「天使が悪魔になる日 43」
金髪は面白そうにケリーを眺めている。
そのケリーといえば、絶句したまま全身の毛を逆立て、一歩も歩けない状態である。
もちろん頭のなかでは溢れそうなほど言葉が渦巻いているのだけれども、それを一言も口に出せないのだ。
何か言おうとする。―――はじめまして、とかお目にかかれて光栄です、とか、私の名前は、とか。
けれどもその言葉はすぐさま、いやドラゴンとは限らないしそもそもドラゴンはドラゴンであってこんな人間じゃないし、いやドラゴンなのだから姿を変化させるぐらいお茶の子さいさいじゃないだろうか―――ああそうだ初対面の挨拶をしないと、ああまず跪いて、いや彼がドラゴンだとはかぎらないし―――とまあこんな感じで、思考は同じところをいったりきたりしていた。
しかし金髪はそんなケリーの混乱にいつまでも付き合ってくれるほど、悠長ではなかった。
「君は何も知らないでここに来たから、まずは説明をしようか」
……奥に、何かをひそませた、物静かな口調。
静かだけれども、それだけでないことが伝わってくる。礼儀正しい猛獣のように。
一瞬で気圧され、ケリーは内心のぐるぐるも忘れて彼を見つめた。
「むかしむかし、ドラゴンは茘枝と約束をしたんだ。ある条件を満たした人間がいたら、その人間に力を貸してやるという約束を。……ドラゴンはこれを呑んだ。だって、約束しなくたって構わないような条件だったから。そんなことが実現するとは思えないし、もし万が一そんな状況が実現したら、ドラゴンは約束なんかなくともその人間に力を貸しただろうから。―――けれども今から数百年前のことだ。その状況は実現した」
ケリーは思考の切り替えが素早かった。内心の混乱をしばらくよそへと棚起きし、突如始まったその説明にじっと耳を傾けた。
……ドラゴンにとってその「約束」がどれほどの強度のものかはわからない。だが、茘枝はドラゴンを説得する材料に困っていた。
なら、その「状況」をケリーたちが作り出せれば、ドラゴンは、黄金竜は、ケリーたちに協力してくれるのではないか―――?
「約束など関係なく、ドラゴンはその人間に力を貸した。そして、乞われるまま頷いた。自分の子孫にも力を貸してやってくれと言う望みに」
「それが俺たち……?」
さっきこの金髪が言った「王家の者」というセリフ。
そして、……以前にクルーノの眼に言われた言葉が思い出された。
……そうか、あれはこういう意味か。
「叶える願いは、生涯ひとつきり。ドラゴンは、一族の者の取るに足らない望みをひとつ叶える。その事を知ると、一族はばらばらになった。ドラゴンの力をかり、その力で兄を、父を、親族を殺し、己が手で一族を支配しようとした。……けれどもその望みは一度としてドラゴンの掌にのせられることはなかった」
「え?」
権力争いの醜悪をよく知るケリーは思わず声に出した。
生涯一度だけドラゴンの力を借りることができる。そんなものを手にしたら、自身の野心をどうして実行に移さずにいられる? どうしてその誘惑に耐えられるだろう。
世界最高の力。比ぶるものなき絶対の力を手に入れて。
金髪は微笑みに見える表情で、言葉を続けた。
「ドラゴンが力を貸した人間の娘は、聡明だった。彼女は一族を集め、ドラゴンを権力争いに使うようなことをすれば、ドラゴンは呆れて自分たち一族を見放してしまうだろうと諭した。その言葉を信じる者は最初いなかった。人は信じたいものを信じる。ドラゴンは一度だけならどんな願いでも叶えてくれるのだと人々は信じていた。だが、娘は自分の願いを使ってドラゴンを呼び出し、たずねた。ドラゴンは娘の問いに是と答えた。ドラゴンが力を貸した人間はとうに亡い。ドラゴンは気まぐれによって願いをかなえているに過ぎない。ドラゴンの力はドラゴンのものであり、ドラゴン以外の何者にも属さない。約束はドラゴンの心のゆとりが為すものであり、ドラゴンの力を手に入れたと感じることこそ不遜以外の何者でもない。人と人が争い血を流す愚かで醜悪な行為をドラゴンが嫌うのは、万人が知るところだ。
もしもその娘がおらず、竜の力を醜い権力争いに利用しようというやからの一人でもドラゴンの掌にその願いをのせていれば、一族に与えられた祝福は露のように消え去っただろう。あまり大きな願いは、ドラゴンの寛大さの範囲を逸脱するかもしれない、かといって、使わずにいることもできない。それ以後、一族の者たちはどの範囲までならドラゴンの気に障らずにいられるか、探りながら月日を重ねた。そうするうちに、ドラゴンとの交流の秘密は、一族のなかでも長の長子にのみ語られるようになった。たとえ叶えられる範囲が限定されているといっても、ドラゴンの力は絶大であったために。一族中の者が一つずつ願いを叶えていく事よりも、好き勝手に願いを口にされる不利益を重視したために」
理解できる思考回路だった。
権力者というのは、猜疑心が異様に肥大化した人間の集まりである―――。ケリーはそういう人間を間近に見てきた経験から断言する。
きらびやかな宮廷風景の裏の、殺し屋も青ざめるような陰惨さ。わずかな失言の一つで首をとられることもあるのがあの世界だ。
あの世界の住民が、一族の全員にこの秘密を共有させるなんてありえない。たとえそれだけ叶えられる願いの数が増えてもだ。増えた願いを自分が使えるわけでもないのだし。
「ただひとつだけの願いに、多くの者は、自分の子供の守護を願った。そうでない者も多少はいたが、誰かを傷付ける願いを頼んだ者はいなかった。―――だからいまだにドラゴンは気まぐれを続けている」
「願いを……かなえてもらうにはどうすればいい?」
「願いを叶えてもらうのに、特別な手順は必要ない。ただ、ドラゴンに願えばいい。ドラゴンと会話するための『道』は、長の長子だけに、この秘密と一緒に教えられる。長子だけに」
「……でも、それでも。本人はそのことを知らなくとも、約束は存在するんだろう? だからもしもドラゴンに自力で会うことのできる者がいたら―――」
金髪はそれまでの淡々とした語り口をやめ、ケリーの眼を見てはっきり言った。
「僕は、彼の願いを聞くだろう」
衝撃が、全身を貫く。……これは、この金髪は、この金髪の青年こそが―――
竜だ。
黄金竜。日ごと夜ごとその飛翔を見つめつづけた。魂のありったけであこがれ続けたドラゴン。
§ § §
会ったとき言うべきことばは、百も考えていたのに、会った瞬間ゼロになった。
その顔を見た瞬間、思わず呟きがもれた。
「……クリス……」
クルーノの眼の視線の先には、金色の鱗で全身びっしり覆いつくされたドラゴンがいる。
五人が突如開けた視界と青空、広がる草原に戸惑っていると、突然現れたのだ。
スクエアは硬直していた。巨人族の青年と、ケリーも言うに及ばずである。
ドラゴン―――その圧倒的な存在感!
空を飛ぶフォルムでは予想はついても実感がわかなかったその大きさが、質感が、こうして目の当たりにするとわかる。
ドラゴンとは二十歩以上も離れているのに、首を最大まで上向かせても頭の登頂が見えない。顎の下すらも遥かに高みの上空で、視力の限界にかすんでいる。
鉄のように重い威圧感がふたりをしばっていた。全身の毛穴が開き、毛が逆立ったまま元に戻らない。これをなんと言えばいいのか―――生涯で初めて出会う感情に、彼らは怯えを抱く。恐怖ではなく……そう、畏怖。恐ろしいような喜びのような懐かしさのような感情で、胸の空洞がいっぱいに満たされる。
ドラゴンは口をあけた。
大気と―――大地までもがびりびりと震える。圧倒的な威圧感のある重低音だった。
「……茘枝以外の人間にその名を呼ばれるというのは、なかなかに不快なものだな。だが許そうクルーノの眼。発したのは人間でも、その体を操っているのはそなたゆえに」
三人が揃って身動き一つできないでいるなか、茘枝の体を操るクルーノの眼は、滑らかに頷いてみせた。
「ええ。お久しぶりです―――ドラゴン。僕にクリスと呼ぶ許可をいただけますか?」
「いや。不快に感じるな」
「判りました、ではドラゴンと呼びましょう。……お久しぶりです」
最後の一言を、クルーノの眼は胸から空気のありったけを吐き出して言った。
万感こもった一言だった。
「そうだな。そなたにとっては長かろう。だが私にとってはこの程度、『たかだか数百年』でしかないはずだが……この時間は、いつになく長かったぞ」
「茘枝様が亡くなられたからですよ。愛する者がいない時間はそれは長く感じられるものです」
この遠慮というもののない言葉には、思わず聞く者全員肝を冷やした。
だがドラゴンは不快な様子もみせずに受け答えする。その返答には、どこか興がる色があった。
「そうだな。……本当に久しぶりだ、クルーノの眼。茘枝がいなくなってから、私に比する力を持つ者、私に『ぬけぬけ』とそうした返事をする者はひとりとしていなくなった。だが正直なところ、私はお前を見るのがつらい」
茘枝のたもとから、クルーノの眼が浮き上がった。
「あっ!」
体の支配権を取り戻した茘枝が浮かんでいく珠に手を伸ばすが届かない。
珠はどんどんドラゴンのほうに吸い寄せられ、やがて小さな点となって見えなくなった。
茘枝はぎりっと唇をかむ。
効果半径の二十歩はとうに超えている。
「ドラゴンさま……、その宝珠をどうかお返しください!」
「愚かだ、ミリンダ」
無機質の冷ややかさを思わせる、軽やかな声。
知っているヘプライトは無反応。スクエアとケリーは一体誰のことかと目をしばたかせたが、苛立たしげに茘枝の声がとぶ。
「私の名前よ!」
「えっ!!」
そりゃあ茘枝になる前は名無しだったはずもないので、名前があって当然なのだがしかし。
スクエアは混乱する。
―――なぜドラゴンが茘枝の名前なんて知ってるんだ?
§ § §
金髪の青年と対峙して、ケリーはごくりとつばで喉を潤した。
『願い事』を―――
どこまで許してもらえるだろう? それは決して強制力のある約束じゃない。ドラゴンの気まぐれひとつにかかっている。ドラゴンにとって大変なことは絶対に聞き入れてくれないし、ドラゴンの好みにそぐわない願いもしかりだ。ドラゴンの寛容からはみ出した願いも、同様になる。
「聞く」だけになるか、それともドラゴンに聞き入れてもらえるかは、ケリーにかかっている。
長い、沈黙だった。
比喩でなくパーティのこの先の運命はケリーの言葉で変わるだろう。
熟考の末、ケリーが口に出したのは、次のことばだった。
「……茘枝たちはどこへ行ったんだ? あ、行ったのですか?」
貼り付けたような微笑はそのままに、青年は答える。
「何もしていないよ。そう―――今頃彼女たちはドラゴンと話をしようとしているだろうね」
「しようとしている?」
おもわずたずね返した。
「一秒と一秒のはざま。それがここだ。彼らが消えたんじゃない。彼らの前から君が消えたんだ。君が戻ったとき、時間は経っていない。君がこの空間へ来たことすら、彼らは気づいていないだろう」
思わず安堵の息をついたケリーを見咎め、金髪は言う。
「君はパーティのリーダーだろう? なのに、実際の舵取り役はその女だ。女などに言われるまま唯々諾々と従い、尊厳は傷つかないのか? リーダーであるのは君なのに、君の言うことよりはるかに皆彼女の言葉に重きをおく。その状況はおかしいと思わないのか、そもそも君にリーダーを押し付けたのは彼女だというのに」
ケリーは思わず一歩退く。心のうちの秘密を暴き立てられることに、恐れを感じずにはいられない。
そうだ、それは彼の心に確かにある感情だった。
女のくせに。
リーダーは俺なのに。
それでも、その感情を振り払えるぐらいには、ケリーはまともな人間だった。
「……仕方のない事だ。茘枝はクルーノの眼の保持者だ。クルーノの眼から伝えられた情報に沿い、やらねばならない絶対の理由があるんだろう。俺は一介の凡人だ。だが凡人なりに、望みを持っている……いやいた。―――それは、あなたに会いたいということだ」
ケリーは金髪の青年を見直した。
「ずっと、ずっとだ。子供のころ初めてあなたの飛翔をみたあの日からずっと。あなたに会う日を焦がれていた。恋より深く、魂そのものが打ち震えるほどの猛々しさで。茘枝はドラゴンに会いにいくといい、それは俺の望みともかなう。なら、どうして反対するいわれがある? そして、クルーノの眼の継承者である茘枝はあなたのことを俺よりずっとよく知っている。なら、知っている茘枝にまかせることもまた、器量のひとつだ」
王者としての器量は、何もかも優れていることではない。
優れている人間を見極め、ゆだねることのできる度量こそが王に必要なものだ。
そうケリーは教わった。
「では、そなたは憎くはないのか? そなたの命を狙い、不遇の立場に落としつづけた王妃が」
そのとき、ようやくケリーは確信を抱いた。
ドラゴンは、ケリーの心を読んでいるのかと思っていたが、そうではない。
なぜならケリーはかの王妃を、決して憎んでいないからだ。ただ可哀相な人だと思う。
少し考えればわかりそうなものだ、ケリーのもとにやってきた教育係は、王自ら派遣したものだったのだから。それまでケリーの教育係に与えられた王妃自らの妨害を、王自身少なからず好ましくないと思い、眉をひそめたからこそ、ケリーのもとへ……息子のもとへ派遣してきたのだろう。
大抵の女が感情のままふるった行為は、たいがいの場合男に嫌気をささせる。
女の感情的行為というのは、ほとんどの男が嫌いなものなのだ。
……ましてやそれが、息子を虐げるという種類のものであればなおさら。
しかし彼女は王妃だ。
王の離婚は、王妃にれっきとした後ろ盾がある場合は不可能に近い。例外的に、王妃の実家が没落したという場合に限って可能なのだ。
王妃は王とならぶ国の表看板。王に忌みられようが、王妃であるかぎりその地位はびくともしない。王の愛のみでなりたつ愛妾や寵姫とは地盤の磐石さのわけがちがう。
しかし、個人の感情としてはどうだろう。
リチャードはすでに生まれ、王は、「王家の義務」を果たさずともすでに良くなっている。
王妃がケリーにぶつけた感情の矢は跳ね返り、王の愛もまた失ったのだ。
人々はいう、王妃はケリーをあれだけ虐げたのだから、ケリーが王妃を憎まないはずがないと。
けれどもそれはちがう。哀れむことで、ケリーの憎しみは終わったのだ。
それは人の心という誰もがもつ扉の奥にしまわれた秘密。ケリーだけが知る真実。
ケリーは考えに考えた末、口にした。
「俺は、あなたにお願いする―――」
ケリーは一つの言葉を口にだした。
そもそものこの旅の目的。
すべてのはじまり。
あははははははははははははは!
笑って誤魔化す杉浦明日美。
いやーとうとうこれまでの最長記録超えたよ! これまではヒカルの碁のアレが一番長かったんだけど。実枚数ではまだ越えてないだろうけどさ。
このちょーしでやっていたら、今月終わるまでに完結できないので、一日二度アップもあるかも。
2004 5/26up
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