいるかもしれない。いないだろうがもしいたら―――それはそれで面白いから。
「何をしているのか、とうに察しはついているのだろう?」
 にこり、と麻衣は笑い。
「怪談ネタの主人公の抜け殻を引き上げようとしている?」
 怪談ネタの主人公ときたら幽霊である。
 幽霊の抜け殻といったら……これはもう誰もがわかる。

「敏いのが不幸だな」
「殺人は得策じゃないですよ? 現にいま、窮地に追い込まれている。穏やかに穏便に、カタつけた方がいいとか思いません?」
「……黙っていると?」
「黙っていましょう、代価次第で」
 少しの沈黙があった。
 馬鹿にしたような、戸惑ったような、値踏みしているような。
「……金を支払った挙句、警察に売られてはたまらんな」
「でもほかに選択肢はありませんよ? ここで口封じしようにも、僕は強いですから殺されてあげませんし」
 短いが深刻な沈黙ののち、声がした。
「―――いくらだ?」
「そちらが決めてください」
「え……?」
「このぐらいの額ならば、僕の口を封じておけるという額。そしてかつ、あなたの財力でなんとか払える額を、」
 麻衣はまたにこりとする。
「ください」

2005 3/2up


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